彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

令和最初の4月23日

2020年04月23日 | 井伊家千年紀
安政5年(1858)4月23日。
井伊直弼が大老に就任しました。

二日前に次女弥千代が高松藩に嫁いで行き、23日に彦根藩邸に挨拶に来る予定だったそうですが、22日深夜に江戸城に呼ばれた直弼はその場で大老就任の命を受けて、屋敷に戻らないまま夜が空けて、幕府より正式な発表が行われたのです。

このため、直弼は娘の幸福な顔を見る時間すらも潰されて大任を背負って行くのです。

これから二年も満たない人生の間に、直弼は娘と会う時間はあったのでしょうか?

令和最初の4月23日に、そんな疑問を持ちながら彦根城内の直弼公の銅像を観に行くと…
桜まつりも中止になった公園で、直弼公はまだ咲いている桜を静かに眺めているようにも見えました。








浄心院の墓

2019年09月02日 | 井伊家千年紀
浄心院の墓


浄心院は、『井伊家伝記』などで井伊直虎の祖父となる井伊直宗の正室になる人物です。
直宗は井伊家14代当主とされています。

(井伊家系図)
直平-直宗-直盛-直虎

直平の子、直盛の父とされますが、大河ドラマ『おんな城主直虎』の物語が始まるまでに三河国田原城か吉田城のいずれかの戦いで討死しました。浄心院は出家して西久留女木に妙意院を建立し直宗を供養したといわれていたす。
墓は妙意院より500mほど離れた地にあります。

墓石は明治に作り直しされていて、大名墓になっています。


ちなみに、『井伊家伝記』をしっかり読むと、直宗は直平が2歳か4歳の時の子どもであり、直盛が18歳の時の孫であるため、僕は直宗架空説を唱えていました(最近は別説を提唱しています)が、浄心院の存在やこの墓が井伊家に認識されていることも間違いないのです。


関連地:浜松市北区引佐町西久留女木

井伊直虎命日法要

2019年08月26日 | 井伊家千年紀
今年も、井伊直虎さんの命日に法要が行われました。
大河ドラマ放送の前年から始まった命日法要も今年で四年。しかし、法要に参加される方は昨年より多いとのことでした。

本堂での法要。

墓所での読経と続きます。

今年の末頃には御霊屋修繕が終わり、来年の法要の頃には美しくなった御霊屋も観ることができるそうですよ。

悦岫の墓

2017年12月17日 | 井伊家千年紀
悦岫の墓は龍潭寺の住職墓の中のひとつです。


大河ドラマ『おんな城主 直虎』で、明智光秀の息子・自然を信長の息子と主張し命を助け、出家させて「悦岫」と言う名を与えた。
との話がありましたが、龍潭寺には実際に悦岫という住職が四世を務めていて織田信長の息子という伝承があります。ただし織田家の系図に載っていない人物だったために様々な憶測を呼んでいました。

実在した人物であったことは間違いなく、東京・静岡・彦根で行われた直虎の大河ドラマ特別展でも、悦岫が昊天に号を与えた慶長5年(1600)の「昊天崇建道号并号頌」があったように昊天の師にあたる人物でした。
文禄元年(1592)に傑山の死により龍潭寺四世となり自らの死となる元和9年(1623)まで住職を務めてました。その後を昊天が継ぐのです。

8月11日、高瀬姫の命日

2017年08月11日 | 井伊家千年紀
寛永11年(1634)8月11日、井伊直政の姉高瀬姫が亡くなりました。
『おんな城主直虎』でいきなり登場し井伊直親の隠し子というショッキングな生い立ちを背負うことになる高瀬は、その放送の時まで実在を知らない人がほとんどだったと思います。
歴史的には余り知られていませんが、井伊直政には兄と姉が一人ずついる。兄は父直親が今川義元の追及を逃れて信濃国松源寺に逃れていた頃に現地の女性との間に生まれた子で、井伊谷から呼ばれた直親はこの母子に脇差を与えて、息子が無事成人すれば「井伊吉直」を名乗らせるように言って去ったとされている。この家は飯田井伊家として井伊姓と脇差を現在まで伝えているのです。
一方高瀬姫は、直親が井伊谷に戻って奥山朝利の娘を妻に迎えてから五年間は妊娠の兆しがなかったため、直親夫妻がたびたび龍潭寺に参詣したとの話があり、その結果六年目にして男児(虎松)が誕生。このことから高瀬姫は吉直と同じく信州で生まれた子どもだと考えられていました。しかし彦根に残る記録から高瀬姫が直政の二歳上だったとされていて、彦根藩の記録を信じるならば龍潭寺への参詣は子どもが生まれなかったからではなく男児を授かるための祈願となるか、もしくは直親にすでに側室やそれに準ずる女性がいたことになります。どちらにしても今まで伝えられてきた井伊谷に戻ってから子どもができずに苦悩していた若い夫婦というイメージが変わり、ドラマでかたられた「すけこまし」が直親生前からの評価だった可能性も出てくるのです。

今回は高瀬姫の年齢を直政の二歳年上として紹介。高瀬姫が生まれたとき井伊家当主は直盛。桶狭間の戦いで不幸があったものの高瀬姫にとって弟となる虎松の誕生が少しだけ井伊家に幸福をもたらします。直後に直親は殺されて虎松の命が狙われます。高瀬姫が井伊家受難の歳月をどのように過ごしたのかわかりませんが、女児ならば命の危険も少なく龍潭寺か母親の許で静かに暮らしていたのだとおもわれます。
 様々な出来事で逃げ続けた虎松は徳川家康に仕官して出世を重ね天正10年(1582)に元服し直政と名乗ります。ここから高瀬姫も急に記録に登場する人物になる。直政の重臣となった川手主水良則の妻となったのです。24歳で嫁いだ高瀬姫でしたが、当時としては婚期を大幅に逃している年齢であり初婚だったとは考えにくいですが、直虎も適齢期に婚礼していなかったですし、同じ頃に木俣守勝に嫁いだ新野左馬助の娘も婚期を逃しての結婚をしていますから井伊家の女性の一部になかなか婚姻が決まらない人物がいたことも不思議です。また良則もすでに元服した息子がいて年齢も51歳、高瀬姫より25歳以上も歳上という高齢だったのだのですが、いったん家が滅びかけた井伊家にとっては信頼がおける身内の家臣という存在が少なく、良則は直政にとって大切な身内となり良則も才能を充分に発揮するのでした。関ヶ原の戦いのとき、直政の居城高崎城の留守を任されたのも良則であり一説にはこの時に二人が結婚したとの話もありますが、高瀬姫には娘が誕生していますので関ヶ原の時期になると結婚が遅すぎるようにも思います。
 直政が佐和山城に入り、その死後彦根城が築城されると現在の玄宮園辺りに川手屋敷が建てられましたが、良則の後を継いだ良利が大坂夏の陣で討死、川手家は滅びてしまうのです。そんな川手家のすべてを見定めてなお高瀬姫は最低でも75歳以上の長命を保ち寛永11年(1634)に亡くなったのでいた。
弟と夫の縁を結び続けた女性の痕跡は南川瀬町の川手家墓所と長純寺の供養碑でわずかに知ることができます。

〇南川瀬町の川手主水親子の墓




〇長純寺の高瀬姫の供養墓

そして高瀬姫を演じた高橋ひかるさん

…と、ひこにゃん


川手家は江戸後期になり再興されますが、それまでも彦根では直政の姉のことは少し伝わっていたようで天保年間に作成された『近江古説』には
「川瀬村川手屋敷」
川手主水ハ四千石にて川瀬村に居住す墓今にやしき跡に大きなる五輪有之也妻ハ直政公姫君馬瀬姫と被下候而主水妻敵に渡さす不残家臣取締り京鳥辺野にもむるとなり

と記されています。馬瀬姫で直政の姫となっていますが江戸後期に井伊家の関係者が川手家に嫁いでいたことが知られていたことを示す例でもあります。

9月28日南渓和尚死去

2016年09月28日 | 井伊家千年紀
天正17年(1589)9月28日、南渓瑞聞が亡くなりました。

井伊直虎の大叔父(祖父の弟)で、直虎の人生において常に支えとなった人物が南渓和尚です。
以前は井伊直平の実子の次男(もしくは三男)と言われていましたが、井伊谷龍潭寺の過去帳を見ると、父は「実田秀公居士」母は「善室賢修大姉」とあり両親の名前(戒名)は直平以外の人物が記されていて、現在では井伊家に養子として迎えられたのではないかと考えられるようになりました。
武士の家では殺生が日常であるために、一族の者から僧籍に入れることで一族が救われるとも信じられていました。南渓和尚の両親と井伊直平がどのような関係にあったのかも資料はありませんが、もしかしら僧籍に入れるために井伊家の養子に入った可能性もあるのです。
南渓は、直平が井伊谷に招いた黙宗瑞淵(龍潭寺一世)に学び、龍潭寺二世となるのです。また桶狭間の戦いの後には今川義元の葬儀の総括(安骨大導師)を任されたほどでした。

9月18日の直平の命日の時にも書きましたが、井伊家は南渓の兄弟である直宗・直満・直義が不幸な死に方をし、甥の直盛は桶狭間で討死、直親は今川氏真の意で暗殺されました。
また、井伊家を支えた一門の奥山朝利は井伊家家老の小野但馬に雑害され、その後の井伊家を支えた義父直平も毒殺されてしまったのです。
井伊家は、残った男子である虎松(のちの直政)を育てるために直盛の義兄・新野左馬助と一門の中野直由を後見としますが、新野と中野も引馬城攻めの最中に安間橋において討死。
南渓は、龍潭寺で出家していた直盛の娘・次郎法師を直虎と名乗らせ女地頭として井伊家当主とし自らが後見として井伊家を守ったのです。
今川氏真の介入を直虎が支えきれず、井伊家はいったん地頭としての地位を失い直虎も龍潭寺の尼に戻ります。そして武田信玄の侵攻によって井伊谷や龍潭寺は火の海となったのです。

そんな苦労を乗り終えて虎松が15歳のとき、南渓は直虎や虎松の母とはかって虎松と徳川家康の面会を浜松城下で演出します。
そして井伊家の発展の基礎を虎松(家康に仕えて万千代と改名)に託したのです。
直虎と万千代の活躍を聞いていたであろう南渓でしたが、今度は直虎の死に立ち会うことになります。

その後、万千代は元服し直政と名乗り、赤備えを託されて小牧長久手の戦いなどで活躍、豊臣秀吉にも愛されて侍従任官と、昔の井伊家を取り戻すような活躍を見せますが、南渓はそのすべての報せを聞く立場にありました。
しかし、豊臣秀吉が天下を統一する直前にその生涯を閉じたのです。

よく井伊直平や直虎が井伊家の不幸を体感した人物として挙げられますが、本当の意味で井伊家の殆どの男たちの死と女地頭にまでなった直虎の死まで経験した井伊家の不幸を知り尽くした人物は南渓瑞聞だったのです。

〇龍潭寺の南渓肖像画(直虎命日法要で本堂に出ていましたが普段は撮影できません)

〇2016年に発見された妙雲院の南渓和尚の位牌



関連地 浜松市北区引佐町 龍潭寺・妙雲院

9月18日、井伊直平死去

2016年09月18日 | 井伊家千年紀
永禄6年(1563)9月18日、井伊直平が亡くなりました。
75歳とも85歳とも言われていますが、75歳だとその後の子や孫たちとの年齢に支障がありますので85歳説を押す本をよく見かけます。

さて、井伊直平という人物を一言で表すならば、井伊家のどん底を味わった人物ともいうべきでしょうか?
井伊家は代々今川家と対立していましたが、明応7年(1498)の大地震で浜名湖が外洋と繋がると東海道が海沿いの道から浜名湖を回り込む道を使うようになり、井伊谷近くの経済的価値が上がってしまうのです。
これにより、今川家は拠点としての井伊領の価値を認め、井伊家と今川家の対立はより激しいものになりました。
永正5年(1508)、父の直氏死去。直平が井伊家の運命を握りますが、その直後に今川家の猛攻に耐えられず降伏し、詰めの城である三岳城を明け渡すことになるのです。
この後、20年近くを井伊谷近くの伊平で過ごしたとも言われています。

井伊谷に戻れたきっかけは、今川家の家督争い(花倉の乱)で今川義元に味方したためと言われていて、義元に娘を人質として差し出しますが、この娘が義元のお手付きとなった後に、妹として関口義広(瀬名親永)に嫁ぎ築山御前(徳川家康の正室)を生みました。

さて、井伊谷に戻ったあとからの井伊家には今川家に絡む不幸が続きます。
息子の直宗は今川軍の先発として出陣した田原城(または今橋城など諸説あり)で討死、直満と直義は謀反の疑いで駿府城にて斬殺。
娘は、桶狭間の戦いの後に家康が今川家から独立したために夫と共に自害。
孫の直盛(直宗の子)は桶狭間の戦いで義元近くに居て自害、直親(直満の子)も謀反を疑われ今川氏真の命で懸川(掛川)で殺害されたのです。
こうして、息子と娘、そして孫たちにも先立たれ、井伊家に残った最後の男子である虎松(後の直政。直親の子)に家を繋げるために再び井伊家を差配したのです。死の一年半前の事でした。

井伊家当主として、今川氏真からの無理な出陣要請にも応えなければならなかった直平。
氏真の三河攻めに際して、直平は三河との国境の遠江白須賀に陣を置きました。
この時に不運があり、陣から火が出て白須賀の建物が幾つか焼ける事態にもなったのです。氏真は井伊家の裏切りと勘違いして兵を懸川城まで撤退。火を出した直平に社山城の天野氏を攻めるように命じたのでした。
この出陣の途中で引馬城主飯尾連龍と妻のお田鶴の方が陣中見舞に訪れ、すでに氏真を裏切る決意をしていた連龍は妻に毒入りの茶を点てさせて直平に飲ませたとされています。
そして、徐々に毒に犯された直平は馬上から落ち、驚いた家臣の大石作左衛門が遺体を川名まで運んで埋めたとも、死を悟った直平が三岳城を守る存在となるべく川名まで最後の力を振り絞って馬を翔け鎧橋で命を落としたとも言われているのです。
大石はその後、直平を追って自害しました。
(鎧橋)


現在の墓は井伊直弼の命で作られたものと言われています。



関連地:浜松市北区引佐町川名

9月15日、新野左馬助討死

2016年09月15日 | 井伊家千年紀
5日前に、新野左馬助の命日法要の話を書きましたとおり、永禄7年(1564)9月15日に新野左馬助親矩が、引馬城攻めの時に安間橋において討死しました。

新野家は『吾妻鏡』に井伊介と共に東大寺法要に行った記録もある遠江国の名家で、戦国時代には今川家に仕えていて今川義元の信任も厚かったと言われています。

しかし、もともとは井伊家の監視のために左馬助の妹が井伊直盛に嫁いだはずだったのですが、左馬助自身も井伊家の分家である奥山家から妻を娶りいつの間にか井伊家一門と並ぶようになっていたのです。
そして妹が直盛の娘を生んだのでした、これがのちの直虎です。

今川家から井伊家に来る無理難題の防波堤になっていた左馬助でしたが、それでも防ぎきれず井伊家の男性はどんどんと亡くなって行き、ついには幼い虎松と年老いた直平が残りました。
永禄6年9月18日、直平没(詳細は後日)、井伊家は家を継げる成人男性が居なくなり後見として新野左馬助と中野直由が井伊家を支えます。
しかし、引馬城主の飯尾連龍は、今川氏真からの離反を表明、怒った氏真は井伊家に引馬城討伐を命じて、この戦いで左馬助も直由も討死してしまったのでした。

左馬助の墓は、
御前崎市の左馬武神社に残る出土された多くの墓石


浜松市龍潭寺の墓


そして命日法要を行った彦根市龍潭寺の墓

が知られています。

桶狭間古戦場訪問7 巻山(井伊直盛の動向を考える)

2016年05月19日 | 井伊家千年紀
トップの写真は、浜松市北区引佐町龍潭寺の井伊直盛の像です。

5月19日は桶狭間の戦い当日。
桶狭間の戦いについては以前に書いていますので(今の考察とは多少違うところがありかすが)、下記のアドレスを参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/2beb5195b93daac8f408497b3a4ae9f9
彦根市民として、井伊家の歴史を調べるとき桶狭間の戦いも重要なポイントになると思っています。この戦いで当主直盛を失った井伊家は、この後に養子・直親の暗殺、直平の死を経て女地頭井伊直虎そして徳川四天王井伊直政へと続いてゆきます。
この繋がりは、たぶん直盛がここで亡くならなければ起る可能性は低く、場合によっては今川家滅亡と共に井伊家も無くなるか小さな領主にしかなれなかった可能性もあったのです
当時の井伊家にとっては不幸でしたが、のちの井伊家にとっては大きな分岐点の一つであった桶狭間の戦いで井伊直盛がどのように動いたのかは大きな疑問であり、今回の桶狭間古戦場訪問はそれを調べるのが目的でした。

歴史を見てみると、
永禄3年(1560)5月
11日、井伊直盛らが井伊谷を出発し先発隊として西へ軍を進める
12日、今川義元、駿府から出陣
15日、先発隊、池鯉鮒(知立)到着
17日、先発隊、鳴海城・大高城辺りにて戦う(直盛は朝比奈泰朝と鷲津砦攻め)
18日、義元本隊、沓掛城到着、直盛・松平元康が呼び戻される
同日夜、元康大高城へ兵糧を入れる
19日、桶狭間の戦い
…となります。
井伊直盛は先発として出陣し、鷲津砦攻略のために戦っている途中で本体に合流して桶狭間の戦いで義元と共に亡くなったのでした。
『井伊家伝記』によれば、奥山孫市郎に遺言を残し、介錯させて切腹したとのことで、孫市郎が遺体を井伊谷まで持ち帰っています。

では、直盛は戦い当日にどこに居たのか?
豊明市の古戦場でガイドさんに訊ねたときは「わからない」とのお返事でした。
名古屋市緑区の古戦場公園には戦いの進路予想図をモニュメントにしておいてありました

これによると、おけはざま山から田楽坪を挟んだ向かいにある巻山を井伊軍陣としています

あの辺りの小山かな?

近くの長福寺の御住職に訊ねますと桶狭間小学校の辺りではないか…とのことでした。

桶狭間小学校の辺りは、確かに小山になっていてここが戦場とするならばなにがしかの陣が置かれても不思議ではない場所でした。


桶狭間の戦いでは、当主井伊直盛を始め、直親に仕えていた小野玄蕃や奥山一族、上野一族などの親戚を含めて主だった家臣16名が討死したと言われています。
・井伊直盛の墓(以下、墓は龍潭寺)

・小野玄蕃の墓

・桶狭間戦死者の墓

このような大きな悲しみがあった翌年、井伊家を救う直政が産声をあげたのです。

余談ですが、2016年5月19日、井伊谷の龍潭寺において井伊直盛公の法要が営まれ井伊直虎市民応援隊からも隊長(『どんつき瓦版』編集長)が参列。


所在地
 ・名古屋市緑区桶狭間
 ・浜松市北区引佐町 龍潭寺

7月5日、豊臣秀吉天下を統一する

2010年07月05日 | 井伊家千年紀
天正18年(1590)7月5日、豊臣秀吉に包囲されていた小田原城が開城しました。


北条早雲から5代約100年に渡って関東を支配していた北条一族は、小田原城という大掛かりな城を本拠地にしていたことでこれまで何度も危機を脱してきました。
とくに、軍神と呼ばれた上杉謙信に攻められえた時も篭城して守りきった事が大きな自信となっていたのです。
つまり、困った時には篭城と言う戦い方が自然となっていたのでした。

確かに、小田原城はその城内で自給自足ができ篭城するのにはもってこいの城だったのですが、そんな戦に勝つためには「相手が諦めていずれ兵を引く」という大前提が必要となったのです。

上杉謙信の場合は、領土拡大欲が無く、本国が越後だった為に冬になる前に決着をつけるか兵を引き上げるという前提があったので城に篭もっていればいずれ勝手に帰ってくれたのですが、豊臣秀吉は信長の家臣だった頃から干殺しと呼ばれる兵糧攻めや高松城の水攻めなどの長期戦で城を囲んで落とす戦をもっとも得意としていたのです。


そこであてが外れた形になり、小田原城のすぐ近くの石垣山に一夜で城を作ると言う離れ業をやった秀吉の力に脅威を覚えたのです。
この石垣山一夜城は、出来上がるまでの基礎工事を山の木々に隠して行い、ある程度出来上がったところで一気に木を切った為に北条方からは一夜で城が出来た様に見えたそうですが、精神的には凄い恐怖を与えたでしょうね。
とは言いながらも、最近の説では秀吉の石垣山城に驚いたのは、秀吉自身の誇張であり北条方にはそれほど驚いた様子もない。とも言われています。


こうして、どうする事も出来なくなった(らしい)北条一族は堂々巡りの会議を行い、それが「小田原評定」という言葉まで後世に残す事になってしまいます。

結局、小田原城主・北条氏直と先代城主で氏直の父・氏政は秀吉に降伏。
この小田原攻めの最中に東北最大の実力者・伊達政宗が秀吉に臣従している事からこの時点で秀吉の天下統一が確定したのでした。


北条氏は、氏政は開城の後に切腹
徳川家康の娘婿と言う事で助命嘆願された氏直は高野山で出家しますが、翌年に疱瘡で病死。
氏直の叔父・氏規の子孫が江戸期を通じ1万石格の大名として続きます、この末裔が公明党書記長を務めた北条浩さん。
また一門に列せられた北条綱成(正室は北条氏政の叔母)の孫・氏勝も家康に仕えて1万石並みの大名となっていますが、その養子・氏重の代で嫡子が無く改易となっています。


さて、小田原城開城は徳川家にとっては大きな運命の転機となりました。
これまで東海を中心に勢力を広げていた家康でしたが、秀吉の命で江戸を中心とした関東への転封を命じられたのです。
それだけならば、歴史の中のひとつの出来事として終わるのですが、井伊家にとってはそれだけでは済まなかったのです。

秀吉は、井伊直政に箕輪12万石を与えるように家康に指示したのです。
よく、直江兼続の逸話の中で秀吉の指示で上杉120万石の内の30万石を与えられた。との話が登場しますが、実はこれは徳川家でも行われ、その筆頭が直政でした。
こうして井伊直政は徳川家臣団筆頭の地位を、秀吉の指示で得たのです。

しかし、秀吉と言う人物はただの人たらしではなかったと思うのは、この箕輪から東山道を進むと徳川家から豊臣家に鞍替えした真田領に入り、その向こうには家康の元を離れて秀吉の家臣となった石川数正の築く松本城が控えています。
直政と数正は秀吉の目の前で敵対したこともあるくらいですので、もし秀吉と家康が戦うようなことがあれば、真田・石川が直政と戦うことなり、徳川軍の戦力分散が理想的な形でできるという緻密な計算があったようにも見えるのです。

なにがともあれ、井伊家にとっては関ヶ原以前で一番運命が動いたのが秀吉の小田原征伐後だったのです。