彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

5月31日、世界禁煙デー

2010年05月31日 | 何の日?
平成元年に世界保健機関(WHO)が制定した。国際デーの一つだそうです。

タバコは元々マヤ文明に関わりのある宗教色の強い儀式でした。
1492年コロンブスが新大陸発見と同時にこの習慣を持ち帰り大航海時代によってヨーロッパから世界に広められたのです。
1543年、鉄砲伝来と一緒にタバコも日本にやってきて、そのまま全国に広まったのです。

1605年、将軍職を息子に譲った徳川家康は駿府に城を築きますが、何度も火事で焼け落ちます。その火事の原因で一番多かったのがタバコだった事から家康はタバコ禁令うぇお発布したりもしました。
しかし、既に習慣になりつつあった喫煙は簡単には止められず、禁令と緩和が繰り返されるのです。
家康が亡くなった後も江戸幕府は度々禁令を発布しますが、結局うやむやになって行ったのです。

明治時代以降は、タバコの依存性と習慣性を利用して税の徴収に使われるようになります。
日露戦争の時には国がタバコを専売で売って軍事費を調達したのでした。
しかし、タバコの害についても理解していた明治政府は、成長期の喫煙を禁止したのです。
明治33年、『未成年者喫煙禁止法』が公布され、20歳までは喫煙が禁止されました。
でも、その一方で軍事費としての売上も必要だったので、「20歳まではタバコを吸わずに丈夫な身体を作って、兵隊に行けない成人はタバコを買って軍事費に協力するように」という一見ちぐはぐな主張となったのでした。
これが、今の未成年の喫煙を禁止する基となっています。


WHOの発表では1995年で、世界の喫煙者は10億1000万人・約5人に1人の割合だそうです。
また世界では毎年300万人が喫煙が原因とみられるがんや心臓病で亡くなっていて、2030年代初頭には喫煙による死亡者が年間1000万人に達するとだろうは警告しています。

ちなみに、親がタバコを吸っていてその煙を横で吸った子どもは健全な子より96%、自分が吸う子は95%しか脳細胞が働かないそうです。
また、家の中でタバコを吸わなくても、吸ってすぐに家に入ると、肺の中に残った成分がばら撒かれるので同じ結果となります。
もし、健全な状態で家に入るなら、喫煙後3時間は外で深呼吸でもして肺の中をキレイにしないといけないそうですよ。


管理人も、今はタバコを吸う事はありませんが、一時期3月15日の夕方に1本だけ京都駅の2番ホームで吸っていた習慣がありました。
その頃の仕事のストレスから、たった1本の気分転換だったのですが(今はその仕事をしていないので吸いません)、もしあれが常習するようになれば止めるのは難しいとは思います。
でも、世の中は禁煙が進みつつあり、愛煙家の方には肩身が狭くなっているいようですね。

彦根市でも、彦根城周辺を中心に禁煙エリアがありますので、タバコを吸われる方は喫煙場所の確認をお忘れなくお願いします。

5月27日、日本海海戦

2010年05月27日 | 何の日?
明治38年(1905)5月27日、日本海海戦でロシアのバロチック艦隊に大勝利を収めました。

この事件は、彦根に限定すると何の関わりもありませんが、この戦いは『坂の上の雲』のクライマックスであり、開国の結果の一つでもあるので、話題に乗ってご紹介します。
2010年より105年前の大きな出来事なのですから…


日露戦争の重要な戦いの一つだった奉天会戦から約2ヶ月、陸軍はただ防衛線を固める事だけしかできず、戦争終結の鍵は連合艦隊(日本軍)とバルチック艦隊(ロシア軍)の戦いの結果に委ねられる形になります。
旅順から帰還し修繕と補給を行なった連合艦隊は、バルチック艦隊との戦いを想定した訓練を繰り返した…
しかし、連合艦隊指令長官・東郷平八郎中将には不安が残っていました。
バルチック艦隊がウラジオストックに向かう事は判っていたのですが、その進路を割り出す事ができず、太平洋から津軽海峡や宗谷海峡に至るのか、対馬海峡から日本海を北上しウラジオストックに至るのかが全く予測できなかった。
東郷中将は、バルチック艦隊との戦いは勝つのみではなく殲滅に追い込みたいとの思いがあり、その為には連合艦隊全軍で挑む必要があったのです。
そんな中、東郷中将はバルチック艦隊が対馬海峡を通過する事を信じ主力艦隊を対馬に終結させていたのでした。

5月18日、待望のバルチック艦隊の情報が飛び込んできたのです。
「5月14日、バルチック艦隊ヴァン・フォン港を出港して北上する」
しかし、津南アジアのヴァン・フォン港ではまだ経路は断定できない…
一つだけ確実な事はロシア主力艦隊が半年以上の航海の末に日本に迫っている事。
そんな緊張感の中26日に新しい情報が飛び込んできます。
「25日、ロシア艦隊の輸送船6隻が上海に入港」
これを聞いた連合艦隊司令部は狂喜しました。
上海から太平洋に出る事は大回りになる為に可能性として薄く、対馬海峡が決戦の場となる事がほぼ確定したのです。
しかし、その確定もまだ輸送船の目撃でしかなく、連合艦隊はこの時から73隻の船艇を使ってバルチック艦隊の船影を求めるようになりました。

5月27日午前2時45分、バルチック艦隊の船影を追っていた73隻の中の1隻・信濃丸が五島列島の西方沖で怪しい灯火を発見。2時間かけてそこに接近した信濃丸はいつの間にかバルチック艦隊のど真ん中まで来ていた…
しかし、信濃丸は驚きながらも日本にとって運命的な一発を発射します。
バルチック艦隊発見の第一報だった…
信濃丸は続いて無線電信機を発信する。
「敵の艦隊、203地点に見ゆ。時に午前4時45分」
「敵進路東北東、対馬東水道に向かうものの如し」
この報が東郷中将の元に飛び込んだのは午前5時5分。
東郷中将は全艦艇に出動を命じます。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、之を殲滅せんとす。」
この後に続く言葉が有名な「本日天気晴朗なれども浪高し」なのです。
日本海海戦の幕開けとして有名なこの言葉で連合艦隊は三笠を先頭にバルチック艦隊目指して発進。
この時、東郷中将と作戦参謀・秋山真之中佐の手には先の73隻の偵察船艇からより詳しい情報がもたらされていてバルチック艦隊に接する、前にその全貌を掴んでいた。
秋山真之は、日本史上最高の参謀と称される人物で黒溝台の戦いや奉天会戦で活躍した秋山好古の弟。
バルチック艦隊が東進する情報を受けてからは不眠不休に近い状態で作戦を練り、日本海海戦に関しても何重にも網を張って、最終的にウラジオストック沖で機雷によるトドメまで考えた「7段戦法」を立案したのです。
これから始まる日本海海戦は秋山真之中佐の7段戦法通りに進む事になります。

午後1時39分、沖ノ島西方で三笠がバルチック艦隊の姿を捉えた。
三笠に有名なZ旗が揚げられたのは1時55分の事。
そして秋山中佐の名言
「皇国の興廃此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」
秋山真之は正岡子規(この時は故人)と友人関係にあり、子規に認められたくらいの詩人で、「本日天気晴朗なれども浪高し」も秋山の作と言われています。
この文章を見た海軍大臣・山本権兵衛は「秋山の美文は事実を粉飾して後世を惑わす危険性がある」と怒ったのですが、実際にこの言葉は後に真珠湾攻撃の打信にも使われるくらい有名な言葉となり、逆に戦後の極端な戦争拒否の為に忘れさられる運命にあります(余談)。

戦闘が始まってから東郷中将は高い波の中で艦橋に立ちました。
弾丸がいつ飛んでくるか分からない上に波が何度も打ちつける危険な場所。
幕僚は安全な司令塔への移動を懇願しましたが、東郷はそれを拒み、左手に指令刀の柄を握り両足を軽く開いた状態で立ったまま身じろぎ一つしなかったと伝わっています。

両軍の距離は徐々に狭くなっていく…

距離は8000メートル…

三笠の砲術長・安保清種少佐は大声で「どちら側で戦をなさるのですか!」と言った。

日本海海戦ではギリギリまで敵を引き付ける為に砲撃の方向も知らされていなかったが、安保少佐からすればベストの状態で攻撃を行なう為には少し前には準備が必要だったのです。しかし、階級の高い東郷中将に直接聞く訳にはいかず、独り言のように大声で呟くしかなかったのでした。
東郷中将はこの声を聞いてすぐに右手を高く揚げ、無言のまま左方に大きく半円を書きました。
これを観た加藤友三郎少将(後の首相・日本海軍三祖の一人)は大声で「艦長、取舵一杯!」と命令を下します。

この瞬間、世界海戦史上類を見ない敵前大回頭が始まりました。
午後2時5分、連合艦隊はバルチック艦隊の敵前でしかも砲撃の射程距離内にあるにも拘らず大きく左に急転。
敵に横腹を見せる危険が伴う捨て身の作戦で、これを知った世界の海戦術家は驚嘆したと言われている。
この作戦は船艇の配置がアルファベットのTに似ている事から“T字戦法”と呼ばれることになります。

午後2時8分、両軍の距離は7000メートル。
まだ回頭を続けている連合艦隊に向かってバルチック艦隊のスワロフの主砲が発射。
こうして日本海海戦の開戦となり、バルチック艦隊はこの爆音を合図に一斉射撃を開始。
しかし連合艦隊からの応戦は無く、連合艦隊はひたすら回頭を続けるのでした。

午後2時10分、両軍の距離は6400メートル。
三笠の向きが東北東を指した時に三笠の右舷砲門が一斉砲撃を開始。
後続部隊も三笠の向きに合わせて安定すると一斉砲撃に参加。
約30分の砲撃で決着がつきました。
ひたすら集中砲火を受ける事となったバルチック艦隊の船艇の殆んどは火災が発生していて連合艦隊の勝利は間違いなかったのでした。
後の二・二六事件で九死に一生を得る首相・岡田啓介はこの戦闘の時、巡洋艦・春日の副長でした。岡田は春日の甲板で補強・人命救助とうで走り回っていたが、その時に2・3発の弾丸を体に受けたと回想しています。
後に女中部屋の押入れに身を隠した話しか伝わらないので頼り無いイメージのある岡田啓介にもこんな勇敢な逸話があるんですね~。

開戦から30分、この時点で連合艦隊の勝利が決まったといってもそこで海戦が終わった訳では無かったのです。連合艦隊司令官である東郷中将の目的はバルチック艦隊の殲滅であって、ただの勝利ではなかったからでした。
ここから連合艦隊の落ち武者狩りが始まります。
何度もバルチック艦隊の船影を見失いながらも、敗北して四散した船を見つけ出し攻撃・捕捉を繰り返したのです。
しかし、日没を迎え午後7時10分についに攻撃中止命令が出されました。
開戦から三笠の艦橋で指揮をとりつづけた東郷中将がその姿勢を崩したのは7時20分頃だったそうです。
この時、艦橋の床は波でびっしょりと濡れていたのに、東郷中将の立っていた所には靴底の形で乾燥していたそうですよ。

日中の海戦に勝利した連合艦隊は、そのまま凱旋する事をせず、次の作戦へと進みます。
秋山真之中佐の7段戦法は主力艦隊による昼間の決戦の後に小船艇による夜襲を組み合わせていて、その戦法にそって夜戦が行われました。
この夜に夜襲を決行したのは駆逐艦2隻と水雷艇約40隻で、被弾を覚悟した決死隊でした。
この時に活躍したのが駆逐艦の1隻・朝霧を中心とした第四駆逐隊。
第四駆逐隊司令官・鈴木貫太郎の指揮の元、昼の海戦でバルチック艦隊の1隻を撃沈、夜襲では2隻を沈没させています。
鈴木は後に侍従長として昭和天皇に仕えますが二・二六事件で銃弾を浴びますが、何とかここで一命を取りとめます。
やがて昭和20年4月、同じく日本海海戦で逸話を残し、二・二六事件で襲われた境遇の元首相・岡田啓介に推されて首相に就任。
同年8月9日に御前会議を招集してポツダム宣言受諾を昭和天皇に仰ぎ、太平洋戦争終結へと導いくのです。

しかし、この夜襲の成果は第四駆逐艦隊がバルチック艦隊の船艇を静めただけではなかったのです。
この戦闘の中で拿捕した駆逐艦ベドーウィの中にバルチック艦隊司令官・ロジェストウェンスキー少将が搭乗していたのでした。
ロジェストウェンスキーは昼の海戦の時は戦艦スワロフに乗っていたのですが、T字戦法で集中砲火を浴びた時に負傷し甲板で倒れてしまったのでした。集中砲火を受けて混乱している兵達にさんざん踏まれた挙句にやっと救出されて駆逐艦ベドーウィに収容されいたのだです。
こうして連合艦隊は偶然に敵将を拾ってしまったのでした。

しかし、バルチック艦隊の指揮権はこの時、負傷したロジェストウェンスキーからニコライ・ネボガトフ少将に移っていて、艦隊そのものの指揮系統には何とか影響を与えないで済んだのでした。

ロジェストウェンスキーの拿捕によってバルチック艦隊の完全な指揮権を完全に握ったニコライ・ネボガトフ少将は、バラバラになった隊列を出来るだけ組み直して5隻の船艇の艦隊としてウラジオストックを目指します。
しかし、連合艦隊のうちで夜襲に参加しなかった船艇がウラジオストックに向かうバルチック艦隊を待ち伏せしていたのです。

28日午前9時半、バルチック艦隊を発見した連合艦隊はそれを遠巻きに包囲。
連合艦隊の船艇は27隻あり、バルチック艦隊には勝ち目が残されていなかった。
これを覚悟したネボガトフは降伏を決意、白旗の代わりにテーブルクロスを掲げたのでした。
バルッチク艦隊に降伏の白旗が揚がったが、連合艦隊の東郷中将はこれを確認できなかった。
包囲の輪を狭くした連合艦隊が砲撃を開始したのは10時10分。
しかし、降伏をする気でいるバルチック艦隊は一切の反撃を行なわず、攻撃開始から約10分、秋山中佐がやっとバルチック艦隊の降伏に気がつき東郷中将に攻撃中止を促しました。
しかし、東郷中将は攻撃を中止しません。
秋山中佐は血相を変えて詰め寄り「長官、武士の情けです発砲を中止してください」と言うと、東郷中将は「本当に降伏するなら停止するモノだ! しかし、敵艦はまだ前進している」と返したと伝わっています。
当時の国際法では、降伏は白旗を揚げて機関を停止する事が決まっており、しばらくしてこれに気が付いたネボガトフは機関を停止して、やっと日本海海戦は終わったのです。
この戦いでのバルチック艦隊の被害は全38隻の内ウラジオストックに入港できたのは3隻という結果で、連合艦隊の被害は水雷艇3隻のみだった。
誰もが認める連合艦隊の大勝利だったのです。

その後、
バルチック艦隊のロジェストウェンスキーとネボガトフは帰国後に罪に問われるが、ロジェストウェンスキーは全ての責任をネボガトフに押し付けて無罪。
ネボガトフは降伏の罪を問われて投獄され、釈放された後に行方不明となっています。
秋山真之は海軍大臣にまでのぼりますが、戦争が人を殺す行為でしかない虚しさを感じ、宗教にのめり込みます。やがて50年の短い生涯を終えるのでした。
東郷平八郎はこの後に生き神とされ敵前大回頭は20世紀前半の世界の海軍の戦略として採用されます。



余談ですが、マンガ家のみなもと太郎さんがお祖父さんの人生を描いたマンガ『松吉伝』には、この日本海海戦の勝利につながるバルチック艦隊の動きを東郷が知っていた理由が書かれています。

日露戦争時に、諜報活動を行っていた明石元二郎の下で活動していた、漆原松吉の残した話として、日露戦争では国家予算の数分の一を使って世界のマスコミを政府レベルで買収し、ロシアの諜報機関まで丸ごと買い占めたというのです。その為にロシア軍の動きは日本軍に全て筒抜けだったのだとか。。。

明石元二郎の動きについては今も資料は見つかっておらず、裏付けされる資料は無いのでしょうが、それが諜報機関としての明石の有能なところであると考えるなら、少しだけ後の世に残った証拠もないこの証言が、歴史家の心をくすぶりますね。

『山山城 安土・佐和山の中継点』講演聴講報告

2010年05月26日 | 講演
『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー2「戦国彦根の城郭講座」
の第3回目の講座として『山山城 安土・佐和山の中継点』と題された講義が開かれました。

講師は、先週に引き続き、中井均先生。


山山城は、昔は土の城だと思われていたお城だったそうなのですが、発掘調査から石垣を構えた城であることが分かりました。

しかもその石垣の組み方が安土城に似ていた事から大きな話題となったお城なのだそうです。
お城の楽しみ方は、現状から推理する事なのだとか。
資料としては『信長公記』の天正10年の項に、武田攻めからの帰りに山山で休憩した記録もある事から、織田の城としての存在は間違いが無く、織豊系城郭にみられる特徴の幾つかも分かるそうです。

たぶん信長の佐和山・安土間の繋ぎの城であり、普段は見張り程度の武士が詰めていた城ではなかったか?との事でした。

今度現地説明会もありますので、現地でしっかりと学びたいですね。

『肥田城水攻めと野良田合戦』講演聴講報告

2010年05月19日 | 講演
『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー2「戦国彦根の城郭講座」
の第2回目の講座として『肥田城水攻めと野良田合戦』と題された講義が開かれました。

講師は、先週に引き続き、中井均先生。


まずは、戦国期の城のお話から始まり、天守がある物だけが城と言うのではなく、全国には3万から4万の城跡があること、滋賀県は約1300の城跡があり、旧国区分でいえば伊賀に続く第二位の数を誇る事などが話されました。

そして、詳細不明の山城・男鬼城の話もありました。また彦根で山城の様式をよく残しているのが日夏城だというお話も興味が持てました。


後半は肥田城や野良田合戦のお話になりました。
肥田城の歴史や、最近の発掘で解ったことなどが話されました。水攻めの為の堤防があった事がしっかり証明された事が、肥田城水攻めの裏付けになる大きな発見だったんですね。

そして質疑応答。
管理人は「今日は桶狭間の戦い450年になる日ですが、桶狭間や3か月後の野良田合戦など、勢力の小さい者が大きな者を倒していくのは、合戦の様式が変わる何かきっかけがあったのか?」という質問をしました。
すると、「天下統一という動きが出てきた時期でもあり、大名たちが天下を意識しだした時期であり、そこで動きが始まったのかもしれない」とのお答えでした。
今年は、戦国時代の重要な点からちょうど450年。それは意識すべき事なのかも知れませんね。

5月19日、永禄の大逆

2010年05月19日 | 何の日?
この事件は直接彦根には関係ありませんが、この事件がきっかけで織田信長の上洛に繋がると考えると、近江戦国史に大きな影響をおよぼしますし、戦国史を語る上では必要な事件ですので書いてみます。


永禄8年(1565)5月19日、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が室町13代将軍・足利義輝が住む二条御所を襲撃しました。

この時代を扱った物語や歴史資料には必ず時代背景として登場し、関わる人物も大物が居るのに余りにも知名度が低いこの事件。
歴史上で時々起こる暗殺事件で『本能寺の変』のように『変』という呼び方で書かれる事件の殆んど場合は身分の下の者が上の者を襲う事件の事を指します。この事件も『二条の変』という名称も持っていますが、正式名称では『永禄の大逆』と書かれるようにただの身分の差の事件では無いのです。


5月18日朝、松永久秀は居城・信貴山城から弟の松永長頼に伝言を送ります。
「明早朝、公方(将軍)様に引退を勧告する」
こうして松永久秀は居城をでて京都に向かったのです。
19日、朝から雨だったと伝えられています。
側室の小侍従と同衾していた将軍・足利義輝は居城・二条御所の周りの異常な空気に目を覚ましました。
その時には既に松永軍2千名の兵で包囲されていた、対する足利軍は女・老人を合わせて2百名弱、戦える兵は百名にも満たなかったそうです。
小侍従や他の女性に着替えを指示し、自分自身も名刀・童子斬丸安綱を身につけた義輝の元に、家臣の沼田上野介が飛び込んできて外の異常を伝えたのです。
しばらくして外から大きな声が聞こえてきた。
「三好長慶、公方様に訴訟の儀あり、開門されよ」
しかしこの時、すでに三好長慶は松永久秀に毒殺された後。この声を発したのは三好家家臣・三好三人衆の一人・三好長逸だったそうです。
三好長逸はこの時、松永久秀の誘いに乗って京都まで軍を進めたが、将軍殺害の心積もりは無かった。
「大軍で御所を囲めば、将軍・義輝は恐れて三好家の操り人形になるだろう…
あわよくばそのまま将軍の座を降りて、三好家が保護する義栄(後の14代将軍)が将軍になって、三好家が政権を握れるのではないか?」
と言うほどの思想でした。
しかし、先の長逸の開門要請に対して御所からは徹底抗戦の気配が見えたのです。
そのため、長逸は戦による将軍弑逆という事実が目の前に現れる事に恐れを感じてそれ以上は何も出来ない状態に陥ってしまったのでした。
この状態を感じ取った、松永久秀は自家の兵に鉄砲の装填準備を命じます。
朝に降っていた雨はいつの間にか止んでいたのです。


三好長逸がその進退について悩んでいた時、御所の大手門が開かれようとしていました。
義輝の母・慶寿院は「訴訟の受付をすれば三好軍は満足して兵を引き、将軍にも害が及ばないだろう」と考えて進士晴舎を交渉人として三好軍に派遣しようとしたからでした。
進士晴舎は義輝の舅という記録があるのですが、はっきりした関係は今一分かりません。が将軍の母である慶寿院と直接会えるくらい身分が高い人物であった事は間違いないでしょう。
とにかく、晴舎が外に出ようとして大手門が少し開いた時に三好軍の中の松永久秀と岩成友通の軍から鉄砲の一斉射撃が始まり戦闘が開始されるのです。
いざ戦いが始まってしまえば三好長逸の軍だけが動かない訳にも行かないので、長逸は不本意の内に正面の大手門に攻撃をかけたのでした。
慌てた進士晴舎は門内へのがれ、御所の兵が急いで閂を掛けようとします。
無事に難を逃れた晴舎でしたが、門内でへたり込んだ後「三好に騙されて無念の使者となった事、口惜しい」と語り切腹したのです。
この時、大手門の守りは30名にも満たなかったと言われています、そこに200名以上の三好軍が殺到したのです。

結局、大手門は閂が掛けられる前に破られてしまいます。
御所の兵は次の屏重門まで退くが、ここもすぐに突破されたのでした。


屏重門が破られた報せを聞いた時、足利義輝は辞世を読んだ…

五月雨は 露か涙か ほととぎす
わが名をとげん 雲の上まで

この直後、三好長逸から義輝に使者が送られます。
「御台所様は、責任を持って実家にお送りします」との内容でした。
義輝の御台所はこの時の関白・近衛前久の妹で、戦後の朝廷との交渉で関白に敵対するのは良くないと考えた長逸の申し出でしたが、義輝はこれに答えて御台所を逃がす事にしたのです。
御台所は最後まで残ろうとしましたが、義輝に説得されて実家に戻る事になったのです、この時の条件として義輝の側室・小侍従を一緒に連れ出したのでした。
小侍従が義輝の子を妊娠していたために、義輝の血統を守る為の処置だったと言う説があります。
しかし、そんな小侍従の連れ出しは困難を極めました。
御台所は小侍従を変装させて脱出した事が、ルイス・フロイスの記録にも残っています。


御台所一行が御所から出た後、松永軍を始めとする軍勢は四方から突撃しました。
そして、ついに御所に火が付けられたのです。
この頃には足利義輝は鎧を纏い、手に重藤の弓を持ち、腰に愛用していた童子切安綱の刀を差し表書院近くで悠然と床几に座っていました。
そして、その周りには抜き身の十数本の刀が突き立てられていた。その刀はどれも足利家に伝わる名刀だったのです。


足利義輝はこの先江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜まで続く歴代将軍の中で唯一剣豪と言える将軍。
当時の一番の剣の使い手だった塚原ト伝に剣を習い免許皆伝と秘儀・一ノ太刀を伝えられているくらいでした。

反乱軍が義輝の近くに集まり出した時、義輝は重藤の弓を構えます。
その後、100本以上の矢を放ってその度に敵兵が倒れていったとか・・・
やがて、使い過ぎによる疲労で弓の弦が切れました(本能寺の変の信長でも同じ様なシーンがありますね)。
この時、義輝の近くに残った家臣は細川隆是と13歳の摂津糸千代丸のみで、残りの家臣は討死してしまったのです。
義輝の母・慶寿院も自害して果てていました。
義輝は残った2人の家臣に対し「もうよい」と声を掛け2人はその場に腰を落としたと言われています。
満身創痍で戦った2人、これに対し忠義を労っている義輝。
この3人の姿を直視できる反乱軍は少なかったそうです。
そして、2人は切腹しその介錯を義輝が果たしたのでした。


御所にいる足利軍は将軍・義輝1人となった…
義輝は突き立てた刀の1本・典太光世を右手で引き抜きます。
「足利尊氏公から伝わる将軍家の重宝・典太光世である。予の首を取った者に授けよう」義輝が叫ぶと反乱軍が殺到しました。
しかし、義輝に近づく者で義輝が動いた後に起きている者は居なかったのです。
剣豪将軍の凄さを見せつけられた反乱軍の兵は途端に脅えてしまいます。
「では、参る」
義輝は反乱軍の中に斬り込みます。
兵達は阿鼻叫喚し、義輝の周りにはすぐに空間が出来たとか・・・
そうすると義輝はまた斬り込んでいきます。
この時、義輝のすぐ近くまで松永久秀が来ていたが、恐怖のあまり後方に去ってしまったくらいなのです。

義輝はその後も何度も兵の中に斬り込んで行きました。
義輝の周りに居たと思われる数百の兵達はただ逃げるのみで、逃げる兵に勝ち目はなく斬られるしかなかったのです。
やがて義輝は元の位置に戻って来る。
典太光世の刃がこぼれたから。
典太光世を惜しげなく放り投げた後、鬼丸國綱を右手に持った。
そしてまた同じ様に反乱軍に斬り込んで行く。
鬼丸國綱の刃がこぼれると大包平、大包平の刃がこぼれると九字兼定、その後は朝嵐勝光、綾小路定利などなどの名刀が本来の職務を遂行させそして去って行ったのでした。
「公方様御前に利剣をあまた立てられ、度々とりかへ切り崩させ給う御勢に恐怖して、近付き申す者なし」
と当時の記録に残された位でした。

反乱軍にとって永遠に続くかと思われた恐怖は、簡単な理由で終わりを迎えます。
全ての刀が使われてしまい、義輝の腰に差さっている童子切安綱のみとなったのでした。
「童子切安綱が斬れなくなれば全て終わる…」
反乱軍はそう思ったに違いないのですが、義輝は童子切安綱の鯉口を切らなかったのです。
そして、鎧を脱ぎ出し、最初に座っていた床几の上に置くと表書院から奥へと進みだしたのでした。
この時、逃げ出していた松永久秀が鉄砲隊を連れて戻ってきて義輝に向けて発砲。
しかし、当らなかったと伝えられています。

義輝がそのまま奥に進み、奥の間へ足を踏み入れた時、戸の脇に隠れていた池田小三郎に足を払われます。
不意の事で義輝が転んだ上に、小三郎は障子を倒し掛けてその上から鑓を突き立てて止めを刺したのです。
足利義輝、享年30歳
この時、不意の事故で池田小三郎は目の光を失っているのです。


さて、御台所と一緒に二条御所を抜け出して反乱軍から抜け出した小侍従でしたが、その後に変装がばれてしまい、そのまま数名の供を連れて近江まで逃げる事になりました。
賀茂川を渡ろうとした時に松永久秀の追手に捕まり、そのまま知恩院へ護送されます。
知恩院で十念を授けられた後、すぐに処刑の場に送られたのです。
刑場に臨んだ小侍従は黒髪を自分の手で高々と持ち上げて首を差し出しました。
介錯人はその姿に躊躇ってしまい、首を斬らずに小侍従の左頬を斬ってしまいました。
「あなたは武芸の達人として、介錯人に選ばれたのでしょう?」
と冷やかに笑った小侍従は
「無様」
と決め付けたと、フロイスの『日本史』に記されています。
小侍従の首はニ太刀目で落ちたのでした…


二条御所が襲撃を受けている時、将軍・足利義輝の二人の弟にも危機が迫っていたのです。
まずは京都・北山鹿苑寺(通称・金閣寺)で僧籍に入っていた周の所に、平田和泉守が率いる三好兵が乱入し、周を後ろから槍で突き刺したのです…
周は、そのまま天寿を全うしたら必ず名僧として歴史に名を残しただろうと評価されている人物で、この時も後ろから槍を突き抜かれながらも温和な表情を絶やさなかったと伝えられています。
周に付き添っていた従者はこの光景に怒り、三好兵から刀を奪って斬りかかりました。
平田和泉守の首が飛び、三好兵を十数人まで切り倒した後に周の後を追って割腹したと伝えられています。


そして、もう一人の弟・覚慶の住む興福寺一条院門蹟は、松永軍に包囲されたのでした。
その覚慶の所に永禄の大逆当日に二条御所から地方へ出掛けていた一人の武将が忍んで行ったのです。
細川藤孝(幽斎)でした。
この時に明智光秀も一緒だったという説もあるが真相は分かりません。
藤孝は覚慶に興福寺から脱出する事を提案し、実行に移します。
覚慶を将軍として義輝の敵を討つために…
それが後に織田信長に保護を求めて15代将軍に就任し、信長と対立して室町幕府を滅亡に追い込む足利義昭です。


公式記録上、現役将軍の暗殺は3人(源実朝・足利義教・足利義輝)しか行なわれていませんが、その中でこの永禄の大逆のみが歴史の中での扱いが悪いです。
何故かと言えば、この時に将軍を殺す事に歴史的意味合いを簡単に見出せない事にあります。
この時の足利将軍の実質的な支配力は京都の町全部ですら無く、将軍自身が京を追い出される事が当たり前の楊に行なわれていました。
追い出された将軍は、その時京を支配した権力者に迎えられ、その権力者が京を追われると一緒に逃げてまた別の権力者に保護される事を繰り返していたのです。
そんな中、剣豪将軍の名が示す様に足利義輝は個人としては強い人で、決して権力者の言いなりにはならなかったのでした。
その事は畿内(関西)の最大権力者だった三好家には耐えがたい事だったのです。


この後、足利家と三好家は、織田信長の仲介で義輝の妹が三好義継に嫁いで和解がなされます。
やがて、足利義昭による信長包囲網の一角をになった三好家は信長に攻められ滅亡しますが、この時に義継夫婦は共に自害しました。
この報せを聞いた信長は嘆息を漏らしたと伝わっています。


※ちなみに、この戦に松永久秀本人は出陣せずに、息子が出て、その戦いぶりを久秀と混同したという説もあります。

『佐和山城をめぐる攻防戦』講演聴講報告

2010年05月12日 | 講演
『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー2「戦国彦根の城郭講座」
の第1回目の講座として『佐和山城をめぐる攻防戦』と題された講義が開かれました。

講師は織豊期城郭研究の第一人者で、長浜城歴史博物館館長の中井均先生です。

4月に引き続き、5月も3回シリーズでひこね市民大学講座『歴史手習塾』がスタート。
『どんつき瓦版』編集部として、昨年の肥田城水攻めのシンポジウムでもお世話になった中井先生の講演です。
5月は『戦国彦根の城郭講座』と題して、1回目は「佐和山城をめぐる攻防戦」とのタイトルでのお話が行われました。


佐和山城と言えば、石田三成が最初に思い浮かびがちですが、中井先生は織田信長が佐和山城を攻めた元亀合戦に注目し、この戦がのちの三木城や高松城、そして小田原城にまで繋がる、取出(砦)と鹿垣で城を包囲する戦の始まりになった事や、この時の取出(砦)の確定などをお話されました。
また今よく知られてる佐和山城に残る遺跡から、この城はいつ頃作られた物か?
そして、佐和山城では城下のキャパが補えなくなった為に井伊家は彦根城に移ったのではないか?という説。
井伊家が関ヶ原の論功で与えられたのは佐和山城であり、『徳川実記』などの江戸時代の記録でも“彦根城”を“佐和山城”と言い換えているところが多数みられるので、井伊家が佐和山城を忌み嫌ったのではなく、目出度い城としていたと考える方がいい。
とも仰っておられました。


講演終了後に、管理人は中井先生に、
「元亀の佐和山攻めは、松永久秀の信貴山城攻めで多くの犠牲者が出たことから、城攻めを力攻めから包囲戦に変えたと最初と観られませんか?」
と尋ね、答えも頂いたのですが、大きな勘違いをしていました…

信貴山城の落城は、元亀合戦より後の話でした。
久秀の奈良東大寺大仏殿炎上の年号と、信貴山城の戦いの年号をごっちゃにしていた為にムチャクチャ恥ずかしい質問をしてしまいました(汗)
あと、佐和山城の最近の発掘についてのお話も少し聞く事ができて、有意義な講演となりました。


次回は「肥田城水攻めと野良田合戦」がテーマとなります。