彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊直孝と大老の家格

2023年02月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 天正18年(1590)2月11日、井伊直政の次男・井伊直孝が誕生した。母は印具徳右衛門の娘(阿古)。阿古は直政の正室東梅院(松平康親の娘・花)が実家から連れてきた侍女であったが、ほぼ同時期に直政の子を妊娠したことで花の怒りを買い実家に戻されたとの話が定説になっているが、『井伊家傳記』では「一年の間に両腹懐胎すれば一方が必ず危うい」という昔からの伝承に従って阿古を井伊家から出したとの話を記している。
 しかし、阿古が印具氏の出身であったのか? との謎もある。『寛政重修諸家譜』では直孝は駿河国(静岡県)藤枝で誕生したことになっているが、直孝自身は自らの生誕地を駿河国益津郡中里村(焼津市)であるとしてこの地の若宮八幡宮を再建、近くの村松五郎右衛門屋敷跡には井伊直孝産湯の井もある。また焼津市では、阿古は中里村近くの岡部宿で働いていた農家の娘だったとされている。私は農家の娘が村で直政の男子を生み、この報せを聞いた東梅院が旧臣である印具徳右衛門に母子の保護を命じたのではないか? と考えている。

 直孝はこののち、幼児らしかぬ勇敢さをみせて井伊家に迎えられることとなる。長々と直孝生誕を説明したがここで重要となるのは直孝の母は身分が高くなかったことである。
 井伊家は、徳川四天王の一人という武断派でありながら大老四家の一家に挙げられる文治派の政治家でもある。この様な大名は井伊家しか例がない(大老と同等の大政参与ならば榊原忠次の例はある)ため、井伊家の特異性を示す材料となっている。
 では、なぜ井伊家はそこまで重視されたのだろうか? 井伊直政と直孝親子の優れた能力が重視されたことは間違いないが身分についても考えなければならない。まず直政は一度滅びた家の子で徳川家康家臣団にとっては三河国人ではない中途採用であるため問題が起こればいつでも切り捨てることができる人材だった。しかし直政自身の努力により東梅院を徳川家康の養女として正室に迎えて使い捨てではない重臣となる。
 江戸時代の大名にとっては家を残すことが大切だとされている。一番困ることは当主の不祥事である。母親の身分も高い大名を政治に参加させて失脚したとき、大名家にとっては不祥事になってしまう。このため江戸初期には身分が低い人物の方が幕政に加わり易かった。井伊家にとっても、東梅院の子である直継が当主であったならば幕政に不参加だったかもしれない。直孝の母の身分が低く、諸事情で直継が安中藩主になっていたために直孝が幕府の要職に就いた。彦根藩内では直孝が幕政で不祥事を起こしたならば直継を迎える準備があったと考えて間違いないだろう。
 直孝の後を継いだ直澄の母も身分は高くない。そしてこの二人が共に大政参与を務めた前例こそが井伊家を大老の家格へと押し上げることに繋がるのだ。


井伊直孝産湯の井(焼津市)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする