彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『崇徳寺と肥田城跡』

2008年10月25日 | 講演
写真は鹿島邸の桶風呂


彦根歴史・文化啓発講座の第2回目として『崇徳寺と肥田城跡』というテーマでの見学会が行われました。
肥田城については、日本で最初に水攻めが行われた城として以前にご紹介しましたし、2009年が水攻めから450年になるという事で、他の様々な水攻めの例も参考にして管理人自身が大いなる興味も持っている場所です。

その後の調べで、日本最初の水攻めは若江城だという事が解りましたが、それでも日本で古い例である事は間違いありません。


さて、今回の見学会ではまず崇徳寺に立ち寄り、肥田にまつわる資料を拝見しました。
また本堂の“観世音菩薩座像”は13世紀後半の作だと言われています。
仏像は大体300年から400年でダメになるそうなのですが、この像は鎌倉時代中期に作られて元禄年間に修繕され、平成になっても修繕されたそうです。
言い伝えでは快慶作とも言われているそうなのですが、時期が合わないとも思われているそうですが、快慶ではなくても慶派の流れを汲む物だそうです。

ちなみに崇徳寺は肥田城主の高野瀬一族の菩提寺であり、高野瀬一族が滅びた跡に肥田城主になった蜂屋頼隆、長谷川秀一のお墓や肖像画もあったそうです(高野瀬一族以外の墓は不明、肖像画は現在は彦根城博物館にあります)。

崇徳寺は、肥田城築城と同じ時期に出来たとされて居ます、肥田城築城時期も平安時代末期か鎌倉時代前期まで遡るとも言われていますし、室町二代将軍・足利義詮の書状も残っています。
また山王祠の建つ場所から出てきた古銭と共に入っていた木牌に書かれていたという文章を写した資料によると、“持統天皇5年(691)、弘文天皇(大友皇子)の第二子の大友夜須麿がここに住んだ”と書かれているのです。
そして天平10年(738)9月に夜須麿が亡くなったためにその徳を称えて作ったのが崇徳寺と記されているのです。
こうなると、肥田城ができるよりもう一つ古くなってしまいますね。

さて、そんな崇徳寺や肥田城跡を散策した後に古い家屋が残る鹿島邸にお邪魔しました。
ここには“桶風呂”という古いタイプのお風呂が残っています。

明治時代頃から昭和40年頃まで使用されていた物で、成人男性があぐらをかいても臍の下くらいまでしかないくらいの少ないお湯を焚いて、今で言うサウナのような感じで使われていたお風呂だったそうです。
この地域以外でも各地で見られる形だそうですが、お湯が少ないので経済的でもありました。

古い民家の知恵も、そして多くの謎も含む面白い講座でしたよ。

キグるミさみっと

2008年10月25日 | イベント
2008年10月25日・26日の二日間は夢京橋キャッスルロードを中心に全国の50近いキグルミが集合する『キグるミさみっと』が開催です。

25日午前10時。
宗安寺の前に設営されたステージに彦根のゆるキャラである“ひこにゃん”“しまさこにゃん”“いしだみつにゃん”“やちにゃん”“ひこちゅう”“カモンちゃん”が集まり、開会されました。

その後も彦根キャラのサポートの元で色んなキャラがステージに上がりお国自慢やパフォーマンスで盛り上がります。
夢京橋キャッスルロードにはそれぞれのキャラクターのブースが設けられ、グッズの販売やアピールも行われていて、写真撮影大会にもなっていました。

今回初キグルミというキャラもあり、また先行販売されたガイドブックに載っていなかったキャラクターも登場して大いに賑わいました。


25日の人出は約25000人。
全国のゆるキャラたちの人気をまざまざと見せ付けられたようでした。

佐和口多聞櫓内部公開

2008年10月15日 | 彦根城
2008年10月1日より、彦根城の正面口にあたる佐和口多聞櫓の内部が一般公開されています。
彦根城博物館が建築される前は公開されていたので、約20年ぶりの一般公開となりました。

佐和口多聞櫓についてこのブログでも何度か書いていますが、天守が建築された天下普請である第一期工事(1603年?~1607年?)の時に建築された建物ではなく、大坂の陣の後に井伊家が計画して広げた第二期工事(1615年~1622年)の時に建てられました。


しかし、現存する建物はこの時期に建てられた物では在りません。
明和4年(1767)火災により燃えてしまったのです。
佐和口多聞櫓は先ほども書いた通り彦根城の正面玄関にあたる場所ですので本来ならすぐに再建される筈ですが、2年後の明和6年から明和8年にかけて再建されたのです。


この時の彦根藩主は十代の井伊直幸。
当時は奢侈な風潮があった時代でしたが、直幸は領内に倹約を推し進めていました。佐和口多聞櫓再建の期間が長いのももしかしたらこのような領内の風潮にあったのかもしれません。
こうして再建された佐和口多聞櫓は築城時の雰囲気を残したのでしょう。城外に向けて作られた狭間は当然の事、城外側は厚い土壁、城内側は薄い壁といった戦略的な要素も含んでいるのです。


余談ですが、直幸が推し進めた倹約の成果もあり藩には多少の蓄えも残ったようで、天明の大飢饉では藩の米蔵を開いて領民に粥を配り、上杉鷹山らと共に藩内では一人の餓死者も出さない政策を実行したのです。

西尾城訪問記

2008年10月06日 | 史跡
三河西尾藩の政治の中心だった西尾城を訪問してきました。


西尾城は元々“西条城”といって戦国時代中期には三河守護の末裔である吉良氏の居城だったのです。
吉良氏はこの西条城を居城とする宗家である吉良西条家と、すぐ近くの東条城を居城とする分家の吉良東条家が同族で争うようになった家だったのです。
吉良氏の争いは室町時代初期に足利尊氏・直義兄弟が戦った“観応の擾乱”まで遡るそうですからよほど根が深かったのでしょう。
しかし、両家とも足利一門の中でも名門である意識が強く、また同じ足利一門である駿河の今川氏との交流を深めたのでした。

徳川家康の祖父である松平清康が活躍した頃、吉良東条家はいち早く清康の妹を妻に迎えて姻戚関係を結び、清康が暗殺された後はその子の広忠に今川氏を頼るように助言もしたのです。
そして三河が駿河の今川氏と尾張の織田氏との戦いの戦場になる事が頻繁になった時、吉良西条家は織田方になり今川軍に攻められて西条城は吉良家から離れ、吉良宗家は吉良東条家が継ぐ事になったのでした。
この時の吉良東条家の当主の名を吉良義昭といいます。
そして西条城は牧野貞成に任されたのです。

こんな三河の情勢を変えたのが桶狭間の戦いでした。
首を斬られた今川義元になお忠誠を尽くしたのが吉良義昭と牧野貞成で、義元亡き後に岡崎城を拠点として独立した松平元康(後の徳川家康)に反発したのです。

その結果、西条城は元康によって攻め落とされ牧野貞成は城から逃れるしかありませんでした。
余談ですが、この牧野氏は後に徳川家に仕えて、譜代大名として江戸期を生き抜き幕末に北越戦争で戦った長岡藩の牧野家もこの子孫になります。

牧野貞成から西条城を奪った元康は、家臣の酒井正親にこの城を与えて“西尾城”と改名させました。
この酒井家は徳川四天王の酒井忠次とは一門であっても別の流れで、本来なら雅楽助流という分家になるのですが、元康から大きな信頼を受けていて今川家から独立した元康が最初に家臣に与える城を拝領するという栄誉を得たのです。
この子孫はのちに雅楽頭を称するようになり江戸時代の大老四家の一家になるのはこの頃からの家柄があっての事なのです。


さてここから西尾城の本題。
桶狭間の戦いから30年後の小田原征伐の後に関東に移った徳川家家臣に代わって東海地方の要所には豊臣秀吉の信頼する武将たちが配置されました。
それまで酒井家が城主を務めていた西尾城には田中吉政が岡崎城主を兼任して10万石で入城したのです。

やがて関ヶ原の戦い。
吉政は、石田三成捕縛の功で32万5千石の所領を受ける代わりに九州の柳川に転封となり譜代大名の本多家・太田家などが西尾藩主を務めたのでした。

正保2年(1645)6月23日、安中藩3万石の藩主・井伊直之(後の直好)が5000石が加増されて三河国西尾藩へ転封。ここで西尾城の外郭工事を行って明和元年(1655)の完成まで指揮を執ったのです。
そして万治2年(1659)1月28日、今度は同じ石高で掛川藩に転封となったのでした。
井伊直之は井伊直政の孫に当る人物で、ここで井伊家と西尾藩の縁があったのです。

この後に増山家・土井家・三浦家を経て大給松平家が6万石で西尾藩主となり安定します。
13代藩主・松平乗全は大老・井伊直弼の政権下で老中を務め老中首座にまでなっています、安政の大獄では飯泉喜内の取調べを行い幕府より1万石の加増を受けます(しかし、桜田門外の変後に召し上げ)。


直弼の片腕だった乗全は、井伊政権が最終的に消滅した文久2年(1862)に隠居し、弟の乗秩の代に明治維新を迎えたのです。
その後、西尾城の建物は壊され、現在は再建が進められています(写真は再建された丑寅櫓)

10月2日、望遠鏡の日

2008年10月02日 | 何の日?
1608年10月2日、オランダのメガネ職人だったリッペルスハイはオランダの国会に書類一式を提示し望遠鏡の特許を申請しました。


リッペルスハイはレンズを磨いている最中に、偶然凹レンズと凸レンズを一定の間隔で重ねてのぞき込むと、遠くにある風景が近く見えると言うことを発見したそうです。
これがヒントとなって、凹凸のレンズを組み合わせた望遠鏡を発明したのでした。
オランダ国会はこの特許申請に対し、「原理があまりにも単純で誰でも作れそうだ」と言う理由で受理しませんでした。

それにもめげなかったリッペルスハイは同年12月には双眼鏡も完成させています。


さてそんな望遠鏡が日本に入ったのは江戸時代のこと(発明自体が江戸時代初期なんですから当たり前なんですが・笑)。
そして、この望遠鏡を使って近江では偉人が誕生します。


“国友一貫斎”または“国友藤兵衛重恭”と言う人物です。

世界史的には“東洋のエジソン”と呼ばれ、死後160年以上経った今でも一級資料として現役で活躍する記録を残した近江の偉人・国友一貫斎を紹介してみましょう。

一貫斎は、その名前の示す通り、現在の長浜市国友町の出身。
歴史上、“国友”といえば“鉄砲”と連想されるくらいに有名な土地ですが、戦国期以前は刀鍛冶の村でした。
1543年、中国人・王直が鉄砲という新しい武器の売り込みの為にポルトガル人を乗せて種子島に上陸します。そしてその翌年には国友で鉄砲作りが始まります。
余談ですが鉄砲伝来はポルトガル人が偶然種子島に漂着した事が以前の定説となっていましたが、今は倭寇の元締め王直が必然的にやった事になっています。

刀鍛冶で行なわれる鋼を強固にする技術を組み込んで作られる鉄砲は、当時の世界基準を簡単に追い抜いて、世界一の精度を誇りました、また、生産力も尋常ではなく、鉄砲伝来の約40年後には全世界の鉄砲保有量の3分の2が日本にあったと言われています、実は日本は火器だけを限定するなら戦国末期と江戸末期に世界最強の兵器を保有していたという歴史があります。


そんな国友の鉄砲も。江戸時代に平和な世の中が訪れると無用の長物となってしまいます、国友では鉄砲で培った技術を生かして花火や芸術・科学の面で活躍を見せますが、戦国期のような繁栄はありませんでした。
そんな太平の時代、多くの人の努力から鎖国中の日本に外国の文化も入りつつある時代の転換期に国友で生まれ育ったのが国友一貫斎でした。

一貫斎は有能な鉄砲鍛冶師で、彦根藩から指名で大筒製造の依頼を受ける事もありました。
40歳を過ぎた頃に江戸でオランダから伝わった空気銃を見て、構造を理解し模倣・改良します、これは空気が圧縮できる事を理解した最初の日本人と言う事です。

さらに、オランダ製の反射望遠鏡を見た一貫斎はこれも模倣します、そして改良された反射望遠鏡を使って天体観測を始めたのです。


最初は月と木星の観測で、その記録は写真を見るかのように忠実に残されています、望遠鏡を改良して詳しく見える所は紙を貼って修正するほどの細かさで、月のクレーターの位置などは今の写真と比べても大差はないんですよ。
また、木星の衛星タイタンも記録に残っていますが、江戸時代の日本人でタイタンを見た記録を残しているのは一貫斎しか居ません。

他にも、土星の輪なども明確な記録として残っていて、その全てが学術的価値を評価されています。

しかし、そんな中で特に注目されるのが太陽暦1835年2月3日~1836年3月24日まで158日216回行なわれた太陽の黒点観測です。
その記録方法は、黒点の数・位置・大きさを明確に記録し、気が付いた事を覚書としてメモに残すやり方でした。
この観測で一貫斎は、
・黒点は温度が低い所である事。
・同じ形の黒点は無い事。
・黒点は左下から右上へ移動し10日前後で消える事。
などを証明しています。

ちなみに世界天文学史上においてこのような長期の黒点観測の最初は一貫斎より9年前にドイツのシュワーベが行なっていますが、その正確さは一貫斎には及びません。

また、1854年からはスイスのウオルフの提唱で黒点の国際共同観測がプロ・アマを問わず多くの天文愛好家によって今も行なわれていますが、それ以前の記録としては最高の物で、特にこの時期が黒点の数が段々増えていく重要な時期でもあったため、今でも天文学の世界では一級資料として活躍しています。


改良を加えられた反射望遠鏡は4機製作されましたが、どれも当時の世界水準を大きく上回った物で、160年以上経過した現在でも鏡に曇りがなかったそうですよ。

10月1日、石田三成斬首

2008年10月01日 | 何の日?
慶長5年(1600)10月1日、石田三成が京都の六条河原で斬首となりました。享年41歳

二年前にも書いている話ですので、三成の人生や処刑までに至る経緯は省略しますが、最後の有名なエピソードについて以前からの疑問を投げかけてみたいと思います。


それは、市中引き回しの最中での事。
喉の渇きを訴え白湯を所望した三成に対して引き回しを警護していた田中吉政の兵が、「白湯は無いが柿ならあります」と言い、三成が「柿は痰の毒であるから遠慮する」と言うと警護の人々がクスクスと笑うので「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と大望ある者は最後の瞬間まで命を大切にする事を説いたという話。

この話は三成の最後の瞬間を語る話としてどんな本にもドラマにも登場し管理人も二年前に紹介していますが、実話なのでしょうか?
管理人にこの疑問を最初に抱かさせたのはジェームス三木さんの『葵~徳川三代~』でした。
ここに、「恐らくこのエピソードは、売文の徒の作り話である。もし事実であれば、筆者は三成のサービス精神と捉えたい」と書かれています。

管理人も、この話は作り話であると思います。三成らしくないと言うか、柄ではありません。
三成は、真面目にやったことが他人の感覚とはズレていて笑い話となる逸話を残す事がありますが、柿のエピソードにはらしさが無いような気がしませんか?


もし、モデルとなる話があったとするなら、三成が白湯を求めたのに対して生水しか用意できず、腸が弱かった三成が、生水を飲んで首を斬られる時に腹痛を発して不覚となるのを恐れた。くらいの話だったのではないか?と思います。

だいたい、あれだけの警護の兵が居て「白湯は無いが柿はある」って返答の方がとって付けたようで不思議ですよね。


みなさんはどう思われますか?