彦根市内で古くから紙業を営む正木屋商店で見つかった安政2年(1855)古文書を紹介したい。
覚
一 三人扶持
一 大御紋上下 一具
一 銀子 三枚
河原町
猪助
右者紙類渡世致し居、相応取続来候付、御国恩為冥加金弐百五拾両永上金并渡漉紙一本指上度旨願出候付、願之通申渡候、右様願出候儀ハ寄持之事二付、件之通年々御扶持方并為御褒美、右之御品被下置候間、存其旨可被申渡候、以上
卯十二月 庵原助右衛門印
庵原の名前のあと、「在江戸」として木俣清左衛門・長野伊豆・新野左馬助・岡本半助・三浦内膳、「在京」として脇五右衛門・中野小三郎の名前が記され、町奉行衆以下八つの役職に宛てて書かれた旨が記されていた。この古文書は「御拝領 御証文 同白銀 三枚 安政三年辰正月 正木屋猪助」と書かれた箱に入っていたらしい。銀はすでに入っていなかったとのことではあったが、安政四年一月(孟春)に井伊直弼から吉田(御馬役吉田清太郎か?)という人物を通じて猪助に盃が渡されたと考えられる記録も出てきた。
古文書の内容を少し読み解くならば、河原町に店を構える正木屋猪助が、彦根藩が領内を治めてくれている国恩に報いるため、二百五拾両お冥加金を毎年納めるという申出を行ったところ、そのことは少数の者が勝手に受け入れを決定できないので、(藩主の命で)家老衆が町奉行らの役職の者と協議する旨を記し、その際に猪助に対して三人扶持などの褒美を与えることも踏まえた形で伝えている。実質的には藩主の意向を家老たちが連名で伝達した事後確認であったと考えられ、卯(安政2年)12月にこの古文書の原本が庵原から出され翌3年1月に猪助に白銀などが渡され猪助がこの古文書である覚(写し)と箱を作成、その翌年(安政4年)に井伊直弼からの杯が贈られたと考えられる。
この古文書を私に見せてくれた正村圭史郎氏によると、「正木屋は享保年間に開業し、明治維新のあと高宮宿から河原町に移転したと思っていたが、安政年間には現在の場所に店舗を構えていたことがわかった。また彦根城下では元禄年間に7店、安政年間に2店の紙業があり、安政年間の2店のうちの1店は正木屋であることも確実になり、もし元禄年間の1店が正木屋であったなら開業時期が早くなる可能性もある」とのことであった。
元和8年(1622)の彦根城総構え完成から400年を迎えた2022年もそろそろ終わろうとしているが、まだまだ陽の目を見ない面白い史料が眠っている可能性は高いのだ。
正木屋猪助の古文書
覚
一 三人扶持
一 大御紋上下 一具
一 銀子 三枚
河原町
猪助
右者紙類渡世致し居、相応取続来候付、御国恩為冥加金弐百五拾両永上金并渡漉紙一本指上度旨願出候付、願之通申渡候、右様願出候儀ハ寄持之事二付、件之通年々御扶持方并為御褒美、右之御品被下置候間、存其旨可被申渡候、以上
卯十二月 庵原助右衛門印
庵原の名前のあと、「在江戸」として木俣清左衛門・長野伊豆・新野左馬助・岡本半助・三浦内膳、「在京」として脇五右衛門・中野小三郎の名前が記され、町奉行衆以下八つの役職に宛てて書かれた旨が記されていた。この古文書は「御拝領 御証文 同白銀 三枚 安政三年辰正月 正木屋猪助」と書かれた箱に入っていたらしい。銀はすでに入っていなかったとのことではあったが、安政四年一月(孟春)に井伊直弼から吉田(御馬役吉田清太郎か?)という人物を通じて猪助に盃が渡されたと考えられる記録も出てきた。
古文書の内容を少し読み解くならば、河原町に店を構える正木屋猪助が、彦根藩が領内を治めてくれている国恩に報いるため、二百五拾両お冥加金を毎年納めるという申出を行ったところ、そのことは少数の者が勝手に受け入れを決定できないので、(藩主の命で)家老衆が町奉行らの役職の者と協議する旨を記し、その際に猪助に対して三人扶持などの褒美を与えることも踏まえた形で伝えている。実質的には藩主の意向を家老たちが連名で伝達した事後確認であったと考えられ、卯(安政2年)12月にこの古文書の原本が庵原から出され翌3年1月に猪助に白銀などが渡され猪助がこの古文書である覚(写し)と箱を作成、その翌年(安政4年)に井伊直弼からの杯が贈られたと考えられる。
この古文書を私に見せてくれた正村圭史郎氏によると、「正木屋は享保年間に開業し、明治維新のあと高宮宿から河原町に移転したと思っていたが、安政年間には現在の場所に店舗を構えていたことがわかった。また彦根城下では元禄年間に7店、安政年間に2店の紙業があり、安政年間の2店のうちの1店は正木屋であることも確実になり、もし元禄年間の1店が正木屋であったなら開業時期が早くなる可能性もある」とのことであった。
元和8年(1622)の彦根城総構え完成から400年を迎えた2022年もそろそろ終わろうとしているが、まだまだ陽の目を見ない面白い史料が眠っている可能性は高いのだ。
正木屋猪助の古文書