彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

出雲旅行記:須佐大宮

2013年01月28日 | 史跡
あちらこちらに行った出雲訪問も最後の場所です。
最後の目的地は須佐大宮(須佐神社)でした。
実は、本来なら出雲大社から松江城に向かう前にここに寄った方が近かったのですが、別の神社の場所と間違えていて、大きく引き返すことになってしまい、これが時間のロスを生んでしまったことは否めません。
しかし出雲訪問の最後にふさわしい神社でもあります。

この地は、スサノヲノミコトが、自ら土地を清めて、自分の名である「須佐」を与え、そして終焉の地に選んだ場所と言われています。
ですから、日本でも有数の(と言いますか最高クラスの)パワースポットの一つです。
しかし、ここの立地条件や近くに出雲大社があることなどから、それほど多くの参拝客を見かけませんでした。パワースポットで静かな場所は、欲望のオーラが少ないので、何も感じない管理人でも安心できた場所でした。


随神門を潜って

本殿に参拝

ご朱印もいただきました。


本殿の裏の大杉は見応えがあります

とても生命力があり、囲いの石組みを乗り越えて伸びていく根はそれ自体が信仰の対象になっています。

そしてスサノヲノミコトがこの地を清めるために自ら水を汲んだといわれている塩ノ井
 
出雲大社から内陸に向かって車で30分ほど進むような山間部にある井戸なのですが、出雲大社近くの稲佐の浜に繋がっているそうで、水に満ち引きがあり潮の風味があるそうです。ですので、スサノヲノミコトは日本海の潮水で土地を清めたことになります。

この塩ノ井をはじめとして、七不思議があるそうで、
奉納される馬がどんな模様でも白馬になり危険を予知したということで、その神馬の墓があったり

近くの山に見える岩石の斑点で収穫が占えたりしたそうです。

この山の…

この辺りらしいけど、どれかわからず…

雪で分からなくなってるかも?

また、昔は近くに稲田姫命を祀った場所もあり、合祀されたそうです。

周囲には自然もあり、清流のせせらぎもあります。

とても、いい〆になりました。
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出雲旅行記:八重垣神社

2013年01月23日 | 史跡
出雲大社に代表されるように、出雲国は縁結びの神さまが多いです。
そんな中で特に有名なのは八重垣神社です。
ここはスサノヲノミコトとその妻の稲田姫命の結婚式が行われた場所です。

天の岩戸事件の後に神の国を追われたスサノヲが旅をしていると、稲田姫と老夫婦が泣いていました。そこで理由を尋ねると、姫を八岐大蛇への貢物にしなければならないと悲しんでいたのです。
これを聞いたスサノヲは、清らかな池に囲まれた佐久佐女の森の大杉を中心に八重の垣を造って、そこに稲田姫を隠したのです。
そして八岐大蛇を退治したスサノヲは老夫婦に乞い、稲田姫を妻としたのです。そのような神話から稲田姫命が匿われてスサノヲと結婚した地を八重垣神社とし、古代最初の結婚式が行われた地となったのです。


八重垣神社には、夫婦円満を象徴するような椿もあります。

本殿にお参りして

ここで、八重垣神社で行われている恋占いのおみくじを購入します。
まだ、何が書かれているのかはわかりません…

本殿から裏に進み、稲田姫が匿われた佐久佐女の森へ

姫が自分の姿を映しながらスサノヲの帰りを待ったという鏡の池へ

案内板をじっくり読むと…

占いの紙を池に浮かべて、上に10円か100円を置く、
・近くで沈むと近い所に縁があり、遠くは遠い所に縁がある
・沈む時間が早ければ(15分以内)縁が早く、遅ければ(30分以上)縁が遅い
とのことでした。

では早速、管理人も…
池に浮かべると、文字が浮かんできます。
・信念を持つと願いが叶う
・東と南に吉
10円を置いて見る

置いた途端に沈み始めたんですけど…

先に浮かべたであろう周りの人の物が沈んでないのに段々と…

結局4分で沈みました。
結果的に、むちゃくちゃ近くに早い時期に良縁があるとのことのようです。
お社にお参りし

お朱印を戴いて、良縁を信じることにしましょう。

この次に、ご主人であるスサノヲノミコトに関わる地へ向かいました。
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150年前:鷹司輔熙関白就任(1月23日)

2013年01月23日 | 何の日?
文久3年(1863)1月23日、鷹司輔熙が関白に就任しました。

輔熙は幕末の黎明期、黒船来航をはさむ30年間(安政3年まで)関白を務めた鷹司政通の嫡男です。政通の妻が水戸藩から嫁いだ女性だったため、14代将軍を決める将軍継嗣問題では一橋派でした。

将軍継嗣問題が起こる前は、父の隠居に伴っていずれ摂関職を務める人物として朝廷内での発言力が増していたのですが、井伊直弼が大老に就任し安政の大獄が起こると、そのあおりを受けて官職を辞し出家することになったのです。

桜田門外の変後、2年間隠棲生活を送りましたが、文久2年5月に還俗を命じられ、国事御用掛に任命されます。
その後、同役に三条実美や姉小路公知らの尊皇攘夷の急進派が過激な意見を進めていこうとしたので、これに対応できる鷹司輔熙が関白に任命されたのです。


ちなみに、輔熙の関白職は八月十八日の政変で三条らが失脚した時に、かばおうとして罷免されるのです。


余談ですが、この日に福井藩前藩主・松平春嶽が政事総裁職として京都で将軍の上洛を迎えるため品川を出発して兵庫港を目指したのです。
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出雲旅行記:松江城山稲荷神社

2013年01月21日 | 史跡
松江城の城郭の中に建っているのが松江城山稲荷神社です。
松平直政が、松江に転封してきたときに前領の信州松本から勧進した稲荷神社でした。

いつの間にか多くの狐の石像が奉納されたそうで、多いときには二千体近くあったそうです。
それほどではなくても今も多くの狐像があり、不思議な空気が流れています。





小泉八雲がこの風景をとても面白がり、一対の石像を特に好んでいたようです。

境内には藩主が訪れた時に使う竈も残っていました。

ご朱印は松平家の家紋ですね。
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出雲旅行記:松江城

2013年01月20日 | 国宝五城
出雲大社から、宍道湖を挟んだほぼ反対側に位置するのが松江城です。
戦国時代に尼子氏が拠点としていた月山富田城は、守るには堅固な城だったのですが山城だったために内政には不向きでした。
関ヶ原の戦いののち、24万石でこの地に入った堀尾吉晴は、港に近い亀田山に城を築くことを決めるのです。これが松江城でした。
浜松城普請の実績から「堀尾普請」と称された吉晴は松江城築城に心血を注いだのです。

慶長7年(1602)年から始まった築城は、慶長11年(1606)に完成します。
松江城築城にあたり、さまざまな出来事が堀尾家を襲います。
まずは、吉晴の次女が婦人病(子宮癌か?)に冒されて、その苦しみから入水自殺してしまったこと、そして藩主の座に就いていた息子忠氏が、松江城築城途中で27歳で急死したこと。この死は一説には築城の実地検分中にマムシに咬まれたとも言われています。
そして、吉晴が急いで忠氏の嫡男の三之介(6歳)に三代藩主を継がせようとすると、吉晴の長女が夫の堀尾河内守との間に産んだ掃部を三代藩主に立てようちしてお家騒動を起こしてしまうのです。
結局、河内守と掃部は流罪・切腹となりますが、松江藩はこの時点で幼い藩主とそれを後見する祖父によって何とか保たれた状態が続きました。

慶長16年(1611)6月17日に吉晴が亡くなりますが、その時にも三之介は13歳でしかなかったのです。三之介は急いで元服し忠晴と名乗り、藩主自らの藩政を行いましたが、福島正則が改易になった時に広島城を受け取りに行ったこと以外はあまり業績が残されていません。
そして寛永10年9月24日に亡くなってしまうのです。忠晴には実子がいなかったので、死を察した時点で従兄弟の堀尾宗十郎を養子にする願いを幕府に提出しますが、当時は死の直前の養子願を末期養子といってこれを認めませんでいたので、堀尾家は後継ぎがないままに断絶してしまいます。
こうして松江藩24万石は三代で改易となったのです。
ちなみに吉晴は松江城完成直前に亡くなっています。

こののち、京極氏を経て松平氏が入城し、明治維新を迎えます。
天守は江戸期のまま残されている現存天守の1基で、重要文化財です。


そんな松江城を訪れたのは雪の残る日でした。
お濠では屋形船が楽しめるのですが、時間の都合で行けませんでした。

高い石垣と豊臣政権下の影響が強い下見塀が城を重層に見せます。
 
復元された太鼓櫓では、太鼓が叩けます。

石落としもあり、

開けてみるとこんな感じ

見えてくる天守はなかなか美男子です。

二の丸にある松江神社

松江松平氏初代松平直政の手水石を囲う手水舎は結構貴重な文化財なんだそうです。


いよいよ天守へ

松江城は角のない鬼瓦にも注目

外は美男子でしたが、内装は柱が多く武骨です。
 
イメージ的には優男の剣豪という城でしょうか。
  
中には秀吉の書状や

後藤又兵衛の甲冑が展示されています。

また、松江城を築城した責任者の竹内有兵衛が創った雛形も残っています。

細かい仕事ですね。

天守から下を見ると雪景色

馬洗池も冷たそうです。

こうして松江城を堪能しました。
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出雲旅行記:古代出雲歴史博物館

2013年01月15日 | 史跡
出雲大社のお隣にあるのが、古代出雲歴史博物館です。

管理人は、歴史を学んできていますので今まで様々な資料館や博物館に行ってきました。地元の彦根城博物館も何度も足を運んでいますので、博物館などの展示は多く観てきています。
しかし、そんな中でもここほど面白い博物館はあまり出会ったことがありません。

その一つは、他の地域ではメインにならない古代や神話の時代がメインであること。
そして、圧倒的な質量をこれでもかというくらいに見せていること
また、資料がたくさんありながら模型などの展示も充実させていることです。

古代出雲歴史博物館で働いておられる方の制服は、古代の着物をアレンジしたような衣装だったのが最初に面白いと思ったところでした。
そこから展示に進むと、出雲のことを記した資料の展示や

銅剣・勾玉などの出雲らしい展示がありました。

そして雲太・和二・京三の雲太の由来にもなった16mあったといわれている神殿の推定模型や

本殿の模型もありました。

これらには諸説あるようで、それらの説に批准した模型も展示されています。

また、神の啓示で広がった八雲琴

出雲大社から配られた幕末の海苔

などの出雲大社関連資料が多くあります。

太古に目を向ければ、漢字が刻まれた土器の破片

ここには“由”と刻まれています。

王が使うような剣

卑弥呼の物とも言われている鏡

などがありました。

こんな展示の中で質量に圧倒されたのが銅剣と銅鐸です。
 




所狭しと並べることで、これだけの物が出土する場所であることが、説明しなくても充分に伝わってきます。
博物館の展示などでは、数点を展示してあとは倉庫の中なんてことは当たり前なのですが、こっちの方が興味が涌きました。

また石見銀山も近いことから銀の展示もありました。

毛利元就が天皇家に献上した銀も展示されていました。

時間の関係で限られたも物を集中的に観る形になりましたが、また行ってみたい稀有の博物館です。
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出雲旅行記:出雲大社

2013年01月08日 | 史跡
出雲大社は、毎年旧暦10月に神様が集まる大切な神社です。
その主祭神は大国主命。因幡の白ウサギを助けて、スサノヲノミコトの娘を妻として日本を治め、そして国譲りでアマテラス系に国を譲って隠居した神様で、大黒様でもあります。
そんな大国主命が国譲りの後で隠居した場所が出雲大社なのです。
平安時代初期には、「出雲太郎 大和二郎 京三郎」という言葉があり、日本で高い建物ベスト3を表していたのですが、そのトップに出雲大社が挙げられたのです。これを略して「雲太」とも言いました。

そんな出雲大社は縁結びの神様としても知られています。
最初に驚いたのは1月5日なのに本殿に近い駐車場が無料だったこと…
なんて親切な神社なのでしょうか。
駐車場の加減から、まずは神楽殿に行きました。

出雲大社特有の逆巻で太いしめ縄が出雲に来たことを感じさせます。

ここからいったん境内に入り

鳥居まで戻って行きました。
そして参拝の手順を踏んで本殿を目指します
趣がある石橋を超え

再び鳥居

また石橋を超えると

向かって左手に因幡の白ウサギの像があります

ウサギ目線

反対側は山幸彦ですね。

さすが、神話に彩られた出雲です。
会所もいい雰囲気です。

銅鳥居を超えるといよいよ本殿

今は平成の大改修の最中ですので、仮殿が置かれています。

ここも大しめ縄です

改修がから紹介される屋根の造りも展示されていました。

今回は思うところがあり、幾分かの寄付もしてきました。
そしてご朱印を受け

絵馬も奉納してきました。

最後に、出雲そばを食べて出雲大社の時間を有意義に過ごせたのです。
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出雲旅行記:旧大社駅・稲佐の浜・出雲阿国の墓所

2013年01月07日 | 史跡
1月5日、出雲に行ってきましたので、その訪問記を書きます。

朝7時頃出雲市に入り、最初に目についたのが旧大社駅でした。

出雲大社に参拝する方々のために作られた、出雲大社のイメージの駅舎です。
残念ながら配線となったために駅舎としての役目を終えましたが、地元の方の強い希望で残されたそうです。

鉄道ファンの方も喜びそうな雰囲気でした。


続いて、海に出て稲佐の浜に到着しました。

大国主命が国譲りを行ったとされている場所です。
まだ寒い時間でしたし、山には行きも残っていたために、ここから見える風景も寒そうでした。


そして稲佐の浜から出雲大社までは出雲阿国の史跡もあります。
阿国終焉の地

阿国の墓

出雲から京に出て、歌舞伎を始めた出雲阿国が、どのような気持ちで出雲に戻り生涯を閉じたのか?
とても興味深い場所でした。
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150年前:政局京都へ(1月5日)

2013年01月05日 | 何の日?
文久3年(1863)1月5日、一橋慶喜が東本願寺に入りました。

この時、将軍後見職だった慶喜は、将軍徳川家茂の上洛に先だって京都での準備のために、前月15日に江戸を出発し京都に入ったのです。
これにより、将軍や老中などの旧体制の幕府組織は江戸に残ったままですが、将軍貢献職や京都守護職・幕府政務総裁といった幕政改革のために組織された人々が京都に集まることになったのです。

これは、政局が江戸ではなく京都で動くようになったことを意味していて、江戸は政治の中心から外れてしまうのです。
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