彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

中秋の名月

2012年09月30日 | イベント
今年は9月30日が中秋の名月になるそうです。
簡易的にですが月見団子も準備しました。

でも、台風がやってきてましたので、雨が振って見えない「雨月」か、月が雲に隠れて出て来ない「無月」になる可能性がありました。

いざ空を見上げると、雲くもクモ…蜘蛛はさすがに空には居ない…
雲が薄い時に明かりがさすのも昔の人は風流として楽しんだそうですが、やっぱり名月見てみたい。
すると、雲が薄くなる時が…

もう少し…

そしてついに月が顔を出しました。

すぐに雲に隠れてしまうので、短い時間でしたが、確かにお月見できました。


ちなみにこの時期は芋がよく獲れるために、芋をお供えする習慣もあることから芋名月とも言います。そして次の十五夜の前の十三夜は栗名月です。
明日は十六夜。次の十七夜を立って待つ立待月、その十八夜は立ち疲れて座って待つ居待月、十九夜は長すぎて寝て待つ寝待月もしくは臥待月。そして夜更けまで名月を待つ更待月となるのです。

中秋の名月をどこまでも楽しもうとする遊び心が見えますよね。

『玄宮園で虫の音を聞く会』

2012年09月30日 | イベント
前日に、『玄宮園で虫の音を聞く会』に行くという話が出ていました。台風や諸事情で止める可能性もあったのですが、せっかくなので久しぶりの玄宮園を予定として組み込みました。

9月29日、予定自体はさまざまなことが重なって同行者さんたちが来れなくなり中止になりました。
ですから、のんびり一人で行くことにしました。

台風の影響で雨が降った止んだりの天気、状況はあまりよくありませんが、さいわいにも行くのが嫌になるほどの天気でもありませんでした。

入口から入ると、ひこにゃんの提灯を貸して下さいました。

ちょっと足元を照らしたりして風流です。


このあとは写真で楽しんでいただきます。
 

 

 

 

 
雲に覆われて月が見えなかったことが残念でしたが、大名庭園にお城に提灯。
やっぱりたまには着てみるものですね。

筒井順慶墓訪問

2012年09月29日 | 史跡
脇本遺跡に行くとき、途中の乗り換え待ちで筒井順慶墓の案内がありました。

目的地としてわざわざ行くことはありませんが、ついでに寄ってみる場所にはなるとは思います。
そんな単純な理由で訪問。



大和郡山城内で亡くなった筒井順慶が改葬された場所です。五輪塔が建てられたのですが、その上に覆堂が建立されました。
ですから安土桃山時代の物なんですね、しかもどういう理由なのか、中が見れるような作りです。

謎な建物です。

脇本遺跡現地説明会

2012年09月29日 | 史跡
三輪山の麓伊勢街道にある脇本遺跡は、泊瀬朝倉宮があった場所ではないかといわれています。泊瀬朝倉宮は雄略天皇の都として『日本書紀』に伝わっているのです。

その発掘はもう18次になるのですが、今回初めて現地説明会に行ってみました。

今回発見された遺構は、護岸設備です。
池状遺構の南側の護岸設備で石が積まれています。

高さは1.1m今回の発掘では東西に30mの長さが検出されたそうです。
しっかりと底を決めていてその基準となる基底石が並べられていますし、ところどころに目地が縦に並べられていて、積む為にずれが生じない基準にもなっていたそうです。



また、弥生時代の土抗やそれを埋めた後に建てた竪穴建物の跡も見つかりました。


 

(全体俯瞰)


(発掘された土器)
赤は土抗から

青は池状遺構から
  

ちなみに池状遺構は、しっかり高さが揃えられた整地された場所なのだそうですが、ここに水が溜まっていた形跡は無いそうです。
環濠集落を囲った空濠のような役目があるのか、それとも水を入れる予定で中止になったのか、謎は広がります。

会津若松と平泉訪問記 その7~新島八重の生誕地や城下~

2012年09月27日 | 史跡
鶴ヶ城を出て、止み始めた雨に感謝しながら、会津若松での最大の目的地である新島八重の生誕地を目指しました。

会津で何度か耳にした言葉なのですが、「来年の大河ドラマの主人公は新島八重だけど、それは結婚した後の名前で、会津では山本八重だった」と、山本氏の人物であることを強調されます。
八重の生まれた山本氏は、お兄さんの山本覚馬が砲術師範を行ったり、砲術に関する責任のほとんどを任されていた面から考えて、会津藩内でも重臣クラスだったことがわかります。

実際に、誕生地に行ってみると鶴ヶ城のすぐ近くでした。

民家の前に石碑と説明板があるのですが、実際はここより30mずれるそうで、そこの辺りまで行ってみると貸駐車場の敷地に看板が設置されていました。
そしてこの看板から道までの空間を『八重の桜』が抑えていました。今後の観光客を見越して、前の視界が無くなる事を防ぐ処置ならば凄いですよね。

ここからのお城の近さを考えると、山本氏の地位も高かった証明になりますし、日新館も近いので八重が通うのも楽だったと思います。

そんな日新館が別の場所で再現されていたことは既に書きましたが、天文台だけは同じ場所に再現されています。

ここから日新館があった方向を眺めると、最早面影が無いことに気が付きます。

そしてお城は近いです。



さて、鶴ヶ城城下には直江兼続の屋敷があった時期がありました。

今でこそ『天地人』の影響で直江兼続は有名人になり、屋敷跡でも立派な観光名所ですが、ここは兼続の屋敷があったことと同時に山鹿素行の生誕地でもあるのです。
赤穂浪士の討ち入りの軍略が、山鹿素行を祖とする山鹿流であたったので、忠臣蔵絡みの名所ではあったのです。


最後に阿弥陀寺に向かいました。
ここには、新撰組三番隊組長の斎藤一(藤田五郎)の墓があります。

そして鶴ヶ城から移築されたという「御三階」を見ることができるのです。

ここの瓦もやっぱり赤でした。
前回観に来た時には、この赤さが全く気にならなかった事を今更ながらに嘆くと同時に、もっと観察力と疑問力を持たねばらなないことを痛感しました。



ここでタイムリミット
借りていた自転車を返却して、平泉に入る手前の一関まで移動したのです。
後で地図を見れば、自転車で移動するには長い追い距離でした(総計60キロ以上)。
とりあえず、新島八重が育って戦った会津若松市内は、今でも幕末精神は強く残っています。

次回からは、平泉遍です。




















会津若松と平泉訪問記 その6~鶴ヶ城~

2012年09月26日 | 日本100名城と続100名城
飯盛山で雨の洗礼を受けてから、移動は雨に振られながらになりました。

会津若松訪問の目的の一つである、赤い瓦になった鶴ヶ城見学のために、自転車を押しながら天守まで向かいます。
細かい城郭は2008年に訪れて見学していますので、目的は赤い瓦のみと言っても過言ではありません。
ちなみに、彦根城で見られる鉢巻腰巻石垣について、彦根では「彦根城と江戸城と鶴ヶ城の三城のみ」と紹介されることが多い為に、以前に訪れた時に確認しましたら、「表に見える城がこの三城(と言っても鶴ヶ城はギリギリ見える程度)だけど、築城技術としては地盤の緩い場所ではよく使われる技術」とのことでした。

さて話題を戻します。赤い瓦になった鶴ヶ城です。





ぱっと見ただけでは赤さがあまりわからないかもしれませんが、確かに赤瓦です。
以前の同じような場所からの撮影と比べてみると。





構図少し違うので解り難いですが、雰囲気変わってますよね。

ちなみに同じ構図だと
(現在の赤瓦)

(以前の普通の瓦)

です。

もともとは、寒さに耐えられる土で焼けば赤くなったのですが、再建時の瓦の技術では普通の色でも大丈夫だったようですね。
しかし昨今のより昔に戻すという考えから赤い瓦に葺き直し、2011年3月12日に赤い瓦をお披露目するイベントが計画されていたのですが、その前日に東日本大震災が起こったのです。
福島県でも内陸にある会津若松での被害は、海側に比べると少なかったとは聞きましたが、それでも余震の恐怖や、福島県というだけで風評被害もあったようでした。
大河ドラマ『八重の桜』はそんな福島県に新しい希望の灯となる事を願っています。

もう少し赤瓦の鶴ヶ城を紹介しますと…


 
そんな鶴ヶ城内に残る幕末からの遺構として鐘撞堂があります。
会津戦争の最後の瞬間まで鐘を撞いて時刻を正確に伝えて、味方を鼓舞したという鐘です。
ここの瓦や建物の色は前回見た時も赤色でした。

それに気が付かなかったとは不覚です…


さて、ここから城下に出て、今回のもう一つの目的地である八重の生誕地を目指します。この時になり雨は随分小降りになっていたのです。

150年前:京都町奉行所四与力暗殺事件(9月23日)

2012年09月23日 | 何の日?
文久2年(1862)9月23日、東海道石部宿で京都町奉行所の四人の与力が殺害されました。

殺されたのは、渡辺金三郎・森孫六・大河原重蔵・上田助之丞という人物で、すべて京都町奉行所の与力であり安政の大獄で長野主膳の手伝いをしていた人物だったのです。

これより4ヶ月前の7月には島田左近、2ヶ月前の閏8月には宇郷玄蕃や猿の文吉が暗殺されていて、安政の大獄に関わった人々が襲われる天誅事件をこれ以上広めたい為に、四与力を京都から江戸に転任させることになったのです。
四与力は、京を出て東海道を東へ向かいました。当時は「京立ち石部泊まり」との言葉があったように、京都から石部は1日の行程で、石部宿に泊まることは普通の感覚だったのです。これは逆説的に考えれば四与力にその裏を突くくらいの緊張感は無かったことを示しています。

普通に旅立って、普通に石部宿に到着した夜、30名以上とも言われている志士の集団が四人の泊まっている宿を襲い、四人はあっという間に斬り殺されたのです。
この襲撃に、土佐・長州・薩摩・久留米の各藩の武士が集まったようで、久坂玄瑞・田中新兵衛・平井収二郎らの名前が残っています。また正式に記録は残っていないものの岡田以蔵も参加していたのではないかとも言われています。


殺された四人の首は粟田口で晒されました。

150年前:『奴隷解放宣言』 (9月22日)

2012年09月22日 | 何の日?
1862年9月22日、エイブラハム・リンカーン大統領が『奴隷解放宣言』をしました。

リンカーンといえば、南北戦争と奴隷解放宣言は切っても切れない縁であり、奴隷解放の為に南北戦争が起きて、これに勝ったリンカーンが宣言を行ったのように認識されがちなのですが、実はこの宣言がなされたとき、南北戦争はまだまだ激戦中で、戦争が終わるのは奴隷解放宣言から2年半後なのです。

つまり、奴隷解放宣言はただの民主的な宣言ではなく、戦争に利用されたものなのです。
では、どのように利用されたのかと言いますと、この時解放される奴隷たちの対象は、南北戦争の勢力の境界線辺りとリンカーンが率いる連邦軍が戦っている地域、そして南都連合が治めていた地域だったのです。
連邦軍が既に支配している地域の奴隷たちは対象外でした。

これは、連邦軍に戦いを挑んだ地域の奴隷は解放するように出した命令みたいなものでした。これは民衆に訴えかけて戦力を減らさせようとする策だったのです。

奴隷解放という呼び名は素晴らしいのですが、結局自軍に有利になる為の宣言だったのですが、これが世界中の賞賛を受けて世界が奴隷解放に取り組むきっかけにもなったのです。

会津若松と平泉訪問記 その5~飯盛山~

2012年09月18日 | 史跡
戸ノ口原古戦場から散々道に迷い、余計な遠回りをしながら飯盛山に到着。

この瞬間から、僕には雨が付きまとうようになります。
2008年に『天地人』の取材で2週間旅行に出かけた時に、14日のうち11日が雨に襲われ、富山や東京・浜松などで電車が止まった経験があります。気象庁が2008年8月末豪雨と命名した雨なのですが、この時に東京で会った親友に「たくさん霊連れてるから、霊は水を好むんだぞ」と言われました。それ以来、変な雨が降る時は霊に何かの影響を及ぼされたと思っています。ましてや飯盛山ですから、あって当然ですよね。

それはともかく、飯盛山見学です。
白虎隊士のお墓がすぐにあります。

その前には、奇妙な柱があります。

これはポンペイの柱だそうで、白虎隊に感銘を受けたローマ市民が昭和3年にポンペイ遺跡から出土した宮殿の柱を寄贈したそうです。その時は上の鷹は鉞を持っていたそうなのですが、戦争が終わった時にGHQが、そんな物を持たせていたら日本人がまた戦争を起こしかねないから危険と考えて外したそうです。
いやいやあり得ないでしょGHQ(笑)

ここから鶴ヶ城方面に進むと墓地になっています。その途中には白虎隊の悲劇の中で唯一生き残って少年たちの最後の瞬間を克明に後世に伝えた飯沼貞雄の墓があります。

そして、山の斜面に開かれた狭い場所に白虎隊が最期を迎えた場所があるのです。

慶応3年8月23日、戸ノ口原の戦いに敗れ、隊長ともはぐれた白虎隊士20名が戸ノ口洞門を抜けてこの場所に辿りつきました。
お城は大丈夫かと、その方向を見ると既に火に包まれていたのです。
「あぁ、お城が燃えている」
城に戻ってもう一度戦うことを考えていた隊士たちに悲愴な空気が流れます…
16.7歳くらいの少年たちは「こうなったら、腹を切って城と共に参ろう」と誰かが言った言葉に「応」と答え、傷が重い者が、「苦しいのでお先に」と命を絶つと、それに続いたのです。
そんな隊士たちが見たお城は小さい物でした。

(↓上の写真の枠の中)

あとでわかったことは、燃えていたのは城下でお城はまだ残っていたということです。
しかし、白虎隊士19名は亡くなり、飯沼貞雄だけが後に蘇生します。
そんな19名はこの地で神として祀られています。


白虎隊士たちがこの地に訪れる為に潜った戸ノ口洞門は今も水を通しています。

もし、あの瞬間に写真で見るくらいに水が流れていたら、隊士たちはここにこれなかったでしょう。もし什の掟が無ければ、あの時点で死を選ぶのみが選択ではなかったはずです。
でもその悲劇は起きたのです。
ここの水は今も会津若松市内に流れて生活用水になっています。会津の精神が今も生活にフ深く関わっているのを感じました。

白虎隊のメンバーの中には戦いの途中で隊からはぐれてしまい、飼い犬が探しに来たことで命を長らえた人物もいました。
その逸話が像として残っています。

また、隊士たちが学んだ日新館の遺物を見ることもできます。



悲しみばかりが思い出される飯盛山ですが、一つ恩白い建物があります。
通称「さざえ堂」と呼ばれる江戸時代の塔です。

中は階段ではない坂になっていて、ずっと登ります。

いつの間にか頂点に着き、そのまま真っ直ぐ進むと、下に降りれます。

この間、登る人と降る人がすれ違うことは無く、ただまっすぐ歩くだけで誰にもすれ違わずに登って降れる建物なのです。
こうして巡礼が行われたそうなのですが、江戸時代の人はさぞ驚いたでしょうね。


幕末の日劇に触れ、ここから雨の中を白虎隊士も目指した鶴ヶ城に向かいました。

映画『のぼうの城』

2012年09月14日 | イベント
15日に『のぼうの城』彦根関係者試写会に参加してきました。

既に大ヒットしている小説の映画化なので、内容をご存知の方は多いとは思いますが、この物語は忍城水攻めの物語です。

備中高松城の水攻めを経験した石田三成は、自分自身もそのような天下人の戦がしてみたいとの志を持ち、小田原城の支城の一つである忍城攻めを命じられた時に、その志を果たそうとするのです。
一方、忍城では城主成田氏長が小田原城に召還されるのですが、その時にはすでに豊臣秀吉に降る策が動いていたのpです。

忍城を任されることになった成田長親は、民衆から「でくのぼう」を略して“のぼう様”と呼ばれる存在だったのですが、とても民衆に愛されていて、多くのすれ違いから忍城が戦と決まった時に民衆が率先して城に入ったのでした。

こうして行われた籠城戦。そして水攻め。
城が水で囲まれた時、長親は悪人になると決意して自ら船に乗って石田三成の陣近くまで進んで行くのです…


原作を読み、忍城も訊ねたことがあります。そして僕自身は水攻めに関しては他の合戦よりも深く調べた水攻め好きです。
そのような条件で、この話に興味が無いはずがありません。だからこそ結構楽しみであり不安でもありましたが、結論言います。

観て下さい!

水攻めのシーンは多少大きく誇張されています。このシーンが激しすぎて昨年は東日本大震災を考慮して上映されなかった事情はよくわかります。その意味では、東日本大震災の津波シーンを見ているよりも激しいです。

成田長親と石田三成は本当にいい味出しています。このどちらかが欠けても忍城水攻めは起こらなかったと思えるくらいに、この作品に必要な人物です。
それでいて、あくまでも陽気にいる長親と、真面目で自分の世界にはまってしまう三成の対照的な人物像、そして上映後に監督が言われた「成長途中の三成」がいます。
事実を基に置きながらもエンターテイメントとして充分確立している映画でしたよ。


上映は11月2日からです。