彦根城時報鐘を現在の位置に移転させた井伊直滋は、藩主世子の座を捨てて百済寺で出家する。しかし彦根藩でも重要な人物であった直滋は百済寺山門から脇にそれた地に屋敷が与えられることとなる。
その屋敷には書院や長屋も立ち、直滋に従った家臣たちにはそれぞれに屋敷も与えられていた。『愛東の歴史』(東近江市愛東の歴史編集委員会)に掲載された地図によると、医師として堀道意・下間玄悦の2名が居た他に、大久保・池田・中野・青木・吉田といった彦根藩士の中でも重臣クラスに連なる家の一族と思われる人物たちが各々の屋敷を与えられていた。その中には澤村軍兵衛が含まれている。この人物がどのように繋がるのかを詳しく調べられていないが、彦根藩士澤村家からは儒学者澤村琴所や桜田門外の変で犠牲になった澤村軍八なども排出している。
そんな澤村軍兵衛が、直滋の死後も生前と同じように直滋に忠誠を尽した。これは空想の域を出ないが彦根藩世子であり歌人でもあった直滋は都の公家との交流も深かったと思われる。この当時、歌人の代表と言えば後水井上皇から古今伝授を受けた3人の人物である。その内の一人が烏丸資慶だった。
資慶と直滋には何らかの形の繋がりがあり、その交流の間で動き回った人物が軍兵衛であったようで、直滋が亡くなったあと百ヶ日忌に合わせるように資慶が烏丸家の所領である太秦に祖父光廣と直滋を供養する法雲院(光廣の法号)を建立した。烏丸家は足利義政の治世には政権を動かした「三魔」(「ま」の付く3人の実力者のこと)の一人烏丸資任の血筋。烏丸光廣は細川幽斎から古今伝授を受けた歌人であり能書家でもある。その烏丸家と直滋を一緒に供養させようとて奔走した軍兵衛も歴史に埋もれた偉人である可能性が高いが、直滋の家臣であることに徹した。
法雲院建立後、軍兵衛(法雲院では郡兵衛とも記す)は、妻と共に法雲院近くに住まい、生涯直滋の菩提を弔ったと伝わっていて、墓は直滋の供養塔の隣に遠慮しながら付き添っている。
直滋の没年である寛文元年(1661)建立の法雲院は古都京都では比較的新しい寺院に属するかもしれないが、烏丸家や井伊直滋賀のみではなく、光廣の次男の家である勘解由小路家(現在の日本で一番長い姓)など烏丸家に縁が深い家の菩提寺でもあったため寺院としての重要性は高まって行く。一時期は本山である永源寺と朝廷の取次も担っていたのだった。
さて、そんな法雲院は、太秦映画村や広隆寺の近い。近江では馴染みの深い小堀遠州作庭の庭、烏丸家に関わる遺物など歴史的に貴重な史料も多い。また井伊直滋や澤村軍兵衛の位牌も残っている。拝観には予約が必要だが、京都に行く目的のメインにしても充分な価値がある場所でもある。
井伊直滋と澤村軍兵衛の位牌