彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

7月5日、豊臣秀吉天下を統一する

2010年07月05日 | 井伊家千年紀
天正18年(1590)7月5日、豊臣秀吉に包囲されていた小田原城が開城しました。


北条早雲から5代約100年に渡って関東を支配していた北条一族は、小田原城という大掛かりな城を本拠地にしていたことでこれまで何度も危機を脱してきました。
とくに、軍神と呼ばれた上杉謙信に攻められえた時も篭城して守りきった事が大きな自信となっていたのです。
つまり、困った時には篭城と言う戦い方が自然となっていたのでした。

確かに、小田原城はその城内で自給自足ができ篭城するのにはもってこいの城だったのですが、そんな戦に勝つためには「相手が諦めていずれ兵を引く」という大前提が必要となったのです。

上杉謙信の場合は、領土拡大欲が無く、本国が越後だった為に冬になる前に決着をつけるか兵を引き上げるという前提があったので城に篭もっていればいずれ勝手に帰ってくれたのですが、豊臣秀吉は信長の家臣だった頃から干殺しと呼ばれる兵糧攻めや高松城の水攻めなどの長期戦で城を囲んで落とす戦をもっとも得意としていたのです。


そこであてが外れた形になり、小田原城のすぐ近くの石垣山に一夜で城を作ると言う離れ業をやった秀吉の力に脅威を覚えたのです。
この石垣山一夜城は、出来上がるまでの基礎工事を山の木々に隠して行い、ある程度出来上がったところで一気に木を切った為に北条方からは一夜で城が出来た様に見えたそうですが、精神的には凄い恐怖を与えたでしょうね。
とは言いながらも、最近の説では秀吉の石垣山城に驚いたのは、秀吉自身の誇張であり北条方にはそれほど驚いた様子もない。とも言われています。


こうして、どうする事も出来なくなった(らしい)北条一族は堂々巡りの会議を行い、それが「小田原評定」という言葉まで後世に残す事になってしまいます。

結局、小田原城主・北条氏直と先代城主で氏直の父・氏政は秀吉に降伏。
この小田原攻めの最中に東北最大の実力者・伊達政宗が秀吉に臣従している事からこの時点で秀吉の天下統一が確定したのでした。


北条氏は、氏政は開城の後に切腹
徳川家康の娘婿と言う事で助命嘆願された氏直は高野山で出家しますが、翌年に疱瘡で病死。
氏直の叔父・氏規の子孫が江戸期を通じ1万石格の大名として続きます、この末裔が公明党書記長を務めた北条浩さん。
また一門に列せられた北条綱成(正室は北条氏政の叔母)の孫・氏勝も家康に仕えて1万石並みの大名となっていますが、その養子・氏重の代で嫡子が無く改易となっています。


さて、小田原城開城は徳川家にとっては大きな運命の転機となりました。
これまで東海を中心に勢力を広げていた家康でしたが、秀吉の命で江戸を中心とした関東への転封を命じられたのです。
それだけならば、歴史の中のひとつの出来事として終わるのですが、井伊家にとってはそれだけでは済まなかったのです。

秀吉は、井伊直政に箕輪12万石を与えるように家康に指示したのです。
よく、直江兼続の逸話の中で秀吉の指示で上杉120万石の内の30万石を与えられた。との話が登場しますが、実はこれは徳川家でも行われ、その筆頭が直政でした。
こうして井伊直政は徳川家臣団筆頭の地位を、秀吉の指示で得たのです。

しかし、秀吉と言う人物はただの人たらしではなかったと思うのは、この箕輪から東山道を進むと徳川家から豊臣家に鞍替えした真田領に入り、その向こうには家康の元を離れて秀吉の家臣となった石川数正の築く松本城が控えています。
直政と数正は秀吉の目の前で敵対したこともあるくらいですので、もし秀吉と家康が戦うようなことがあれば、真田・石川が直政と戦うことなり、徳川軍の戦力分散が理想的な形でできるという緻密な計算があったようにも見えるのです。

なにがともあれ、井伊家にとっては関ヶ原以前で一番運命が動いたのが秀吉の小田原征伐後だったのです。