彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『日米修好通商条約締結150年記念式典』その2

2008年07月29日 | 講演
【記念講演】
○ミシガン州立大学連合日本センター所長 ポール・レーガン
『アメリカから見た井伊直弼公について』
 アメリカ合衆国初代駐日大使タウンゼント・ハリスは、1857年11月30日月曜日の日記に次のように記しています。
「今日、私は江戸の入る。私の人生において非常に重大な出来事である。さらに日本の歴史において非常に重大な出来事である。
 私は江戸に入る事を許された最初の外交代表となるのだ。たとえ私の交渉が失敗に終わっても成功しても、これは長らく人々の記憶に残る偉大な事実となる。
 少なくともこの特異な日本の国民に“外交権”というものを知らしめるのであるから」
 有能なビジネスマンでもあり、またニューヨークの教育局長でもあったタウンゼント・ハリスはペリー提督が1853年から54年に開始した計画をやり遂げたのでした。
 公式の遠征記録によりますと、ペリー遠征の目的は「友好と通商に関する条約を締結し両国の交渉において相互に遵守すべき規則を定める事」でした。
 ペリー提督の来訪によって促進された出来事は、タウンゼント・ハリスが考えたように活気的な出来事であっただけではなく、日本のそれまでの社会的・政治的・文化的な慣行を大きく変えるものでありました。その影響は21世紀の今日になってもまだ残っています。
 1853年にペリー提督が日本の沖合いに現れたわけですが、それ以前にも食糧などの補給を得ようとする外国船は存在していました。しかし17世紀以降徳川幕府の下で厳格でそして選択的な鎖国政策が実施されてきました。唯一の例外としては、長崎出島においてオランダとの制限的な貿易が許されていました。
 もちろん中国や朝鮮から頻繁に使節団が来訪していました。中国も長崎での貿易を求めていたわけですが、しかしこれらの貿易は厳しく制限されまた形式的なものでした。
 18世紀後半から19世紀のかけて、ロシアの船乗りの冒険家やロシアンアメリカカンパニー(露米会社)の代表者ニコライ・レザノフとの出会いもありましたが、いずれの場合もこれら外国船は日本の沿岸から排除されています。
 数名の藩主が日本沿岸や蝦夷地(北海道)の警備に関する懸念を持ち、1825年、英国船が補給を目的に長崎を襲った事件(1808年のフェートン号事件)を受けて幕府(水野忠邦)は「必要な場合は躊躇せず外国船を追い払うべし」という法令を発布するにいたりました。史家はこれを『無二念打払令(異国船打払令)』と呼んでいます。
 アメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンは対中貿易の開始を睨んで、1834年にイギリスに押し付けた条約による交易の利益を保護した後に、極力日本との交易を開始するように海軍司令官に指示を出しました。

 どうしてアジア、そして日本に感心が向けられたのでしょうか?
 貿易が非常に大きな要因であった事は間違いありません。またアメリカ合衆国は人口や領土を拡大しようとしていました。1858年にペンシルバニア州で石油が発見されましたが、それまでは捕鯨が産業に必要な富や源泉を生み出す資源でした。西部への領土拡大・太平洋側へのマニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)に導かれた進出は領土の拡大のために進められたのですが、それに伴って中国や太平洋のその他の地域を目指す船乗りや商人たちにとって、水や石炭そしてそれ以外の必需品の調達において日本が重要な存在になってきたのです。
 そして「日本政府との関係を樹立するための武力行使を行わない」という命令を受けて、1846年アメリカ海軍のジェームズ・ビドル提督が初めて江戸湾に来航しました。ビドル提督はしきたりに従って長崎に行くように説明を受け提督は立ち去りました。
 しかしアメリカ国内ではその後も努力が続けられ、1849年にニューヨークの実業家アーロン・ヘイト・パーマーは官民の双方からアジアとの交易促進に関する支持を得ようとしていました。ここでパーマーは日本との交易関係を持つ事の利益を具体的に次のように説明したのです。
「今こそ我々自身の対外貿易を賢明に推し進めねばならない。それは促進し拡大し保護されねばならない。そしてそんな対外貿易を有利に進めるためにアメリカの政治家は諸外国の生産・資源・地理的・政治的そして商業的な統計や事実に精通する必要がある」
 パーマー自身も日本の歴史や文化に精通していたと思われます。パーマーは日本について書いています。
「孤立して神秘的な国・日本は、1637年以来、中国とオランダを除く全ての諸外国との交流や交易を断ってきたが、今は止むを得ず通商の波に呑まれることになるであろう。そして日本列島は東洋においてのイギリスになるであろう。
 日本人は活力に溢れ活き活きとした国民である、そして忠義に基く名誉を重んじる国民である」
パーマーは(アメリカ政府は)滞りなく必要に応じて支援を提供できるように、将軍宛てに政府の書状を送るように提案をしているのです。将軍・幕府・天皇に対し「アメリカ人が望んでいるのは、平和的でお互いに利益になるような商業的な関係である」ということを強調したいと言っているのです。
「征服・植民地化の意図が無い事を明確にする様に」とも進言しているのです。

 それから数年後の1853年に幕府がペリーを認めるにはどの様な変化があったのでしょうか? それは世界中で起こっていました。19世紀の世界秩序は「自由貿易」もしくは「自由貿易の帝国主義」と呼ばれる出来事によって変わってきていたのでした。

 幕府の権威の低下をもたらした原因をお話すると、不安定な状況をもたらした内外の要因です。日本語で言うと“内憂外患”というもので、国内の混乱と外国からの危険になります。興味深いことに中国の歴史では“内憂外患”は王朝の衰退をもらたすようなトラブルを意味しています。
 これらを考えると1853年のペリー提督来航に単を発する出来事の重大性が理解できるようになるでしょう。
 1830年代までに徳川幕府は、貨幣改定や服装・振舞いの贅沢禁止令など様々な改革を行いました。これらの政策を研究した歴史家は殆どの場合「これらは本当の原因を解決するのではなく対処療法的なものであった」と考えています。
ここには3つの要素がありました。
1.忠義の定義
 その者が仕える大名や将軍や天皇に対し忠実であるのか? という問題ですがこれは『水戸学』の焦点でもありました。天皇の支配を強調する立場でもあったのですが、この問題のユニークな回答が藤田幽谷によって提案されました。
 幽谷は「将軍が皇室を崇めれば、全ての大名は将軍を尊敬する。大名が将軍を尊敬すれば、幕府の重鎮や役人も大名を大切にするであろう。このようにして高位の者も低位の者もお互い擁護しあうようになり国も調和する」と考えたのでした。
2.権力の変化
 徳川時代の後期には社会的・経済的・政治的な権力の大きな再分配や変化がありました。これが最も多く見て取れたのは、侍や農民が貧困化したのに対し、都市商人の多くが繁栄を享受したという事。
 このような変化によって理想的と思われた身分間の伝統が大きな変化をしてきました。
3.経済の実態と経済政策
 農業社会であった日本が、徳川政策の自然の既決によって変化します。すなわち城下町の発展です。そして参勤交代による城下町の経済効果、つまり参勤交代の武士たちを相手にしたサービスが、非常に複雑で微妙な経済効果を城下町に誕生させたのです。

 この様な国内問題もあって1840年代になると日本は最早世界で起こっているような諸問題に無関心では居られなくなりました。中国では1838年にアヘン戦争が起こり、イギリスの軍事的な成功や新しい征服者の経済的利益を保証するような条約(1842年南京条約など)によって新しい国際交流の規則、交易の決まりが生まれたのです。
 これは不平等条約が基になっています。すなわち“治外法権”“関税自主権”それ以外の国家主権の損失に繋がるような要求を含む条項のシステムです。

 1844年、オランダのウィリアム二世から将軍宛てに書簡が届きました。
 この中でウィリアム二世は日本を脅かす危険を理解する事の必要性に言及し「遠く離れていても蒸気船はやって来る。この様な動向に無関心でいると他国から敵意を向けられる恐れがあります。日本の天皇が定めた法律により外国人との交易が厳しく制限されている事は承知しています。
 しかし老子が言っています『賢者が王位に着けば平和が守られるが、古い法律が厳しく平和を損なう恐れがあるなら賢者はそれを緩和せねばならない』と」
 このウィリアムの助言を読むと、井伊直弼の役割はどのようなものであったのでしょうか? またペリー提督の来航に伴って井伊直弼がどの様な解釈を行ったか?について考えずにはいられません。
 1857年ペリーはアメリカ大統領から日本開国の為に「どの国も皆、他の国との交流の度合いを自国で定める権利を有している。しかしこの権利の行使の根拠となる法律は同時にその国に対してしかるべき義務をも課すことになる、海難に遭った者を救助し上陸させる。その事はどの国にとっても責務である。この様な不幸な者たちを残虐な犯罪者の如く扱い、しかもそれを習慣的・組織的に漂難者の命を無視するような事があればその国には人類共通の敵とみなさざるを得ない」という命令を受けていました。
 日本の鎖国令に対するアメリカや西洋諸国の立場は明確に解釈することができます。日本は世界的に孤立はしていましたが、世界で起こったことに無関心であった訳ではありません。蘭学という形で世界を学ぼうとする活発な計画が存在いました。
 出島のオランダ人が西洋諸国の学問を伝える窓口となっていました。宗教に触れない限り武器・生物・化学・天文学やその他の化学的な発見や情報を習得することは幕府によっては強く奨励されていました。有名な言葉ですが「西洋の芸、東洋の道徳」とも言われました。
 各藩でも薩摩藩や水戸藩では大砲や他の武器を製造する為の工場が建設されています。幕府と大名の間には沿岸防衛システムの改善や、若い侍への新しい武器や戦術の提供に関して協力関係も存在していました。備え・技術・軍備の必要性はペリー来航と共に大きな高まりを見せることとなりました。
 日本の指導者の大きな関心は、諸外国に対抗できるのはいつなのか?何年後なのか?ということでした。2.3年で開発できるだろう。という誤った認識を持ちました。実際にはそんな余裕は殆ど残されていなかったのです。
 ペリーの流儀もユニークなものでした。ペリーはビドル提督とは違って武力を誇示する事を最初から決めていました。彼は日記に「文明国が、文明国に対して示すべき儀礼をお願い事として要請するのではなく、当然の権利として強く要求する」と決意を記しています。更に「私が断固強固に主張すればするほど、彼らは私に対してより深い敬意を払う事になるだろう」とも記しています。
 ペリーはこの使命を成功させる決意を持っていました、そして天皇前で横柄な態度を示すことのリスクも知っていました。そしてアメリカと日本におけるこの条約が結ばれれば、これは他の列強に対して最初の洗礼を提供しえるものであることも知っていたのです。進歩的な通商条約に向けた出発点になる事も充分知っていました。
 ペリーは旧来の制限政策を打破する目的を達成しました。通商条約の締結はタウンゼント・ハリスの重大な仕事となりましたが、日本の指導者の欠如により日本は危機的状況にありました。
 ハリスは2年以内に日本人が、ハリス自身が考えた通商条約を提供するつもりでいました。1857年にハリスは既に条約の条件をまとめていました。ハリスの考えは主にペリーと同じ様なものでしたが、ハリスのほうが有利な点が幾つかありました。ハリスは平和的な条約調印をモットーとしていたのです。
 関係者や幕府の努力を尊重しながら、幕府内の緊張を緩和することも可能と考えたのです。
 幕府に外交要求をするとついに「実は天皇の容認が必要である」と聞かされてハリスは愕然とします。そのような案件は将軍と指導者で充分と考えていたハリスは、交渉相手は老中でよいと考えていたのですが、その老中が次々と辞職に追い込まれていきました。
 1858年、そのような情勢の中で井伊直弼が大老に就任しました。国家の危機の意味付けの大老です。幕府の威信と権威を守り日本人の品位を守る為に必要な処置を敢えて断行することを井伊直弼は決定しました。そして直ちに『日米修好通商条約』締結を承認したのです。
 井伊家は徳川家の譜代大名の筆頭格として幕府に仕えてきました。井伊家は強力な外様大名や水戸家の圧力に常に対抗してきました。この圧力は利害の衝突という観点から政治的・思想的に解釈を行う事が可能でしょう。
 井伊家の関心は、中央政府の権威と支配を保護することであったと考えます。外様大名は事ある毎に中央政府の権力を弱め、反対に自分たちの力を高めて自分たちの利益を促進しようとしました。これが原因で徳川家定が1858年に世を去って以来争いが頻発したのです。この不幸な出来事によって事態は困窮を極めました。そんな中で井伊直弼は条約調印を進めることとなったのです。
 井伊直弼はこの争いをどの様に考えどの様な処置を執ったのでしょう? 海外との戦争を要求した水戸藩主の徳川斉昭とは対照的に、井伊直弼は1853年の建白書に「現在の状況においてはこれまでのように単に鎖国を主張するだけで国家の安全と平和は維持できない。我々は17世紀初頭に存在した公認の交易船制度を復活させる必要があると考える。我々はもはや祖国を鎖国に留める祖法だけを主張する時代ではない。新たな蒸気船を建造し、国民は直ちに西洋風の訓練を開始すれば西洋人に引けを取るものではない」と主張しています。
 またこの前文を読むと、外国人に対して国の防衛を向上させる必要があることを力説させる直弼の雄弁を見て取れます。しかし井伊直弼は攘夷派が訴えるような感情的な要素は持ち合わせていませんでした。直弼は文化人であり深い学者でありました。日本が引き込まれた政治の世界に関する現実主義を冷静に持ち続けていたのです。
更に「この様な国情において、恒久的な問題を生じさせる事なく我が国の沿岸を守ろうとすれば、それが例え祖法を全面的または部分的に変更することを必要とするのであってもそれは祖先の意思に反するものではないと考える。したがって幕府が早急に行わなければならない事は、国民の不安をしかるべき順序で取り除き、秩序を回復する事である」と書き、国内における意見の相違・派閥主義などよりも、国家としての外交・相互理解そして協力が重要であり、日本の保護と敢然性が大切であると強く訴えたのです。
 直弼はこの先の2年間と人生の最後の数年において大きな責任を担うわけですが、国内国外双方の危機的状況をますます深く理解する様になっていくのです。それが、より大きなものに身を投じ、自身を犠牲をする事の信実を生きたいという現実的な理解であろうと考えます。
 したがって今こそ、井伊直弼の人生・学問・政治における業績を見直す時は他にはありません。個人的野望で国家権力に就いたのではありません。この業績と日本の重大な時期と外交史を更に研究する事で我々は人間の美徳を高めて具現した“井伊直弼”という人物を更に知ることができるのではないでしょうか?

【記念品贈呈】
 彦根市長より駐日米国大使館に記念品を贈呈されました。
 彦根仏壇の伝統工芸師による蒔絵(おしどりと撫子の花)の額(写真参照)

【開催市長お礼の言葉】
○彦根市長 獅山 向洋さん
 この『井伊直弼と開国150年祭』につきましては、彦根市民としても色々な思いを込めて開催しております。それは、まず過去は過去としてやはりこれからの50年100年150年の未来に向けてアメリカ合衆国及びオランダ・ロシア・イギリス・フランスの開国5カ国や全世界の皆さんとより一層平和で仲良く暮らしていきたい。というのが第一の念願です。
 また、やはり150年前の井伊直弼公の念願でもあったと思います。直弼公の念願を150年経った今、さらに広げていくのが私たちの責務ではないかと思うのです。
 それと、井伊直弼公の本当に正しい業績を日本のみならず全世界の方々に知っていただきたい。これが私の念願です。本日の記念式典でその念願が一歩でも進んだのではないかと嬉しく思っている次第です。
 話は変わりますが、只今HNKの大河ドラマにおきまして『篤姫』が放映中です。正直申しますと毎週日曜日の8時になると彦根市民は「今日はどの様な井伊直弼公が描かれるのか?という期待と不安に満ちています」これはあくまでドラマと思いながらも、地元としてはハラハラしてこの日を待っている訳です。偶然か、あるいはNHKの意図か?ちょうど『日米修好通商条約』締結150年目にこの井伊直弼が出てくるようなドラマが放映されているということも、彦根市民にとっては一つの追い風ではないかと思っている次第です。
 今年、また来年も『井伊直弼と開国150年祭』を続けさせていただきまして、井伊直弼公が正しく評価されるように頑張って参りたいと思っています。

『日米修好通商条約締結150年記念式典』その1

2008年07月29日 | 講演
写真は彦根宣言調印式


平成20年7月29日
日米修好通商条約が締結された安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)から150年目の日にちなんで、『日米修好通商条約締結150年記念式典』が開催されました。
 彦根では前日の大雨を再び予感させるかのような厚い雲が空を覆う中、彦根港には琵琶湖遊覧船「ビアンカ」が、150年前に日米修好通商条約がアメリカ軍艦ポーハタン号船上で締結された故事に習い式典の舞台となるべく停泊していたのです。

午前9時半頃
 関係者から極度の緊張が走ります。
 この式典に際し、高円宮久子妃殿下ならびに承子王女殿下がお乗りになられたお車がビアンカ横に到着。両殿下はにこやかに船中へと歩んでいかれました。

 懸念されていた雨は一時期船の窓を濡らしましたがやがて止み、午前10時よりビアンカ船内において式典が始まったのです。


【実行委員会あいさつ】
○井伊直弼と開国150年祭実行委員会会長 北村昌造さん
 今から150年前の1858年7月29日、アメリカ合衆国側のタウンゼント・ハリス駐日総領事と日本側の下田奉行井上清直ならびに海防掛目付岩瀬忠震の間で日米修好通商条約が締結されています。
 こういった事から本日の式典を船上で挙行致しました。皆様にはポーハタン号での船上の調印の思いを馳せ、調印の責任者であった直弼公を、また条約調印からの150年を振り返る機会としていただきたいと思います。
 日本の混乱を極めた幕末にあって開国へと導き、また偉大な政治家であり文化人でもあった直弼公。私たちはその遺業を継承し、それを契機としてその成果を正しく次世代へ承継する為に、直弼公が大老に就任され150年を迎えた本年6月4日から桜田門外で受難された150年となる2010年3月までを期間とし『井伊直弼と開国150年祭』を開催致しております。
 開国150年祭を直弼公の国造りへの想いを引き継ぎ、彦根市が一掃活力溢れる町へと飛躍する事に繋がるものと確信しております。皆様におかれましてはどうか150年祭の成功に向けご支援・ご協力を賜りますように重ねてお礼申し上げます。
 日米両国の更なる友好関係の発展に努めることを誓い開会の挨拶と致します。

【井伊家あいさつ】
○井伊家第18代当主 井伊 直岳さん
 本日はまさに日米修好通商条約締結より150年目にあたる訳ですが、日米修好通商条約14ヶ条が調印されたのは午後3時の事とみられています。幕府全権である井上清直と岩瀬忠震の両名は前日の夜にもハリスと対談をしておりました、そして当日の午前中にはハリスとの対談を踏まえて、生みの苦しみと申しますか・・・大老井伊直弼を始めとする幕府首脳がギリギリの判断を迫られていました。そして方針が決められ幕府全権の両名(井上・岩瀬)は午後に再びハリスの許へ行き、ついにポーハタン号の船上で調印する事になったのです。
 しかし「7月29日の午後3時に調印を致しましょう」という段取りがあったわけではなく、ギリギリまで対策を練り、相手と交渉した結果、午後3時という時間になったのでしょう。
 この条約の調印は日本が開国へと大きな梶を切る歴史の分岐点へとなる大きな出来事です。未来の私たちから見れば「画期的な」あるいは「そうすべきであった」という評価もできる訳ですが、同時代を生きる人々にとっては先の見えない航海に向かうようなものであったと思います。それに対して必死になって最善策を皆が考えた。そんな時代だったのだと思います。
 無事条約が調印された時、ポーハタン号の船上では日米両国の国旗が掲げられ21発の祝砲が鳴り響いたという事です。なお『日米修好通商条約』の原本は歴史の証人として今なお外務省の外交資料館に保管され平成9年6月に国の重要文化財に指定されています。
 本日このような式典を挙行する事ができ、日本とアメリカ合衆国が今後益々友好関係を発展させ日米両国の枠だけではなく地球規模の貢献ができる事を願うばかりであります。

【高円宮妃殿下 おことば】
○高円宮久子妃殿下
 本日ここに日米修好通商条約締結150年の記念式典が挙行され、駐日アメリカ合衆国大使館公使をはじめ多数の関係の出席を得て開催され、私どもも出席できます事を大変嬉しく思います。
 今から150年前のこの日にポーハタン号船上で彦根藩の藩主であり徳川幕府の大老であった井伊直弼の責任の下、我が国が諸外国との交易・交流の門戸を開く契機となった日米修好通商条約が調印されました。郷土の生んだ先人を偲びながらその業績を検証し、併せてこれを縁として次代への飛躍を試みる事は地域の発展を図る上で意義深い事と存します。
 日本とアメリカ合衆国との関係は、近年ますます緊密になって参りました。ここ彦根にミシガン州立大学連合の日本センターが設けられているように、両国国民の交流が地方自治体段階でも活発になってきています。本日の式典をはじめ『井伊直弼と開国150年祭』が彦根市そして地域の発展に繋がる事を心より期待しております。
 日米修好通商条約締結150年となる本年、彦根市において行われている様々な行事が両国国民の相互理解と友好関係の増進に資するものとなる事を心より願って式典に寄せる私の言葉と致します。

【来賓あいさつ】
○駐日米国大使館公使 ロナルド・J・ポストさん
 まず日本人とアメリカ人が最初に出会った事を想像して下さい。日本人はアメリカの艦隊の偉大さにうたれました。そしてまた西洋諸国が中国に侵入している事も知っておりました。アメリカ人は逆に、日本人がどういう人たちなのかを知りません。
 身体的な違いもありました服装も違いました。また振舞いや言葉も違ったわけです。
 しかしながら両者の関係は続きました。タウンゼント・ハリスそして井伊直弼が修好通商条約に署名を到るまでになったのです。それが今日より150年前のことでした。
 日本人がアメリカの艦隊を見た時、それを恐れた事は間違いないと思います。そしてまた日本人は「アメリカ人が野蛮で非文明的だ」と感じたに違いありません。また逆にアメリカ人は「自分たちの方が技術もあるし、そして様々な国での経験もあるので日本人より優れている」と感じたに違いありません。しかしながら日本における未知の物はアメリカ人にとっては恐ろしい物であったと思います。
 今日我々は違う人に会った時にどういう風に思うでしょうか? 自分たちの定義や基準に合わない人たち、あるいは自分たちの言語を話さない人に会ったら、どういう反応をするでしょうか?
 用心深くなると思いますし、疑いを持って見る事もあると思います。そこでこの2つの国民が最初に遭遇した所を想像していただきたいと思います。
 それにも関わらず1860年代までにタウンゼント・ハリスは日本の相手を「友人」と呼んでいました。最初に出会ってから僅か数年後の事です。
 ハリスと井伊直弼が達成した事は、今の我々にとっても大きな意味のある事です。日米修好通商条約の署名により我々2国の将来の道が定められたと言っても良いと思います。
 その条約を「不平等条約だ」と言う人も居るかもしれません。しかしこれは現実に沿った条約であったと思います。今でも我々は違った国民ですが我々は「友人」で同盟関係は強みです。そしてお互いが貢献しています。
 アメリカと日本は民主主義大国であり2大経済大国であります。双方が協力し合ってグローバルに民主主義、そして世界の繁栄を推し進めています。両国はお互いに学び合い、お互いの文化を吸収しあっています。関係は強く深いものがあります。
 そして我々は次の世代の人々に対し(井伊直弼とタウンゼント・ハリスが行ったような)同じ様な努力をしていただきたいと思っています。それは“両国の関係の歴史を学びお互いの歴史を学習する事である”と思います。
 そのようにする事によって「色々な困難があったけれどもお互いの利益、双方の関心事項を追求し、自分たち自身の利害と一致させてきた歴史」を理解できると思います。協力する事によってたくさんの事が達成できると思います。
 21世紀には多くの課題があります、気候変動・環境劣化・不平等・疾病の蔓延・資源の枯渇といった問題が山積しています。この問題は1国で解決できるものではなくお互いに協力する必要があります。
 日本とアメリカは協力して世界に「両国が協力すればこうした問題が解決できるのだ」との見本を見せるべきです。150年前に井伊直弼とタウンゼント・ハリスが築いた関係をさらに進展させていきたいと思います。
 我々は両国の利害だけではなくて人類全体の共通の利益を追求していく事ができると思います。私は自信を持ってそれができると思っています。
 私の書いたノートには無かったのですが、琵琶湖を見ますと私の故郷(ミシガン州)を思い出します。そしてこの地域が私のミシガン州と良い関係を持っている事を誇りに思います。
 琵琶湖は世界でも偉大な湖の一つです。ミシガンもやはり五大湖の地域であります。今回私をお招きいただきありがとうございました。

○外務大臣政務官 宇野 治さん
 私は滋賀県選出の国会議員としてまた外務大臣政務官としてこの場でご挨拶ができて嬉しく思っています。
 本日は高村正彦外務大臣から預りましたメッセージを代読いたします。
「今からちょうど150年前の今日、日米修好通商条約が調印されました。これにより両国の外交・通商関係が正式に樹立され、日米関係の歴史の幕が切って落とされたわけであります。
 彦根藩主でありました江戸幕府の大老井伊直弼の多大な尽力により成し遂げられました日米修好通商条約締結は、日本が鎖国体制に終止符を打ち、世界に外交デビューしたという点で外交上重要な出来事の一つであったと言えます。
 その後、様々な分野での交流を基礎として発展してきた日米関係は現在我が国にとって最も重要な関係であります。両国の良好な関係は人と人との繋がりの上に成り立っております。
 条約の成果を検証し、井伊直弼の生涯とその功績を称える事を目的とした今回の式典は日米両国が150年かけてどの様にして交流を深めてきたかを振り返り今後の日米間の交流を考える上でよい機会であると考えております」

○滋賀県副知事 田口 宇一郎さん
 嘉田由紀子滋賀県知事から預りましたメッセージを代読させていただきます。
「1853年のペリー提督の来航は、日本の歴史上“黒船来航”としてよく知られ、また日本の開国への大きな契機となった事は申し上げるまでもありません。
 翌年横浜で日米和親条約が締結され、さらに1858年、今から150年前の本日7月29日に日米修好通商条約が締結され、5つの港の開港と通商について調印がなされました。
 時の大老は第13代藩主井伊直弼でありました。井伊大老の当時の心中に思いを巡らせますとき、時代は幕末の激動期にあり日本の将来を憂い当時欧米諸国との外交に心を砕いたご苦労は並大抵のものではなかったであろうと推察せずにはおられません。これが桜田門外の変という悲劇に繋がりましたが、ここから日本は近代国家への道を歩み続ける事になりました。
 本日ここに開国に関わりのある日米関係者の方々が一堂に会され、これまでの150年を振り返り日米の交易・交流が開始されることとなった歴史的出発点とその後の足取りを確かめあうことは世界が地球規模の環境問題・食糧問題など共通の課題を前に、各々利害を超えて協力していかなければならない時代にあって、大変有意義なものと考えます。
 滋賀県といたしましても今年はミシガン州と姉妹友好提携をして40年という記念すべき年であり、さらにミシガン州立連合日本センターが設立されて20年という年でもあります。
ミシガンセンターの方々もこの事業に参画され一緒に活動していただいている事を、大変嬉しく思っております。このような地元の皆様とミシガンセンターとの連携した取り組みは貴重なネットワークであり今後とも一層の発展を期待しております」

○ペリー提督の遠戚 ドナルド・E・ソフ・ディヴェイニーさん
 本日は私にとりましてこの上なく光栄な一日です。
 井伊直弼大老についてのお話ですが、私は昨日18代当主の井伊直岳様にお会いさせていただきました。彦根に来訪させていただき実は直弼様もそこにいらした訳です。
 昨日の嵐を覚えていらっしゃいますでしょうか? 嵐の風と共に直弼大老の魂が私の所に立ち戻って来られました。
 大津駅からのこと。そこには座っている小さな男の子が居て、その子はすぐに立ち上がりご老人に席を譲った姿を目にしたのです。私はまた深い感銘を覚えました。私はその男の子の頭を撫でました、そして「君こそここへお座り」と言いました。
 するとその男の子に「いえ、いいです。どうぞお座りください」と英語で言われてしまいました。なんとこの可愛い日本の男の子は英語を私にしゃべってくれてしかも私に席を譲ってくれたのです。
 そこで「何才ですか?」と尋ねると「13才です」との答えが返ってきました。「どこに住んでいるのですか?」と尋ねると「長浜です」と。そこで「どこへ行ってきたのですか?」と尋ねると「大阪へ行ってきました、サマースクールからの帰りです」との会話もできました。私は感動を受けました。
 彦根に到着しました。私は荷物を持っていました。
 私は高齢ですので重い荷物を引きずっていますと、その男の子が手伝ってエレベーターまで運んでくれました。私を迎えてくれた方にその男の子を紹介しようと思った途端にもう消えていました。本当はもっと褒めてあげたかったのに、黙って去って行ったのです。
 これは“一期一会”を信仰なさった井伊直弼公のスピリットそのものであります。
 “一期一会”とは人として何を行動すべきか? それは昨日の男の子がしてくれました。それはなぜか? 井伊直弼公が嵐と共にその空間にいらして下さったからです。
 私はロードアイランドから参りました。そしてもう一度井伊家に敬意を表したいと思います。
 ロードアイランド、これはミシガン州と同じ様に美しい州であります。そちらで私が育ちました。50州あるアメリカの中で最も小さな州です。ペリー提督もロードアイランドで産まれていらっしゃいます。
 ペリー提督は私の曽祖父の従兄弟です、曽祖父は植民地時代にロードアイランドの総督でした。ですから私の家系を辿りますと、アメリカ独立戦争前まで遡る事ができます。
 日本に黒船が来航してから現在まで交流があります、しかし井伊直弼公の事を今の海軍の人たちでは知らない人が居ります。ですから私はロードアイランドで「ペリー提督が貢献したように、井伊直弼がいかに貢献したか」を啓蒙活動しています。
 アメリカはこの時期、奴隷制度に終止符を打つべく南北戦争へと進む混乱の時期でありました。当時の大統領がエイブラハム・リンカーンであり多くの人がリンカーンを憎んでいました。現代ではリンカーンというのは最も愛されている大統領ですので、これは我々の驚きでした。
 しかし、南北戦争という内戦に入り結果としてリンカーン大統領は憎しみのあまり暗殺されてしまうのです、井伊直弼もそうでした。リンカーンも直弼もビジョンをお持ちでした。国のことを考え、国が第一義でした。
 アメリカ合衆国は若い国で「将来にとって最も大きなチャンスを持つのは若い国である」と自負していました。フランス・イギリスなどの列強の中で新しい国が更にビジョンを進めるには大胆な決断が必要でした。井伊直弼も同じだったのです。
 軍事力のみならず通商による力、しかしここで打ち払う事にしても軍事力(国防力)が必要であるということに考察を馳せたのが井伊直弼です。ですから現在でも日本が超大国の一国となり経済大国にもなられたのは井伊直弼のビジョンがあってのことです。
 例えば、日清戦争・日露戦争でも日本が勝利を収めた背景には井伊直弼の国防力を高めたビジョンのなせる所以です。
 私は陸軍に所属していますが、その初めの地が大津です。54年前(1954)です。かなりの高齢となりましたが今でもまだ陸軍に身を置く事ができます。アメリカの一兵卒として本日は光栄の極みです。
 重要な事が起こった場合、井伊直弼は静かに座して瞑想しそして茶を点てる。盆栽の剪定にも専心する。それらの事から我々は人間の洗練の範を学ぶことができる。と伺いました。
お盆の時期が近付いて参りました。様々な先祖の霊がこの地に戻ってくるといいます。現当主の井伊直岳さまにも申し上げたのですが、2058年には200周年になります200周年にはぜひ私の魂を呼んで頂きたいと思います。

【彦根宣言署名】
 ドナルド・E・ソフ・ディヴェイニーさんと井伊直岳さんによる彦根宣言の署名が行われました。
○彦根宣言の内容
今日2008年7月29日は、日米修好通商条約の締結から150年となります
混迷を極めた幕末にあって、日本の将来を見据えて開国へと導いた井伊直弼
偉大な政治家であり、優れた文化人であった井伊直弼
直弼の国造りへの思いは、今も私たちの心の中に引き継がれています
私たちは本日の式典の出席者を代表し、直弼が求め続けた一期一会の心を大切にしながら、新たな視点で直弼像をこの彦根から発信する事
そして直弼の遺業を時代に語り継ぐ事
更に日米両国の友好関係の発展に努めていく事を誓い
本日この場の宣言と致します


(その2へ続く)

『開国の時代と彦根藩』

2008年07月26日 | 博物館展示
7月26日~9月1日まで彦根城博物館では【テーマ展 シリーズ「直弼発見!」 巻の2『開国の時代と彦根藩』】の展示が行われています。


これに際して、博物館学芸員さんによるギャラリートークが行われましたので、その内容の一部をご紹介します。

7月29日には「井伊直弼と開国150年祭」のイベントとして日米修好通商条約締結150年記念式典が行われますが博物館でも『日米修好通商条約』に関係するものを展示しています。
しかしこの調印の時の大老はもちろん井伊直弼ですが、それ以外に彦根が深く関わる事は殆どありませんので、それ以外に彦根藩が開国に大きく関わった点がありそちらをメインに展示される事となりました。

今回の展示をはじめ彦根藩の黒船関連の資料でよく目にする物が『ペリー浦賀来航図』です。ここには彦根藩の侍が描かれていて、それも1人や2人ではありません。
ペリー来航時には彦根藩士は軍勢として約2000人(2168人とも・・・)が現地で警備をして居て、その様子が描かれているのです。

ではなぜ浦賀に彦根藩士が居たのか?という事ですが・・・
彦根藩は譜代の筆頭といわれますが、徳川家の中でも赤備えで言われる勇猛な軍勢を控えておいて、徳川の軍事を守る家だったからです。
例えば、京都に西国にと軍勢を派遣できるようになっていました。

幕末にはペリー来航前に既に何度も外国船が来航していて、ペリーがやって来る事も幕府は事前に知っていました。ですので幕府としては将軍に居る江戸を守る為に江戸湾の入り口となる三浦半島や房総半島に“軍事を守る家”である彦根藩に警備を命じたのでした。これは弘化4年(1847)の事でした。
時の彦根藩主は12代の井伊直亮。
この地域は相模国でこれを相州というので、この警備の事を“相州警備(相州警衛)”との言い方をしています。
彦根藩は人数的にも費用的に長期間の警備で様々な苦労をしたといえるのです。

特に現地で何をするかといえば・・・
異国船は大きな大砲を積んでやってきますので、日本としても大砲を準備して沿岸部の岬ごとに砲台を築きました。大砲はここに設置します。
東京に「お台場」が地名として残っていますが、これは元々「大砲を設置する場所」という意味で、お台場と呼ばれる物は神奈川県から千葉県の岬ごとにと言っていいほどあったのです。

当時、この警備を任された藩が彦根藩を含めて4藩が担当しました。彦根以外では会津藩・川越藩・忍藩、いずれも徳川の軍事を守る家としてこの地域の警備に就いたのです。


『ペリー浦賀来航図』は2方向から描かれた2枚の絵が存在しますが、いずれも井伊家の赤備えが細かく描かれています。赤備えといえば甲冑が有名ですがペリー来航の時に彦根藩士たちは甲冑は着ていませんでしたが陣羽織を着用していて、その陣羽織が茜色だったのです。またこの時の彦根藩の警備には2部隊が居て、この絵にも前列と後列の2部隊の存在が確認できます。

展示室の後半の展示では、大砲の技術を基に西洋流の大砲を作るために、西洋の学問や技術を江戸中期から徐々に学び始めていて、その関係の辞書は翻訳書、あるいは大砲を作る時の型紙なども見る事ができます。
こういった外国の学問をドンドン学ぶ事は、皮肉ですが日本の国の中として鎖国している状態では無くなります。そうした時に世の中としては開国の方向に向かっていく・・・
もちろんペリーが来航してかなり強引に開国を迫りましたが、時代の流れとして日本の国としては鎖国から開国に動いていたのではないか?と展示物から読み取る事ができると思います。


《展示物(全21点)の一部》
『江戸幕府老中奉書』
井伊直亮が老中より相模警備を命じられた書状
『三崎陣屋絵図』
現地で藩士が駐屯した拠点の図面。陣屋は“三崎”ともう一つ“上宮田”があり、それぞれ藩士数十人、足軽まで含むと2、300人近い人数が駐屯していました。
『千駄崎岬御台場図』『安房崎御台場図』
彦根藩だけで江戸湾に7ヶ所近い砲台場を築いていて、そんな砲台場の絵図
『風聞書写』
嘉永元年(1848)の彦根藩の警備の実態を紹介した資料
彦根藩は海が無く沿岸警備には慣れていないなどの警備での芳しくない様子の分析が書かれているが、幕府の大砲担当役人から技術を学ぶなどの努力を行う意欲も書かれている。
『直弼公相州御備場巡見私記』
今回は直弼関係の展示が少ないのですが、そんな数少ない直弼が関わる資料。
直弼が藩主になった翌年である嘉永4年3月に現地を巡見した記録。

『ペリー浦賀来航図』
彦根での黒船関係の資料ではよく目にするので大きな物だと思われがちですが、実は小さい絵です。別の方向から描かれた2枚の絵に彦根藩士が描かれています。
この時の現地での交渉役は宇津木六之丞で、宇津木は部隊の先頭に描かれ交渉役の仕事をしていた事実が確認できます。
ペリーの記録を紐解くと軍艦から望遠鏡で海岸を見ると、赤い服を着て警備をしていた部隊の事が記されているので、ペリーが彦根藩士を見ていた事がわかります。
『異船渡来につき明細書』
宇津木が記した記録で、ペリー来航や久里浜上陸の様子が書かれていて。展示ではこの久里浜上陸があった6月9日の記述が見れます。
同じページの後ろの方に、ペリーが上陸した時に引き連れた楽奏隊の音を聴き「はなはだ卑しい」と記されている事が面白いです。
『安政の5か国条約写』
アメリカが有名ですが、同時期にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約が締結されていてイギリス以外の4冊の調印した物の写しが展示されています。

『ハルマ和解』
蘭日辞典。オランダ語を日本語に翻訳する辞典。
『海上砲術全書』
オランダから日本に伝わった書籍を幕府が日本語に訳したもので、海の上での大砲を使うための本。
こういう砲術の本を学んだ上で警備の任に当ったのかもしれません。
『反射望遠鏡』
西洋の技術を学んだ上でとの意味で展示されています。
長浜の国友村で鉄砲が作られていて、そこから技術を発展させ国友藤兵衛が作った物。
『西洋大砲器械図』
砲台を作るのに参考にしたと思われる資料で全8巻
西洋の書物を見て写してあるが、中には「何かよくわからないけど描いてあるので取り合えず写す」と意味もわからず写してある物もあります。
『スループ形帆船図』
幕末に外国の技術を学んで幕府が作ろうとした船の見取り図。横からと上からの2種類があります。
大きさは長さ55尺(約16.7m)幅13尺(約4m)
帆が3本あると外国船に見えるからダメとの指摘もあったために1本マストになっています。この船はおそらく幕府によって作られて浦賀で活躍したと思われます。

やまもとひまりさんのイラストブック発売

2008年07月20日 | イベント
“しまさこにゃん”“いしだみつにゃん”“やちにゃん”そして管理人も関わっている『どんつき瓦版』のキャラクター“ニャン弼”
これらのキャラクターの生みの母がやまもとひまりさんです。

そんなやまもとひまりさんのネコキャラクターをたくさん見る事ができる本が完成しました。
『HIMARI ILLUST BOOK』
先ほど挙げたキャラクターの内で“しまさこにゃん”と“いしだみつにゃん”は収録されていないのですが、“やちにゃん”をはじめ“ひごにゃん”“さにゃだゆきむら”そして大河ドラマ『天地人』の主人公から“にゃおえかねつぐ”など総勢10匹のネコキャラが様々に描かれています。


7月20日はイラストブック販売記念のサイン会が行われました。
サインを書かれているひまりさんを一枚激写!

彦根市四番町スクエア内の彦らぼで販売されています定価1300円です。

井伊直弼船

2008年07月20日 | イベント
7月20日、彦根城内堀に浮かぶ屋形船では『江戸の船上レジャー』第一弾として井伊直弼船が運航されました。

一番メインとなった11時30分の便では、井伊直弼に扮する殿様(写真はインタビューを受けている殿様)と、直弼の次女・弥千代姫をモデルにした“やちにゃん”も乗船し、船中では井伊直弼の話を中心としたガイドが行われたのです。

また、裃や晴れ着・小袖を着た女性たちが華やかに船を見送っていました。


夏の刺すような日差しの中でも、お堀に浮かぶ船と言う涼を感じる空間が演出され、また『井伊直弼と開国150年祭』を盛り上げるような井伊直弼の話も聞け、夏休みスタートの時期にはピッタリのイベントだったのではないでしょうか?

井伊直弼船は7月20日のみのイベントですが、『江戸の船上レジャー』はまだ計画があるそうなので今後の情報も注目してください。

『直弼考 リレー講座』第二回講演

2008年07月19日 | 講演
2008年7月19日、『直弼考 リレー講座』第二回講演としてNPO法人日本政策フロンティア理事長で彦根出身の小田全宏先生の講演が行われました。

小田先生は松下塾の出身でもあられ、『陽転思考』などの脳のイメージにもお詳しい先生です。文章では書き表せないような表現も多くありました。機会があれば、生の話を聞きに行って下さい。
あれ?聞いていた時とイメージが違うなぁ、結構笑った講演だったのに・・・と思われる方も多いと思いますが、管理人の腕ではこの文章が限界ですお許しください。


・・・ではここより本文です。


グレート直弼『井伊直弼のリーダーシップ』

彦根は郷里ですので、郷里の英雄である井伊直弼公のお話をさせて頂くのは喜びでもあり緊張感や責任を感じます。
 直弼は日本の国にとっては最大の恩人の筈なのですが世間では様々な評価がなされています。
私は郷里の英雄である直弼の事を次の世代に伝える責務があると思っています。歴史の人物の足跡を訪ねて様々な地域を巡るといろんな意味での歴史観が見えてきます。中には残念ながら「井伊直弼が安政の大獄をした」という言い方がされていたり「勅許を待たずに開国をした」などの直弼に対する独裁者のような表現を使っている事も少なくありません。
 吉田松陰の松下村塾には何度も足を運んで講演もしています、松陰は歴史上は「安政の大獄で井伊直弼に殺された」とされています。しかし松陰が“正義”で松陰を殺した直弼を“悪”と見立てるのは大いなる間違いであると思っていて、私は松陰と直弼の間に大きな架け橋が架けられないものか?と思っておりました。今回のこのお話を頂いた時に非常に責任感を感じつつも「我が意を得たり」との思いで参りました。


 私は高校まで彦根で学びました。小学校の道徳の時間には校長先生が井伊直弼の話をされたのです、その時は「井伊直弼公は文武両道に秀でそして日本を開国に導いた大変な偉人である」という一点を学びました。その時は埋木舎での15年間の長い下積み時代もあまり分らない状態で「井伊直弼を中心とした彦根城と彦根市はとっても素晴らしい町なのだ」というだけでした。しかし長じて歴史を知ると「全国的に直弼がきちっとした形で認識されていない」という事実がありました。
 これを「しょうがない」という言い方も出来ると思います。でもそうではなく今生きている私たちが、直弼公の遺徳をちゃんとした形で、自分たちの住んでいる地域やあるいは子どもや孫に対しては伝えていく責任があると思います。


 井伊直弼は日本にとっては偉人だったのですが、幾つかの点で問題がありました。
・違勅。勅許を待たずしての条約調印。
・安政の大獄で吉田松陰や橋本左内を含め何人かの志士を斬った。
・条約が不平等な条約だった。
・将軍継嗣問題。
 将軍のお世継ぎ問題と開国は全く別の話なのですがこの2つが合体をして非常にややこしくなったのです。


 ここで歴史のおさらいをします。
 井伊家は、江戸幕府が開かれた時に徳川家康に対する4大功臣の一人である井伊直政からずっと続く由緒正しい家柄でした。江戸の300年の天下泰平の歴史が蒸気船によって破られました。しかしペリーの前にはビドルが来ていますしその前にも民間では結構来ていたようです。(アメリカは)初めから喧嘩腰に来たのではなく、太平洋から来た時に蒸気船に積む燃料の補給基地として平和的に交渉に来ている訳です。その時に幕府は「まぁいいか」との態度だったのです。
 これは今でもそうですが、「まぁいいか」「まぁなんとかなるのちがうか」など適当にやっている訳です。今と昔を一緒にする訳にはいきませんが似た様な問題が起こっています。
 日本は常に様子を見ます。常に常に様子を見ます。様子を見ると言うのはある種いい時もありますが物事をややこしくする最大の原因でもあるのです。
 ビドルが来た時には、日本は「どうしようか?」とやっている、その内に「何だ日本は!」という事でペリーが来る時にはキツくなったのです。そして「どうしよう」と大騒ぎになりました。
その時に怒ったのが「そんなの関係ない打ち払ってしまえ」との“攘夷派”と、「もう鎖国はしていられない、だから開国しよう」との“開国派”なのです。この中で全体の流れは“攘夷派”でした。
それはなぜかと言えば、日本は(オランダとの付き合いがあるので自覚がなかったかも知れませんが)鎖国をして泰平に生活していたからです。泰平でゆるゆる暮らしているのに「国を開けろ!」と来たので、「何だ、お前らが勝手に来たのにそんなの許せるか!」というのが“攘夷”でした。
 それに対して“開国”を唱えその最後の決断を下したのが井伊直弼です。不平等条約などの意味では非常に問題もあったのでしょう。けれども、当時の日本の国力や軍事力から見れば、ここで決断を下さなければアヘン戦争でイギリスやフランスに敗北した清国と同じになってしまうのです。

 ここでややこしいのは“攘夷”“開国”だけではなく、政治の大政問題も含んでいたのです。これは「政治の権力の中枢を天皇に戻すべきだ」という考えです。
 実際に天皇が政治の中枢を握ったのは大化の改新や後醍醐天皇の時に少しあったくらいで、昔から日本では天皇制とは別に権力構造を作っていたのです。権威(天皇)と権力(政治を動かす組織)を分けて別に作るのが日本の流れでした。ですから天皇が実際に政治をするのは珍しく明治天皇の時に久しぶりにそれが実現するのです。

 日本の権力を天皇に戻す。という考え方は大きく2つに分類されました。
 一つは“幕府を倒せ(倒幕)”、もう一つは“天皇と幕府をくっ付けろ(公武合体)”の2つです。井伊直弼はどの立場に立っているのか?と言えば、“攘夷”“開国”では“開国”で天皇に対しては“公武合体”なのです。ですから直弼が進めた和宮と徳川家茂との結婚は、幕府と朝廷をくっ付けようとした考えでした。
 違勅というと直弼が天皇を無視したように聞こえますが、これが多きな間違いなのです。直弼は国学・茶道・禅・居合道を極めるといった大変な文人であり武人でした。長野義言(主膳)はたんに直弼の師だっただけではなく孝明天皇に対しても国学を教えていたのです。
 ある時(嘉永7年4月6日)、京都で火事が起こって(京都大火・御所焼け)大切な書物が全部焼けてしまった時に義言は直弼の命を受けて孝明天皇に多くの書物を進呈し天皇も大変喜ばれたのです。元々直弼は朝廷に対する深い尊崇の念があり「朝廷なんて関係ない」などという事を口にする筈が無いのです。
 しかし、直弼の兄であり前藩主でもある井伊直亮が、あまり悪く言うのも何なのですが風評が良くない所があったらしく、井伊家の本来の職務である京都守護(朝廷を守る、警護ではない)の家格よりは落ちる相州警護の任を(どうやら)風評が悪い罰として命じられました。
その様なあまり願わしくない仕事だったのですが、この事によって彦根藩は海外の情勢を深く知ったのです。世界の情勢や文明の進みを知っていた直弼は「彼らが来た時に反対するのは大変な事態を生む、戦ったら日本は火の海になる」と思うのですが、ペリー来航時に水戸藩主の徳川斉昭は「開国はならん!」と『和すべからざる十箇条』を出したのです。水戸藩と彦根藩は因縁深い訳です。斉昭と直弼は最大の政敵になったのは間違いありません。もしこの時に斉昭が居なかったら全然変わっていたと思います。
 この時の将軍である家定(13代)はあまり有能では無かった、その家定の継嗣として紀州慶福(後の徳川家茂)を直弼が推したのです。ところが最後の将軍である徳川慶喜は斉昭の子どもなのです、そうするともうお解かりのように斉昭が慶喜に対し「井伊の野郎は、俺が外国を打ち払えと言っても開国なんて馬鹿なことを言っとる、しかも俺の息子(慶喜)はあんなに優秀なのに小さい子どもの慶福に将軍職を継がそうとするなんて、(直弼は)酷い奴だ!」と「井伊直弼許すまじ」の思いが伝わり、これが孝明天皇に対してもどんどん伝わっていったのです。
 ですから直弼にすれば「日本は開国しなければいけないのだ」との思いなのにも関わらず、そこに将軍継嗣問題が入って孝明天皇にはきっちりとした形で伝わっていないのです。そして何度も勅許を得ようとしました。直弼は何とか天皇から勅許を得ようと、老中の間部詮勝を孝明天皇の許に送りなぜ開国をしなければならないのかを説く訳です。
実は直弼は開国しなければならない事は分かっているのですが、ペリー来航時に幕府や将軍・諸大名に対して一旦「祖法(鎖国)を守らねばならない」と言っているのです、「それを守る為には相手を知らなければならないので、国を開いて相手の話を聞いて、日本からも相手の国に行って軍備を整えて、強くなったらもう一度鎖国をしよう」と話しているのです(大攘夷)。考えてみれば解りますがムチャな話なのです。ですが一応直弼の賢さはいきなり「開国だ!」と言っている訳ではなく、軍備を整える為の開国を行ってからもう一度鎖国しようと言っているのです。
 しかし、情報は色んなレベルで入ってきます10段階あれば「1から10まで順番に入る人」「1の次に5が入る人」あるいは「1から次が入ってこない人」など。孝明天皇の許にも色々な情報が入り間部詮勝も伝えています、そして天皇は「わかった」と言っているのです。
 ところがこの時に詮勝が「大攘夷のやり方でいいですよね?」と言っているのです、すると天皇は「日本がまた強くなったら鎖国するなら良い」と返してくるのです。
 詮勝が持ち帰った情報を見た直弼は考え込みました。鎖国を前提とした開国の話などアメリカには見せられません、そこで直弼は「全ての責任は私が負う」と言って条約を結んだのです。


今日、お話したいリーダーシップの資質の一つが『無私の精神』という考え方です。
 これは何か?と言いますと「私心が無い」という事です。人間は自分の事は可愛い訳です「美味しい物を食べたい」「お金持ちになりたい」「いい想いをしたい」というのは人間が全て思う事です、しかし直弼は私心が無かったのです。これは明治の志士たちにも多く見られるのですが、おそらく直弼の場合は埋木舎の時代に培われたものだったと思います。
 直弼は藩主の子として生まれますが15人の男の子が居る訳です、藩主になるのは1人ですからみんなどこかに何かなって大した生活はしていない訳です。慎ましい生活をするしかありませんでした。
この当時の有名な歌「世の中を よそに見つつも埋もれ木の 埋れておらむ 心なき身は」を見ると当時の直弼の心情を思う訳です。今は埋木舎を観光しこんな名前のお菓子もありますが埋もれている訳なのです。
 結果として直弼は藩主となり大老となって開国をするのですがそれは偶々です。普通は世間から評価される事も無く、人の上に立って指導する訳でも無く、そのまま自分と言う存在が埋もれていって終わる訳なのです。それを直弼は運命として覚悟していたのだと思います。ですから直弼はお茶・禅・和歌・武道をやる、これは全部人間の心身の鍛練なのです。

 直弼は茶人として「一期一会」という言葉を広められたと言っても過言ではありません。この言葉の本当の主意はどんなモノであるかを直弼は“獨座観念”という文章で書いています。難しい言葉ですが、どういうものかといいますと、これはお茶会の話になります。
 大茶会ではなく小さな四畳半くらいの部屋でお客さんにお茶を一服と差し出した時、そんな一人のお客さんを招くのも茶会で、獨座観念はそんな茶会に対する主人の心構えを書いています。
 現代風に訳して紹介しますと“主人のもてなしが終わり、お客さんを送り出す時は「はい、さよなら!」などではなく「ぜひ、また・・・」と余韻を残すようにしましょう。するとお客さんも余韻を持ち上手くいきます。そして茶室から去るお客さんを見送りますが、その時も「じゃあまたね~!」などと大きな声を出すのではなく厳かに姿を見送り、茶室に戻ったらお客さんが居られた痕跡(使用済みの茶碗など)をさっさと片付けるのではなく、一度座り徐に一人でお茶を点てて、その茶を飲みながらお客さんがいらっしゃった時の対話をしみじみと思い返す、そして片付けに入りなさい。その余韻を心の中に留めるのです。なぜならば、その時間は人生の中において後にも先にも一回しかないからです”
 今日、この場は後にも先にも1回です、この講演が終わった後に私は控え室に帰ってしみじみと「今日の客は良かった」と言うかどうかは知りませんが(笑)、しみじみとお茶を頂きながら思い出す訳です。皆さんも帰ってから暫し「今日の井伊直弼はこうだったな」としみじみと味わって下さい。
・・・と、いう事なのです。

 この言葉から見ると、おそらく直弼は、例えば春夏秋冬折々の季節があり桜が咲くと「また咲いてる」ではなく「あぁ今桜が咲いている」。雪が降ると「あぁ雪が降っている」。食事をすると「あぁ今このご飯が食べれる」とその一瞬をもの凄く大切にされていた筈です。
 人生のその時間を1回しかない、埋木舎の中でどこにも行かない毎日変わらない一日一日の中に直弼はその一日の命の輝きを深く感じて生きておられたに違いないと思います。
 今という瞬間との出会いが「一期一会」であるという事を強く思え。それがお茶をやる事の真理を自得するという境界なのだと直弼は言っているのです。
 茶は武士の嗜みとして行われていた物ですが、直弼は一つの哲学にまで昇華させ「今という瞬間に自分の人生と会う、この瞬間に出会う、全ての時間を今初めて会った瞬間だと観念せよ」という事なのです。

直弼はお茶と同時に禅もやっていました。禅は達磨大師が“面壁九年”と言って壁に向かって9年座って悟を啓く事から始まります。禅の中の悟には解らない部分も有りますが「随所作主」という言葉があります。「所に随って主となれ」。
 つまり人生の主人公は自分なのです、「どんな所に居ても自分が主人公として立つ」というのは禅の極意なのです。あの当時世間では「攘夷!」と叫ばれていましたが、直弼の信念は開国であり何を言われても構わないという事なのです。
もし今この場に直弼公が居られて名誉復活の活動をしているのをご覧になられたらどう感じられるか?と思った時に2つの可能性があると思います。
 一つは「ありがとう」と思って居られ、もう一つは「でもね、いいんだよ」と思っておられるかもしれません。
 直弼は自分の死後に悪評が付いて回る可能性がある事を知っておられた感があります。「でも、それも仕方ない」とも思っておられた節があります。“私心を無く”して“自分の立っている所に主となって立っている”そこまで自分の腹を決められるのはおそらく直弼が禅を積んでいるからでしょう、そうではない人だったら途中で「もういいや、もう知らん後は好きにして、日本はどうなっても知らんで」そして後になって「ほれ、言うた通りやろ」となったでしょう。皆さんでもあるでしょ?
 でも今は開国している日本で「開国は井伊直弼のお陰だ」と言って感謝される事は殆どありません、そう言った意味で直弼は歴史の評そう的な名誉に関して非常に不足な状態であるのは間違いありませんが、これは運命です。
 もしあの時に徳川斉昭が居なければ全く違っていました。斉昭が居てその息子の慶喜を将軍にするような話が無ければもっと順調だったでしょう。しかし斉昭は居たのです。

「あの時、吉田松陰を殺さなかったら・・・」先日、井沢元彦先生のお話でこの話がありました。これは一理ありますが吉田松陰も常識ではない人物ですので殺されますよ。
 ペリーが来た時、松陰は「アメリカを倒す為にはアメリカを知らねばならん」と嵐の中を金子重輔と共に小船で黒船まで行って登っていったのです。そしてアメリカに連れて行って欲しいと懇願したのですが叶いませんでした。ペリーはこの様子を物陰から見ていて、後に『ペリー航海記』という著書の中で「私は、こういう若者の居る国は必ず発展するであろうと確信している」と記しているのです。そしてペリーは松陰と金子の助命を嘆願しました。
 ペリーの嘆願もあり死罪を間逃れた松陰は故郷の萩に2年間投獄され、その後に約2年ほど松下村塾で教鞭を執ったのです。この時の塾生の中から高杉晋作・久坂玄瑞・山県有朋・伊藤博文などが育つのです。
 そして塾生に向かって「幕府を倒せ!」「老中(間部詮勝)を斬れ!」と言うのです、あの高杉晋作にすら「お前は腰抜けだ!」とやるんです吉田松陰は・・・
「老中を斬れ!」ってそりゃ捕まりますよね・・・、そして小伝馬(牢屋敷)に送られてそこでも「私は老中を斬るんだ!」と言っている訳なんです。そりゃ殺されますね。
 松陰は殺されるのが当たり前でありながらも、「至誠天を動かす(誠が通じれば天が動くのだ)」と一方では自分は死なないと思っているのです。
 最後亡くなる時に『留魂録』を残します。この時30歳。ここで松陰は「自分は殺されるが泣くな。人生には春夏秋冬がある、人間から見れば蝉の命は短い、しかし天から見れば人間の命もあっという間だ。私は30歳で死ぬがこの人生の間に春夏秋冬が詰っている。私の人生が籾殻であるのか、ちゃんと詰った粟であるのか、それは分らない。同志諸君、私の意志を継いでくれるなら私はこれほど嬉しい事は無い」そして辞世の句が「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂」なのです。
 もう一つ「親思う親思う心にまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」という自分の刑死を聞いた後に親がどう思うか?との句も残しているのです。
 つまり安政の大獄を思想的な目で見ると、吉田松陰という“善人なる教育者”を“独裁者”である井伊直弼が殺したような言い方をしますが、そうではないのです。これだけの事をすれば殺すしかなかったのです。直弼は安政の大獄で人が処刑される事は必ず自分に返ってくると知っておられたのです。
 水戸と彦根、徳川斉昭と井伊直弼は大変な因縁があったのです。結局、将軍継嗣問題・条約問題共に直弼が勝ち水戸の浪士たちが「井伊許すまじ」となり、安政の大獄で志士たちがドンドン殺される状況の中で水戸が立ち上がるのは歴史の必然です。
 しかし、直弼は水戸浪士に殺されるのははっきり知っていました。3月3日の襲撃の報せも来ているのです。でも直弼は「私を殺そうとするのであるなら、どんなに警護を堅くしてもその意思は必ず遂げられる時には遂げられてしまうだろう」と言っているのです。その日の朝襲撃があるのを分っているのに桜田門外で斬り殺されたのです。


 直弼は、自分が踏み台になって死ぬ事を良しとしたのです。明治の志士たちは先ほどの吉田松陰も含めて皆それぞれのレベルでの『無私の精神』を持っている、そして人々の為に国の為にやったのです。
直弼はその中でも特にその精神が強かったと思います。直弼は安政の大獄や勅許の話があっても藩主の時は語られません。直弼が藩主になった最初に何をやったか?と言いますと15万両を藩内みんなに配り、そして彦根藩内の人々がちゃんと生活できているかを藩主自らが9回に渡って確かめたのです。彦根藩の藩主の中にも領内を周られた人は居ましたが多くて3回くらいです。それは直弼の意識の中に「政治家というのは何であるか?」がちゃんと入っているからです。それは一言で言えば“抜苦与楽”です。
 全ての政治家の目的は「人々の苦労を取り除く事、そして人生の楽しさを与える事」なのです。これが政治の役割です。ですから直弼は「本当に人々は苦しんでいないか?その苦労は取り除けるか?」と考えてそして農村に対しての信任が厚かったのです。ですから人がついて来ました。
 
 そして井伊直弼のリーダーシップの大きなものが“決断力”です、自分でやると決めたものに対し決断する。そしてもう一つ情勢を見る力“洞察力”です。

 情勢は、勝海舟が一番見えていました。
 海舟は幕臣なのに、西郷隆盛が江戸に攻めてくる時に、自分の親玉の徳川慶喜を追い出すので攻め上らないでくれと懇願し、西郷も承認するのです。
 その後も武士の常識なら、海舟は慶喜に生涯仕えるのが普通なのですが、海舟は慶喜の下を離れて明治新政府の高官となったのです。これを見て怒ったのは福沢諭吉でした。
 諭吉は海舟の批判を書いて、海舟に「こんな物を発表するのですが」と見せに行きます。海舟はこれに対し「行蔵は我に存す。毀誉は人に存す」つまり「自分がどう思ってどう行動するかは自分にあり、人がどう思いどう評価するかは人の事」との意味。そして福沢諭吉に自由にしてくれと言ったのです。そして最後には勝海舟は慶喜の名誉を回復したのです。

 そんな勝を斬りに行こうとして逆に感化されたのが坂本龍馬でした。龍馬は海舟の一番弟子となり、海舟は龍馬を使って維新を進めたのです。これらの人間模様が重なりますがその全員に共通するのが『無私の精神』です。
 そしてその中でも井伊直弼公は「自分のやっている事が後で悪評となろうとも仕方ない」と思って死んだのです。これは直弼以外にはありませんでした。江戸開幕以来300年の膿を自分一人が背負って逝くという覚悟でした。
 桜田門外で自分が倒れても日本という国が列強の草刈場にならなければそれでいいのだ!と直弼は思って逝かれたのではないだろうかと思います。

 もしかしたら今の平成の時代に、90%が「右だ」と言っているのに実は左が正しかったと後になって評価される事があるかもしれません。今の日本は民主主義ですが、この民主主義というのはその国の精神のレベルは民衆のレベル以上には上がらないという事です。
 ですから、私たちが「自分たちの国を支えているのは自分たちであるのだ」という事です。本当に歴史を変えている人間は暗殺されている可能性が高いです。ケネディは就任演説で「国家があたなに何をしてくれるだろう?ではなく、あなたが国家に何ができるかを問え」という有名な言葉があります。私たちはここに立ち帰るべきできではなかろうかと思います。
 歴史に対する無知は先人に対する冒涜です。国を愛すると言う言葉があります、国を愛すると言うのは日本の為に一生懸命働いた人々を理解し、その気持ちを称えていく事が国を愛する事の一つだと思います。

 どの地方でも、郷土の英傑はその郷土で称えています。しかし彦根では直弼を称える時間はあるでしょうか?
 国際化という言葉があります。これは英語がしゃべれる事ではありません「私って何?」が言えるかどうかです。私は何? 日本人は何? 私の郷里って何? そこにはどんな歴史があってどんな人が居るの?その事を私たちがはっきり知って人に対して言える・・・
 そういう意味で皆さんの中で井伊直弼公に対してもっと理解を持って頂き、自分に情報が無ければ他所で説明もできません。もちろん喧嘩腰になってはいけませんが、相手の話を受け止めて静かに語れば相手にも響きます。
 
 彦根の偉人である井伊直弼公に関心を持って頂いて、それを次の世代に語り継いで頂ければと思う次第です。

7月17日、細川ガラシャ死去

2008年07月17日 | 何の日?
大坂細川屋敷跡地とされる“越中井”


慶長5年(1600)7月17日、石田三成より人質として大坂城入城を要求された細川忠興の正室・ガラシャが大坂細川屋敷に火を放ち亡くなりました。享年38歳。
忠興の子の千丸12歳・市姫6歳も道連れになっている。


細川ガラシャといえば、織田信長を本能寺で襲った明智光秀の娘としても有名な人物で、本名は玉(または珠)、カトリックの洗礼を受けて洗礼名として「ガラシャ」をもったのです。
ちなみに、日本では明治時代より前は夫婦別姓が当然でしたので、歴史的に記すなら“明智玉”となります。
“細川ガラシャ”という名前は明治になってカトリックの方々が、彼女の殉教死を称えて贈った名前なのです。


さて、そんな細川ガラシャは・・・
元々は足利義昭の側近として仲が良かった細川藤孝と明智光秀の更に深い縁を築くために織田信長の声掛かり行われた縁組で、藤孝の嫡男・忠興に嫁いだのです15歳の時でした。
明智光秀とその正室のひろ子は美男美女の夫婦であった事もあり(ただし、ひろ子は婚礼前に疱瘡であばた顔だったそうですが・・・)、その娘である玉も絶世の美女だったそうです。
そんな玉を大切にした忠興でしたが、本能寺の変で光秀が信長を殺すと、細川藤孝は出家して“幽斎”と名乗って信長に対して哀悼の意を示し、光秀の行動を暗に否定したのでした。

この細川家の態度に不満を感じた玉でしたが何も出来ず、山崎の戦いで光秀が敗れると「逆臣の娘」となった玉を殺す話も細川家では囁かれたのです。
結局、玉は丹後味土野の山中に2年間幽閉されたのでした。


2年で玉の幽閉が終わった理由は、豊臣秀吉が大坂城下に大名屋敷を造らせ妻子を人質として住まわせたからだったのです。
幽閉の後の人質、玉の心には夫に対する不信感と孤独感が重なっていったのです。
そんな日々の中、天正15年2月21日。イエズス会の教会を訪問した玉は初めてその教えに触れ、そして魅了されたのです。
同年6月19日、秀吉が『伴天連追放令』を発布しますが、8月に玉は洗礼を受けてガラシャ(ラテン語で恩寵・神の恵み)という洗礼名を受けたのでした。
この時、既に洗礼を終えてマリアという洗礼名を持つ侍女の清原いとがガラシャの最大の友となったのです。

これまでガラシャは夫との離縁や絶望からの自害を熱望していましたが、キリスト教の教えでは「離婚や自害は許されない」と知り、その教えに従って生きる道を選んだのです。


慶長5年、関ヶ原の戦いの前。
徳川家康に従って会津征伐に向かう細川忠興は家老の小笠原秀清に「石田三成が玉を人質に求めた場合は殺せ、その死体は敵の目に晒すな」と命じて出兵したのです。
忠興はガラシャを愛するあまり、他の男の目に触れさすのを極端に嫌ったのです。

そして7月17日、細川屋敷を自らの軍勢で囲んだ三成はガラシャの大坂城入りを要求しました。
これを拒否したガラシャは、「私はキリシタンなので自害は許されません」と小笠原秀清に部屋の外から槍で胸を貫かせて亡くなったのです。
「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」との辞世を残して・・・
細川屋敷は火薬で爆破され、跡形も残りませんでした・・・


焼け跡からは女性の焼死体が発見され、これがガラシャとされたのですが、もしかしたらこの遺体は侍女の清原いとでガラシャは生きていたのではないか?と言う説があります。

この細川屋敷から生き残って逃れた家臣に稲富一夢が居て、一夢は忠興の怒りを買い細川家を追い出されて井伊直政に仕えて稲富流鉄砲術を彦根藩に伝えます。
・もし一夢が鉄砲の腕を買われて、ガラシャの警護役として生き残ったのなら?
・いくら徳川家康の右腕で外交担当とはいえ、関ヶ原での功績が大きかった細川家を追い出された一夢を召抱えるのか?(最初から細川家と井伊家の盟約があったのではないか)
謎は深まるばかりです。
ただ、この説には「男の目に触れさせるのを嫌った忠興が、一夢には許したのか? ガラシャがいとが身代わりになる事を受け入れたのか?」という疑問が残ります。
管理人としては、ガラシャを助ける計画はあったがガラシャは死を受け入れ、本来なら自害する筈の一夢は報告の責任を感じ忠興に面会。ガラシャを助けられなかった怒りで一夢を追放した細川家に対し「先の約定により」と直政が召抱え、鉄砲術の伝播を一夢に命じた・・・と考えたいのですが。


真相はどうあれ、ここで亡くなったとされた細川ガラシャの人生は、ヨーロッパにも伝わって“殉教死をする事で、暴君である夫の心を改心された”という解釈がなされ戯曲『気丈な貴婦人』として伝わったのです。

7月16日、島津斉彬死去

2008年07月16日 | 何の日?
安政5年(1858)7月16日、薩摩藩主島津斉彬が亡くなりました。享年50歳。

このブログは彦根に関わる事を中心に書いて居ますので、彦根藩主の立場から見るならば、この時の彦根藩主は3ヶ月ほど前に大老に就任した井伊直弼。
直弼にとって斉彬は将軍継嗣問題で対立した立場にあり、また斉彬は死の直前に将軍継嗣問題で南紀派(紀州慶福推進派)が勝利した事に講義するために薩摩藩兵5000人を率いて上洛する準備を進めていただけに、斉彬の死は直弼にとっては幸運とも言えるものだったのです。


そんな島津斉彬の生涯についてはいずれ書く機会を設けるとして、今回は死の状況について見ていきましょう。

7月8日、先ほども書きました上洛の為の兵の訓練が鹿児島城南の天保山調練場において行われていました。
この天保山は、斉彬の父である斉興の時代まで三代に渡って薩摩藩の財政改革を進めた家老・調所広郷が大坂の天保山を真似て創った場所で(反調所派によって広郷の娘が殺害されるという事件も起こった場所だったと記憶していますが・・・出典はどこだっただろう?)、後の薩英戦争の時には重要な砲台場の一つとなった場所でもありました。
そしてこの時には訓練の場所として使われたのです。
斉彬の側には家老の新納久仰が従っていて、この久仰が記した日記『新納久仰譜』にこの日の様子が克明に書かれています。
『新納久仰譜』を紐解くと、斉彬は城下諸隊の五番隊と六番隊の訓練の指導を午前10時頃から午後5時頃まで炎天下の下で陰に入る事も日傘を差す事も無く、馬に乗ったまま行っていました。
安政5年の7月8日は太陽暦で8月16日に当ります、まさに夏の真っ盛り、斉彬は馬を駆け何度も水を飲んでいたのです。

午後5時過ぎ、訓練を終えた斉彬は近くから船に乗って喜入沖に出て、趣味の釣りを楽しみました。
斉彬は多才な趣味を持っていたのですが、特に釣りは釣った魚を自ら調理して、少量の麹と塩を混ぜて蓋をして居間の棚に置き、熟れ鮨(鮒寿司の浅い感じ)になったところで食べるのを好んでいたのです。
この時も太刀魚が捕れたらしい記述を別の資料から見る事ができます。
その記述によれば「(斉彬公が)大好きな釣りをされていると、変な銀色の長大な魚を釣り上げられ、わしも先が長くはあるまいとこぼされて早々に引揚げられた」という事です。
しかし、この時に釣り上げた魚は斉彬自身の手で熟れ鮨にしているようなので、変な魚などでは無く、この時期に普通に捕れる太刀魚の姿に酷似していますから、斉彬の呟きは後から尾鰭が付いた物だったのでしょう。
『新納久仰譜』に戻ると、この釣りでは順調に魚が釣れたのですが斉彬の気分がすぐれなかった。と読み取れます。

翌9日、斉彬は朝から風邪気味だったようで午後2時からの訓練は腹痛によって不参加。
同日夜、高熱・腹痛・下痢などの症状を発し床から起きれなくなりました。ここで蘭方医・坪井芳洲や藩医・清水養正らが治療と投薬を行い坪井芳洲の細かい記録が残っています。
これを紹介するのは長くなるだけですので省略しますが、投薬の甲斐も無く段々弱っていく斉彬の様子を知る事ができるのです。

斉彬が床に臥せてから4日後の7月13日、医者たちは斉彬の病状を赤痢と診断しました。

15日になって死期を悟った斉彬は、家老たちを枕元に呼んで家督相続を弟・久光の息子の忠徳(忠義)に継がせる事などの三ヶ条の遺言を伝え、16日午前6時頃に帰らぬ人となったのでした。


こうして、「当代に並ぶ者の居ない名君」とまで評価された島津斉彬はあっけなくこの世を去ったのです。
その死には当時から様々な憶測が流れました。

まずは、コレラ説
この時の5月21日、アメリカの軍艦ミシシッピー号から長崎に持ち込まれたコレラは瞬く間に日本中を駆け巡り8月には江戸にまで広がって3万から5万の人が1ヶ月の間に亡くなったのですが、鹿児島にコレラが広がったのも8月の事でした。
この時には既に斉彬は亡くなっていて、7月18日に長崎から鹿児島に戻った蘭方医の寺島宗則(後の外務卿)も「流行の時期とは合わないのでコレラではない」と診断して居ます。

続いて、赤痢説
これは、斉彬の病状的にも医者の診断としてもそうだったという定説とも言える説です。

そして、食中毒説
釣った魚に麹と塩を加えて居間の棚に、夏の暑い時期に置く・・・
こうなると腸炎ビブリオ食中毒を起こすのではないか?という説を打ち立てた方も居られます。
腸炎ビブリオ食中毒は、夏の海でコレラ菌に似た細菌が魚介類に繁殖し赤痢に似た症状を起こすそうなのです。この説は納得できるところもあるのですが、唯一の欠点は「何故この年の夏に?」という事なのです。
斉彬が夏に釣りをして熟れ鮨を作ったのはこの時だけでは無いでしょうから、逆にもっと前に発病して危機感を持っている可能性の方が高いのです。でも、万が一この年が初感染もしくは訓練疲れによる身体疲労からの発病の可能性は否めません(ちなみに管理人はこの説を支持して居ます)。

そして最後に、暗殺説
斉彬の熟れ鮨は居間の棚に置かれていました。
ではここに毒(砒素)を盛る事は可能だったのではないでしょうか?というのが海音寺潮五郎さんの説です。
発表当時は信憑性も高かった筈ですし、時期も納得できる物です。
そして毒を盛るとすれば、斉彬の藩主就任前からその就任を嫌って「お由羅騒動」というお家騒動まで起こした斉彬の父・島津斉興やその側室・お由羅そして二人の子である島津久光とその一派という事になります。
ただ、薩摩藩ではこのお由羅騒動の余波から斉彬の物や周囲には必要以上の警備が敷かれていたと予想できますので、果たして毒を盛るチャンスが一瞬でもあったのかが疑問です。
万が一藩医の誰かが斉興派で、疲れと風邪で体調不良を起こした斉彬に毒を処方したというなら有り得ない話でも無いでしょうが・・・

余談ですが、島津斉興は翌年9月12日に69歳で亡くなっています、これを偶然の産物と捉えるか?斉彬派の報復と捉えるかも面白いかも知れませんね。


先日の井沢元彦さんの講演で、井沢さんは「島津斉彬は暗殺されたと考えて居ます」と仰って居られました。
これからも多くの説が飛び交うであろう島津斉彬急死事件の真相が解かれる日が来るのでしょうか?

井伊直弼や幕府的にはこのタイミングで斉彬が亡くなった事に一番の恩恵を受けている筈なのですが、幕府黒幕説みたいな説もあるんでしょうかね?

『文化の変容と女性の身体像』

2008年07月12日 | 講演
7月12日、彦根駅前のアルプラザ6階で、彦根市内の3大学の先生が交代で講演を行うリレー講座の2回目として、滋賀県立大学人間文化学部准教授の森下あおい先生による『文化の変容と女性の身体像』という講演が行われました。


『井伊直弼と開国150年祭』に際して開国に関わる大きなテーマを、服の装いと言う文化と女性の身体を視点としてお話を下さいました。
 
 では、何故『女性の身体像』なのか? と言いますと、普段服のデザインをすると共に服の評価をしていると、毎年服のデザインが変わっていく事を突きつめれば「人が何を美しいと思うのか」という事に当っていきそれも突きつめると「人が身体をどのように捉えているのか?」という点に行き着きます。
そういうところから人類の歴史上、色々な地域で服が作られて変えられて今まできて居ますが、それは「それぞれの地域の文化によって形創られてきた」と言っても過言ではないと思います。
 ですから服の形を観る、人の体の形を観る、人がどのような物を美しいと感じてきたかを知る事は、その国の文化やその時代の文化を知ることに行き着きます。
 そんな意味で、開国によって文化はどのように受け取られ、その後の日本の文化の方向性を決めたのか?というところも感じてください。


 まず、人間が服をどのように作り着てきたのか?という疑問の元で研究すると、そこには風土・社会・体型の特徴に関わりながら様々な変化を繰り返して服文化を作り出してきたと言えます。
 風土は、暑さ寒さ。日本の着物が出来た背景には、比較的温暖な気候と四季があるという事で、季節に応じた重ね着や交換が可能であった事です。
一方で洋服は、比較的寒冷な地域で身体を密着させて寒さから保護をするために生み出された物です。
 それはズボンについても同じですが、服はその土地でとれる素材・風土、そして身体つきの特徴が大きく影響しているように思います。日本人の身体つきはやはり特徴としてそれほど背が高くなく、どちらかと言えば凹凸が少ないとよく言われます。服装を見る場合はやはりその特徴を生かす、良く見せる事を考えながら創られてきたこ事が歴史の流れからうかがえます。
 それが時期時期に応じて様々な変化を見せて居ます、今はそのスパンが短く、昔は長かったように思われて居ますが、細かく見ていくと帯の幅や襟の抜き方などで多様に変化していました。いずれにしてもこうした服装文化というものが存在しているのです。

そこで、日本人女性の体型に関する資料を考えると。
 身体つきに関する資料は、「人類学に分類される人骨」「服飾は日本ならば着物あるいはその文献」「美術の世界では絵画(肖像画・風俗画・浮世絵・日本画・洋画)・彫刻」そして「写真」
 写真は開国以降にドンドンと広がった物です。写真ができるまでは自分自身の姿も鏡を見ればわかりますがそれは正面だけで横や後ろはわかりませんでした。ですので写真ができた時には驚きと魅力を感じたのではないでしょうか?
体型の資料を続けると、現代に関するところで「人体計測」「3D計測」があります。現在では人の体の形は数字で知る事が出来それを3Dに出来ますが、この歴史は1950年代以降にようやく研究者の間で行われるようになった物で、それ程古い物ではなくそれを考えると日本人の過去の体型資料は思うほどにはないのです。
 こう考えると、昔の人の身体つきを数字で知る事はできず、ましてや明治時代以前となるといくつかの資料を組み合わせて知るしか手掛かりがないのです。
 もう一つ人類学の人骨では、男性の骨はお墓が残っているので比較的解るのですが、女性の骨はお墓に納まっていることが少なく、また骨が発掘されると一緒に色んな人の骨が混ざっているので一人の骨を見るのがなかなか出来ないのですが、辛うじて残っている徳川家の人骨を調べた資料を見ると、将軍や正室は食事も細やかで顎が発達せず非常に華奢な体型です。それに対し側室は庶民出身も多いので比較的背格好が大きいのです。そう考えると食事が体格に影響しているのです。

 こういう人類学の資料が科学的なのに対し、服飾や美術の文化的なものははっきりとした答えが出ません。ましてや美術の世界は作り手のフィルターを通してですので「何か意図的な変化があるかもしれない」と考えると、それをそのまま受け入れることをしてはいけません。ただし浮世絵に関しては江戸時代を通して一貫して同じ方法で作り出してきたと言う意味では、世界にこういった例は無いと言われる位に特殊な物で、したがって江戸時代の期間の美意識を、浮世絵の服飾を通して観て行く事には意味を持たせてもいいのではないでしょうか。

 もう一つ服飾の資料となる着物は、一人一人の身体つきに合わせて作っているのではなく紐や帯で着付けていましたので着物の形を捉えるのは難しいです。
ヨーロッパの古い時代はすべて個人の身体つきに合わせて服が残っているので、その時代の女性の体格は服を見ればわかります。これは大きな違いだと思いました。

 あと、日本画・洋画は、開国によって解剖学が海外から伝わり、それによって写実的な物が入ってきました。これにより浮世絵が消滅すると共に日本の中で人の姿を表現する方法が変わっていきました。そういう意味でも開国によって変化する文化の大きさがわかるのです。


 さて本題、日本の絵画による女性の表現ですが。
日本の美術においては特に近世以降『風俗画』によって女性の容姿がたくさん残されました。
 まず、安土桃山時代から江戸の初期までの『初期風俗画』
続いて、江戸時代から明治時代初めまでは『美人画』というテーマで浮世絵が描かれました。浮世絵には他のジャンルもありますが美人画は非常に人気のあるテーマだったと言われて居ます。
 江戸から明治までの長期間に渡って描かれたというのが浮世絵の特徴で、そこには小袖の女性が描かれていました。これは特に重要で何かを比較する時にデザインなどが変わっていたら比較できないのですが江戸時代は小袖を一般的に着ていて、これは身分を問わずに着ていたという不思議な現象なのです。そして単調な線で描かれる一定の描法でした。

 結局、時代や社会の中で強く影響を受けるのが人体像です。特に女性の場合は理想とする身体像が時代事に浮世絵に描かれてきました。明治に入ると写真の被写体となった女性に理想の身体像が映し出されたのです。


では、浮世絵に描かれた女性像ですが・・・
1600年から1900年の間を凡そ50年ごとに6つのグループ分けします。

○1600年から1650年“初期風俗画”
 風俗画によって多くの人が屏風や絵巻物に描かれる、平安時代や鎌倉時代の作品の中から少しずつ一人ずつにスポットが当てられていく時代。
 絵巻物に登場するような、髪の毛を長く垂らし複数の女性が描かれ、下膨れ・鉤鼻・小さな口などの典型的な昔の女性が描かれていますが個人を識別する訳ではなく、物語を伝える作品が多かったが、徐々に変わっていき女性のポーズや動作の違いなども表現されるようになり、服装も帯の位置が上がってきてからだのラインが少し解る様になってきて居ます。

 そして働く女性の姿や、衣装の表現も段々個性が出てきました。
『彦根屏風』もこの頃の作品で、これは美人画の話をする時には必ず登場しますが、洋犬を繋いだ紐を持つ女性は、典型的な小袖スタイルで、帯を下の方に締めていて独特のポーズを取って居ますが体の線がよりわかる様になってきました。またバックは背景ではなく金屏風で人物がはっきりと描かれるようになりました、この辺りから独り立ちの姿をしっかりと見るという風になってきました。

 ここで肖像画の話を少ししますと、肖像画は亡くなった後に故人の供養の為に描かれましたが、顔の識別は難しく衣装の方が細やかに描かれていました。
顔は無表情に描かれ、それは日本の絵画の特徴として明治まで続きますが、これは観る人が想像する為だったように思われます。

○1650年から1700年“浮世絵誕生期”
 世界で初めて『美人画』というジャンルが作られる時代。独り立ち姿の美人画として成立、女性の美しさを鑑賞するようになりました。
 浮世絵は元々は読み物の挿絵として描かれていた物が、絵が独立し浮世絵版画として色がつき始めます。菱川師宣の『見返り美人』などが代表作です。
浮世絵は、現世の苦しみである「憂世」と、現世賛美の「今様」の二つが合わさり出来た物で、庶民に浮世絵が愛されたのはこう言った登場の意味に隠されているのかも知れません。また、狩野派であるような日本美術の中心的なものはどんどん庶民以外のところに対象を求めるようになりました。

○1700年から1750年“浮世絵発展期”
 『錦絵』という多色刷り物が作られ、色彩表現によって繊細で美しい描写がされる時代。
 浮世絵は江戸が中心ですが、京でも描かれていました。京の浮世絵は江戸とは違う独特の様子があり女性は柔らかくふわっとした姿が良しとされ肉筆でした。

○1750年から1800年“浮世絵全盛紀”
 歌麿や清長などの有名な絵師が活躍した時代。
 自由な表現や伸びやかな女性像が描かれ、背景が入った物語性や、実在したであろう女性の名前を付けて版画として広め今で言うタレントのような存在を作り出していきました。
 鈴木春信による独特なファッションと華奢な女性。
 喜多川歌麿はすらっとしていましたが、独特の身体感を持った色気のある、上半身による女性の豊な優しさを出したり、日常のポーズで情感を描きました。
 鳥居清長は、東洋のビーナスと言われた八頭身の女性を描き、伸びやかで自由で清々しい絵を描きます。
 鳥文斎栄之は格調高く、色気を出しつついやらしくならない絵を描きました。

○1800年から1850年“浮世絵浸透期”
 幕末の流れの中で世の中が少し変化して居ますが、文化という面では非常に爛熟した日本独自の文化が花開いていた時期で、浮世絵も庶民に浸透していった時代。
 固い線描によって独特の女性像が描かれました。歌川国貞・渓斎栄泉などが非常に退廃的で以前よりも階層の低い女性を描いたと言われて居ますし、室内で描いた絵が多く、狭い間口を背を屈めて入る絵が描かれていたりして猪首・猫背になっています。

○1850年から1900年“浮世絵終焉期”
幕末から明治に海外の文化が入ってきて世の中が大きく変化する時代。
 変革期の中で非常に強い女性が描かれて居ます、また妖怪や戦国を思わせる絵など世の中の不安を表す絵を月岡芳年などが描きました。
 また明治でも活躍する楊洲周延は海外から入ってくる物も含めて描き、あっさりとしてストンとしている現代の女性の着物姿のようにも感じられます。


 これらの浮世絵のポーズの共通性として、
・膝を曲げる
・首を傾ける
・重心が前方になる
といった特徴が挙げられます、これは今の日本人にも言える様で、ハイヒールを履いたときに西洋に方に比べバタバタした感じがあるのは、膝の曲げ方や重心の取り方だったようで、西洋画に無いこの特徴が日本人の女性像としての美しさを見ている様に思いました。


では開国以降の女性像は・・・
 写真が浸透してこれまで触れられなかった女性の容姿が人目に触れるようになりました。
 アンバランスともいえる鹿鳴館スタイルが憧れの的にもなりました。演奏会という名のもとで女性が音楽をするようになりこれがきっかけで女性の海外留学も出来るようになりました。
 写真としては、明治初期はまだ高貴な物だったので身分の高い人々の家族の肖像写真や、幕末では志士たちが(坂本龍馬のように)自分の生きた証を残すような写真を撮っていました。それに比べると一般女性は殆ど撮れない、または個人が撮った物は残らず現在公になっている物は殆どが有名な人々の写真かビジネスとして海外に出た物で、また当時は写真を撮ると魂を抜かれるという迷信があり怖がられていたそうです。
 
 さて、日本はヨーロッパから文化を入れただけではなく、ちゃんと輸出もしています。特に「ジャポニズム」と言われた着物の文化がヨーロッパに魅力的なものとして受け入れられました。
 着物を仕立て直したドレスや浮世絵の女性が描かれた扇・浮世絵の人物が描かれたボタンもあります。ヨーロッパのデザインはほぼ左右対称なのですが片方に模様を寄せる日本のデザインも取り入れられました。日本は開国によってヨーロッパと相互の文化交換もあったのが興味深いと思います。

 肖像写真に話を戻しますと、自立した女性が被写体になるようにもなりました。日本で最初の女医である荻野吟子、女優の川上貞奴。非常に目がしっかりとし表情が何かを伝えている力強さがあります。

 これからまたガラリと変わり、外国人が日本のお土産として持ち帰る写真が多くなりました。この写真は色が付いた物が多いですが白黒写真に後で色を付けるのですが、当時はまだ魂を取られると言う迷信も強く残っていたのでモデル探しに苦労し、また外国人のイメージする日本が撮影されていましたので「え?」と思うポーズもあります。
 また女性が寄っている写真が好んで撮影されたようです。

明治24年になると『凌雲閣百美人』という東京の芸者100人に同じポーズをさせて写真を並べて評価をするという美人コンテンストが行われました。こういった芸者さんは名刺を作ったりブロマイドとして写真を配っていました。この頃の芸者さんは写真を怖がる事は無かったようですが、一般女性は?というと、明治40年頃には写真を怖がらないようになったようで、明治41年に時事新報社が全国で募集した美人令嬢コンクールが行われましたが、応募資格はモデルさんなどの写真を撮られる事を仕事としていない人でした。
この時の写真を見ると、芸者さんに比べると優しくふわっとして居ますが、全身を観ると太めでもたついた感じがあるとの評価があったようです。

これらの明治の写真を比べると、明治の女性は6.61頭身、1951年は6.81頭身、1994年は7.14頭身で、明治と昭和の初めでは割と近い頭身だという事がわかりました。

このような明治時代の写真から全体的な女性の特徴をあらわすと、
・頭が大きく、胸が広い(着物を着ている関係?)
・ウエスト、股下の位置は低め
・ヒップも低め
・手足は短くて、特に手は短い(昔の女性は手が小さい方が美人といわれていたので、手は隠した状態で撮るということがあったのかもしれません)
現代人よりも胴長で安定感のある体型だったと言えるかもしれません。
 そして、明治の終わりになると女性を撮影した絵葉書が登場し、これらの写真で女性はドンドンアピースをするようになり、表情が柔らかくなってきたのです。女性の見られる、見せるという意識が高くなってきたように思われます。


 現代の着物姿の女性と明治期の芸者さんを比較してみると、帯の高さが全然違い現代では随分と高い位置にある事がわかります。明治期のアンダーバストといわれる胸の下に帯がくると圧迫感が無かったと思われますし、今のタオルを詰めたり、足を長く見せるためなのかもしれませんが、帯を高く締める着方などは、日本人が長く着続けてきた着物とは違う物になっているのではないか。という気がします。
 何よりも現代人の背筋をすっと伸ばす立ち方が非常に洋服的な感覚で、それに比べ明治の芸者さんは浮世絵に出てきた仕草、日本の着物を着た女性の身体感がよく出ているように思います。
 芸者さんの写真と鈴木春信の浮世絵を並べてみると似ている部分は多く、浮世絵が作者のフィルターを通して脚色されて描かれたものである事は間違いないとは思うのですが、その時代の中の女性の美しい部分を意識して描かれた事については美人画という名のもとで多くの人に興味を持たれ、受け入れられてきた物として間違いは無いのだと思います。


まとめると、
・幕末から明治期にかけて日本は多くの海外文化を摂取し、中でも洋装に関わる織物や着こなしというものはそれ以降の現代まで到る生活様式を変えるきっかけとなりました。
 実際に日本の女性が着物から洋服に変わるのは昭和になってからの事で、最初に洋装が入ってきても一時期の社交界に見る鹿鳴館スタイルであって、一般の女性で早くに洋服を着たのは学校の先生であったりする制服的な物で、男性がいち早く洋装したのに対して女性は昭和の20年代30年代まで和服が生活の中心でした。けれども洋装が入る中でも日本人にとって和服は簡単に手放せる物ではなかったのではないかと思います。
・写真が広まった事は、女性の身体に関する意識に大きな変化をもたらす結果になったのではないか。自分の姿が分り、そして他人の姿を見て「美しい」「美しくない」が見える。こういった事は随分意識に影響があったと思います、それは見られる存在としての女性が社会に広められて、多くの人が女性の美しさを共有する様になった事に着物しかなかった時代との大きな変化が生まれたのではないでしょうか?
 着物を着ていたとしても、歩き方などの仕草が徐々に変化していったように思います。

 多くの時代において人の感心事であり、人の感性に強く結びつく身体像の表現の変化はその後の女性意識や、取り巻く社会(見る側)の視線を大きく変えたと言えると思います、結局は「物ではなく意識が大きく変えられた」という事ではないか?文化というのは形あるもの形無い物すべて含めて、人間の関わる物が文化といえると思うので、開国によって経済や政治が変わって行ったと共に、文化の中の人間の一番大事な着ている物に変化がありそして身体つきに関する意識が変わったという事は、開国による大きな一面であったのではないでしょうか。



《質疑応答》
(質問者)
 昔の着物の素材と今の着物の素材では?
 昔の絵を観ると軽い(風に靡いた)感じがしますが、自分が着物を着ていると重い感じでゴツゴツとした感じなんですが、絵などを観ると柔らかい感じがあって、素材の変遷などは逆に最近の方が重くなっているのでしょうか?
 素材によって重さが変わると、動作や仕草も変わってくるとは思うのですが?
(森下先生)
 面白く興味深いお話です。
 昔の事ですので、素材は絹であったり天然繊維である事は間違いないのですが、やはり躾の違いと身のこなしがもの凄く違うのだと思います。
 足元の草履もそうだと思いますが、今の私たちが同じ様に着ようと思っても着れない、そんな隔たりがあると思います。それは日常の生活の動作(食事や掃除など)でそう言った事が当たり前のように行われていた時代の身体動作と、今ではいくら真似てみても無理だと思いますし、絵ではどうしても一番美しく見えるように理想的な物が描かれているので、実際には明治の写真で比べてみると、庶民の服装は綿が入っていたりしてもっとボリューム感があるものになっています。
 絵には理想化された物があるかもしれませんが、日常着としての着物のあり方が過去には根付いていたとは言えると思います。



《管理人の感想》
 女性の着物や身体感から開国を考えるという視点はとても面白く、実際には絵を見てのお話でしたので分り易かったです。新たな歴史の興味を惹かれる一面でもありましたし、昔の女性の感性にちょっとでも触れられた喜びも大きかったですよ。

いいニャン弼の法被

2008年07月08日 | イベント
「ひこねを盛り上げ隊」の“キレイHIKONEキャンペーン隊”が活動時に着用する法被が完成しました。

デザインは『どんつき瓦版』から誕生した“いいニャン弼”です。
キレイHIKONEキャンペーン隊の活動用であるので、販売等の計画は現段階では無いとの事です。
着てみたい方はぜひ“キレイHIKONEキャンペーン隊”にご参加ください。


この可愛いデザインの法被を着て活動しているグループが彦根のあちらこちらで活躍してくれる事を願います。