彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『なぜ直政は「佐和山城主」になったのか』聴講

2016年07月03日 | 『戦国怪談話』
歴史手習塾セミナー22『謎解き おんな城主 直虎』
二日目の『なぜ直政は「佐和山城主」になったのか』を聴講しました。
講師は昨日に続き『おんな城主 直虎』の時代考証を担当される小和田哲男先生です。二日間連続で小和田先生から井伊家の話が聴ける贅沢なイベントでした。

今回は、関ケ原の戦いでの井伊直政の活躍を見てみました。
秀吉が亡くなった時、石田三成は五大老と五奉行が秀頼を助けて豊臣家が世襲する形で続けるよいに考えていて、戦国は終わったと思っていました。
対する徳川家康は、秀吉が織田信長の遺児から簒奪したように天下は回り持ちと考えていて、戦国は終わっていないと思っていたのです。
前田利家が亡くなり、武断派七将が三成を襲い、三成が失脚、上杉景勝が米沢で軍備を強化した事を利用して、三成潰しと秀頼潰しを目論んだのです。
小山評定を経て、家康は軍勢を二手に分けて、秀忠に本多信正、榊原康政を付けた軍に中山道を進ませます(関ケ原には遅れる)。
家康は、江戸に留まり諸大名に手紙を送ります、そこには本多正純、本多忠勝、井伊直政が従っていました。
忠勝と直政は豊臣恩顧大名の軍監として東海道を進みました。西軍に従った織田秀信が城主を務める岐阜城攻略を決断し、中山道を進む本多信正に報告、自身も戦ったのが直政だったのです。
また、禁制を出し進軍の準備も行いました。そして西軍と目される大名たちの調略も行ったのです。
吉川広家は、父元春のときに秀吉に冷遇されていたこと、小早川秀秋は秀頼が誕生しなけれは豊臣家の跡を継いだかもしれないのに毛利家に養子に入る話が出て、それも小早川家になってしまうという不満があったのです。これらを敏感に読み取って工作したのも直政だったのでした。

関ケ原当日は、家康の息子忠吉の岳父である立場から忠吉を連れて福島正則の陣を抜け、島津隊に発砲し開戦させたのです。
小早川秀秋が裏切り、西軍が撤退した後に残った島津義弘の軍勢が敵中突破を行ったとき、義弘の軍を追ったのが直政であり、この時に鉄砲傷を負い、戦後は家康から薬を与えられたのです。
直政の手柄はそれほど大きなものでした。

戦後は、毛利家との交渉や土佐で長宗我部盛親の家臣の反発を受けた山内一豊を助けるために直政が家臣を派遣したのです。

これらの活躍から、西軍の中心メンバーだった石田三成の居城である佐和山城が直政に任され、普代大名では最高の6万石加増(高崎12万石→佐和山18万石)となります。
直政は関ケ原の鉄砲傷が元で亡くなり、井伊家は佐和山から彦根城に移ります。
息子の直孝が二度の大坂の陣で活躍し井伊家は五人の大老を出す家になったのです。


さて、
個人的なことですが、以前『前田慶次道中日記』の琵琶湖の経路を同行した時に、「弁天嶋の瀬戸」がどこか調べる過程で、沖島の弁財天についての記録『沖島弁天記』が長松院にあるとの情報を目にしたことがあり、一度お話を聞いてみたい場所が長松院でした。
昨日、そのお話をご住職にさせていただきましたところ、本日は境内にあります弁財天を祀ったお堂を開けて下さいました。
また、明治時代の直政公三百回忌に描かれた直政公の肖像画(讃は日下部鳴鶴が書いています)も拝見できました。
どちらも、素晴らしい体験をさせていただきました。


会場 彦根市 長松院

『戦国怪談話』その11 墓穴

2011年09月04日 | 『戦国怪談話』
このお話は、『戦国怪談話』の時に話す予定でしたが、時間の関係でカットした『今昔物語集』に載せられたお話のひとつです。


ある日のこと、一人の男が美濃(岐阜)に向かって旅をしていました。篠原辺りで夕方も近付いた頃に、急に大雨が降りだして、男は慌てて雨宿りができる場所を探したのです。
すると近くに洞穴のような入口があったので、そこに入りました。
男がそこに入ってびっくり、そこは死者を埋葬するために掘られた墓穴(横穴)だったのです。
「墓穴とは気味が悪い、しかし幸いにもまだ死体が入る前のようだし、今夜はここで雨が止むのを待とう」と思った男は、墓穴の奥へと進み入口からは見えない陰の方で横になりました。

陽もすっかり沈み、男がウトウトと眠っていると、外からこちらに向かって走ってくる音が聞こえます。不気味に思って身を縮めていると、蓑を着た男が走り込んできてやはり雨の災難に遭った様子でした。
しばらくして、その穴が墓穴だと気が付き、急に怖がり、奥に向かって「雨が止むまでお世話になります。これはつまらない物ですがお納めください」と飯を供えたのです。
先に入った男は、ちょうど小腹も空いていたのでその飯をさっと取って食べてしまいました。すると入口の男がヒーと悲鳴をあげて「お供え物が消えた!物の怪に違いない!!」と叫び、持ってきた荷物も、落ち着くために脱いだ蓑や笠も置いたままで雨の中を走り一目散に逃げて行ったのです。

「お前が供えておきながら、驚くとはどういうことだろうね」と、残った男は苦笑しながら夜を過ごしました。

朝になり、雨もすっかり止みました。
逃げて行った男が置いていった物を持って、男は旅を続けたのですが、荷物が妙に重かったので開けてみるとそこには高価な反物が何反も入っていたのです。

男は、「さてはあの男は商人だったのか」と納得し、そのまま旅を続けました。
そして、偶には墓穴に泊まるのもいいものだ、今夜も泊ってみるか…と思いながら旅を続けたのです。


このお話には、本当の意味での怖い存在は出てきません。
しかし墓穴という普通ではない舞台ができることで二人の男は違った方向へと進んでしまうのです。
怪談話を幾つか話しましたが、もしかしたら址から入って来た男のように、怖いと思ったために何でもない物が怖い存在に見えた可能性もあるのです。

怪談話は、とっても面白いお話ですが、怖がるのもほどほどがいいかもしれませんね。
では、長く続きました『戦国怪談話』もこれにて一旦閉幕

『戦国怪談話』その10 近江の妖怪その2

2011年09月02日 | 『戦国怪談話』
近江の妖怪で特徴的なのは、やはり延暦寺や琵琶湖を舞台にした妖怪たちです。


○蓑火(鬼火・油坊・油盗人)
彦根市大薮町では、雨の日の夜に蓑を着ながら琵琶湖に船で出ると、蓑に青っぽい火が付き、慌てて消そうと払っても取れず数が増えて行くのですが熱くはない。という伝承があり琵琶湖で亡くなった人の人魂といわれています。
もしかしたら、雨に濡れた蓑に付いた水滴が月の光を浴びて光ったのを、他の船からは火が付いているように見えたのかもしれませんね。

鬼火や油坊・油盗人は延暦寺に関わるお話。油坊は延暦寺で油を盗んで罰せられ欲賀村(守山市)で亡くなった僧侶が成仏できずに欲賀から延暦寺まで火の玉となって飛んでいく妖怪。
油盗人は松尾寺(愛荘町)の男が延暦寺の油を独占して寺に納めて大金持ちになったのですが、やがて放蕩が過ぎて没落し哀れな死を迎え、その後には、人魂が延暦寺まで行って油の周りをうろうろ飛び回っていたということです。どちらも火に関係していて、近くで見た者の証言では坊主頭の生首が火を吐いた姿だったといわれています。

これ以外にも、河童と同じような意味で使われる水虎の伝説があるのも琵琶湖ですし、比良八荒は琵琶湖の水難事故で亡くなった霊が起こしているともいわれました。


また有名な伝説では俵藤太の三上山の大ムカデ退治の話や、全国的に広がる舌切雀伝説は湖西にもあります。
そして、有名な怪談話である番町皿屋敷も近江に残る伝説の一つです。


○皿かぞへ
有名なのは、江戸の番町や姫路城内にはお菊の井戸があり番町は播州がなまった物ではないかともいわれていますが、彦根にも伝説があります。
寛文4年(1664)彦根藩の500石取の重臣に孕石政之進という美男子がいました。政之進は、自分の屋敷に下働きに来ている足軽の娘お菊と恋仲になっていたのですが、身分の差があり正式な結婚が認められませんでした。こうして政之進は身分に合った女性との婚約が決まりますが、お菊に対して「俺はお前しか見ていない」みたいなことを言います。
お菊はその言葉が信じられずに、自分への愛を確認するために孕石家の家宝の皿を1枚割ってしまいます。

孕石家の家宝の皿は、とても大切な意味がありました。井伊直孝に仕えた孕石家の祖先の孕石泰時は大坂の陣に出陣しここで戦死しますが、その武功によって直孝から孕石家に与えられた10枚の皿でした。そしてこの皿は、徳川家康から井伊家に与えられた物だったのです。
普通に考えてもお殿様のお殿様から伝わった物ですから大切なのですが、孕石家には別の意味もありました。
徳川家康がまだ幼い頃、人質として駿河今川家に連れて行かれました、この時に家康の隣に住んでいたのが孕石泰時の父親の元泰でした。元泰は家康を虐めて虐めて虐め続けます。ですので後で家康が大大名として今川家を滅ぼし、その後に孕石家は武田家に仕え武田家の城のひとつの高天神城に入ります。
高天神城は天正9年3月に家康によって落とされ、その時に武田の家臣のほとんどを家康の配下として迎えるのですが、孕石元泰には切腹を申しつけたのです。ですから孕石家は家康に恨まれた存在だったのです。
そんな家康が井伊家に与えた皿を孕石家が貰うのは、徳川に許されたという意味があったのです。

その皿を割ったというのは大変なことなのです。それも手違いでは仕方がないが愛を確かめるために割ったという事情が許されるものではなく、お菊は政之進に斬られました。そして残りの皿をすべて割ってお菊の遺体と共に実家に還されたのです。
こののち、お菊の霊は孕石家の屋敷の井戸に、これから孵化しようとする蛾の幼虫がいたのでそれに乗り移り、蛾になって政之進に女性が近付こうとするとその邪魔をしました。
政之進はお菊の愛の深さを知って屋敷にお稲荷様を作り、政之進は出家してお菊の霊を弔うために全国を行脚し駿河で亡くなります。駿河には政之進が残した刀があるとも言われています。

お菊さんのお墓は今、彦根の長久寺にあり、ここには割れた皿のうち6枚が残っています。

余談ですが、この話を数年前に地元の中学生にしたことがあります。すると番町皿屋敷の話を知らなかったようです。そして皿屋敷の話をしました「一枚二枚…と数えて九枚まで数えたらいなくなるんだよ」って。
すると「それだけですか?」と言われました。そして「貞子の方が怖いですよね」って言われました。
今の子の方が怖いですよね。

『戦国怪談話』その9 近江の妖怪その1

2011年09月01日 | 『戦国怪談話』
近江商人が20年間居なくなったお話をしましたが、これらの不思議な出来事は神隠しといわれたりして、妖怪などの仕業だと考えられていました。
そんな妖怪たちの中で、湖東地域で知られている妖怪を少しご紹介しましょう。

○人魚
近江の人魚は『日本書紀』にも記されていて、東近江市を中心に伝説が分布りています。観音正寺は聖徳太子が人魚の為に建立したお寺だと言われていて、平成の初め頃までは人魚のミイラも残っていました。

○大蛇
人魚伝説がある観音正寺の寺域にあったお城が、観音寺城です。この城跡にはお茶子地蔵があります。伝説では大蛇に見染められたお茶子という娘が、大蛇の求婚を断ったために絞殺されたという話ですが、実際は観音寺城主六角氏に側室に上がるように言われて、拒んだために殺された娘を祀った物だと言われています。

○口裂け女
現代の都市伝説のようなお話で、その発祥は岐阜県から始まったと言われていますが、モデルになったのは信楽に住んでいた“おつや”という明治時代の女性です。
おつやは、三日月の形をした人参を咥えながら丑の刻参りをしていて、その姿があまりにも恐ろしくて、口裂け女へと繋がって行ったそうです。またおつたが走るスピードが早かったために、100キロばばぁの伝説も生まれたという噂もあります。

○釣瓶火(釣瓶落とし)
全国的に、少しさびしい場所で出没する妖怪だと言われています。湖東地域では東円堂城跡の外堀の南東隅に出没したといわれています。
多くの場合は木に隠れた人のいたずらか、通行人を襲った盗賊の類ではないかといわれているのです。

『戦国怪談話』その8 消えた商人

2011年08月31日 | 『戦国怪談話』
戦国時代の怪談話を、信長に関わった人物を中心にお話しました。
戦いの時代が終わり、平和な時代になると人々は刺激を求めて怖いお話や血生臭いお話を好んでするようになります。
そうすると、それらのお話をまとめようとする人物も現れ、そんな中にも近江に関わる不思議なお話が出てくるのです。

江戸時代後期、根岸鎮衛という、ちょっと奇妙な幕臣がいました。最終的には1000石の録を受ける者で、勘定奉行や江戸南町奉行も務めた有能な人物だったのです。そんな根岸の何が奇妙かと言いますと、珍しい話や奇妙な話が大好きで、30年間という長い時間をかけてこれらの話をさまざまな人々から聞き集め、随筆としてまとめたのです。この随筆集『耳袋』の中に、近江で起こった奇妙な話が紹介されています。


近江八幡で反物屋をしている松前屋の主であった市兵衛は、ある夜、急に尿意をもよおして下働きの若い女性を呼んで、手燭を持たせ厠へと向かったのです。そんな市兵衛の様子を隣で寝ていたおかみさんも黙って見送りました。
しかし、四半刻(30分)が過ぎても半刻(1時間)が過ぎても市兵衛が戻ってきません。主人といってもまだまだ若かった市兵衛でしたから、一緒に連れて行った下働きの女と浮気をしているのだろうと疑ったおかみさんは、怒りに身を震わしながら厠へと向かったのです。

厠の前には、先ほどの女が手燭を持ったまま立っていました。おかみさんは抑えきれない怒りを何とか沈めながら「旦那様はどこに行ったんだい?」と訊ねました。すると「まだ出てきておられません」との返事があったのです。
「まだと言っても、もうあれから半刻も過ぎているじゃないか」と、女を脇にどかせておかみさんが厠の扉を開けると、そこに市兵衛の姿はなかったのです。小さな厠ですので、おかみさんが開けている扉以外に出入口はありません。市兵衛をどこに隠したのか女を責めても知らないと言うばかり。こうして市兵衛は忽然と姿を消してしまったのでした。おかみさんは、市兵衛を探しましたが見つからず、仕方なく市兵衛が消えた日を命日にしたのです。そして女手では店を守れないので、親類の中から新しい夫を探して結婚し、店を守って行きました。

市兵衛が消えてからちょうど20年が過ぎた同じ日の夜、厠からドンドンと扉を叩く音が聞こえます。驚いたおかみさんは厠の前に行くと使用人たちも集まってきました。そして全員が揃っていたのです。
しかし扉は内側からドンドンと叩かれ、やがて「おーい、おーい、開けてくれ」との声が聞こえます。恐る恐る扉を開けると中から市兵衛が出てきました。
「やっと開いた、それにしても腹が減った何か食いたい」と言いますので、おかみさんは食事を準備させ、市兵衛に与えました。市兵衛が食事を終えると着ていた着物は急にボロボロになって崩れてしまったのです。

おかみさんが市兵衛に20年間どこに行ったのか訊ねても、20年間のことどころか、その前のことも覚えていません。20年前の姿のまま現れた市兵衛におかみさんも、後から入った夫もどうすることもできませんでした。こうして市兵衛はまじないを生業として松前屋に住んだそうです。


根岸はこの話を、直接市兵衛に会った人物から聞いたとして『耳袋』に残しています。そして「急に前夫が現れたら、おかみさんも後夫も困っただろう」としていますが、この先どうなったのかは記していないのです。

『戦国怪談話』その7 北ノ庄城 死者の行列

2011年08月30日 | 『戦国怪談話』
本能寺の変の翌年、羽柴秀吉は、織田家の実権を奪うために最大の敵である柴田勝家を、賤ヶ岳の戦いで破り、そのまま勝家の居城である北ノ庄城を攻め落としました。

天正11年(1583)4月24日、勝家は信長の妹お市の方と共に自害して果て、多くの家臣たちが無念のうちに亡くなり、城には火が放たれて焼け落ちたとされています。
勝家が亡くなった日は「柴田忌」とも勝家とお市の辞世の句から「ほととぎす忌」とも呼ばれるようになり、この日の丑三つ刻には勝家たちの霊が出るとの噂が広がって、町の人々は外に出ることはありませんでした。

ある年のこと、一人の老婆が知り合いの家で話し込み、遅くに帰宅することになりました。その日が4月24日だったことを忘れていて、北ノ庄城に架かっていた九十九橋に差し掛かった時に向こうから物音がしたのです。
多くの馬の蹄の音、嘶き、人々の歩く音、そして鎧の音。
今のイメージでは、鎧の音はガチャガチャと金属の当る音のように思いますが、あれは映像用の演出であり、本当にそんな音がしたら奇襲や夜襲は成功するはずがありません、本当の音は皮がこすれる程度の静かな音です。それでも多くの人が一緒に動けばそれなりに大きな音になりました。つまりはそこには大勢の鎧武者がいたことになります。
老婆は、これが噂に聞く勝家の霊だと思い、後ろを向いて目を閉じて音が消えるまでじっとしていました。そうするとやがて九十九橋に多くの人や馬の足音が通り、静かになりました。
老婆は安心し帰宅しましたが、このことを周囲にしゃべってしまい、翌年の同じ日にやはり帰宅が遅くなり、そして九十九橋が架かる川の中に頭を突っ込んで両足を上に向けた状態で亡くなっていました。そのイメージは犬神家の一族のような状態だと思われます。

享保17年(1733)といいますから、八代将軍吉宗の頃、表具師の佐兵衛という人物が、興味に勝てずにあえて4月24日に出掛ける決意をしました。自分は死んでもかまわないが、しかし家族にまで祟りが及んでは困ると思い離縁して妻を実家に帰したのです。
佐兵衛は九十九橋に身を隠すと、やはり馬の蹄の音がします。そして首の無い傷口から血が滴り落ちる馬や同じく首の無い鎧武者たちが大勢橋を渡りはじめたのです。首が無いのに馬の嘶きや人々の息使いが佐兵衛の耳には聞こえてきました。
行列が過ぎて行ったあと、佐兵衛は急いで家に帰って見てきたものを絵に描いて、表具の注文があった武士の置いて行った桐の箱の中に絵を隠したのです。
翌朝、佐兵衛は血を吐いて死んでいました。

桐の箱は武士の元に戻ります。そして武士は箱の中から絵を見つけました。佐兵衛の噂を知っていた武士はその絵を庭で燃やそうとしたのです。
武士の屋敷の庭は広く、その中で絵に火を放つと、絵は勝手に宙を舞い、屋敷の屋根に乗って屋敷を火で包み近所にまで類焼したのです。その炎の中に首の無い鎧武者の姿を見たとの話もあるのです。

『戦国怪談話』その6 安土城 信長の財宝を狙え

2011年08月29日 | 『戦国怪談話』
天正10年6月2日、織田信長は本能寺の変で亡くなりました。

この時安土城を守っていたのは日野城主蒲生賢秀。息子の賦秀(後の氏郷)は信長の次女冬姫の婿という立場の武将だったのです。信長の女婿とは言いながらも近江南部の国人でしかない蒲生氏では安土城を守りきれないため、信長の家族を連れて守り易い日野城へと避難しました。安土城に残された信長の財宝は、小さい物は日野に運び、一部は家臣たちに分け与え、城の中にも残しましたが、その多くは織田家再興のために安土山中に埋められたとされているのです。

6月5日、明智光秀が安土城に入りますが思ったよりも財宝が少ないことを訝ります。そして甥で娘婿の明智秀満(遠山景行の子との説あり)に安土城の守備と財宝の捜索を命じて坂本城に帰るのですが、そのまま山崎の戦いで戦死してしまうのです。秀満は坂本城へ戻ることとなり、秀満が安土城から出たあとすぐに天主は火に包まれて焼け落ちたのです。安土城は信長の孫の秀信が所有しますが、居城を岐阜に置いたために廃城となり、城下町も八幡山城築城にともなって近江八幡へと移され、安土の城と町は一時の栄華を失ってしまったのです。しかしその山中に埋蔵金が残るという噂だけが残りました。


財宝の噂を聞いた浪人の一団が、二の丸跡に小屋を作って探すと、小さな黄金などが見つかったそうです。この日から何日も財宝を探すつもりで二の丸跡に居座った浪人たちは、一日目の夜に遠くでざわざわとした音を聞きました。二日目の夜となるとその音が近付いたように感じられたのです。
三日目の夜。近くの森林まで音が近付いてきました。不審に思った一人の浪人が小屋から出ると、森の間から一本の矢が飛んできて浪人を貫いたのです。浪人には激痛が走りましたが傷はありませんでした。この気配に気が付いた浪人の仲間たちが外に出ると、森の中から槍や弓矢を持った兵たちが飛び出して浪人たちを襲ったのです。先ほどと同じように痛みは感じても怪我をしない攻撃に浪人たちは大混乱に陥り、やがて同志討ちが始まり、一人またひとりと倒れて行きました。

この中を命からがら逃げ伸びて、麓の村人の家に逃げ込んだ浪人の一人が、息を切らせながら城跡での出来事を語り、その中に立派な夜具を着た男がいたとの証言を残して息絶えたのです。人々はこれを信長の霊だと恐れましたが、同時に財宝に目がくらむ者の多く現れ、豊臣秀吉が二の丸跡に信長廟を建立して入山禁止にすることで霊がでなくなったといわれています。

『戦国怪談話』その5 岩村城お艶の方の祟り

2011年08月28日 | 『戦国怪談話』
織田信長には、お艶というとても美しい叔母がいました。
信長は、甲斐の武田信玄との戦いに備えて、美濃東部の国人たちを味方に引き入れるため、お艶を岩村城主遠山景任に嫁がせます。遠山一族は岩村城以外にも苗木城や明智城などの城主を務めた家で、一族の子孫が江戸後期に活躍した遠山の金さんこと遠山景元です。そしてこの時には一族の中に遠山景行という頼もしい武将もいました。

元亀3年(1572)に景任が武田家との戦の傷が元で病死します。この戦では景行も戦死したともいわれています。信長は五男坊丸(織田勝長)を養子として送り、岩村城はお艶が女城主として守りながら坊丸の成長を待ったのです。その後、武田信玄の上洛に伴って岩村城は秋山信友に攻められ落城します。お艶は信友の妻に迎えられ、坊丸は人質として武田勝頼に保護されたのです。

天正3年(1575)5月21日、織田信長は長篠の戦に勝ち、11月に息子信忠に岩村城を攻めさせます。このときに信友とお艶は城兵の助命を条件に、信忠軍先鋒の河尻秀隆に捕えられて岐阜に送られました。秀隆には、岩村5万石を与えられ、11月21日に信友とお艶は処刑されたのです。
信友とお艶の処刑のされ方は、逆さ磔でした。これは磔柱に逆さまに縛られる方法で、やがて血が頭に上り、目・耳・鼻・口などの穴から血が噴き出して激しい痛みと、なかなか死ねない苦しみを味わうものだったのです。信友は武士として潔く死に、お艶は信長や岩村城を落した者を恨みました。それは助命を約束しながら岩村城の城兵を殺したことにも向けられたのです。

7年後の天正10年(1582)3月23日、森蘭丸が信長から岩村城を与えられ、河尻秀隆は甲斐へと国替えになります。
この2ヵ月半後本能寺の変が起こります。本能寺の変で不慮の死を迎えたのは、織田信長・信忠と一緒に二条城にいた坊丸こと織田勝長そして森蘭丸。甲斐では本能寺の知らせを聞いた人々によって河尻秀隆も殺されて、岩村城に関わった人物がこの瞬間に死んだのです。

『戦国怪談話』その4 小少将の呪い

2011年08月26日 | 『戦国怪談話』
安土城を築いたのは織田信長公ですが、この信長が亡くなった本能寺の変に関して、信長が呪われていたというお話が幾つかあります。


その一つが8月20日(『戦国怪談話』当日)に呪いをかけられたというお話です。
元亀4年といいますから1573年(天正元年)越前朝倉氏が8月20日に滅びます 。最後の当主朝倉義景という人物は身内の裏切りにあって亡くなるのですが、このとき義景の正室だった人に小少将という女性がいます。

小少将のお父さんは斎藤義龍という人物でした。義龍は、美濃の国主でしが信長に攻められて国から追われ、朝倉義景に仕えた人物だったのです。

小少将にすれば、父親が国を奪われ(そして6日前に討たれている)、夫も自害に追い込まれ、そして息子の愛王丸も捕えられて処刑された訳ですから、信長を恨みながら一乗谷の自分の屋敷(諏訪館)で自害しました。

その遺体は野犬に食い荒らされて無残な姿だったそうです。

この時に、斎藤氏の一族だった明智光秀に乗り移って本能寺の変を起したという話が、よく語られます。

『戦国怪談話』その3 果心居士

2011年08月23日 | 『戦国怪談話』
戦国怪談話と言いながらも、厳密には戦国時代に怪談話を探すことは難しいです。それは戦国時代が殺し合いの時代だったからです。
人を殺すのが当り前の時代に、怪談なんて信じていたら敵を討つことはできません。ですから厳密には後で考えられた怨念話や祟りが多くなります。


そんな戦国時代に、大和国(奈良県)に果心居士という仙人がいました。

安土城ができた頃、果心居士は地獄絵図の屏風を持って織田信長に面会します。信長は迫真に迫る屏風を気に入って値を問うと、居士は「信長さまの想いのままに」と答えるので、信長は金100両を用意しました。
信長が家臣らを呼んで屏風を見せるのですが、絵の質が悪くなっています。信長が果心居士に問うと「100両の価値に相応しい絵にいたしました」と言ってその場から消えたのです。


そんな果心居士は、大和の領主であった松永久秀とも親しくしていました。
この久秀、織田信長が「主殺し、将軍殺し、奈良の大仏を焼くという普通の人間なら生涯に一度も行わない大罪を三つも行った人物」との評価を下すほどの人物でした。
久秀は、親しい果心居士に対して「自分は恐怖を感じたことが無い、怖がらせてくれ」というので、真っ暗な中に久秀を置いたのです。
そして久秀の前にやせ細った女性が立ち恨みを言いました。それは亡くなった久秀の正室で、女好きの久秀を嗜め、恐ろしい姿で久秀を空ろに見る姿に久秀は悲鳴を上げたのです。


最後に、豊臣秀吉が天下を統一してから、果心居士が秀吉に呼ばれました。秀吉も怖い想いがしたいと言うので、真っ暗な中に若い女が秀吉を睨んだそうです。その女は秀吉が織田家に仕えた頃に出た合戦で、秀吉が犯して殺した女でした。
この秘密は誰も知らなかったはずが、果心居士によって暴かれたので、秀吉は女の姿に怯えるとともに果心居士の存在に恐怖を感じて殺そうとしました。しかし豊臣家臣に囲まれた居士は、鼠の化けて去って行ったといわれています。