彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:井伊直弼の喪を発する(閏3月晦日)

2010年03月30日 | 何の日?
安政7年(1860)3月3日に桜田門外で暗殺された井伊直弼でしたが、その死を公に発表すれば、江戸城の門前で幕府の最高責任者が暴徒の手に掛かって没した事実を天下に知らしめることとなり、それは幕府の権威失墜をも暗示しかねないモノでした。

また、井伊家は直弼の跡継ぎを決めていなかったので、このままでは彦根藩取り潰しになる可能性も濃厚だったのです。

もし、彦根藩が取り潰しになれば、水戸藩をそのままにする訳にも行かなくなり、最悪の場合は譜代大名筆頭と御三家の大きな2藩を潰す可能性も浮上したのでした。
こうなって困るのは、幕府そのものでした。
元禄15年(1702)に起こった赤穂浪士による吉良邸襲撃事件は、たった5万3千石の大名家でありながら47名の武士が江戸城下で騒ぎを起こした訳ですから、彦根藩になればその約7倍。単純に見積もると350名近い彦根藩士が水戸藩相手に騒ぎを起こす可能性があったのです。
これに水戸藩取り潰しともなれば、倍の700名が江戸市中で常に斬り合いを行うかもしれませんでした。

このような危惧を抱いた幕閣は、江戸に居た彦根藩家老・岡本半介に藩内の鎮静化と直弼の次男・愛麿を跡継ぎにする届け出を幕府に提出させました、3月10日の事でした。

この時点で、井伊直弼は怪我をしたものの存命しているという扱いになっていて、将軍家茂からの見舞の使者が彦根藩上屋敷に出向いたりもしたのです。
また、水戸藩からも見舞品を届ける使者がやってきた為に、藩邸では藩士たちに殺気が漲ったとも伝えられています。


そして萬延元年(1860年・3月18日に改元)3月晦日(この月は大の月なので30日)、幕府から井伊直弼の大老職が免じられました。
一ヶ月後の閏3月晦日(この月も大の月で30日)、閏3月28日に井伊直弼が亡くなったと公に発表されたのです。
直弼が亡くなったとされる閏3月28日は、奇しくも直弼が日米修好通商条約の批准書交換の為に派遣した遣米使節がワシントンでブキャナン大統領と会見を行った日だったのです。

桜田門外の変からおよそ二ヶ月が過ぎて、直弼はやっと故人としての扱いを受けるに至ったのでした。

『井伊直弼と開国150年祭』終了

2010年03月24日 | その他
2008年の6月4日から始まり、22ヶ月間の長丁場となった『井伊直弼と開国150年祭』が2010年3月24日で終わりを迎えました。

とは言っても、平日ですので勤め人の管理人は閉会に関わる事項に参加することはできませんでしたので、終了報告のみです。


150年祭が終わると『戦国 いくさ』へとイベントが移行します。

全国古式砲術鉄砲サミットin彦根

2010年03月21日 | イベント
天文12年(1543)種子島に伝来してから、日本の歴史に大きな影響を与えた火縄銃。
その後、薩摩・堺・国友と生産地が広がると同時に多くの砲術が編み出されて行きましたが、江戸時代になり、平和な世の中では必要が無くなり、武士の教養として伝統を残し、その中で自然淘汰された流派もあったことでしょう。
そんな中を現代まで残った、古式砲術を集めたイベントが2010年3月21日に彦根で行われました。

『全国古式砲術鉄砲サミットin彦根』と題された今回のイベントでは、全国に120近くあるといわれている(当日に現地で参加者に聞きました)内の23団体が集まって、それぞれの演武を発表したのです。

『井伊直弼と開国150年祭』のイベントでありながら、次の『戦国 戦(いくさ)』に繋がる要素が強く感じられるイベントに集まった方々の並ぶ姿は壮観でした。

僧兵姿は根来衆です。

堺の方の所には、大きな鉄砲も置かれていましたが、一人では撃てませんよね…

そんな方々が、黄砂に霞んだ彦根城の前に並ばれると、これから彦根城攻略が始まるのかと思ってしまいます。


時間になると、“ひこにゃん”とイベントキャラクター“ひこどん”が登場しましたが、いつの間にか“ひこちゅう”も仲間入りして人気を集めていました、イベントの途中には“しまさこにゃん”“やちにゃん”“かもんちゃん”も見かけ、さながら彦根版ゆるきゃらサミットの様相も呈していました。



大江戸吹雪とよさこいの舞で始まったイベントは、ステージの上の鉄砲演武となりました。
まずは、鉄砲伝来の地・種子島火縄銃保存会

一発目の掃射後に、強風で物が倒れるというアクシデントもありましたが、幸いにも立入禁止区間だったので何事もなくイベントが進みました。

火縄銃は、煙の量も半端ではありません。

同じ方を同じ角度で観ていても、煙に隠れる事もしばしばありました。


数組目にやってきたのは、見覚えのある旗

米沢藩古式砲術保存会の方々です。

『天地人』の主人公であった直江兼続が整えた上杉家の砲術は、大坂の陣でも活躍した事で有名ですね。
動画はここにアップしました。
使って居られた太い火縄銃も近くで見せていただきました。


江戸幕府鉄砲組百人隊保存会の方々の背中には奇妙な2本の棒が…

「ガンダムのビームサーベル?」なんてトンチンカンな事を考えていても仕方が無いので、訊いてみると、火縄銃の弾装填や掃除に使う棒の予備なのだそうです。
普通は火縄銃の銃身の下にありますが、折れるなどの理由でいつ使えなくなるか分からないから常に2本余分を装備していたのだとしたら、徳川将軍を守る役目というのは、果てしなく細かい「もしかしたら…かも?」を考えて対策し続けた集団でもあったのですね。

ここで、イベントの中からいいタイミングで撮れた、火縄銃の撃ち方を動画で張っておきます。
火縄銃の撃ち方
手間が掛ってますよね、30秒や40秒は当たり前だったようです。
ですから織田信長の長篠の戦いでの三段撃ちはどれくらいの真実味があるか謎ですね…
そんな長篠・設楽原鉄砲隊は、三段撃ちをして下さいました。
三段撃ち
実際の戦ではもっと緊迫していたでしょうが、案外間が空くのだと知りました。


さて、彦根としては同じ赤備えで大坂冬の陣では散々に打ち負かされた真田信繁の真田鉄砲隊は気になるところだと思います。
信州真田鉄砲隊は、やはり赤備えで魅せてくれました。

筒が大きい分火薬の量も多いのでしょうか、凄い火ですね(動画はここ)。

馬上筒の演武(動画はここ)は、今のピストルを彷彿させました。


『おあむ物語』という本に、佐和山城(大垣城と書かれている)落城の時に音が大きくてびっくりするから使う前には事前に城内に報せが来た。という石火矢はロケットのような感じでした。

今回は空砲の為に発射はされませんでしたが、一度威力を見てみたいものです。

イベントの中で一番目立った衣装は、堺鉄砲の一番の利用者である根来の根来史研究会根来鉄砲隊の僧兵姿でした。

その近くの雑賀からもこられ、戦国のゴルゴ13軍団が彦根で鉄砲を放つ面白さに管理人は一人でよろこんでいました。


喜ぶと言えば、管理人だけではなく彦根市民として喜ばしいのは、彦根発祥の鉄砲術が二派こられた事ではないでしょうか?
稲枝地域の田付町から出た「田付流砲術」
将軍家の大田付、大垣藩の小田付、そして尾張田付…
この内、大垣と尾張のそれぞれ大垣城鉄砲隊と名古屋城鉄砲隊の方々です。
どちらともにお話を聞きますと、田付流は鉄砲形に特徴があり(銃床がまっすぐ)、それを見ると田付流と分かるそうで、国友村で田付け流用に作らせていたそうです。
また、田付流は礼儀を重んじる流派でもあったそうです。

大垣城鉄砲隊

動画はここ
いずれ、田付町で両派の方々が発祥地で奉納演武をし、稲枝の歴史講座に田付流が講演していただけるようなイベントができたらおもしろいですよね。



一日を通して風がキツく、黄砂も降り、時々雪や雨が身体を冷やす事もありましたが、後半には太陽が顔を出す時もあり、何と言ってもただ火縄銃を撃つだけなら2、3グループ観たら飽きると思っていたのが、それぞれに工夫があり予想外に目が離せないイベントになりました。
国宝彦根城という本物の下で響く火薬の音が、見学者の心に響きました。
現地から離れると、体中にしみ込んだ火薬の匂いに驚きましたが。

佐和山城遺跡現地説明会

2010年03月21日 | 史跡
昨年、中級武士の屋敷区画が発見された佐和山城遺跡の発掘が引き続き行われていて、今回内堀や城下町の遺構に関する現地説明会がおこなわれました。

今回は、
・内堀の幅が約22mの広さだった事
・城下町の形成の一部が判った事
・鍛冶・鋳物に関する発掘があった事
などの説明がありました。


今回は内堀の跡といわれている土塁跡から東側に発掘調査が入っていて、まずは井戸の跡や道が見つかったそうです。

ここの遺構は16世紀後半辺りに使われていた可能性が高く、浅井時代までは遡らないだろうとの事でした。ここの井戸から鍛冶や鋳物の遺跡があり、また井戸の上に道を作ったそうなのです。
つまりは、短い期間に井戸を埋めて上に道を作った事になりますね。

管理人は、金属の精錬加工には多くの水を使いながら、それを汚すのでもしかしたら井戸の水が汚れて使い物にならなくなったから埋めて道になったのかもしれない?
との妄想を掻き立てられたのですが、実際はどうなのでしょう?



続いて、内堀の遺構が見つかった区域。

写真の奥が土塁跡に繋がります。
内堀の幅は約22mで安土城に匹敵する大きさだったそうです。深さは、江戸時代以降の農地開墾で遺構が壊された部分が多くはっきりと断定はできないそうですが、2mくらいではないか?とのことでした。
水が留まっていたか、ゆっくりとした流れだったような感じの粘土質があったそうですから、水堀だったと推測できます。

また、当時のメインストリートの一つと推測されている百々町に繋がる道と交差する地点では、道の下に水路を通したと思われる暗渠の跡もでたのだとか。



そこからは石仏も出土したそうです。

この石仏をみて管理人が疑問に思ったのは、これが築城の時に持って来られた物なのか、それとも三成地蔵のように、佐和山城下が無くなる時に城の石で石仏を掘って置いて行った物なのか?どちらなのでしょう?

ちなみに、もう佐和山が燃えて落城したイメージはなくなりつつありますが、年の為に確認してみるとやはり燃えた後は出て来ないとの事でした。
また、安土城に見られるような遺構の類似点があるのか?と尋ねると、現段階では解らないとの事でした。
安土城には百々綱家が関わるという“百々橋”があり、佐和山城主が百々内蔵助だったこともあります。この質問をした時に一部で冷笑が聞こえましたが、百々氏を通じて客観的に結びつく安土と佐和山に、堀といえども類似するような数字が出てきたのですし、百々綱家は関ヶ原を西軍として戦う訳ですから逆に佐和山に安土の工夫が何もない方が「なぜ?」と管理人は思ってしまいました。


これ以外にも硯などの発見もあったそうです。

字が刻まれていて「内(町)□□□太□」「〆□ 拾八文 佐門」と書かれているのだとか…


当時の人々が確かに佐和山で生きていた証なのでしょうね。


その他発掘された鍛冶・鋳物関係の物





管理人としては、城の内堀の中にではなく内堀と外堀の間にこれらの場所があった事は意外でした。
小さな工房ならそうも思わないのですが、戦になった時にこれらの物が敵の手に落ちるのは落城を意味しますので、大きな鍛冶施設は城の中にあるのだとばかり思い込んでいたからです。
城外といえども、内堀のすぐ近くですが、やはり現地は面白いですね。

150年前:萬延に改元(3月18日)

2010年03月18日 | 何の日?
安政7年(1860)3月18日、元号が“安政”から“萬延(万延)”に改元されました。

萬延の言葉は、菅原為定が勘申(先例を調べ上申)し『後漢書』馬融伝に登場する“豊千億之子孫 歴万載而永延”から採用しました。
漢文はあまり得意ではありませんが、永遠の先の子孫まで喜びが続くというくらいに読み取れるのですが、詳しい方はお教えください。
余談ですが、安政は『旬子』“庶人政安然後君子位安”でした。
これは、庶民が安泰だったら自然と君主も位を保てるくらいの意味でしょうね。

しかし、安政年間は庶民は黒船来航以来の諸外国の外圧や、安政の大地震と安らかとは程遠い混乱の時代を送り、権力者は安政の大獄や桜田門外の変といった位を保てない事件に遭遇したのです。

改元の理由として、安政の大地震と桜田門外の変に代表される世情不安が挙げられますが、この改元には反対の声も多かったのです。
それは、翌年2月には定時改元(なんて言葉が有るのかどうかは分かりませんが)する事が決まっていたからでした。

これは中国の漢代の思想で、「辛酉の年は人が冷酷になりやすい」という『辛酉革命(しんゆうかくめい)』に基ずいたモノで、日本でも昌泰4年(901)に三善清行が提唱して以来、朝廷はこの辛酉の年には(二度の例外を除き)必ず改元を行ってきました。(今は明治以降の一世一元制の適用からこの改元が無くなっています)

明治以降の日本でも2回辛酉の年があり、
一度目の大正10年(1921)には原敬首相が暗殺されて、高橋是清が首相になっている。
二度目の昭和56年(1981)は権力者の交代はないですが、前年に大平正芳首相が在職中に病死して、鈴木善幸首相に交代しているるのです。
どちらも他に余り例を見ない(犬養毅首相と小渕恵三首相ぐらい)政権交代でした。


つまり、一年も満たないうちに辛酉の改元があるに“萬延”改元にどれほどの意味があるのかが大きな問題となったのでした。
しかし改元は強行されたのです。


余談ですが、作家の宮城谷昌光さんは著書の中で元号の出典がその時代を反映している事を指摘されています。これを勘申者が自分でも気が付かない超人的な閃きなのか、人智を超えたモノの伝言であるのかは今回のテーマではありませんが、宮城谷さんは平成の出典から災害が多くある事を仄めかされていました。
その目で、“萬延”を見ると、『後漢書』馬融伝。
馬融は中国の後漢末期、桓帝の頃の学者でした。桓帝と言えば『三国志』の始まりで有名な“黄巾の乱”の原因となった“党錮の禁”が起こった頃です。
馬融はその才能から幾度も役人に登用されますが、権力者に従わずに罰を受けて野に下る事も多かった人物でもありました。その弟子には『三国志演義』で劉備の師として登場する盧植が居ます。

こう考えると、出典がその時代の滅びに向かう時期であり、馬融も権力に屈しない人物でありそんな教育を後に繋げた人でした。
江戸幕府が揺らぐ様相を見せ、権力に屈しない志士が登場し始める時代の元号に“萬延”が選ばれたのはそんな何かの呼び寄せが有ったのかもしれません。

長浜曳山祭、天保八年瓦版の展示

2010年03月06日 | 博物館展示
1か月ほど前に記事を書きました『長濱神事曳山小児狂言見立觔』が、今、長浜市曳山博物館で展示されています。

期間は3月31日まで、曳山評価の資料や大正時代の狂言出演者の写真なども同時に展示されています。

地方祭りでの狂言の瓦版である『長濱神事曳山小児狂言見立觔』と比較する形で、管理人が所有する都市部での歌舞伎の瓦版(演目案内のような物か?)も展示されています

ので、この機会に観て下さるとさいわいです。

150年前:桜田門外の変(3月3日)

2010年03月03日 | 何の日?
写真は、戦前(時期不明)に作られた絵葉書(管理人の所蔵資料)



2010年3月3日。

今からちょうど150年前、江戸城桜田門外において大老井伊直弼が暗殺されました。
彦根を語る上で、この事件は欠かせない物ですので、すでにこのブログ内でも紹介しています。
桜田門外の変』←ここから過去の記事に行けます。

事件の経過は重複になりますので、今回は先日発行になった『どんつき瓦版』第21号の中身から桜田門外の変のこぼれ話をご紹介します。



≪桜田門外の変こぼれ話≫


○仲間に誘われた坂本龍馬
井伊直弼襲撃計画は大老就任直後から何度も練られていました。しかし同志の数やその後の幕府改革計画を考えると協力者の数が少なかった為に、水戸藩士たちは西国を中心に諸藩から同志を募る事にしたのです。
この時に中心となった人物が、桜田門外の変で実行者の一人となる関鉄之介と、水戸藩の尊皇攘夷運動の指導者となっていた住谷寅之介でした。
住谷は土佐藩の下士たちに望みを持って土佐国境の立川番所で面会した人物が坂本龍馬だったのです安政5年11月23日の事でした。国論を唱えて龍馬を説得しようとした住谷でしたが、龍馬は幕府役人の名前すら知らず、失望し諦める事となった住谷は「空敷、日々を費やし、遺憾々々」と日記に残しています。しかし龍馬の人柄については「龍馬誠実可人物なり」とも「頗愛可人物なり」とも記されていたのです。桜田門外の変に直接加わらなかった住谷は、水戸藩に残り、文久3年(1863)から京都で活躍しました。同じ時期に京都で活躍した龍馬のことをどう感じていたのでしょうか?
慶応3年6月13日、土佐藩足軽・山本旗郎に住谷は暗殺されました。約半年後に500m程しか離れていない近江屋で坂本龍馬も暗殺されるのです。

ちなみに大河ドラマ『龍馬伝』では、江戸で武市半平太や桂小五郎と共に龍馬と住谷が邂逅するシーンが描かれていました。


○茶店のオヤジは見た!~もう一つの桜田門外~
桜田門外で井伊直弼の首が斬られてから、直弼を襲った水戸浪士たちは、ある者は自害ある者は自首そしてある者は現場から逃れ、それぞれの後日談を残しています。その殆どは、本人か関係者の証言によって証明されているのですが、そんな記録に残っていない話が直弼の次女・弥千代の嫁ぎ先である高松に残っています。
事件当日、直弼の行列の後ろを弥千代の夫である高松藩世子・松平聰の行列が続いたのです。水戸浪士の襲撃はあっという間に終わり、聰は舅の死の現場を間近に見てしまいました。
幕府最高責任者の首を斬って興奮した浪士たちは、血の滴り落ちる刀を鞘に納めないままに聰の駕籠に襲い掛かり、葵の紋が入っているのも無視して引き戸を引きちぎり聰の顔を見たのです。そして「なんだ、萬之助(聰の幼名)か…」と言ってその場を去って行ったと言われています。
この現場を目撃して、後世に残したのは桜田門近くの茶店の者だったそうで、その者が高松と同じ讃岐国(香川県)の丸亀出身者だったことから、地元に話が伝わったのだとか…

一説には、水戸浪士は井伊直弼以外にも、高松藩主・松平胤(聰の義父)と老中・安藤正睦(後に坂下門外で水戸浪士に襲われ失脚)が狙われていて、胤が乗っていると思った駕籠に聰が乗っていた為に「なんだ」という言葉が出たとも言われているのです。


○東海道のその瞬間
桜田門外の変の悲報を伝える早駕籠は、その日の内に彦根に向けて出発しました。この時の使者は大久保小膳と高野瀬喜介宗忠でした。国許がこの報せを受けたのは3月7日夜半だったのですが、近江商人の情報網はこれよりも半日早くに京にまで伝わっていたそうです。商人の情報に対する敏感さを示すエピソードとして時々語られています。
一方、水戸浪士たちは、生き残った者の中で京に向かう一行が居たのです。薩摩藩士有村俊斎(次左衛門の兄)とその従者の恰好をした水戸浪士金子孫二郎(実行犯)、佐藤鉄三郎(見届け人)が、東海道を西へ箱根の関を越え三島宿に着いた頃、後ろから大きな掛け声と共に井伊家の槍印を立てた早駕籠が迫っていたのです。その駕籠に乗った武士が三人を睨みながら追い抜いて行き早駕籠はそのまま進んで行きました。
事件後に、彦根藩士と実行犯が同じ場所に居た一瞬の出来事だったのです。

ただし、この証言では早駕籠に乗っていた武士は、抱き茗荷の家紋を付けた人物しか伝わっていません。彦根藩士の家紋は調べていないのでなんとも言えませんが、この人物が大久保小膳か高野瀬喜介だったのか、それとも別の人物なのか?
興味深いです。


○首の行方
今の定説では、直弼の首は有村次左衛門によって斬られ、有村が遠藤但馬守(若年寄)邸の辻番所前で首を預けて自害した為に、事件後に井伊家が「家臣の加田九郎太の首」として遠藤家に行って首を受け取り、彦根藩医・岡島玄達が首と胴を繋いだ。となっています。
しかし、水戸では「この時に井伊家に行ったのは加田の首で、本物は水戸に持ち帰られえた」との説が残っています。
事件に参加した広木松之介が、密かに水戸に持ち帰りさらし首にしようとしたのですが、水戸藩ではその行為に恐れをなし(水戸藩では桜田門外の関係者捕縛に全力を尽くしています)首を突き返します。
結局、首は広木がそのまま首を持っていたようですが文久2年(1862)3月3日に同志が刑死してゆく現状に耐えられず自害します。昭和37年になって、広木の関係者から井伊家に対して首の骨を返還する話があったのですが、井伊家では「井伊直弼は五体が揃った状態で豪徳寺に葬られている」との返事があり、この首は水戸市の妙雲寺に“大老井伊掃部頭直弼台霊塔”が建碑されて供養されたのです。

星亮一さんの『井伊直弼』という小説のあとがきに面白い話があります。
桜田門外の変から、直弼が豪徳寺に埋葬されるまでの2カ月間(3/3から閏3月を含んで4/9まで)、直弼の遺体はどうなっていたのか?との疑問です。
これを母利美和さん(当時の彦根城博物館の学芸員)が「塩漬けにしたという話がある」と回答されたと書かれていました。
2ヶ月間、塩漬け状態で直弼の遺体が残っていたのなら、幕府の検視(直弼の死は公にできないので建前上は見舞)や跡を継いだ息子の直憲、そして正室の昌子など直弼の顔を見れる人物は少なからず存在したと思います。また宇津木六之丞あたりなら首が偽物だったなら藩士に密かに探させたのではないでしょうか?
それに、もし偽首なら事情が分かった重臣クラスが密かに火葬してしまうと思います。

塩漬けの話が本当なら、首は本物。火葬した形跡があるなら偽物と考えられるかもしれませんね。


○井伊家の警備は甘かったのか?
桜田門外の変の直前に直弼宛に危険を報せる文が投げ込まれたのを無視したり、2月28日には直弼の友人の松平信斉が「命を狙われているので供の数を増やすように」と進言すると直弼が断ったりと、直弼は命を落としても大老としての職務を全うしたイメージがあります。

しかし、明治になって島田三郎が書いた『開国始末』の取材で出た話では「夜の供廻りは増やしていたが、安政7年になって止めた」との証言を旧彦根藩士から得ているのです。
実は直弼暗殺計画は安政5年10月1日からありました。この頃から警戒をしていた彦根藩でしたが1年半近く何事も起きず、長い緊張感で必要以上に疲労していた可能性は否めません。無為な1年半を過ごした後の疲労感と油断こそが、水戸浪士の襲撃成功になったのかもしれません。



桜田門外の変は、調べれば調べるほど色んなエピソードが登場します。
まだまだ隠れた話があるのかもしれません。
150年目のその日に、彦根では公式に何かのイベントがあるとの話は聞いていませんが、せめて個人レベルでもこの日を彦根の一つの分岐点として、直弼についての何かを想い巡らせて欲しいと思います。