彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

紫式部の見た近江(4)

2024年07月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
『紫式部集』に載せられている和歌について、どのような順番で並べられたものであるのかも諸説がある。越前への往復で読まれた六首についても、五首(和歌の掲載順に番号を付けると20番から24番)が連続して記され、少し離れて一首(82番)を載せているのだがこの分け方の理由も不明であるため、先の五首を往路、後の一首を帰路の和歌として順番通りに鑑賞したくなる。逆説的に解釈に多様性を加え、和歌を詠んだ推定地を明確にしようとすると順番通りで良いのか? と疑問が湧いてくる。その一首が先に紹介した湖西を北上した航路では通らない場所が出てくる「磯の歌」であり、もう一首が今稿で紹介する和歌である。

 前稿、先の五首の内で四首目に塩津山を越える場面に至った。ここは近江と若狭の国境であり『紫式部集』の和歌が詠まれた順番通りならば「塩津山の歌」の次は若狭の一首にならなければならない。しかし次に記されているのは「水うみに、老津(おいつ)島といふ洲崎に向ひて、童べの浦といふ入海のおかしきを、口ずさびに」という詞書である。直訳すると「湖に『老津島』という洲崎(海中などに突き出た岬)があり、この岬に向かうように『童の浦』という入江があるのが面白くて思わず口ずさんだ」となるだろうか?そして詠まれた和歌も面白い

 老津島 島守る神や 諫むらん 浪もさはがぬ 童べの浦

 簡単な意味としては「老津島を守る神様が注意してくれたのだろうか。童べの浦という場所なのに子どもたちの騒がしさがなく、波が穏やかです」となる。一首前に塩津山の地名から人生の辛さを重ねた紫式部の言葉遊びを紹介したが、ここでも「老」と「童」の地名が向かい合っていることから賑やかな子どもを叱る老人を想像させる言葉遊びである。

 しかしこの和歌には大きな問題がある。湖岸道路を走っていると野洲市のマイアミ浜近くで「紫式部歌碑」の案内板を目撃する。ここに刻まれた和歌が「老津島の歌」なのだが、この和歌は近江八幡市百々神社の鳥居前にも歌碑がある。これは「老津島」に沖島と奥津嶋神社がある長命寺山(昔は島だった)という2か所の候補地があつためである。そして「童べの浦」という地名は現存しない。場合によっては東近江市の乙女浜ともされているが確信もない。詳細は次稿に譲るが紫式部式部がどちらかの地(あるいは両方)を訪れた可能性は皆無と考える可能性もある。場合によっては紫式部が近江旅の途中で偶然耳にした地名であったのかもしれない。この和歌は、近江国の特定の地域ではなく琵琶湖を渡る途中で夕立に襲われ怖い思いをした場面もあったものの全体的には夏の穏やかな波で船旅を楽しむなど、近江という地を通過した安心感から生まれた総括と考えるべきなのかもしれない。


百々神社の紫式部歌碑(近江八幡市北津田町)
コメント
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