彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:井伊直憲、家督相続(4月28日)

2010年04月28日 | 何の日?
萬延元年(1860)4月28日、月番老中の安藤信正の役宅に井伊愛麿(直憲)が召し出されました。
彦根藩は、愛麿の名代として南部丹波守が安藤邸に行き、愛麿の家督相続許可の達しを受けました。同時に愛麿は彦根藩主として直弼の遺領30万石(これに預かり5万石で35万石)を受いだのです。
(南部丹波守は、七戸藩主南部信誉の事だと考えられるのですが、なぜこの時に井伊家の名代になったのかが、管理人の調査不足で分かりません)

幕府からの文書には
『其方え遺領被下候頃合之義、先格の振合も有之候處掃部頭勤役中、格別精勤致し、其上先般御内沙汰之趣、厚相心得、家来末々迄、心得違之義無之、聊も御苦労相掛ざる段、於愛麿も、教諭方行届候故之義と被思召、家柄之義、旁出格之譯を以、遺領速に被仰出候事に候条、被得其意、京都守護之義をも、厚被相心得在所表手當方之儀、此上猶更手厚に致し、非常之節、手抜無之様、彌厳重に被申付幾久敷可被相勤候』(『櫻田義擧録』より転記)
とあります。

これらの文章は、ほぼ雛型通りに書かれる物なのですが、彦根藩への遺領相続通達の中に“京都守護之義”との文言があり、これは初めて書かれたもので、直弼が京都守護を公言しそれを幕府も認めた形が観てとれます。

この日より、井伊直憲は13歳にして彦根藩35万石と京都守護の責任を双肩に負う立場となったのです。

『江戸の教育力』講演聴講報告

2010年04月23日 | 講演
『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー1「新しい江戸イメージ」
の第3回目の講座として『江戸の教育力』と題された講義が開かれました。

講師は3週目の大石学先生です。


昔の時代劇のイメージでは、江戸時代は高札が出ても庶民が読む事ができずに浪人や僧や庄屋などの字を読める人から内容を訊く。という物が多いですが、実際は江戸時代の庶民の7~8割は字が読み書きでき、英語でも「5年あればマスターできる」と言っていた日本人が居た事が紹介されていました。

そして、今の学校の倍以上の教育機関が全国にあったこと。
江戸時代の日本はすでに文書が重要視される時代であったことなどが紹介されました。

高札に関しては、多くの人が字を読めるのが前提で幕府は高札を出していた。との事でしたが、確かに読めない物を掲げて読める人間が通るまで待つような無駄な政策はおかしいですよね。
当たり前のことを当たり前に考えれば、当時は武士や知識人じゃなくても字が読めた事が納得できます。

最後のまとめで大石先生は、ご自身の著書『江戸の教育力―近代日本の知的基盤―』から「現代においても、社会が、保護者が、さらには児童・生徒自身が教育の意義を認識し、学問の楽しさを理解できるよう環境を整備する必要がある」と述べられました。
江戸時代は義務教育じゃなくても、学ぶ事に懸命になっていました。
なぜ人は学ぶのか? 江戸の人々の教育の姿勢の中から改めて学びたいです。

江戸時代の日本人の生き方の中に、今回の3回の講演で、今の世界が抱えている問題の答えの糸口が少し見える気がしました。


≪管理人による質問≫
今回、大石先生の『新しい江戸イメージ!』のお話が最後でしたので、少しだけ質問をいたしました。

(管理人)
藩校の名前は、同じのが多いですが、決まっているんですか?
(大石先生)
「あの藩と同じにしたい」というモデルがありますが、なぜか限られてきちゃうんです。
(管理人)
彦根と水戸が同じ“弘道館”とか。
(大石先生)
意識はしてると思いますね。
(管理人)
先生は、江戸時代から現代まで官僚制度が続いたというお話をこの3回でされていましたが、やはり吉宗の時代からなのですか?
(大石先生)
今回は話せませんでしたが「足高の制」など下級の人をどんどん抜擢するんです。ですから吉宗の政治からと考えていいと思います。
(管理人)
吉宗の時に、尾張宗春に味方した大名はいたのですか?
(大石先生)
榊原が怪しい動きをします。それ以外は今は確認できません。
(管理員)
ありがとうございました。


『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー1「新しい江戸イメージ」は今回で終了し、次回は5月に中井均先生による『戦国彦根の城郭講座』が3回行われます。

『江戸にもあった政権交代』講演聴講報告

2010年04月16日 | 講演
『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー1「新しい江戸イメージ」
の第2回目の講座として『江戸にもあった政権交代』と題された講義が開かれました。


講師は先週に引き続き大石学先生です。

今回のお話は、江戸時代にもあった政権交代という事で、徳川吉宗が八代将軍に就任した経緯と、それに反発した尾張宗春のお話でした。

徳川吉宗の八代将軍就任は奇跡的な事であり、安定した地位ではなかった事であるとう以外な話があり、
吉宗の政策を現在の大きな政府
宗春を小さな政府
に見立てて、今の政権交代に似たような政治闘争のお話もありました。

そして、先週もお話にあった、江戸時代に今の官僚制度の元が作られたとの話の一番のキーポイントが吉宗が宗春との争いに勝った時だったのが新しい驚きでした。
その官僚を育てる機関が藩校だったそうです。

来週は『江戸の教育力』がテーマになりますが、藩校の話も出てくるのでしょうか。

石田三成公生誕450年祭『大坂春の陣』

2010年04月12日 | イベント
2010年4月11日、大阪城周辺に残る西軍に関わる史跡を巡るイベントと、大阪中央公会堂で戦国に浸るイベントを通して『大坂春の陣』というイベントが行われました。

天気予報では雨とも言われていた大阪は、熱いくらいに晴れ、大阪城もその雄大な姿を示していました。

そんな大阪は桜の満開も過ぎ、葉桜があちらこちらで逆転の美を醸し出しています。


大阪城内には、豊臣秀吉・秀頼そして秀長を祀った豊国神社があり、その秀吉公の像の近くで昼の史跡巡りイベント『難波のこと』が始まりました。


ガイドさん付きのツアーで行かれる方もおられたり、地図を貰って思い思いに散策される方もおられたりで個々の楽しみ方で歴史を感じるイベントでした。
そのメインは真田幸村(信繁)の史跡です。

真田の抜け穴が伝わる三光神社には幸村の像があります。

現代の幸村も、約400年前の武功にあやかって同じポーズでお出迎え、そしてここと幸村最後の地の安居神社では“いしだみつにゃん”たちも登場しました。

この史跡巡りは他にも心眼寺や円球寺、細川屋敷跡なども巡り、安居神社でゴールです。
安居神社は、幸村終焉の地で、そんな幸村を示した像が2009年12月に建てられました。

ここで全てをやり終えたのでしょうか?それともまだ心残りはあったのでしょうか?
それは幸村のみぞ知る事です。
幸村はこの辺りで越前藩士に討たれました。



さて、夜の部『夢のまた夢』は舞台を大阪市中央公会堂に移します。
しばらく時間が有ったので周りを散策すると、
大阪の大商人淀屋の屋敷跡

幕末に多くの著名人を輩出した緒方洪庵の適塾

そして、これは帰りに見つけたのですが、彦根にも縁が深い木村重成の碑

などなど、様々な歴史遺跡の宝庫でした。
「あぁ、昼と夜に間があるのは、これらの歴史を認識する時間か、主催者の歴史好きに対するささやかな心配りを感じる」と、もしかしたら見当違いであろう感謝の意を心に置きつつ、18時から夜の部が動き始めました。

この中での注目は、石田三成と真田幸村の子孫の方による西軍ぶっちゃけトーク。
三成の長期滞在先には子どもができていて、子孫が石田さんに連絡される話や、真田幸村は九度山では貧乏生活を送っていなかった話など、びっくり・笑いなどありました。
また三成の頭蓋骨のレプリカと復顔の登場に、一瞬会場の空気が凛と張り詰める場面もあり、その二つの首が会場の中を移動する様はまるで略式首実験のようでもあり、不思議な時間でした。

その後、太閤秀吉が天正遣欧使節が持ち帰った楽器で聞いたという音楽を堪能。
『千々の悲しみ』とのタイトルが付いた曲を秀吉が気に入ってリクエストしたそうで、この曲の名を尋ねた時に、石田三成がすかさず『皇帝の歌』と答えたエピソードがあります。
実際に曲を聴くと、皇帝というよりは田舎の風景の方が似合いそうな曲で、当時も都などでは歌舞音曲に溢れていたとして今の音楽的風景と同じ感覚を持っていたならば、秀吉がこの曲を気に入ったのは出自の尾張中村の風景を思い出したからなのかもしれません。
だからこそ三成は、太閤を音楽に合わすのではなく、音楽を太閤に合わすために『皇帝の歌』という仰々しい曲名を言ったのでしょうか?

色んな解釈が頭を過ります。

今は倖わせですね。400年前は権力の中枢に居る者しか味わえなかった物が、簡単に身の回りにあるのですから。
様々な国の音楽の演奏が終わり、そんな事を考えました。

『江戸のイメージの変化』講演聴講報告

2010年04月09日 | 講演
『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー1「新しい江戸イメージ」
の第1回目の講座として『江戸のイメージの変化』と題された講義が開かれました。

講師は『新選組!』『篤姫』『龍馬伝』などの時代考証をされている大石学先生。

講演の内容は、『篤姫』や『龍馬伝』の時代考証をされている大石先生らしいドラマの映像を含んだ『龍馬伝』の考証のお話や、明治維新は官僚革命でもあったというご自身の説を含んだお話が含まれ、新しい江戸時代の風景を見せていただきました。

特に管理人が面白かったのは、
武士は、武器を持ちながらも“槍の穂先、銃の銃口さえもが丁寧に鞘に包まれているのは、平和時に、なんなれと武器を人の目に曝すことを禁じている禁止命令のためだったのである”というドリルフ・リンダウの日本の話を聞かされた時でした。
「それなら、桜田門外の変で井伊家の家臣が刀に袋を付けていたのは当たり前の事だったのでは?」と彦根市民として最初に思いつく歴史事件で疑問もよぎりました。。


今は、江戸時代から続く日本型社会が変わりつつある時でもあるという言葉に、明治維新で封建社会が一新されたとのイメージが崩れるのも面白かったです。

歴史を考証し、史実とドラマの間の落とし所を見つけたり、新しい歴史の見方を感じさせて貰える講義でした。

来週は『江戸にもあった政権交代』とのタイトルでお話をされるようでうので、こちらも期待できますね。

150年前:井伊直弼葬儀(4月9日)

2010年04月09日 | 何の日?
萬延元年(1860)4月9日、井伊直弼の葬儀が執り行われ、彦根藩邸上屋敷から出棺され、翌10日に豪徳寺の井伊家墓所に葬られました。

諡は『宗観院柳暁覚翁』
これは死後に付けられた物ではなく、安政2年に直弼が彦根から江戸に出府する際、自ら書いた法号を側役の三浦十左衛門に託していたので、その号から付けられました。

また、これと同じ頃に桜田門外の変の後で直弼が血を流した付近の土を四斗樽四杯に詰めて彦根に送られました。天寧寺に残る大老供養塔がこの樽を埋葬した場所です。


さて、桜田門外の変後の直弼の出来事については3月28日にも書きましたので、今回はちょっとした関連豆知識をご紹介します。

3月3日の桜田門外の変の記事の時に、直弼の首が偽首だったかもしれないとの話の中で、

“星亮一さんの『井伊直弼』という小説のあとがきに面白い話があります。
桜田門外の変から、直弼が豪徳寺に埋葬されるまでの2カ月間(3/3から閏3月を含んで4/9まで)、直弼の遺体はどうなっていたのか?との疑問です。
これを母利美和さん(当時の彦根城博物館の学芸員)が「塩漬けにしたという話がある」と回答されたと書かれていました。
2ヶ月間、塩漬け状態で直弼の遺体が残っていたのなら、幕府の検視(直弼の死は公にできないので建前上は見舞)や跡を継いだ息子の直憲、そして正室の昌子など直弼の顔を見れる人物は少なからず存在したと思います。また宇津木六之丞あたりなら首が偽物だったなら藩士に密かに探させたのではないでしょうか?
それに、もし偽首なら事情が分かった重臣クラスが密かに火葬してしまうと思います。

塩漬けの話が本当なら、首は本物。火葬した形跡があるなら偽物と考えられるかもしれませんね。”

と、直弼の遺体が塩漬けにされていた可能性があると紹介しました。
そうでなければ、2ヵ月間の遺体保存が難しいからです。


…では、塩漬けはどのように行うのでしょうか?
遺体は、そうなった時点から腐敗が進んできますので、塩漬けは急務の作業ともいえました。
その方法は、まずは節を繰り抜いた竹を遺体の肛門に突き刺して、心太と同じような要領で塩を詰め込んでいきます。
成人男性で、だいたい1斗(18リットル)くらい入るとお腹の辺りが膨張して塩が入らなくなります。
すると次は口に竹を入れて、また塩を詰め込むのです。
こちらも1斗くらいで入らなくなるそうです。こうして36リットルの塩を詰めた遺体を、樽に入れて、その樽も塩で一杯にして遺体が塩で埋まった形にします。
そのままひと月ほどすると、水分が抜けた人間が完成するのです。要はミイラですね。

実は桜田門外の変に関わる塩漬けは、もう一つお話があります。
それは、襲撃した水戸浪士側のお話。
水戸浪士の同志として、京で活動をしていた高橋多一郎親子は、事件の後で追われる立場となり追いつめられて切腹して果てたのです。その遺体は埋葬を許されず塩漬けにして放置されました。
3年後の文久3年、この処断を哀れに感じた会津藩は、高橋親子の遺体を水戸藩の墓地に埋葬するように許可を出したのです。こうして親子の遺体は京から中山道を伝って水戸まで運ばれました。
つまり、彦根藩領も通過したのです。文久3年の彦根藩は前年に10万石を減知され、直弼から引き継がれた左近衛権中将の官位を辞した時でした。ある意味で言うならば直弼の治世を消して新たな彦根藩を建築している時期でしたがその一方で「桜田門外さえ無ければ…」と悔しい想いをしている藩士も多かった筈です。そんな時に彦根藩領内を前藩主の敵の同志の遺体が通る様子とはどのようなモノだったのでしょうね。

地域通貨「彦」とエコバック

2010年04月04日 | その他
今年も、地域通貨「彦」が配布される時期となりました。

前年度一年間に行った“美しいひこね創造活動”に対し、活動回数4回に対し100彦が支給され、これが地域通貨として彦根市内で使ったり団体に寄付したりできる制度です。

100彦=100円
として登録されたお店で使う事もできて、それで特典があるお店もあります。


さて、昨年の中頃から地域通貨「彦」5枚(つまりは500彦)で、ひこにゃんのエコバックと交換できるようになりました。
「彦」自体もエコバックも、ひこにゃんグッズとしての評価も高いとの噂もありますね。


管理人の美しいひこね創造事業は、
・歩きまわる時の取材
・献血
・エコバックを使った買い物
が主な活動となっています。その他でも、日常の事から少だけ環境や美化や健康つくりに気を付けて活動する事で美しいひこね創造活動になる事はたくさんありますから、彦根市内の方は注目されてみてはいかがですか?


ちなみに地域通貨「彦」は、彦根市内のお店での買い物の他に団体への寄付や、お礼にも使われます。
管理人の主な使い道はお礼が多いですが、結構喜んでいただけますよ。