【記念講演】
○ミシガン州立大学連合日本センター所長 ポール・レーガン
『アメリカから見た井伊直弼公について』
アメリカ合衆国初代駐日大使タウンゼント・ハリスは、1857年11月30日月曜日の日記に次のように記しています。
「今日、私は江戸の入る。私の人生において非常に重大な出来事である。さらに日本の歴史において非常に重大な出来事である。
私は江戸に入る事を許された最初の外交代表となるのだ。たとえ私の交渉が失敗に終わっても成功しても、これは長らく人々の記憶に残る偉大な事実となる。
少なくともこの特異な日本の国民に“外交権”というものを知らしめるのであるから」
有能なビジネスマンでもあり、またニューヨークの教育局長でもあったタウンゼント・ハリスはペリー提督が1853年から54年に開始した計画をやり遂げたのでした。
公式の遠征記録によりますと、ペリー遠征の目的は「友好と通商に関する条約を締結し両国の交渉において相互に遵守すべき規則を定める事」でした。
ペリー提督の来訪によって促進された出来事は、タウンゼント・ハリスが考えたように活気的な出来事であっただけではなく、日本のそれまでの社会的・政治的・文化的な慣行を大きく変えるものでありました。その影響は21世紀の今日になってもまだ残っています。
1853年にペリー提督が日本の沖合いに現れたわけですが、それ以前にも食糧などの補給を得ようとする外国船は存在していました。しかし17世紀以降徳川幕府の下で厳格でそして選択的な鎖国政策が実施されてきました。唯一の例外としては、長崎出島においてオランダとの制限的な貿易が許されていました。
もちろん中国や朝鮮から頻繁に使節団が来訪していました。中国も長崎での貿易を求めていたわけですが、しかしこれらの貿易は厳しく制限されまた形式的なものでした。
18世紀後半から19世紀のかけて、ロシアの船乗りの冒険家やロシアンアメリカカンパニー(露米会社)の代表者ニコライ・レザノフとの出会いもありましたが、いずれの場合もこれら外国船は日本の沿岸から排除されています。
数名の藩主が日本沿岸や蝦夷地(北海道)の警備に関する懸念を持ち、1825年、英国船が補給を目的に長崎を襲った事件(1808年のフェートン号事件)を受けて幕府(水野忠邦)は「必要な場合は躊躇せず外国船を追い払うべし」という法令を発布するにいたりました。史家はこれを『無二念打払令(異国船打払令)』と呼んでいます。
アメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンは対中貿易の開始を睨んで、1834年にイギリスに押し付けた条約による交易の利益を保護した後に、極力日本との交易を開始するように海軍司令官に指示を出しました。
どうしてアジア、そして日本に感心が向けられたのでしょうか?
貿易が非常に大きな要因であった事は間違いありません。またアメリカ合衆国は人口や領土を拡大しようとしていました。1858年にペンシルバニア州で石油が発見されましたが、それまでは捕鯨が産業に必要な富や源泉を生み出す資源でした。西部への領土拡大・太平洋側へのマニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)に導かれた進出は領土の拡大のために進められたのですが、それに伴って中国や太平洋のその他の地域を目指す船乗りや商人たちにとって、水や石炭そしてそれ以外の必需品の調達において日本が重要な存在になってきたのです。
そして「日本政府との関係を樹立するための武力行使を行わない」という命令を受けて、1846年アメリカ海軍のジェームズ・ビドル提督が初めて江戸湾に来航しました。ビドル提督はしきたりに従って長崎に行くように説明を受け提督は立ち去りました。
しかしアメリカ国内ではその後も努力が続けられ、1849年にニューヨークの実業家アーロン・ヘイト・パーマーは官民の双方からアジアとの交易促進に関する支持を得ようとしていました。ここでパーマーは日本との交易関係を持つ事の利益を具体的に次のように説明したのです。
「今こそ我々自身の対外貿易を賢明に推し進めねばならない。それは促進し拡大し保護されねばならない。そしてそんな対外貿易を有利に進めるためにアメリカの政治家は諸外国の生産・資源・地理的・政治的そして商業的な統計や事実に精通する必要がある」
パーマー自身も日本の歴史や文化に精通していたと思われます。パーマーは日本について書いています。
「孤立して神秘的な国・日本は、1637年以来、中国とオランダを除く全ての諸外国との交流や交易を断ってきたが、今は止むを得ず通商の波に呑まれることになるであろう。そして日本列島は東洋においてのイギリスになるであろう。
日本人は活力に溢れ活き活きとした国民である、そして忠義に基く名誉を重んじる国民である」
パーマーは(アメリカ政府は)滞りなく必要に応じて支援を提供できるように、将軍宛てに政府の書状を送るように提案をしているのです。将軍・幕府・天皇に対し「アメリカ人が望んでいるのは、平和的でお互いに利益になるような商業的な関係である」ということを強調したいと言っているのです。
「征服・植民地化の意図が無い事を明確にする様に」とも進言しているのです。
それから数年後の1853年に幕府がペリーを認めるにはどの様な変化があったのでしょうか? それは世界中で起こっていました。19世紀の世界秩序は「自由貿易」もしくは「自由貿易の帝国主義」と呼ばれる出来事によって変わってきていたのでした。
幕府の権威の低下をもたらした原因をお話すると、不安定な状況をもたらした内外の要因です。日本語で言うと“内憂外患”というもので、国内の混乱と外国からの危険になります。興味深いことに中国の歴史では“内憂外患”は王朝の衰退をもらたすようなトラブルを意味しています。
これらを考えると1853年のペリー提督来航に単を発する出来事の重大性が理解できるようになるでしょう。
1830年代までに徳川幕府は、貨幣改定や服装・振舞いの贅沢禁止令など様々な改革を行いました。これらの政策を研究した歴史家は殆どの場合「これらは本当の原因を解決するのではなく対処療法的なものであった」と考えています。
ここには3つの要素がありました。
1.忠義の定義
その者が仕える大名や将軍や天皇に対し忠実であるのか? という問題ですがこれは『水戸学』の焦点でもありました。天皇の支配を強調する立場でもあったのですが、この問題のユニークな回答が藤田幽谷によって提案されました。
幽谷は「将軍が皇室を崇めれば、全ての大名は将軍を尊敬する。大名が将軍を尊敬すれば、幕府の重鎮や役人も大名を大切にするであろう。このようにして高位の者も低位の者もお互い擁護しあうようになり国も調和する」と考えたのでした。
2.権力の変化
徳川時代の後期には社会的・経済的・政治的な権力の大きな再分配や変化がありました。これが最も多く見て取れたのは、侍や農民が貧困化したのに対し、都市商人の多くが繁栄を享受したという事。
このような変化によって理想的と思われた身分間の伝統が大きな変化をしてきました。
3.経済の実態と経済政策
農業社会であった日本が、徳川政策の自然の既決によって変化します。すなわち城下町の発展です。そして参勤交代による城下町の経済効果、つまり参勤交代の武士たちを相手にしたサービスが、非常に複雑で微妙な経済効果を城下町に誕生させたのです。
この様な国内問題もあって1840年代になると日本は最早世界で起こっているような諸問題に無関心では居られなくなりました。中国では1838年にアヘン戦争が起こり、イギリスの軍事的な成功や新しい征服者の経済的利益を保証するような条約(1842年南京条約など)によって新しい国際交流の規則、交易の決まりが生まれたのです。
これは不平等条約が基になっています。すなわち“治外法権”“関税自主権”それ以外の国家主権の損失に繋がるような要求を含む条項のシステムです。
1844年、オランダのウィリアム二世から将軍宛てに書簡が届きました。
この中でウィリアム二世は日本を脅かす危険を理解する事の必要性に言及し「遠く離れていても蒸気船はやって来る。この様な動向に無関心でいると他国から敵意を向けられる恐れがあります。日本の天皇が定めた法律により外国人との交易が厳しく制限されている事は承知しています。
しかし老子が言っています『賢者が王位に着けば平和が守られるが、古い法律が厳しく平和を損なう恐れがあるなら賢者はそれを緩和せねばならない』と」
このウィリアムの助言を読むと、井伊直弼の役割はどのようなものであったのでしょうか? またペリー提督の来航に伴って井伊直弼がどの様な解釈を行ったか?について考えずにはいられません。
1857年ペリーはアメリカ大統領から日本開国の為に「どの国も皆、他の国との交流の度合いを自国で定める権利を有している。しかしこの権利の行使の根拠となる法律は同時にその国に対してしかるべき義務をも課すことになる、海難に遭った者を救助し上陸させる。その事はどの国にとっても責務である。この様な不幸な者たちを残虐な犯罪者の如く扱い、しかもそれを習慣的・組織的に漂難者の命を無視するような事があればその国には人類共通の敵とみなさざるを得ない」という命令を受けていました。
日本の鎖国令に対するアメリカや西洋諸国の立場は明確に解釈することができます。日本は世界的に孤立はしていましたが、世界で起こったことに無関心であった訳ではありません。蘭学という形で世界を学ぼうとする活発な計画が存在いました。
出島のオランダ人が西洋諸国の学問を伝える窓口となっていました。宗教に触れない限り武器・生物・化学・天文学やその他の化学的な発見や情報を習得することは幕府によっては強く奨励されていました。有名な言葉ですが「西洋の芸、東洋の道徳」とも言われました。
各藩でも薩摩藩や水戸藩では大砲や他の武器を製造する為の工場が建設されています。幕府と大名の間には沿岸防衛システムの改善や、若い侍への新しい武器や戦術の提供に関して協力関係も存在していました。備え・技術・軍備の必要性はペリー来航と共に大きな高まりを見せることとなりました。
日本の指導者の大きな関心は、諸外国に対抗できるのはいつなのか?何年後なのか?ということでした。2.3年で開発できるだろう。という誤った認識を持ちました。実際にはそんな余裕は殆ど残されていなかったのです。
ペリーの流儀もユニークなものでした。ペリーはビドル提督とは違って武力を誇示する事を最初から決めていました。彼は日記に「文明国が、文明国に対して示すべき儀礼をお願い事として要請するのではなく、当然の権利として強く要求する」と決意を記しています。更に「私が断固強固に主張すればするほど、彼らは私に対してより深い敬意を払う事になるだろう」とも記しています。
ペリーはこの使命を成功させる決意を持っていました、そして天皇前で横柄な態度を示すことのリスクも知っていました。そしてアメリカと日本におけるこの条約が結ばれれば、これは他の列強に対して最初の洗礼を提供しえるものであることも知っていたのです。進歩的な通商条約に向けた出発点になる事も充分知っていました。
ペリーは旧来の制限政策を打破する目的を達成しました。通商条約の締結はタウンゼント・ハリスの重大な仕事となりましたが、日本の指導者の欠如により日本は危機的状況にありました。
ハリスは2年以内に日本人が、ハリス自身が考えた通商条約を提供するつもりでいました。1857年にハリスは既に条約の条件をまとめていました。ハリスの考えは主にペリーと同じ様なものでしたが、ハリスのほうが有利な点が幾つかありました。ハリスは平和的な条約調印をモットーとしていたのです。
関係者や幕府の努力を尊重しながら、幕府内の緊張を緩和することも可能と考えたのです。
幕府に外交要求をするとついに「実は天皇の容認が必要である」と聞かされてハリスは愕然とします。そのような案件は将軍と指導者で充分と考えていたハリスは、交渉相手は老中でよいと考えていたのですが、その老中が次々と辞職に追い込まれていきました。
1858年、そのような情勢の中で井伊直弼が大老に就任しました。国家の危機の意味付けの大老です。幕府の威信と権威を守り日本人の品位を守る為に必要な処置を敢えて断行することを井伊直弼は決定しました。そして直ちに『日米修好通商条約』締結を承認したのです。
井伊家は徳川家の譜代大名の筆頭格として幕府に仕えてきました。井伊家は強力な外様大名や水戸家の圧力に常に対抗してきました。この圧力は利害の衝突という観点から政治的・思想的に解釈を行う事が可能でしょう。
井伊家の関心は、中央政府の権威と支配を保護することであったと考えます。外様大名は事ある毎に中央政府の権力を弱め、反対に自分たちの力を高めて自分たちの利益を促進しようとしました。これが原因で徳川家定が1858年に世を去って以来争いが頻発したのです。この不幸な出来事によって事態は困窮を極めました。そんな中で井伊直弼は条約調印を進めることとなったのです。
井伊直弼はこの争いをどの様に考えどの様な処置を執ったのでしょう? 海外との戦争を要求した水戸藩主の徳川斉昭とは対照的に、井伊直弼は1853年の建白書に「現在の状況においてはこれまでのように単に鎖国を主張するだけで国家の安全と平和は維持できない。我々は17世紀初頭に存在した公認の交易船制度を復活させる必要があると考える。我々はもはや祖国を鎖国に留める祖法だけを主張する時代ではない。新たな蒸気船を建造し、国民は直ちに西洋風の訓練を開始すれば西洋人に引けを取るものではない」と主張しています。
またこの前文を読むと、外国人に対して国の防衛を向上させる必要があることを力説させる直弼の雄弁を見て取れます。しかし井伊直弼は攘夷派が訴えるような感情的な要素は持ち合わせていませんでした。直弼は文化人であり深い学者でありました。日本が引き込まれた政治の世界に関する現実主義を冷静に持ち続けていたのです。
更に「この様な国情において、恒久的な問題を生じさせる事なく我が国の沿岸を守ろうとすれば、それが例え祖法を全面的または部分的に変更することを必要とするのであってもそれは祖先の意思に反するものではないと考える。したがって幕府が早急に行わなければならない事は、国民の不安をしかるべき順序で取り除き、秩序を回復する事である」と書き、国内における意見の相違・派閥主義などよりも、国家としての外交・相互理解そして協力が重要であり、日本の保護と敢然性が大切であると強く訴えたのです。
直弼はこの先の2年間と人生の最後の数年において大きな責任を担うわけですが、国内国外双方の危機的状況をますます深く理解する様になっていくのです。それが、より大きなものに身を投じ、自身を犠牲をする事の信実を生きたいという現実的な理解であろうと考えます。
したがって今こそ、井伊直弼の人生・学問・政治における業績を見直す時は他にはありません。個人的野望で国家権力に就いたのではありません。この業績と日本の重大な時期と外交史を更に研究する事で我々は人間の美徳を高めて具現した“井伊直弼”という人物を更に知ることができるのではないでしょうか?
【記念品贈呈】
彦根市長より駐日米国大使館に記念品を贈呈されました。
彦根仏壇の伝統工芸師による蒔絵(おしどりと撫子の花)の額(写真参照)
【開催市長お礼の言葉】
○彦根市長 獅山 向洋さん
この『井伊直弼と開国150年祭』につきましては、彦根市民としても色々な思いを込めて開催しております。それは、まず過去は過去としてやはりこれからの50年100年150年の未来に向けてアメリカ合衆国及びオランダ・ロシア・イギリス・フランスの開国5カ国や全世界の皆さんとより一層平和で仲良く暮らしていきたい。というのが第一の念願です。
また、やはり150年前の井伊直弼公の念願でもあったと思います。直弼公の念願を150年経った今、さらに広げていくのが私たちの責務ではないかと思うのです。
それと、井伊直弼公の本当に正しい業績を日本のみならず全世界の方々に知っていただきたい。これが私の念願です。本日の記念式典でその念願が一歩でも進んだのではないかと嬉しく思っている次第です。
話は変わりますが、只今HNKの大河ドラマにおきまして『篤姫』が放映中です。正直申しますと毎週日曜日の8時になると彦根市民は「今日はどの様な井伊直弼公が描かれるのか?という期待と不安に満ちています」これはあくまでドラマと思いながらも、地元としてはハラハラしてこの日を待っている訳です。偶然か、あるいはNHKの意図か?ちょうど『日米修好通商条約』締結150年目にこの井伊直弼が出てくるようなドラマが放映されているということも、彦根市民にとっては一つの追い風ではないかと思っている次第です。
今年、また来年も『井伊直弼と開国150年祭』を続けさせていただきまして、井伊直弼公が正しく評価されるように頑張って参りたいと思っています。
○ミシガン州立大学連合日本センター所長 ポール・レーガン
『アメリカから見た井伊直弼公について』
アメリカ合衆国初代駐日大使タウンゼント・ハリスは、1857年11月30日月曜日の日記に次のように記しています。
「今日、私は江戸の入る。私の人生において非常に重大な出来事である。さらに日本の歴史において非常に重大な出来事である。
私は江戸に入る事を許された最初の外交代表となるのだ。たとえ私の交渉が失敗に終わっても成功しても、これは長らく人々の記憶に残る偉大な事実となる。
少なくともこの特異な日本の国民に“外交権”というものを知らしめるのであるから」
有能なビジネスマンでもあり、またニューヨークの教育局長でもあったタウンゼント・ハリスはペリー提督が1853年から54年に開始した計画をやり遂げたのでした。
公式の遠征記録によりますと、ペリー遠征の目的は「友好と通商に関する条約を締結し両国の交渉において相互に遵守すべき規則を定める事」でした。
ペリー提督の来訪によって促進された出来事は、タウンゼント・ハリスが考えたように活気的な出来事であっただけではなく、日本のそれまでの社会的・政治的・文化的な慣行を大きく変えるものでありました。その影響は21世紀の今日になってもまだ残っています。
1853年にペリー提督が日本の沖合いに現れたわけですが、それ以前にも食糧などの補給を得ようとする外国船は存在していました。しかし17世紀以降徳川幕府の下で厳格でそして選択的な鎖国政策が実施されてきました。唯一の例外としては、長崎出島においてオランダとの制限的な貿易が許されていました。
もちろん中国や朝鮮から頻繁に使節団が来訪していました。中国も長崎での貿易を求めていたわけですが、しかしこれらの貿易は厳しく制限されまた形式的なものでした。
18世紀後半から19世紀のかけて、ロシアの船乗りの冒険家やロシアンアメリカカンパニー(露米会社)の代表者ニコライ・レザノフとの出会いもありましたが、いずれの場合もこれら外国船は日本の沿岸から排除されています。
数名の藩主が日本沿岸や蝦夷地(北海道)の警備に関する懸念を持ち、1825年、英国船が補給を目的に長崎を襲った事件(1808年のフェートン号事件)を受けて幕府(水野忠邦)は「必要な場合は躊躇せず外国船を追い払うべし」という法令を発布するにいたりました。史家はこれを『無二念打払令(異国船打払令)』と呼んでいます。
アメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンは対中貿易の開始を睨んで、1834年にイギリスに押し付けた条約による交易の利益を保護した後に、極力日本との交易を開始するように海軍司令官に指示を出しました。
どうしてアジア、そして日本に感心が向けられたのでしょうか?
貿易が非常に大きな要因であった事は間違いありません。またアメリカ合衆国は人口や領土を拡大しようとしていました。1858年にペンシルバニア州で石油が発見されましたが、それまでは捕鯨が産業に必要な富や源泉を生み出す資源でした。西部への領土拡大・太平洋側へのマニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)に導かれた進出は領土の拡大のために進められたのですが、それに伴って中国や太平洋のその他の地域を目指す船乗りや商人たちにとって、水や石炭そしてそれ以外の必需品の調達において日本が重要な存在になってきたのです。
そして「日本政府との関係を樹立するための武力行使を行わない」という命令を受けて、1846年アメリカ海軍のジェームズ・ビドル提督が初めて江戸湾に来航しました。ビドル提督はしきたりに従って長崎に行くように説明を受け提督は立ち去りました。
しかしアメリカ国内ではその後も努力が続けられ、1849年にニューヨークの実業家アーロン・ヘイト・パーマーは官民の双方からアジアとの交易促進に関する支持を得ようとしていました。ここでパーマーは日本との交易関係を持つ事の利益を具体的に次のように説明したのです。
「今こそ我々自身の対外貿易を賢明に推し進めねばならない。それは促進し拡大し保護されねばならない。そしてそんな対外貿易を有利に進めるためにアメリカの政治家は諸外国の生産・資源・地理的・政治的そして商業的な統計や事実に精通する必要がある」
パーマー自身も日本の歴史や文化に精通していたと思われます。パーマーは日本について書いています。
「孤立して神秘的な国・日本は、1637年以来、中国とオランダを除く全ての諸外国との交流や交易を断ってきたが、今は止むを得ず通商の波に呑まれることになるであろう。そして日本列島は東洋においてのイギリスになるであろう。
日本人は活力に溢れ活き活きとした国民である、そして忠義に基く名誉を重んじる国民である」
パーマーは(アメリカ政府は)滞りなく必要に応じて支援を提供できるように、将軍宛てに政府の書状を送るように提案をしているのです。将軍・幕府・天皇に対し「アメリカ人が望んでいるのは、平和的でお互いに利益になるような商業的な関係である」ということを強調したいと言っているのです。
「征服・植民地化の意図が無い事を明確にする様に」とも進言しているのです。
それから数年後の1853年に幕府がペリーを認めるにはどの様な変化があったのでしょうか? それは世界中で起こっていました。19世紀の世界秩序は「自由貿易」もしくは「自由貿易の帝国主義」と呼ばれる出来事によって変わってきていたのでした。
幕府の権威の低下をもたらした原因をお話すると、不安定な状況をもたらした内外の要因です。日本語で言うと“内憂外患”というもので、国内の混乱と外国からの危険になります。興味深いことに中国の歴史では“内憂外患”は王朝の衰退をもらたすようなトラブルを意味しています。
これらを考えると1853年のペリー提督来航に単を発する出来事の重大性が理解できるようになるでしょう。
1830年代までに徳川幕府は、貨幣改定や服装・振舞いの贅沢禁止令など様々な改革を行いました。これらの政策を研究した歴史家は殆どの場合「これらは本当の原因を解決するのではなく対処療法的なものであった」と考えています。
ここには3つの要素がありました。
1.忠義の定義
その者が仕える大名や将軍や天皇に対し忠実であるのか? という問題ですがこれは『水戸学』の焦点でもありました。天皇の支配を強調する立場でもあったのですが、この問題のユニークな回答が藤田幽谷によって提案されました。
幽谷は「将軍が皇室を崇めれば、全ての大名は将軍を尊敬する。大名が将軍を尊敬すれば、幕府の重鎮や役人も大名を大切にするであろう。このようにして高位の者も低位の者もお互い擁護しあうようになり国も調和する」と考えたのでした。
2.権力の変化
徳川時代の後期には社会的・経済的・政治的な権力の大きな再分配や変化がありました。これが最も多く見て取れたのは、侍や農民が貧困化したのに対し、都市商人の多くが繁栄を享受したという事。
このような変化によって理想的と思われた身分間の伝統が大きな変化をしてきました。
3.経済の実態と経済政策
農業社会であった日本が、徳川政策の自然の既決によって変化します。すなわち城下町の発展です。そして参勤交代による城下町の経済効果、つまり参勤交代の武士たちを相手にしたサービスが、非常に複雑で微妙な経済効果を城下町に誕生させたのです。
この様な国内問題もあって1840年代になると日本は最早世界で起こっているような諸問題に無関心では居られなくなりました。中国では1838年にアヘン戦争が起こり、イギリスの軍事的な成功や新しい征服者の経済的利益を保証するような条約(1842年南京条約など)によって新しい国際交流の規則、交易の決まりが生まれたのです。
これは不平等条約が基になっています。すなわち“治外法権”“関税自主権”それ以外の国家主権の損失に繋がるような要求を含む条項のシステムです。
1844年、オランダのウィリアム二世から将軍宛てに書簡が届きました。
この中でウィリアム二世は日本を脅かす危険を理解する事の必要性に言及し「遠く離れていても蒸気船はやって来る。この様な動向に無関心でいると他国から敵意を向けられる恐れがあります。日本の天皇が定めた法律により外国人との交易が厳しく制限されている事は承知しています。
しかし老子が言っています『賢者が王位に着けば平和が守られるが、古い法律が厳しく平和を損なう恐れがあるなら賢者はそれを緩和せねばならない』と」
このウィリアムの助言を読むと、井伊直弼の役割はどのようなものであったのでしょうか? またペリー提督の来航に伴って井伊直弼がどの様な解釈を行ったか?について考えずにはいられません。
1857年ペリーはアメリカ大統領から日本開国の為に「どの国も皆、他の国との交流の度合いを自国で定める権利を有している。しかしこの権利の行使の根拠となる法律は同時にその国に対してしかるべき義務をも課すことになる、海難に遭った者を救助し上陸させる。その事はどの国にとっても責務である。この様な不幸な者たちを残虐な犯罪者の如く扱い、しかもそれを習慣的・組織的に漂難者の命を無視するような事があればその国には人類共通の敵とみなさざるを得ない」という命令を受けていました。
日本の鎖国令に対するアメリカや西洋諸国の立場は明確に解釈することができます。日本は世界的に孤立はしていましたが、世界で起こったことに無関心であった訳ではありません。蘭学という形で世界を学ぼうとする活発な計画が存在いました。
出島のオランダ人が西洋諸国の学問を伝える窓口となっていました。宗教に触れない限り武器・生物・化学・天文学やその他の化学的な発見や情報を習得することは幕府によっては強く奨励されていました。有名な言葉ですが「西洋の芸、東洋の道徳」とも言われました。
各藩でも薩摩藩や水戸藩では大砲や他の武器を製造する為の工場が建設されています。幕府と大名の間には沿岸防衛システムの改善や、若い侍への新しい武器や戦術の提供に関して協力関係も存在していました。備え・技術・軍備の必要性はペリー来航と共に大きな高まりを見せることとなりました。
日本の指導者の大きな関心は、諸外国に対抗できるのはいつなのか?何年後なのか?ということでした。2.3年で開発できるだろう。という誤った認識を持ちました。実際にはそんな余裕は殆ど残されていなかったのです。
ペリーの流儀もユニークなものでした。ペリーはビドル提督とは違って武力を誇示する事を最初から決めていました。彼は日記に「文明国が、文明国に対して示すべき儀礼をお願い事として要請するのではなく、当然の権利として強く要求する」と決意を記しています。更に「私が断固強固に主張すればするほど、彼らは私に対してより深い敬意を払う事になるだろう」とも記しています。
ペリーはこの使命を成功させる決意を持っていました、そして天皇前で横柄な態度を示すことのリスクも知っていました。そしてアメリカと日本におけるこの条約が結ばれれば、これは他の列強に対して最初の洗礼を提供しえるものであることも知っていたのです。進歩的な通商条約に向けた出発点になる事も充分知っていました。
ペリーは旧来の制限政策を打破する目的を達成しました。通商条約の締結はタウンゼント・ハリスの重大な仕事となりましたが、日本の指導者の欠如により日本は危機的状況にありました。
ハリスは2年以内に日本人が、ハリス自身が考えた通商条約を提供するつもりでいました。1857年にハリスは既に条約の条件をまとめていました。ハリスの考えは主にペリーと同じ様なものでしたが、ハリスのほうが有利な点が幾つかありました。ハリスは平和的な条約調印をモットーとしていたのです。
関係者や幕府の努力を尊重しながら、幕府内の緊張を緩和することも可能と考えたのです。
幕府に外交要求をするとついに「実は天皇の容認が必要である」と聞かされてハリスは愕然とします。そのような案件は将軍と指導者で充分と考えていたハリスは、交渉相手は老中でよいと考えていたのですが、その老中が次々と辞職に追い込まれていきました。
1858年、そのような情勢の中で井伊直弼が大老に就任しました。国家の危機の意味付けの大老です。幕府の威信と権威を守り日本人の品位を守る為に必要な処置を敢えて断行することを井伊直弼は決定しました。そして直ちに『日米修好通商条約』締結を承認したのです。
井伊家は徳川家の譜代大名の筆頭格として幕府に仕えてきました。井伊家は強力な外様大名や水戸家の圧力に常に対抗してきました。この圧力は利害の衝突という観点から政治的・思想的に解釈を行う事が可能でしょう。
井伊家の関心は、中央政府の権威と支配を保護することであったと考えます。外様大名は事ある毎に中央政府の権力を弱め、反対に自分たちの力を高めて自分たちの利益を促進しようとしました。これが原因で徳川家定が1858年に世を去って以来争いが頻発したのです。この不幸な出来事によって事態は困窮を極めました。そんな中で井伊直弼は条約調印を進めることとなったのです。
井伊直弼はこの争いをどの様に考えどの様な処置を執ったのでしょう? 海外との戦争を要求した水戸藩主の徳川斉昭とは対照的に、井伊直弼は1853年の建白書に「現在の状況においてはこれまでのように単に鎖国を主張するだけで国家の安全と平和は維持できない。我々は17世紀初頭に存在した公認の交易船制度を復活させる必要があると考える。我々はもはや祖国を鎖国に留める祖法だけを主張する時代ではない。新たな蒸気船を建造し、国民は直ちに西洋風の訓練を開始すれば西洋人に引けを取るものではない」と主張しています。
またこの前文を読むと、外国人に対して国の防衛を向上させる必要があることを力説させる直弼の雄弁を見て取れます。しかし井伊直弼は攘夷派が訴えるような感情的な要素は持ち合わせていませんでした。直弼は文化人であり深い学者でありました。日本が引き込まれた政治の世界に関する現実主義を冷静に持ち続けていたのです。
更に「この様な国情において、恒久的な問題を生じさせる事なく我が国の沿岸を守ろうとすれば、それが例え祖法を全面的または部分的に変更することを必要とするのであってもそれは祖先の意思に反するものではないと考える。したがって幕府が早急に行わなければならない事は、国民の不安をしかるべき順序で取り除き、秩序を回復する事である」と書き、国内における意見の相違・派閥主義などよりも、国家としての外交・相互理解そして協力が重要であり、日本の保護と敢然性が大切であると強く訴えたのです。
直弼はこの先の2年間と人生の最後の数年において大きな責任を担うわけですが、国内国外双方の危機的状況をますます深く理解する様になっていくのです。それが、より大きなものに身を投じ、自身を犠牲をする事の信実を生きたいという現実的な理解であろうと考えます。
したがって今こそ、井伊直弼の人生・学問・政治における業績を見直す時は他にはありません。個人的野望で国家権力に就いたのではありません。この業績と日本の重大な時期と外交史を更に研究する事で我々は人間の美徳を高めて具現した“井伊直弼”という人物を更に知ることができるのではないでしょうか?
【記念品贈呈】
彦根市長より駐日米国大使館に記念品を贈呈されました。
彦根仏壇の伝統工芸師による蒔絵(おしどりと撫子の花)の額(写真参照)
【開催市長お礼の言葉】
○彦根市長 獅山 向洋さん
この『井伊直弼と開国150年祭』につきましては、彦根市民としても色々な思いを込めて開催しております。それは、まず過去は過去としてやはりこれからの50年100年150年の未来に向けてアメリカ合衆国及びオランダ・ロシア・イギリス・フランスの開国5カ国や全世界の皆さんとより一層平和で仲良く暮らしていきたい。というのが第一の念願です。
また、やはり150年前の井伊直弼公の念願でもあったと思います。直弼公の念願を150年経った今、さらに広げていくのが私たちの責務ではないかと思うのです。
それと、井伊直弼公の本当に正しい業績を日本のみならず全世界の方々に知っていただきたい。これが私の念願です。本日の記念式典でその念願が一歩でも進んだのではないかと嬉しく思っている次第です。
話は変わりますが、只今HNKの大河ドラマにおきまして『篤姫』が放映中です。正直申しますと毎週日曜日の8時になると彦根市民は「今日はどの様な井伊直弼公が描かれるのか?という期待と不安に満ちています」これはあくまでドラマと思いながらも、地元としてはハラハラしてこの日を待っている訳です。偶然か、あるいはNHKの意図か?ちょうど『日米修好通商条約』締結150年目にこの井伊直弼が出てくるようなドラマが放映されているということも、彦根市民にとっては一つの追い風ではないかと思っている次第です。
今年、また来年も『井伊直弼と開国150年祭』を続けさせていただきまして、井伊直弼公が正しく評価されるように頑張って参りたいと思っています。