彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:坂本龍馬と勝海舟の面会(12月29日)

2012年12月29日 | 何の日?
文久2年(1862)12月29日、坂本龍馬が勝海舟に面会しました。

二人の対面については、勝海舟が『追賛一話』で“坂本氏かつて剣客千葉周太郎と伴ひ、余を氷川の僑居に訪へり。時に半夜、余のために我邦海軍の興起せざる可からざる所以を談じ、媚々止まず。氏大いに会する所あるが如く、余に語りて曰く「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては敢て公を刺さんと決したり。今や公の説を聴き大いに余の固陋を恥づ。請ふ、これよりして公の門下生とならん」と。”と記しています。
つまりは坂本龍馬と千葉重太郎(周太郎と記している)が、氷川の海舟の家にやってきて、海舟と話したことで龍馬が「あなたを刺そうと思ってきましたが、勝先生の説を聞いて恥ずかしくなりました、弟子にしてください」と言ったと書いているのです。

そして翌年3月20日に龍馬が姉の乙女に書いた手紙には、“今にてハ日本第一の人物勝燐(麟)太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候”と書いていますし、5月17日の手紙には“此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先きやくぶんのようなものになり申候”と書いています。
3月20日に勝麟太郎(勝海舟)の弟子になり、日々兼而思付所とは海舟が描いていた海軍設立の件でありこの夢に精を出して頑張っていると言っているのです。そして5月17日には、勝麟太郎に可愛がられて弟子から客分になっていることを報告しています。この手紙は後に龍馬が海舟の元でどのように過ごしているかが述べられていて、そんな海舟に対し“達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれもこれあり”と言いながらも、そんな海舟に認められている自分を“猶ヱヘンヱへン”と自慢しています。


つまり坂本龍馬は文久3年3月20日には勝海舟の弟子になっていて5月17日には客分扱いだったことが分かるので、12月辺りに海舟に初めて出会っていてもおかしくはないのですがこの出会いの日と状況が謎なのです。
時代考証学会の佐藤宏之先生(『龍馬伝』資料提供)は『時代考証にみる新江戸意識』のなかで

“(『追賛一話』と『坂本龍馬海援隊始末』)この二つの記述によって、文久二年に勝の弟子になったことが、一般的に広められました。ただし『海舟日記』を見てみますと、龍馬の名が初めて記されるのは文久二年一二月二九日です。ここでは「坂本氏」と記されていますが「氏」と付くのは、優れた人物として評価しているわけです。坂本龍馬が優れた人物だと評するためには、それ以前にどこかで会っていなければなりません。
ではいつ、どこで会っているのか?という疑問が湧いてきます。『海舟日記』には一二月九日に三人の来訪があったと書かれてあり、この三人のなかに龍馬がいたのではないか?と考えられています”

と述べていて、12月29日に龍馬が海舟を斬りに来たわけではなく、この時はすでに顔見知りであり、しかも海舟は龍馬を優れた人物として評価していたと考えておられるのです。
そして、その初めての出会いの日は12月9日とされています。この時に海舟を訪れた3人とは坂本龍馬・近藤長次郎・間崎哲馬であろうとのことです。この三人は12月5日に福井藩前藩主松平春嶽に面会していて、その縁から海舟を紹介されて会いに行ったのではないかとも考えられえるそうです。

坂本龍馬と勝海舟の出会いは、仲介人の紹介があったものであり、龍馬は海舟を斬りに行ったわけではないとなると、ドラマチックな二人の出会いは少しイメージが変わるのかもしれませんね。

150年前:士道忘却事件(12月19日)

2012年12月19日 | 何の日?
文久2年(1862)12月19日、横井小楠が襲われる士道忘却事件が起こりました。

幕末維新には綺羅星のごとくに秀才が登場します。吉田松陰などはその中に含まれると思いますが、そんな中で天才として挙げられるのは、松代藩の佐久間象山、長州藩の大村益次郎、そして熊本藩の横井小楠です。
小楠は、熊本藩士でしたが、福井藩前藩主で幕府政事総裁職の松平春嶽の招きを受けていて、福井藩の政治顧問や幕府の政治改革に携わっていたのです。
そんな関係から江戸での活動が多く、福井藩と熊本藩の藩邸を行き来していました。


文久2年12月19日、熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別宅2階に吉田や小楠ら4人が集まって酒宴を開いていました。これは春嶽が上洛するために、京へ向かう小楠の送別会のようなものでした。
途中で1人が帰宅し3人で飲んでいると、急に階段を駆け上がる音が響き、覆面をした3人の暴徒が小楠らを襲ったのです。
この時、小楠は刀を差しておらず、すきを見て階段を駆け下りて福井藩邸に戻り、刀を差したのちに福井藩士らを引き連れて吉田別宅に急ぎました。しかし戻った時には暴徒は居なくなっていて一緒に酒を飲んでいた2人が傷を負って倒れていたのです。特に吉田は重傷で2か月後に亡くなったのです。


熊本藩では、小楠は「士道忘却」と憤り、福井藩に小楠引き渡しを要求します。春嶽はこれを拒みますが、京には連れて行けず福井に匿うのです。
しかし、福井藩で政変が起こって小楠を快く思わない人々が藩の実験を握り、小楠は熊本藩に引き渡されてしまうのです。
春嶽は熊本藩に対して穏便な処分を願い出ますが、熊本藩ではこれを拒み小楠は士分をはく奪されたうえに幽閉されました。

その後、明治新政府に招聘されるまで幽閉生活を送った小楠は、明治2年1月5日に御所近くで暗殺されるのです。


横井小楠は天才であったために、その言動は早く積極的で、それが普通の人間には理解できず、そして開国派であったために、常に攘夷派から命を狙われていたのです。
もしかしたら幽閉されていた期間のみが命の危険に怯えないで済む時間だったのかもしれませんね。

150年前:イギリス公使館焼き討ち事件(12月12日)

2012年12月12日 | 何の日?
文久2年(1862)12月12日、長州藩士の高杉晋作・久坂玄瑞らが品川に建築中だったイギリス公使館に放火をして焼いてしまいます。
この少し前までイギリスの公使館は品川・東禅寺にありましたが、1861年5月28日に水戸藩士14人に襲撃されてイギリス人2名が負傷、翌年5月29日にも警護兵のはずの松本藩士・伊藤軍兵衛が水兵2名を斬り殺してから切腹するという事件が起きました。

高杉晋作は、早くから海外に目を向けている先見性がある人物で、上海に留学に行ったりもしましたが、そこで目にしたのは阿片戦争に敗れたために列強と呼ばれる欧米諸国の人々に虐げられている中国人の姿でした。
こんな経験から外国の言いなりになる危険性を感じた晋作は自分の態度を示す一環として焼き討ち事件を起こしたのです。
当時こういった事件にはあっちこっちで起こっていましたが、その全てが高杉晋作のような大きな意志があった訳ではなく、ただの外国嫌いから来ている事も多くあったのです。


では、なぜそこまで日本人が外国人を嫌ったのかといえば、黒船来航にあったのです。

ペリーが黒船に乗ってやって来ることは前年にオランダを通じて幕府に報告されていましたが、幕府はこれを信用せず、上層部だけの秘密にしていまい、いざ黒船が来た時に何も知らない現場の人間が大慌てをしてしまったのです。
その後も威圧的に外交を行うペリー一行の姿を見た人々は「不意打ちを行った上に余りにも無礼」として外国人を憎んでしまいました。
いわば、目隠しをされた状態にも近かく、何も知らないままに暴走してしまったのです。

もし、最初の段階で上層部がちゃんとした指示を出していたなら幕末の日本の混乱は半分以下で済んだだろうと言われています。
どの時代でも言える事だとは思いますが、今の現状はそのまま共有してこそ解決方法が生まれるのではないでしょうかね。

ひらがなの歴史を遡る発見

2012年12月02日 | 史跡
ちょうど1年前の2011年12月10日、JR二条駅西側で、西三条院(西三条第)が発見されて話題になり、管理人も現地説明会に行きました。
この時は、ここから「三条院釣殿高杯」や「政所」と書かれた土器が発見されて、この地が藤原良相の屋敷跡だったことが判明したことが大きな話題になったのです。

それから一年、今度はこの地で発掘された土器に書かれた文字がひらがなもしくは草仮名(万葉文字を草書体にした、漢字とひらがなの間の文字)であることが判明したのです。
この地の主であった藤原良相は867年に亡くなっている人物で、今まで歴史上では905年の『古今和歌集』にひらがなが使われたのが最初に見る例であり、草文字として多賀城跡で発掘されたものや867年の使用例があったのですが、今回の発見で草文字の歴史は数年、ひらがなの歴史は半世紀近く遡ることになったのです。


そんなひらがなが書かれた土器は、京都市考古資料館で公開されました。
ますは、昨年も見た覚えがある「三条院釣殿高杯」と漢字で記された物

他にも漢字を記した土器もありました。
  

そしてひらがなへ
とても大切に展示されてました。


この左側の土器には「かつらきへ」これは神楽歌『朝倉』に登場する「葛城へ」ではないかとの説です。


右から縦に
 □れ(なれ)
 □わあな
 □(なき)く
  □ま□


同じく右から縦へ
 □そこ
 □なしも
  そまほる



これも、右から縦に
 □かくは
 □たにひ
   は ら


メインになるものは解説がありました

 後半に、
  ち す きな ひとに
  く し  とお□われ
 とあり、特に後半は「人憎しと思われ」と読めるとのことです。

また写真ではありませんが、高杯の横に『日本書紀』に登場する「なかつせ(中つ瀬)」との文字も見つかったとのことでした。

藤原良相は、応天門事件をきっかけに兄の藤原良房との関係がこじれてしまうのですが、それまでは権力もあり、姉の藤原順子が仁明天皇の中宮であったこともあり、将軍としてだけではなく文化人としても著名だったのです。
その文化人が、流行りだしたひらがなを自らのサロンのようなところで使ったのか? それとも場合によっては世の中が草仮名になりだしたのを見て、良相サロンのメンバーがもっと崩したひらがなを発明したのか?
真相がわかることは、たぶんタイムマシーンでもできない限りないと思います。


でも、確実にひらがなの歴史は最低でも半世紀近く遡ることになり、自分たちが使っている文字の1150年以上前の形を目の当たりにしているのです。