彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

いいニャン政誕生

2010年02月23日 | いい彦根藩14ニャン物語
「いい彦根藩・14ニャン物語」として、『どんつき瓦版』が進めている彦根藩主をモデルとしたキャラクターに“いいニャン政”が誕生しました。




ニャン政の産みの親は、彦根市在住のイラストレーターさんです。

井伊直政への思いを聞いてみると、
「直政は唯一髭を生やした方、だから戦国武将のワイルドな姿を強調したかった」
とのことです。
“いいニャン政”を14ニャンの初代として今後…続々と藩主が誕生します。
井伊直政は井伊氏24代(※)、近江彦根の藩祖として関ヶ原の功績により佐和山城に入り、関ヶ原の傷により彦根城を見ることなく亡くなったのです。
(※井伊共保からの数え方は諸説ありますが、今回は彦根城博物館の『研究紀要 第8号』に掲載されていた『井伊家譜』を参考として依頼しました)

イラストレ-ターさんの話にもあるように、井伊直政は彦根藩に関わる井伊家として唯一髭を生やした可能性がある方です(その後は江戸幕府が禁止している)。猫キャラで描かれる猫ヒゲではなく、武将としての髭が描かれたイラストを見せていただいた時に、管理人はその発想に驚かされました。


2010年元旦、井伊家始祖・井伊共保生誕(化現)千年の「井伊家千年記」
2010年、石田三成生誕450年
そして平成22年度2月17日(太陽暦3月4日)は井伊直政生誕450年
彦根に関わった二人の武将は、実は同級生だったのです。

また2011年には大河ドラマ『江 姫たちの戦国』に井伊直政が登場します。井伊直政の記念年と共に新キャラクター“いいニャン政”をお願いします。




○「いい彦根藩・14ニャン物語」とは
『どんつき瓦版』紙面上にて募集している彦根藩歴代藩主のキャラクターイメージです。
紙面上で不定期連載されている「彦根藩歴代藩主物語」の説明や、編集部からの話を元に想像を膨らませていただき、キャラクターを作って下さい。
・絵を描くのが好きな方
・マンガを描くのが好きな方
の参加を編集部はお待ちしています。

地元で絵を描ける方を発掘し、その方の絵が少しでも人の目に触れる機会を持っていただくチャンスになればと思っています。ですので彦根市内に在住在勤在学や、掲載後も直接編集部との連絡が出来る方に限らさせていただきます。

≪『どんつき瓦版』ニャン政誕生のチラシ≫


『さこにゃん誕生の儀』

2010年02月21日 | イベント
2010年2月21日、花しょうぶ通り商店街の戦國丸で、さこにゃん誕生の儀というイベントが行われました。

ワンカップをプレゼントに持って行くと、しまさこにゃんのワンカップと交換して貰えるというモノでした。
…という訳で、参加者の方の協力で写真をいただきました。

地元の銘酒『金亀』、しまさこにゃんもよく飲むお酒なんでしょうかね?

そして佐和山城を模したケーキが登場。火を付けると“佐和山城炎上”なんて話が出て、実際に旗の一枚に火が付きました(笑)
最近の発掘調査で、佐和山城が燃えた形跡が発見されない。と聞きましたが、ケーキの城もあまり燃えなくて良かったです。



さて、イベント後半では『なんちゃって♪さこにゃん検定』が行われました。
ちょっと問題をピックアップしてみましょう。

○『しまさこにゃん物語』で、城下町の七曲がりの古い空き家の蔵に甲冑とともに密かに住んでいたとされますが、この店は何屋さん?
A.酒屋
B.仏壇屋
C.本屋

○招き猫のポーズのさこにゃんはどちらの手に何を持っているでしょう?
A.右手に小判
B.左手に打ち出の小槌
C.左手にきんちゃく袋

○関が原決戦前夜の九月十四日、左近の采配によって東軍を打ち破っていますが、この戦いの場所は?
A.近江姉川
B.美濃杭瀬川
C.尾張長良川

などなど30問。
皆さんは答えが解りますか?
管理人は18点、チョイミスが3点ありましたが、解らない問題が多かったのも確かです。

2月17日、ノアの箱舟の日

2010年02月17日 | 何の日?
『旧約聖書』の中ではノアが600歳の年の第2月17日に大洪水が起きたと記されていて、この事から2月17日は“ノアの箱舟の日”と言われています。

40日間雨が降り続き、世界の全てが水没しちょうど1年後の第2月27日に大地が乾いたと言われているこの伝説は、以前は昔話として一笑されていました。
しかし最近になって、この説と真剣に向き合う研究が進められて真実である可能性が高くなってきたのです。
例えば、アメリカの先住民の伝説に残っていたとか。1876年にトルコのアララト山でノアの箱舟の残骸が発見され、1959年には記録に残る箱舟とそっくりの地形が発見されたとか。ですね。


ここで、管理人が愛読している作家さんの一人である井沢元彦さんの説を紹介すると。

“古代メソポタミアで、河が氾濫し町が飲み込まれるくらいの大洪水が起こり、町が沈んだ。
そこで偶然助かった人物が居て、その人は「みんな水に呑まれてしまったのに、自分が助かったことには何か神の恩恵があったに違いない」と思い、この経験を伝えるようになり伝説となった”

というものです。
当時は世界と言っても、個人が動ける範囲くらいしか認識されていなかった訳ですから、周辺の幾つかの町が水に呑まれてしまえば、「世界は沈んだ」と思われても仕方ないのかも知れません。

また氷河期から温かい気候に変わる時には、海面上昇により海抜の低い所は水に沈みます。こうして昔は栄えた町が沈んだ過去もあったのだと思います。
昔の人類には情報となるツールが少なかったですから、今なら過去の記録として歴史の中に埋没しそうな話も、大きな出来事として全世界に大洪水伝説を残したのかも知れませんね。

昔話や神話はそういった民族の事件や人物を伝えやすい形で物語にして語り継がれた「記録無き事実」である可能性を否定できないのです。


さて、こんな話は遠い遠い過去の事と思われがちですが、市区町村単位(古代の国や町は精々このレベル)での洪水となると、今でも各所でニュースとして見る事があります。

彦根では、とくに明治29年に起きた洪水は有名です。
今は、情報網の発達から町が水没したくらいでは神話のように残る事はありませんし、極端な言い方をすれば、災害で何らかの被害を受けた方以外は、次の大きなニュースが起こると注目しなくなってしまいます。
しかし、災害はいつ身近に起こるか分からないものです。

歴史の学び、現代の知恵を活かしてこういった機会に先人の残した警告を真摯に受け止めるのも必要なのかもしれませんね。
管理人の手許には、昨年彦根市が全戸配布したハザードマップがあります。普段はここから歴史を紐解く資料として使っています(特に、肥田城水攻めの時は穴が空くのではないか?と思うほど見ました)が、自宅かどうなのかを改めて確認することをお勧めします。

『野良田合戦で観る浅井氏と六角氏』

2010年02月14日 | 講演
2010年2月13日、聖泉大学でいなえ歴史講座の第二弾として『野良田合戦で観る浅井氏と六角氏』という講演が行われました。

滋賀文学会の会長を務めておらえる羽生道英先生のお話でした。
彦根に絡む本では『井伊直政』『井伊直弼』を着ておられますし、『佐々木道誉』なども今回の話に絡むようなこともあり勉強になります。


~~以下、本文~~

『野良田合戦で観る浅井氏と六角氏』
滋賀文学会会長・歴史小説家:羽生 道英先生


地元に来て、地元の方の話をするのは非常におこがましいですが、客観的な見方をするということで聞いていただければありがたく思います。
 野良田合戦でまず思うのは「誰の戦いや?」ということですが、浅井長政と六角承禎(義賢)の戦いです。長政の出世する一番のきっかけとなる戦いと思っていただければありがたく思います。

 肥田城は、今で言う平城でした。明治の初期位に田圃にしてしまったそうで伝説の城になってしまいましたが、愛知川と宇曽川に挟まれた要害の城でした。肥田城主の高野瀬秀隆は六角承禎から離れて行きます。「お前さんは主人にするには値しない」ということで離れて行ったのだとは思うのですが、秀隆が離れたことでむかっ腹が立ち「あいつは殺さないといかん」とのことで六角方が肥田城を攻めました。
その最初が永禄2年(1559)4月でした。この時になぜそのようにしたのかは分かりませんが、城の周囲に長さ58町(6.3キロ)幅1間半(2.6メートル)の堤防を築き、愛知川と宇曽川を堰き止めて城の周辺を水浸しにしました。
 水浸しで思い出すのは秀吉が行った備中高松城の水攻めですが、秀吉が真似たのは実は肥田城水攻めだったという話があります。良いのか悪いのかは分かりませんが、秀吉の城攻めのモデルになったということです。
 しかし、5月28日(旧暦なので梅雨時期だと思います)に大雨が降って造った堤防が決壊して水が引いてしまうのです。そして肥田城攻めは失敗したのです。六角氏は非常に強い軍団を率いておりましたが、おそらくその城の守りが良かったのだと思います。
 翌年8月に六角承禎は再び兵を率いて肥田城を攻めました。この時に攻めた武将の名前は、
先陣に、蒲生定秀・永原重興・進藤賢盛・池田景雄
二陣は、楢崎壱岐守・田中冶部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
後陣に、六角承禎・後藤賢豊
などの名前が出てきます。これらの名前が出てきますと多分この土地にはそれらの武将の子孫の方がおられると思います。これらの話をしますと「先祖調べをしてくれ」とよく依頼されますが残念ながらできかねます。ただ戦国武将の中には子孫が累々と今も残っているということをご理解いただて、この時代は敵味方に分かれていることもあります。
 浅井方の武将の中には百々内蔵助という武将が居て、百々が活躍したのが野良田合戦でもあります。浅井方には、
先陣に、百々内蔵助・磯野員昌・丁野若狭守
後陣は、浅井長政・赤尾清綱・上坂正信・今村掃部助・安養寺氏秀・弓削家澄・本郷某
らが出陣した事が『江濃記』という本に載っておりますので一度チェックしていただければと思います。
 この時に浅井家が1万1千くらいの兵を率いたといわれているのですが、年代的に考えますと多分半分くらいではないかと思います、ですから実際は多くて七千、もしくは五千か六千くらいであったのではないでしょうか。
長政の野良田出陣に、父である久政は反対しました。と言いますのは浅井家は元々京極氏を下剋上して江北の領主となっていたのですが、六角に臣従したといいますか、家来のようになって仕えていました。
 久政は軟弱で文弱という勇気にかけた人でしたので、天文十三年(1544)に久政は六角義賢の要求で妻の阿古を人質として観音寺城(六角氏居城)に送りました、この時に阿古のお腹の中には長政が居たので身重のまま人質になったという歴史があります。長政は観音寺城で生まれ、幼名は“猿夜叉”と名付けられました。これは父と同じ幼名です。
 阿古と猿夜叉が小谷城に帰ったのは8年後の天文22年(1553)のことでした。永禄2年正月に猿夜叉は「元服してうちの家老の娘と一緒になれ」との義賢の命があり、義賢から一字を与えられ“浅井備前守賢政”と名乗りました。
 “浅井”を“あさい”と読むか“あざい”と読むかということですが、昔は“あさい”と呼んでいましたが、“あざい”という地名がありますので、今は濁点がある方がいいのではないか?との話になっています。
一字を与えられることを「一字書き出し」や「偏諱」と言います。これは「家臣になれよ」ということを意味しています。家臣になる人にとっては名誉なことでした。
 そして賢政は、六角氏の六宿老の一人・平井加賀守定武の娘の小夜姫(12歳)と結婚させられました。しかし賢政は結婚式は挙げましたが妻とは同じ床に寝ずに「お前には悪いが帰ってくれ」ということで実家に帰してしまいました。そして義賢から与えられた“賢政”という名を捨てて“長政”と名を改めたという説があります。
 久政は六角の下で安泰に居れば良いという考えがありましたが、家臣の赤尾清綱・丁野若狭守・遠藤直経・安養寺氏秀らが共謀して「長政は亮政(祖父)に似て、非常に偉丈夫である、この人に家督を継がせよう」ということで一つのエピソードがあります。
 久政が鷹狩に(たぶん竹生島)出た時、赤尾が長政を小谷城に呼び「あなたが家督を継いで下さい」と依頼します。そして久政のもとに使いを出して「このままでは浅井家の行く末が案じられます。家臣が相談した結果あなたは隠居していただき長政を主君にしたいと思います」と伝えます。久政は自分の腹臣を召集しますが全員がそっぽを向いて久政はやむなく竹生島に潜んでいました。
 しばらくしてから阿古が竹生島に行き「親子がいがみ合っても仕方ないでしょう。和解しなさい」と勧めました。
 長政は家臣に押し立てられ、久政は奥さんに説得されて嫌々ながら隠居して別邸に住むようになりました。この話は長政を称える為の一つの逸話を後々に作り上げたと考えられます。
 さて永禄2年5月に、六角氏との対立を予測して百々内蔵助を佐和山城に入れると、案の定、肥田城水攻めを皮切りに六角勢は佐和山城まで攻め込みました。
 この時にまた変な話があり、佐和山城落城に5万疋(50万文)の懸賞金を掛けたのです。この時分から城攻めに懸賞金をかけるという話が出来上がったのです。しかしこれは撃退されました。そして、野良田合戦に繋がります。

野良田合戦は永禄3年8月中旬(15日頃だろう)のことで、午前10時頃から百々内蔵助が宇曽川を渡って、六角方の蒲生定秀(氏郷の祖父)の手勢と衝突し2時間ばかり戦いましたが決着は着きませんでした。しかし六角方の田中冶部大夫・楢崎壱岐守が百々勢の横合いから攻め掛かり、百々勢は一時的に敗北をして軍勢を引きました(宇曽川を渡って引いたかは分かりません)。その時に百々内蔵助は大声を発して「これは近江南北分け目の合戦だ、予は先陣を承った。もし浅井家が六角に敗北すれば、後日如何にして人に顔向けできるか。我と思わん者は続けや」と取って返して、小高い丘(あるかどうか分かりませんが…)に陣取りました。
 小高い丘は今見る限り見当たりません。物書きというのは意外と嘘書きです。では私が書いているのは全部嘘かといえばそうではありません。正しいと嘘とごっちゃ混ぜにしているところがあると思っていただきたいと思います。
 余談でしたが、小高い丘に陣取った百々内蔵助に、蒲生の家臣である結解十郎兵衛が個人戦を挑みますが内蔵助の方が取り押さえ、十郎兵衛の首を取ろうと思ったところで結解の郎党二人が飛び込んできて内蔵助の首を取りました。
 しかし、この後にまた百々内蔵助が登場します。ここで死んでる筈なのに「なんでまた登場するんや」ということがありますが、そこは先程言いましたように物書きは嘘半分書きますので(『江濃記』筆者の)その“嘘半分”の部分だとご理解いただければありがたく思います。私自身が百々内蔵助がもう一回生き返って佐和山城主になったというのに首を捻っています。
 野良田合戦は浅井長政が勝ちました。長政は近江南北の分け目の合戦だからという内蔵助と同じ言葉を口にして、六角義賢の本陣に突っ込んで行って勝利を収めたのです。この為に「江北に浅井長政という強い武将が誕生した」と近隣に響きます。
 首の話はあまりしない方がいいかもしれませんが、浅井長政が討ち取った首は九百二十級で、浅井方の討死は四百余り負傷者も三百余りあったという話です。
この時、越前守護の朝倉義景の従弟の朝倉式部大輔が五百程の兵を引き連れて援軍に来ています。そして浅井が勝利したのを喜んで帰って行きました。
 浅井氏は長政の祖父・亮政の時代から戦いをすることになると、すぐに朝倉氏が加勢にやってきます。姉川の合戦もそうでしたね。
 浅井長政の戦いは、近江南北分け目の合戦と何度も出てきますので、ここに嘘はないと思います。そこにみなさんは住んでおられます。
 浅井長政が六角義賢に勝ち、江北の国人たちはこぞって長政に臣従しています。強い者には味方をして弱い者からは離れてゆくというのは、最近の話で恐縮ですが国の指導者が政権交代後に人気があったのが落ち着いてきている様子や、少し前に勢いがあった方が静かになっておられる姿があります。やはり味方するならば強い方にするのが当たり前のようです。野良田合戦を契機に六角氏が衰退の途を辿り、浅井氏が名を挙げて行きました。
 永禄4年、六角義賢は美濃の斎藤龍興と組んで間の浅井家を滅ぼそうとします。龍興はまだ15歳の年少者で失政も多かったので、西美濃三人衆(氏家ト全・稲葉一鉄・安藤守就)が織田信長の配下に入っていました。
 そこで長政は軍勢を率いて笠縫と美江寺川(岐阜県南西部)で斎藤氏を攻めて戦っています。勇ましいことはいいのですが、当時は自分が強いことを示さなければ生きていけなかったのです。
 それを見た織田信長が、斎藤氏を滅ぼす為に妹のお市との結婚を進めます。長政とお市が結婚したのは、私は永禄6年か7年だと思っています。モノの本によっては永禄11年と書かれているのですがこの年でしたら織田信長が足利義昭を奉じて上洛する時なので、遅すぎる気がします。ですので私が書いている物の中では永禄6年か7年と言っています、こうでなければ5人の子どもができるとは思えません。
 永禄六年に信長は家臣の不破光治を通じて長政とお市の結婚の話を持ちかけます。この時に浅井家(とくに久政)は「織田家は朝倉家としょっちゅう諍いを起こしている。朝倉家には長年恩義を受けているので、この話は遠慮いたします」と答えると、信長は賢い男なので「朝倉家を攻める時には相談するので、うちの妹を貰ってくれ」と言って結婚させます。それが後ほどトラブルを生む原因となります。
 お市の方は別嬪さんということで長政も文句はなく、最初は「お義兄さん、お義兄さん」と奉っていたのです。

 ちょうどその頃(永禄6年)、六角家では大きな騒動が起こります。6月2日に承禎(義賢)が隠居し箕作城に移り、観音寺城はたった18歳の長男・義弼(義治)に家督と共に継がせました。
 18歳の子どもに家督を譲ったのは、たぶん野良田合戦に負けた自分の惨めさを隠すためのテクニックであったと想像されます。この時、義弼は執権(家政)の後藤但馬守賢豊に「自分の政治に口を入れるな」と言います。しかし賢豊は「慣例だから」と反発します。これが段々煩わしくなった義弼は「賢豊を生かしておいては、かつて浅井亮政が下剋上で京極家を風下に置いたように、六角家もなりかねない」として賢豊を誅伐(本来なら罪人を罰することなのでこの言葉は当てはまりませんが、モノの本にはこう書かれていますのでこの言葉を使いました)する決意をし、父親にも相談しないまま永禄6年10月1日に義弼は賢豊と嫡男又三郎を呼び出し、後藤親子が中羽田(東近江市)の屋敷から老蘇の森を抜けた辺りで武装した百余人が親子を殺してしまいます。
 これは義弼の命を受けた種村三河守と建部日向守の犯行で、後藤親子の首が観音寺城に届けられると義弼は家臣団に向かって「この後、この義弼に逆らった者はこうなるぞ」と言います。家臣団は怒り、父親の承禎も「あほな事しやがって」と怒ります。
 家臣団は観音寺城の裾野(繖山辺り)にあった屋敷を全部焼き払って手勢を引き連れて観音寺城を攻めようとしました。戦国武将は、江戸時代の主従関係とは異なり利害関係のみで結びついていました。
 10月7日に六角家の家臣の永田賢弘・三上恒安・池田景雄・平井武定・進藤賢盛・後藤高安らが浅井長政と密約を結んで反旗を翻します、下手をすると観音寺城を乗っ取られそうな感じになるので六角承禎と義弼親子は城から逃げ出します。
家臣団は長政に条件を出して妥協をします。その内容は、
・浅井長政は愛知川より南に兵を入れないこと
逆にいえば、愛知川より北は勝手に使って良いということです。
また、承禎・義弼親子とも妥協をします。
・謀殺された後藤賢豊の次男・高治に家督を継がせて旧領を与え六宿老の一人として待遇すること
・義弼は隠居して政務から離れ、弟義定(承禎の次男)に家督を相続させること
と約束させます。これで儲けたのは長政です。長政は江北の領主として認識されたのです。
 自分の親父が家臣にしようとしていた男を、別の家臣を殺したばっかりに領主と認めることになるなんて「こいつアホやな」と義弼は思われたかもしれません。
 10月20日に和議が成立して、観音寺城を包囲していた家臣団は囲みを解いて領地に戻ります。この騒動を歴史的には『観音寺騒動』といいます。
これだけで済めば良かったのですが、今度は家臣団が六角氏に六十七ヵ条の式目(規約)を突き付けました、『六角氏式目』といいます。殿様が家臣団に制限をするのですが、これは逆です。後々『義治式目』ともいわれます。家臣団から押しつけられた法律ですので今で言うと民主主義になるのでしょうか、戦国時代に民主主義は成り立たないとは思います。家臣団から行動を制限されたということです。
この騒動で漁夫の利を得たのが先程も申しましたように浅井長政です。あまり労せず愛知川より北部の駐兵権(軍隊を留める権利)を認められたのです。しかし愛知川より南部は認めなかったところは家臣団も賢かったです。
 六角氏は承禎の父定頼までは隆盛を誇っていて、13代将軍足利義輝の時に管領代(将軍の次に偉い執権的な仕事を代理する)を任されたくらいでした、また一国一城令を戦国時代に出した事でも有名な人でした。

 六角氏は、宇多天皇の御子の雅信が源氏姓を与えられて宇多源氏を称し、四代目の成頼が近江に下向し、孫の経方が佐々木庄小脇(おわき・東近江市)に住んで佐々木氏を称しました。その孫の佐々木源三秀義は、太郎定綱・次郎経高・三郎盛綱・四郎高綱・五郎義清の五人の子どもと共に源頼朝に仕えました。寿永3年(1183)に佐々木高綱が梶原景季と宇治川で先陣争いをしたことは大変有名です。
 文治元年(1185)には頼朝が全国に守護地頭を置く制度を創設し、定綱が近江守護に任ぜられたのを筆頭にして兄弟5人で16ヵ国の守護を占めたといわれています。全国には66ヵ国ありますので、その1/4くらいを佐々木一族が占めたのですから大した功績でした。
 定綱が近江守護になったのは長男だからでした。その定綱には広綱という子どもが居て、佐々木氏を継ぎ山城守になりました。
 この経緯は、元久2年(1205)に北条政子の娘婿・平賀朝雅が鎌倉幕府三代将軍源実朝を幽閉して、朝雅自身が将軍になろうとした事件が起こりました。この時に広綱が朝雅を討伐した功績で京の六角東洞院の朝雅旧邸を与えられました。
 承久3年(1221)の承久の乱では、広綱は幕府を討伐しようとした後鳥羽上皇に味方して、幕府方の伊賀光季が住んでいた京極高辻の屋敷を攻めて自害に追い込みました。この時に伊賀邸を自分の物にしたのです。ここでの屋敷名が“六角”“京極”の氏に由来します。
 広綱の弟・信綱は、北条泰時の下で幕府軍として上洛しました。広綱は幕府に投降し今までの功績から助命になるところだったのですが、信綱が「上皇を流罪にしたのだから広綱も罰するべきだ」と主張して兄を殺してしまいます。六角と京極の屋敷は信綱に引き継がれますが信綱は兄を殺した悔いで高野山に入り、息子たちに屋敷などを分け与えます。
 三男泰綱が六角邸を、四男氏信が京極邸を与えられたので、ここから六角氏と京極氏が分かれて行きました。人の姓は地名を使うことが多いです。
 佐々木氏は承久の乱で六角氏と京極氏に分かれ、応仁の乱の時など200年も同族争いを繰り返しました。
 先日テレビを見ていましたら、政権交代前はとてもいい人だった方が立場が変わると凄い暴言を言っておられました。人間は敵味方に分かれたり立場が変わるとそうなるのでしょうか?
 いずれにせよ応仁の乱以降、同族争いが激しくなり京極氏は浅井氏の風下に立ち下剋上の最たるものとも言われるのです。

 浅井氏は、京極氏が高清の時代に執権の上坂信光から下剋上をされそうになります。この時に郷士だった浅井亮政が郷士仲間と共に上坂氏を滅ぼしました。この時に京極氏の継嗣問題がありそれに乗じて京極高清を追放し下剋上の始まりといわれました。
 しかし世間体が悪かったのか分かりませんが、高清を小谷城に呼び戻して小谷城に住まわしたのです、京極丸に京極親子を住まわしました。
 亮政は強引なところもあったのですが、久政は妊娠した奥さんを人質に出したくらいに体たらくなところもあります。
 時は流れ永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭の要請の応じて上洛します。この時、長政は信長に協力しますが、信長が朝倉義景に「義昭に挨拶に来るように」と呼びかけると断られ「お前(信長の先祖)は神社の神主だが、自分は越前の守護だ、お前ごときに指図される覚えはない」といわれるのです。そこで越前攻めを信長が行い、長政は信長と絶縁します。そして元亀元年(1570)6月28日に姉川の戦いが行われます。
 なぜ織田信長が小谷城を落とさなかったのか、私は訊いていないので分かりません。分かりませんがこういうお話の時に時々「分からんかったら、あの世に行った時に信長さんに訊いて、分かったら電話かメールでお知らせするから、それまで待ってもらいたい」と言います。
 信長という人物を掘り下げると、立派な人と思いながらも延暦寺焼き討ちや長島一揆の門徒虐殺などで、えげつないこともしています。戦国はそういう人が居てもしかるべきだとは思います。
 姉川の戦いの後、天正元年(1573)8月に朝倉氏を滅ぼし、その後すぐに小谷城を攻めて久政と長政が自害します。
 来年は話題になると思いますが、長政の娘が茶々(淀殿)・初・お江(小督・達子)です。女の子は助命されますが、嫡男万福丸は秀吉に捕まって処刑されます。後に秀吉がお市を妻に欲しいと言っても断られたのは息子を殺されたことがネックになっているのです。
信長は妹の産んだ子でも、男の子は許しませんでした。それは源頼朝が平家を滅ぼした例もあるからです。
また、あまり歴史書には出てきませんが、長政とお市には五人の子どもが居て、男の子は一番上と一番下でした。末の子は万寿丸という名前で福田寺の僧になったという伝説がありますが本当かどうかは分かりません。
 長女の茶々は豊臣秀吉の側室となり淀殿と呼ばれます。天正11年(1583)に北ノ庄城落城で自害したお市の方(なぜか小谷御前と呼ばれている)と運命を同じくしたように、元和元年(1615)に徳川家康に攻められて大坂夏の陣で息子の秀頼と共に自害して果てました。
 次女の初は、京極高次の正室になり、高次没後は常高院と呼ばれ大坂冬の陣では家康と豊臣家の仲介をしました。
 三女のお江は最初は佐治一成の妻となり、秀吉が引き取って羽柴秀勝に嫁がせ、秀勝没後は徳川秀忠の正室になり、三代将軍家光・忠長・和子(まさこ)を生みました。
 和子は後水尾天皇の中宮(はっきり言えばお妾さんかな)になり、後に東福門院と呼ばれます。和子は109代の明正天皇を生みますので、浅井長政は天皇の曽祖父に当たるのです。
 ところで、お江がなぜ秀忠の正室になったのかもはっきりとは分かりません。

 六角氏のその後は、永禄11年9月に織田信長と足利義昭の上洛を最後まで抵抗したのが六角承禎でした。
 承禎は、9月12日に和田山城と箕作城が落とされると、13日に突然観音寺城から逃げ出します。僅か4時間の攻撃で終わっているのですがなぜかは、分かりません。武士は戦うものだと言われればそれまでですが、戦わすして逃げる方法もあったんかなとも思います。
 息子の義治はたぶん『六角式目』を突き付けられた辺りから義弼から義治に名を改めたと思います。義治は甲賀に逃げたといわれていますが、その後は甲斐の武田勝頼に頼ったと伝わっています。
 一晩で城から逃げるのは、言葉で言えば卑怯者ですが、そういう生き方もあった、家臣とも信長とも戦っていないので敢えて戦わなかったとも考えられます。かといって累々と長生きしたとも言えません。
 承禎は慶長3年(1598)に亡くなっています。馬術が優れています。私が今書いている明智左馬助には琵琶湖を馬で渡った伝説がありますが、この馬術は承禎と同じ佐々木流馬術の先生なのです。
 義治は秀吉の御伽衆(話し相手・時々相談をする相手)ですが、秀頼に弓道を教えています。こう考えると不思議です。ひょっとしたら家臣団が見抜けなかっただけなのかもしれません。
 義治は慶長17年(1612)10月22日に亡くなりました、これは豊臣家が滅びる3年前でその滅亡を見ることなく亡くなって幸せだったかもしれません。68歳でした。



(『どんつき瓦版』編集部より)
 羽生先生のお話の後の質疑応答で、地元の方が村ごとに燃料の芝を刈るような場所が作られていて、小さな丘はこういった場所ではないか? 彦富町には稲枝駅近くのナイキ辺りにあったとの発言がありました。
 今の現場では分からないことが、地元の方によってフッと出てくるのがこういった地元での講演会の醍醐味の一つかもしれません。

 羽生先生のお話は、現在のことを織り交ぜて歴史を身近な物として聴き手に伝えたり、「分からないことはあの世で本人に訊いて連絡します」などの面白い発想で笑いを含み場に抑揚がありました。

 滋賀文学会会長として、滋賀の文化に大きな功績を残しておられる先生ですので、今後もお話が聞ける機会が得られ、著書を読めることを望んでいます。

新発見『長浜曳山祭子ども歌舞伎役者見立番付表』

2010年02月02日 | 博物館展示
2010年2月2日、長浜市曳山博物館において新発見資料『長濱神事曳山小児狂言見立觔』の所有者から博物館への寄贈式と記者発表が行われました。

…と言いますか、管理人が寄贈者です。

(発見時の記事はここをクリックして下さい)



内容は、少し読みにくくなりますが、写真右から順にこう書かれています。
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次第不同御免 版元 長濱 鍛冶屋甚八郎

長濱神事曳山小児狂言見立觔

大関 呉 関 女  前頭 呉 徳 女
関脇 魚 矢 間  同  御 お 谷
小結 神 小金吾  同  宮 長 吉
前頭 大 三 浦  同  セ 林左エ門
前頭 神 権 太  同  北 次 助
前頭 舟 長 六  同  呉 泉三郎
前頭 御 内 記  同  田 平 次
前頭 大 玉 笹  同  田 次良造
前頭 北 茂 平  同  北 久 七
          同  神 大之進
          同  北 と み

行司 瀬田町 笠原   頭取 呉服町 後藤

大関 舟 お 才  前頭 神 内 侍
関脇 瀬 宮 本  同  舟 仙太郎
小結 魚 里 ゑ  同  魚 喜 内
前頭 御 唐 木  同  宮 源 平
前頭 宮 小 梅  同  伊 宦 女
前頭 大 佐 の  同  大 軍 八
前頭 伊 仕 丁  同  セ 糸 萩
前頭 伊 小 桜  同  大 勇 助
前頭 御 桜 田  同  御 孫 八
          同  御 関 内
          同  御 太 市

勧進元 伊部町 蔵人  総後見 宮町 由平

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以下、『どんつき瓦版』19号の記事を中心に内容をご紹介します。

【資料】
・『長濱神事曳山小児狂言見立觔』(ながはましんじひきやましょうにきょうげんみたてすもう)
・大きさ:縦約35.5cm×横約49.0cm
・印刷方法:木版印刷による黒墨刷
・制作年:天保八年(1837)
・内容は上記参照

 この番付は、曳山子ども歌舞伎で演じられる歌舞伎役者の役名を使ってその優れた者を相撲番付表のようにランクを付けて紹介する物で、俗に云われる瓦版として配布された物だと考えられます。この内で行司・頭取・勧進元・後見人も役者が書かれていて番付に書かれる役者より別格に上手い者と考えられています。この一枚の中で役者以外の名前が登場するのは版元の鍛冶屋甚八郎ですが、現段階ではその詳細は不明のままです。

○演目
 演目を見るといつの時代でも喜ばれるような『義経千本桜』や『源平布引滝』というヒーロー物に近い芸題も見られます。その反面で男女の揉め事から刃傷事件にまで及ぶ『岩井風呂』、横恋慕・贋金など人間の内面をさらけ出すような『梅の由兵衛』など子ども歌舞伎として演じるにはどう表現されたのか?と考えさせられる演目もあるのです。
 また仇討物として庶民から人気がありながらも何度も上演禁止の憂き目に遭った『忠臣蔵』や同じく仇討物の『伊賀越道中双六』が演じられ、豊臣家滅亡を鎌倉時代に置き換えられた『鎌倉三代記』が彦根藩の御膝元で演じられた事に驚きを隠せません。

○評価考
 この瓦版には11の町組から44人の役者が記されています。その内容から当時の様子を勝手に推測してみましょう。
 御堂山組の諫皷山では最高の7名が書かれていますが全員前頭です。同じくらいの実力を持った役者さんが揃っていて纏まった歌舞伎が演じられていたのかもしれません。同様に大手町組の壽山は前頭5名、北町組の青海山では前頭4名が書かれています。
 行司の笠原は、宮本武蔵に剣を教えたという笠原新三郎を演じたのだと思いますが、別格扱いである他の三役(後藤・蔵人・由平)が主役であるのに対して、脇役である筈の笠原に上手い役者を選び主役である宮本が関脇だった瀬田町組の萬歳楼が演じた『駒獄武術究(巌流島)』は、まさしく舞台の上で剣ならぬ演技の指導が行われたのでしょうか?
 頭取の後藤と大関の関女という二人の看板役者(?)を、出演させている呉服町組の常盤山で子ども歌舞伎が演じられた時の見物人の目には、どれほど素晴らしい演技が映ったのでしょうか。

○時代背景
制作された年は、書かれた役者たちが出演する芸題とそれが演じられた山を照合する事によって天保八年と断定されました。
 天保八年は、一部の歴史家には幕末の始まりとも幕府安定期の終焉とも記される“大塩平八郎の乱”が2月19日に勃発し大坂の1/5を灰にしました。大塩平八郎の高弟であった宇津木矩之允は最後まで大塩の挙兵に反対したために大塩屋敷の厠で惨殺されるという悲劇的な最後を迎えます。殺害された矩之允の弟が桜田門外の変の後に彦根藩の家老として活躍する岡本半介(黄石)である事を考えると、宇津木矩之允も将来の彦根藩を担う貴重な人材の一人だったと考えられるのです。
 また、大坂だけではなく世情も大いに乱れていた時期でした。大塩平八郎の乱は最近の研究では「幕府内の不正を告発しようとしていた」とも言われていますが、この時に幕閣を動かしていたのは大老・井伊直亮と老中・水野忠邦で、二人は対立関係にあったのです。
 天保年間(1830~44)は半世紀ぶりの飢饉である“天保の大飢饉”が天保元年頃から起こり東日本を中心に飢餓が蔓延し各地で一揆が起きた時代でもあり、天保五年にはハレー彗星が天空を進み庶民は言い知れぬ不安に怯えた時期でもあったのです。近江国内では天保十三年に水口藩・三上藩領で近江天保一揆という大規模な農民蜂起が起こり、幕府検地10万日の日延べを認めさせました。
これらの不安定な要素は急に起こった物ではなく天保年間より四半世紀前には文政(文化文政年間の略)文化という影を含んだ町人主体の文化が花を咲かせた時期でもあったのです。

○『どんつき瓦版』が関わった新資料
資料はパズルと一緒かもしれません。一つひとつは時として重要であり時として何が書かれているのかいまいち解らないままの物もあります。
 そんなパーツが幾つも手元にある事で、もっと大きな組み合わせが広がり、絵が見えてきます。今回見つかった資料はまさしくそんなパズルの1ピースでした。たった一枚の瓦版の発見が長浜曳山まつりという400年以上の伝統に彩られた伝統の記録資料の一つになっただけではなく、町衆中心で、世の不安を一時でも忘れようとするかのような迫力、多種多様な演目から浮かび上がるその時代、そしてどこまでも楽しもうとした人々の心意気が伝わってきます。

 また、今までは個人の記録として残る曳山子ども歌舞伎の演目や役者の評価が、初めて瓦版という公にも配られた物に書かれていたという意味は大きな事とお聞きしました。今まで解っていた数々の出来事(例えば春日山が数年間人形山であったこと)の立証される裏付け資料にもなったそうです。
 しかし、判明した事がある分だけ新しい謎も浮かび上がってきます。この『長濱神事曳山小児狂言見立觔』が祭りの前に配られたのか? 最中に配られたのか? それとも祭りが終わった後のメモリアル的な物だったのか?
 無料なのか?有料なのか? 有料だったらその値段は幾らなのか?
 そして、この評価は鍛冶屋甚八郎の見解なのか? それとも鍛冶屋に情報を教えるアドバイザーが居たのか? そもそも鍛冶屋甚八郎とは何者なのか?
 これらの謎を解くような資料がこれからも出てくる事を期待しています。

○管理人のコメント

「寄贈者として」『どんつき瓦版』編集部 増田由季

 『どんつき瓦版』第15号が発行されてから約半年の時間が経過しました。この期間はそのまま今回ご紹介しました新資料『長濱神事曳山小児狂言見立觔』の調査に要した時間となります。
 それほどまでに時間をかけて調査された結果は、これまでのページで書きました内容ではまだ足りないくらいの大きな成果でした。
 長浜曳山祭りは、日本三大山車祭の一つに挙げられるくらいに、歴史や伝統に彩られた屈指のお祭りで春の訪れとともに待ち遠しく思っている方は少なくない筈です。
 幕末の足音が聞こえる時代の人々もその想いは一緒だったのでしょう。それが当時の最先端の流行とも言える相撲番付に見立てる方法での一種の遊びとして楽しまれたのだと勝手に推測しています。たった一枚の瓦版という紙の中に、当時の人々の笑顔や活き活きとして期待に満ちた目が入りこんだようにも感じられるのです。
 
 今回、運命の歯車に操られたようにして手に入った物でしたが、それを長浜市曳山博物館さまに持ち込み特別展示にまで至った経緯は、この『長濱神事曳山小児狂言見立觔』と題された瓦版その物の意思だったのではないか? 『どんつき瓦版』編集部はただ手伝いをさせて貰っただけだったのではないか?
とすら感じます。それならば、一番よい場所に置かれる事こそが必要なのではないか? との想いに至り無償での寄贈との選択をいたしました。
 同じような資料は、長浜を中心とする旧家のどこかにまだ眠っていると思います。今回の展示と寄贈を機に「うちにも有った」「個人的に楽しむつもりで持ってたけど、地元の為に研究に役立てて欲しい」などの多くの有志の善意によって、長浜曳山まつりが三大山車祭から“日本一伝統と歴史を重んじ、地元の意識も高い山車祭り”にレベルアップするように願っています。




さて、コメントでも書いています通り、今回の瓦版を寄贈という形をとったのは、同じ物がまだ眠っているだろうという期待を込めてのことです。
違う年のものは勿論のこと、同じ年でも版元が違うとか、評価が違うとか、まったく同じ内容があるとか、いろんなケースがあり、そんな物がたくさん長浜市曳山博物館に集まって研究されることを望んでいます。

版元ひとつ注目しても、鍛治屋が子ども歌舞伎の目利きだった可能性もありますし、嘉永六年に個人的な評価をされた西川家の資料が残っていますが、この嘉永六年の同じような見立が出た時に、西川評価と版元評価が同じなら版元のアドバイザーに西川家が入っていた可能性がありますし、別ならば評価にも個々の方法があったと考えることができるのです。

何にしても、この一枚ですべてが終わりではなく、これが差スタートとなって曳山資料がますます発掘されることを期待したいます。