彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

肥田城水攻め(中編)

2019年05月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 永禄2年(1559)4月3日から始まった肥田城水攻めの詳しい経緯を知る手掛かりはほとんど残されていない。数少ない情報から考察すると、堤防を築き宇曽川と愛知川の水を流し込んだ六角軍は城を囲んだまま安食に本陣を置く。そのまま戦いを仕掛けることはなくこう着状態となる。水を留めるということは大きな水圧が堤防にかかることになる。現代の堤防でも想定外の流水による決壊があるならば、土を固めるだけの時代では強度もたかが知れていると考えた方が良い。
 水を留めることで堤防にかかる水圧。そして水はだんだんと土の中に染み込んでゆき、堤防は気が付かない間に弱くなってゆく。そこに雨が降り水嵩が増せば弱くなった堤防は一気に決壊するのだ。
この現象が肥田城でも起こった。
 水攻め開始から2か月を迎えようとする直前、5月28日に城を囲んでいた堤防の一部が決壊する。こうなると水は外に流れ出し囲っていただけの六角軍の方に被害が出たのだった。
 こののち、六角軍は観音寺城に兵を引いたと言われている。常識的に考えると肥田城を水で囲って城兵を動けなくし最低限の兵力を残したうえで進軍を行ったとの流れになるが同時期に六角軍によって宇曽川以北の城が攻められたと確定される記録を探すのは難しい。
 また例え堤防が決壊したとしても1万5千の兵で攻めれば肥田城のような小城は一昼夜を待たずに落城するが、堤防決壊後に肥田城はそのまま高野瀬氏の城として残っている。また堤防が決壊した地域に「廿八」との地名を付け(小字として残っている)後々まで言い伝えられることになる。
 残された記録を読むだけならば、六角軍は総力を持って観音寺城を出兵し、小さな城を囲み碌な戦いも行わずに二か月で兵を戻した。永禄2年の軍事行動はそれだけになってしまう。
 ここで一点誤解を招かないようにするならば、私たちが考えている城攻めの終焉は、城に攻城軍がなだれ込み建物に火が放たれ城主一族や主だった家臣が城を枕に討死か自害する場面ではないだろうか?
 ドラマなどで描かれるこの場面は、実際にはほとんどない。攻め側に大きな影響を残す城主か最後まで開城に抵抗する城以外にはありえないとも言える。城主や重臣を務めるような武将は当時でも貴重な人材である。そのような人材が城攻めの度に失われては人材不足に陥ってしまう。城攻めは攻め手が大きな力を示して守り手を降伏させて終わるのがほとんどであった。万が一城攻めになったとしても城を囲い経済封鎖をおこなうこと、もしくは城の周囲の領民たちの家や田畑が荒らされることで領主に対する信頼を失墜させることで攻め手の勝利と宣言することができた。その意味では肥田城水攻めの段階で六角軍が勝利したのかもしれないが、六角義賢が満足する勝利ではなかったはずである。

肥田城水攻め堤防址
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『御城共演〜彦根城〜』

2019年05月03日 | イベント
スマホやPCでプレーできるお城擬人化ゲームの『御城プロジェクト:RE』のリアルコラボ「御城共演〜彦根城〜」が5月2日と3日に彦根城で行われました。
ゲーム内で、高レア度を示し人気も高いキャラ彦根城とリアル彦根城をコラボレーションしたイベントです。

・ゲーム内の彦根城




まずは屋形船の船着場でカードを手に入れて、ここを含めた城内三か所でスタンプを押して周る城内を巡るイベントでした。
・カード

・スタンプポイント


全部押したので天守と記念撮影


墨絵師の御歌頭さんが描かれたコラボ作品

コラボグッズが欲しくて購入


グッズを買うと御神籤も引けました


凄い人気だったと聞いています。
こういうイベントができるお城があることは、集客が見込める大切な観光資源ですね。


関連地:彦根市 彦根城
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伝茨田堤と堤根神社

2019年05月01日 | 史跡
令和最初の日の史跡巡りの最後を飾ったのは日本現存する最古の堤防とされている伝茨田堤でした。



四條畷から京阪に乗るためにバスを利用して大和田駅に着き、周辺に面白い史跡がないか地図を見ると「堤根神社」という不思議な名前の神社を見つけたので寄ってみて出会った史跡です。

五世紀頃に大和川や淀川の河川に造られた堤防で帰化人(渡来人)の技術が使われていました。その中心人物が茨田氏だったために「茨田堤」と呼ばれるようです。
『記紀』にも記載されているらしいですが、発掘調査では鎌倉時代の遺構しか見つからず(それでも古い!)、それ以降は「伝」を付けて呼ぶようになったみたいですね。


その茨田堤に由来する神社が堤根神社です。





関連地:大阪府門真市
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四條畷の南朝史跡訪問

2019年05月01日 | 史跡
令和最初の日は、本当にいろんな時代の史跡を訪れました。
南北朝時代の史跡では特に南朝を意識して四條畷も初訪問。

まずは楠木正成の息子正行の墓所の一つでもある小楠公墓地。

四條畷の戦いで高師直軍と戦った正行ですが、その勢力は高軍(北朝)6万、楠木軍(南朝)3千とも伝わるくらいの差がありました。
その様な戦いの中で、正行は討死します。
その供養碑が建てられた後に地域の人が楠を植えると立派に育った場所が小楠公墓所です。



明治維新は水戸藩の『大日本史』の影響から南朝が重視されていたために、明治になり南朝の忠臣を顕彰する流れが大きくなり正行を祀る四條畷神社が建立されました。


境内には、
正行と父の離別を描いた桜井の別れ

父の死を受けて自害しようとした正行を止めた母との物語

を表した像もありました。

その近くには正行の従兄弟で同じくこの戦いで討死した和田賢秀の墓もあります。


首になってなお敵に噛み付いたために「歯嚙様」と呼ばれ、「歯神様」となって信仰されたとのことでした。


関連地:四條畷市
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阿遅速雄神社(あちはやおじんじゃ)

2019年05月01日 | 史跡
改元の日に、三種の神器に関わる場所に寄ってみたくなり阿遅速雄神社に寄りました。



ここは、放出(はなてん)という地名の由来にもなった場所です。

天智天皇の御代での事、新羅の僧であった道行は熱田神宮から草薙剣を盗み出しました。
船で大和川を降って逃亡していましたが、日本から離れることを嫌がった剣が暴れたために道行は剣を捨てたのです。
その事からこのあたりを「はなつ(放つ)」の意味の放出と呼ばれるようになりました。
また、その草薙剣が一時保管されていたのが阿遅速雄神社だったのです。

また、ここには幕末お蔭参りである「ええじゃないか」に関わるお蔭灯篭が大阪市内で唯一残されています。



関連地:大阪市鶴見区放出東
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伝阿弖流為 母禮之塚

2019年05月01日 | 史跡
令和最初に訪れた史跡は伝阿弖流為 母禮之塚でした。
ここを目指して訪れたわけではなく、偶々近くに用事があり行ってみたらあった史跡でした。




阿弖流為と母禮は、平安時代に東北地方で兵を挙げて坂上田村麻呂と戦い、敗れ、田村麻呂によって都に連れてこられた人物です。

田村麻呂は彼らの助命を約束して都に連れてきており、助命に奔走しましたが朝廷はこれを認めずに河内国で処刑されたと言われていてここが首塚になるとの伝承があります。

近くには室町時代の門を残したままの片埜神社があります。
一ノ宮と呼ばれていますが、河内国一ノ宮は牧岡神社なので、不思議な気がする場所です。






関連地:枚方市 牧野公園
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