彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『佐和山城跡第2次範囲確認調査現地説明会』見学

2015年05月30日 | 史跡
彦根市による佐和山城発掘の現地説明会に行ってきました。
滋賀県と彦根市がバラバラで調査を行っているので、どちらがメインなのか時々混乱します…


今回は、大手口近くの発掘が行われました。

最初に「歴史を変えるような大きな発見はない」とのお話でしたが、実際に観てみると歴史は変えなくても推理を楽しめる発見があったことがわかります。

主なテーマは2つ
・内堀と土塁の形状の確認
・伝侍屋敷跡の確認
です。


まずは「内堀と土塁の確認」
藩政時代に描かれた佐和山城の古地図と同じ位置にある内堀と土塁が本当に同じものなのかを発掘。
内堀の外側(東側)は肩などの変更があるものの際の部分が確認され、幅24m深さ1.7m位の堀であったこと
 
土塁は下辺11.2m上辺6.4m高さ2.3m以上の物であったこと
  
が分かりました。
また土塁上辺には柵などに使われた可能性がある2基の穴も見つかったのです
【上辺部】

【穴】

【2基の穴】


続いて「伝侍屋敷」
大手口から城に向かって大きな水の道があった可能性が出てきました。
侍屋敷と思われる区画が、溝で区切られていたのです。

この内で大手口から城に繋がるメインの道には石積もあります、ずっと連なっているわけではないためになぜこの部分だけあるのかは謎ですが、もしかしたらこの上に橋が載っていた可能性もあるとのことです。

またこの石積は修正の跡があります。写真の人が指差してる部分から手前に折れてる部分が積み直した部分です。

この溝に流れるように屋敷の区切りに溝が掘られていました。佐和山は水が潤沢だったので、こうやって内堀に水を排出していたのかもしれません。

屋敷には、2種の異なった土の詰め方がされています。
城に近い方には堅い土

大手口に近い方には柔らかい土

そして建物が建っていたことが確認されているのは、柔らかい土の方なのです。
建物は礎石により確認されましたが、どんなものが建っていたのかはわからないそうです。
 

侍屋敷は謎が深まった気持ちですが、そんな謎に挑むのも面白いのかもしれません。
ちなみに遺物は16世紀後半の物が出てきたそうなので織豊期の遺構であることは間違いないそうです。
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龍に出逢える場所・安楽寺

2015年05月10日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大きな目的もなく車を走らせていると、カーナビや信号に記された地名に興味を持つことがある。ほとんどの場合は一瞬の興味の後に他の事に意識が向く、しかし妙に心惹かれ地名の謎を探ろうとその地に入り大きな出逢いを経験するぶらり旅も面白い。
 国道8号線を北上し、長浜市曽根町(旧びわ町曽根)に「御館口」と書かれた信号を見たときに私の興味が地名の謎を探す冒険へと変わった、信号の建つ交差点を琵琶湖方面へ進むとすぐに細江という字となる。すぐに奥ゆかしいお寺を発見し、山門を探して訪問した。
 安楽寺との寺号であると知り、お話を伺うと最初の疑問であった「御館口」との地名の謎もすぐに氷解する。奈良時代始まりとなる和同年間(709~715)にこの地は藤原不比等の荘園であり寺が建立されるまでは現在の寺地を含んだ広大な場所が公家の屋敷だったのだ。その屋敷の名残が「御館」だった。そのような由来から始まるので、お寺も大伽藍であったことが予想される。
 時代は進み南北朝時代。足利尊氏は室町幕府を開幕したが、南朝方との戦いは収まる気配がなく、ついには弟の足利直義とも戦わなければならない観応の擾乱という混乱を招くこととなる。尊氏と直義の軍勢は近江でも戦い、ある戦いでは北陸に逃れようとした直義を尊氏が追って行った。北国街道を北進する尊氏の馬が安楽寺近くで急に歩みを止める。様子を見ていた安楽寺の万叡和尚は、尊氏のもとに向かい、「近くの石に呪いが籠っているのでその念を除く間、寺でお休みください」と、尊氏を招き休ませた。そして石を供養した後に軍を発したのだ。この石は、後に尊氏の遺命で境内に建立された『足利尊氏の爪墓』の前に『進み石』として残っている。寺を訪れた史家の説では「この頃の尊氏は病に侵されていて、馬に乗る体力もなく苦しんだところを万叡和尚が機転を利かせて寺に案内して尊氏を休ませたのではないか」とも考えられるとのこと。大将のカリスマが軍の士気に関わった時代では充分に考えられる。
 この後、尊氏より二百石の寺領を寄進され、尊氏が帰依した夢窓疎石が琵琶湖を模した庭園を作庭し現代に伝わっている。この庭園に構える天に向かってまっすぐ伸びる二本の古松に目を引かれる。足利氏の家紋である「丸に二つ引き」の二本の横線は雌雄一対の龍を表現している。そして古来より松は登り龍に例えられていたらしい。つまりこの二本の古松は足利氏の家紋であり、足利尊氏自身だとも解釈できるのだ。
 そして安楽寺にはもう一か所二匹の龍を目にする場所がある。本堂から山門までの参道、本堂と足利尊氏の爪墓の間辺りで山門の向こうに伸びている松を見上げると、自然の枝が親子の龍の様に見える。「何か特別なことをしたわけではなく剪定をしてもらったら龍のように見える枝があった」とのお話を伺った。爪墓よりも山門に近付くとだんだん龍の姿は消え、反対側から見ても龍を観ることはできない、限られた空間のみに許された自然の芸術なのだ。
 地名の疑問から訪れ、今稿は足利尊氏と龍の松に関わる繋がりを中心に紹介した安楽寺だが、寺に残されている数々の文化財や歴史はまだまだ語り尽くしていない。それらの話はいずれ別の稿で紹介したいと思っている。そして、魅力と驚きに溢れた文化財と龍の枝は、自らの目で確かめて欲しいと切に願う。

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