彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『佐和山城遺跡現地説明会』

2009年07月26日 | 史跡
2009年7月23日に佐和山城跡で石田三成時代の遺構が発見された事が記者発表されました。
そして26日に雨の天気に心配しながら現地説明会が行われたのです。



『佐和山城遺跡現地説明会』
滋賀県文化財保護協会

(概要)
 佐和山城や石田三成は最近有名で、特に石田三成は“義”に厚い武将として名を高めています。
 ですが、これまで佐和山城の縄張り調査をした事はありますが発掘調査をする機会は恵まれませんでした。今回地元で補助整備工事がなされる事になってその一部について発掘調査をいたしました。
 その結果、田園の下から非常に保存状態の良好な形で「どうも家臣の屋敷ではないか?」と思われる堀囲いの遺構が発見される事になりました。今の状態から行きますと、おそらく非常に良好な状態で佐和山全体に遺構が残されていると解って参りましたので、これからますますこれらが進展していくのではないかと思っております。


 今回は佐和山城での初の本格的な調査で、しかも石田三成時代だと推定される物が出てきました。そういった意味で今回大きな成果が上がったと考えております。

 今回の調査は内濠と土塁の内側の区域です。江戸時代に描かれた古地図で“侍屋敷”と書かれた部分で、元々「家臣の屋敷である」と推定されていた地域の調査になり、通常“奥の谷”と呼ばれる部分の谷と山の際の部分になります。
 奥の谷と呼ばれる谷(第2調査区)とその隣の土塁の内側(第1調査区)で発掘調査を行っています。

 第2調査区では濠・井戸の跡が見つかっています、16世紀の物である事は中から出てくる遺物で明らかになっています。当時の住まいは山城ではなくても普通の平地でも水を引き込んで区画した中で住まいを築いていました。テリトリーを設けた上で屋敷を構えていた事がこれまでの研究成果から解っております。
 この濠の機能といたしましては、
1.屋敷を所得する意識がある
2.水が湧き易い所なので、排水的な意味合いもある
と考えられます。

 細長い谷ですので、谷の真ん中に水が通ってしまうと屋敷がかなり小さくなってしまうという推定の元に、道路が水路の反対の端にあったのではないか? と推測しております。
 そして、濠の横に細長い細い(太い物もありますが)溝がありますので、これがどういった機能を持つ物なのか? とも考えております。
道路の両脇にもそういった溝があって、濠に流れ込む形になっていたのではないか? と考えております。
 第2調査区に関しましては、出ている土器が16世紀第四支配期(1575~1600年)の物が出ていて、それ以前の物もそれ以降の物もほとんどありませんので、この当時に入っていた大名の中で石田三成が入城時に大規模な改修工事をしていますので、そのような状況から我々は「これは三成時代の家来たちの住んだ屋敷の痕跡である」と想定しています。

 第1調査区でも調査をしましたが、ここには三成時代の物は出てきていません。それよりも前になる16世紀半ばくらいの物だと思われる柱の跡が非常にたくさん見つかっています。当時(浅井時代あたり)はここで屋敷があったのだと思われ、三成時代には使われずに奥の谷が使われるようになったと考えられますが、なぜ浅井時代の屋敷辺りが使われなくなったのかは解りません。何らかの理由があったとは思われます。

《質疑応答》
(管理人)
 第1調査区で出てきているのは柱の跡とかですか?
(文化財保護協会)
 礎石は非常に少ないです、ただ田圃を作る時に上を削っているので、その時に礎石を飛ばしている可能性もありますから断定は難しいです。かなりの数の柱の穴が出てきていますので、かなり頻繁に建て替えが行われています。
 私たちは初めに第1調査区から手を付けたのですが、三成時代の物がないので非常に不思議に思っていました。どういう使い分けをしていたのは解りませんが違いがあるのは解ってきました。

(↓調査区についての地図は、ここを参照して下さい)
http://www.pref.shiga.jp/hodo/e-shinbun/ma07/files/20090721_2.pdf


(第2調査区 現地案内)

 今回の補助整備に伴う調査地区よりもまだ奥にも屋敷があったと思われます。江戸時代の古地図にも書かれていますが、谷の奥には“馬冷池”もあります。

近世の地図には描かれていますが、田圃に水を送る池と考えれば、おそらく石田三成の時代には池は無くここも屋敷だったと考えられます。池の手前に2面の田圃があり、今回の調査区となります。
 今回は屋敷地を囲む区画溝が発見されていますが、その中から備前の擂鉢なども出ています。おそらく屋敷から捨てられた物でしょう。
 屋敷の構造についてはよく解っていませんが、柱穴が見つかっていますのでこれらの穴が建物を示す痕跡となるのでしょうが、配列を示す物は見つかっていませんので、まずは建物があったのかどうか? それが住居になるのか? はよく解っていませんが屋敷になる可能性は高いです。
 また2ヶ所円形に石を敷き詰めた石組遺構が見つかっています。
 
 ここに使われている石は佐和山を構成している石が多く使われていますが角が削られている丸い石があり、これは違い所から持って来られたのかもしれません。
 地層から水の流れが想定できる場所があり、地盤の境目で水が出易い地層の近くに石組遺構があるので、この水を使い易いように処理する施設ではないか? というのが我々の見解です。石組の間で堰き止める事によって水の中に含まれる泥や砂が落ち、上澄みの水だけを下に流して飲み水や生活用水に使ったのではないでしょうか?

 しかし、現段階で見つかっている遺構だけでは具体的によく解っていない事もたくさんありますから、もう少し色んな機能もあるのかもしれません。


 次に濠の遺構ですが、谷の奥ですと70~80㎝くらいの深さまで残っていますが、谷の入口の方ですと上が削られて10㎝くらいしか残っていません。
 屋敷地を区画するのに濠と溝がありますが、どう違うのかもまだ解っていません。(2009年7月26日は)雨が降った影響で水が溜まっていますが、昔も山からの水が流れてきて濠に溜まるようになって、常に水が湧いていると考えられますので、排水対策として濠が掘られていると考えられます。ここは山のすぐ隣ですので山際に濠が掘られていたと考えられます。
 今回の発掘で、山の下に潜り込んでしまった濠もありましたから、江戸時代以降に土が重なってきて見えなくなったのです。


 根固めと黒い柱が出てきた地点もあります。この柱は橋状遺構に関わる門だと思われます。橋状遺構と思われる要因は、杭が何本もあり柱の間隔の間に石が敷いて置かれているのです。
これは簡単な桟橋状の橋が架かっていて濠を渡って山肌を上に登って行く道だったのでしょう。上に登って行くと三の丸があります。地元の方にお聞きしますとその場所には道があったそうです。
濠位置の特徴も、谷の高い部分は山際より30㎝ほど低い部分に出来ていますが、下に行きますと山際と同じ高さになります。それがどういう意味があるのかも今は解りません。
濠は谷に向かって縦方向の濠と、横方向に派生していく何本かの濠があって区画されています。


 濠の中には石が丸く囲われた場所が見つかりました。これは江戸時代の井戸の跡になります。濠があった場所に掘られた井戸なので掘り易く、元々水道が出来ているので水が湧き易いという利点があったのでしょう、このような井戸の遺構も何基も出ています。これらの石に仏様や五輪塔が使われています。


 三成の時代には固い岩盤を削って濠を掘っています、それだけの労力をかけて造られた濠だったのです。そしてこの濠の中から桐の紋が入った金具が出てきたり、小柄も出てきました。石臼も非常にたくさん出てきて、土器で多かったのは擂鉢です。



 器では、備前や信楽も出ていますが、一番多いには瀬戸です。同じ近江なので信楽が多いと思ったのですが瀬戸の方が圧倒的に多く、当時の経済圏としては東海圏だったと言えるかもしれません。
 石臼や擂鉢は、穀類を粉にして食べるという食生活が解るようなものが出ているという特徴かな?と思います。

 また、濠の中で特定の場所に固まって石が出てくる場所が数か所あります。これがどういう物なのかは解っていませんが、濠を埋めるためにしては特定の場所に決まっていますので、いつの時代か解りませんが石を捨てた場所とも考えられます。
 出てる土器からすると、三成の時代とほぼ変わらない時期だと思いますが、1600年以降に奥の谷の屋敷辺りがどういう扱いになったのかはまだ解りません。ただ燃やした様な跡は濠の中からは出てきていません。

《質疑応答》
(質問者)
 燃えた跡はないのですか?
(文化財保護協会)
 燃えた跡はないです。燃えた石はよく出てきますが、それは竈と考えられます。
(質問者)
 濠の幅はどれくらいですか?
(文化財保護協会)
 2~3メートルです、ただその幅では効かないところもありますのでそれ以上の物もあるのだと思います。
 ただ掘った中では2m50mから3mの物が多いです。
(管理人)
 出てきている石がどこからの石が多いのか? という調査は始まっていますか?
(文化財保護協会)
 まだです。
(管理人)
 彦根城の石垣が荒神山からの石が多いと聞きましたので、佐和山城から転用しているのなら、ここの石も荒神山が多いと思ったのですが?
(文化財保護協会)
 そういう可能性も高いと思います。ただ石垣の石が今回の調査区に落ちているとは考え難いですが、佐和山では拾えない荒神山からの石がかなり出てくるので持ってきた残りがある可能性があります。


(第1調査区 現地案内)

 この辺りから出てきた物は16世紀半ばくらいです。
 まずは幅40~50㎝位の溝が3本見つかりましたが途中で切れていますので、どこまで使えたのかは疑問です。また丸く掘ってある物が多く見つかりこれが柱穴です、少しですが礎石になると思われるような石も確認できます。
 柱その物もいくつも確認できます。こういった訳でここは屋敷であった事は間違いありません。そして屋敷地から道が出ていてその道を行くと土塁が切れて小野川に突き当たります。
 ここから山裾の方にも人工的な地形が見えますので、山に向かって屋敷地があったと思われます。これからの調査は彦根市の方で行われるとの事です。


(大手門:彦根市教育委員会・谷口先生)
 こちらが武家屋敷が広がっていた場所です。位置関係を体で例えると、頭が本丸で両手を広げる形で尾根があり、その中に武家屋敷があったのです。
 ですから敵が攻めてくると領民は尾根に逃げ、その尾根に二の丸・三の丸・法華丸などの曲輪があり、その両側から敵を攻め下れるのです。同じような形は小谷城で清水谷の武家屋敷の両側に尾根が広がったのです。
 佐和山に話を戻しますと、大手門に沿った内濠と小野川といわれる外濠さらに山側に行きますと、中山道(かつての東山道)といわれる街道がありました。佐和山城がお城として機能している時には東山道に鳥居本宿はなく、更に大津寄り行った場所に小野という宿場町があったのです。江戸時代に描かれた絵図には、鳥居本宿になる所辺りまで足軽屋敷があったとされています。
 イメージしていただきたいのですが、まず武家屋敷がありその外側には本町通り、その向こうには町屋が広がりそして小野川が在って、東山道まで城下が在りその向こう側には足軽屋敷が町を守るようにあった。という城下町です。
 佐和山城というと石田三成ですが、実はとても古い歴史を持っています。最初に記録に出てくるのが鎌倉時代です。記録ではその時代からこの辺りに砦か館が存在したのです。
 近江という国は元々佐々木一族が治めていたのですが、それが同じ佐々木一族の中で北は京極氏・南は六角氏の中で争いを始めます。やがて浅井氏が台頭し三つ巴の争いが起こります。
 ただこの頃までの佐和山城はおそらく土を基本とした城と考えられます。私たちがイメージする石垣があり天守があり瓦がある城は、日本の城の中では安土城を初めと考えるといいと思います。ですから長い城の歴史から考えるとついこの間なのです。それ以前に土で成った城があり、佐和山城もそんな城だったのです。
 戦国時代、京極・六角・浅井の三つ巴が続き、南北がぶつかるのが佐和山城であり、この城は“境目の城”として戦った長い歴史があるのです。
 そんな時、美濃から京を目指して上洛した織田信長が佐和山を手に入れます。信長は後に安土城を築城しますが、それまでは佐和山城に安土城のような役割を持たせていたのです。ここで大きな船を造ったという記録が『信長公記』にもあり京と美濃を移動する時には長い時で1ヶ月程度も佐和山に滞在して様々な事を行ったのです。
 船を造るのは琵琶湖の制海権を握る為ですが、そんな事も琵琶湖でやっているのです。その後、信長・秀吉・家康と替わっても有能な武将が佐和山に入ります。それだけ大事な場所であり続けたという事になるのです。

 実は佐和山城の最後の主というのは石田三成ではありません、三成が関ヶ原で敗れた後に家康が佐和山を包囲し、小早川秀秋が汚名返上の意味を込めて佐和山城を攻撃します。
 この時は正面から攻めなかったようです。守ったのは石田の残った兵ですが主力部隊は関ヶ原で壊滅的な打撃を受けているので老人や子どもの兵が多かったようです。その佐和山攻めの軍監として井伊直政が裏手から攻めています。その後、論功行賞で井伊直政が佐和山に入ったのです、ですから最後の主は井伊家です。
 よく「彦根城があるから佐和山城はあまり整備をしないのだ」といわれますが、そんな事は無く、佐和山城の最後の主は井伊家です。
 ただ直政は関ヶ原の合戦で鉄砲の弾を受けて1年半後に亡くなり、直継・直孝という二人の子どもによって約20年かけて彦根城が築かれ、「佐和山城は石田三成の城だった事から廃城されて痕跡が残っていないのではないか?」と言われてきました。しかしいろいろ発掘すると痕跡が非常に残っている事が解りましたので今後国指定も目指して長期の調査をしていきたいと思います。

『井伊直弼の書と古典研究』

2009年07月25日 | 博物館展示
2009年7月25日から9月1日まで、彦根城博物館では『井伊直弼の書と古典研究』と題したテーマ展が行われます。
7月25日に学芸員さんによるギャラリートークが行われました。


今回も様々な展示がありましたが、テーマが書や古典研究でしたので、形として見せる物よりは資料的価値が大きな物がほとんどでした。

例えば伊勢物語の写しには直弼の細かい注釈が書きこまれていたり、長野義言の古典研究に対する注釈図(『勝見不利新図』写真)を作ったりと、凝って極めて行く性格だった事が伺えるそうです。

また、直弼は和歌は嗜んでいても漢詩には暗かった。との資料もあるそうです。

資料のほとんどが書籍か短冊・掛け軸なだけに、展示物を見て文字や雰囲気からその息遣いを感じていただくのが一番良い鑑賞方法だと思います。
大老や彦根藩主ではなく、文化人としての井伊直弼がどのように文化と向き合ったのかを肌で受け止める展示です。

『講談で学ぶ近代史・講談二席』

2009年07月18日 | 講演
彦根では『ひこね市民大学講座』というイベントが毎年行われ、何名かの方の講演やイベントが行われています。

2009年も5講座が予定されていて、7月18日は今年2回目の講座「講談で学ぶ近代史・講談二席」が開講されました。

今回は、講談師の神田鯉風さんが『石田三成と直江兼続、そして井伊直政』、神田陽司さんが『坂本龍馬と井伊直弼』というお話をして下さいました。
講談ですので物語を流れるようにそして迫力ありながら話して下さるモノですから、もちろんじっとメモを取りながら聴く物ではありません。

テンポよい口調と、時々響く紙ハリセンの音で物語が進んで行きます。

鯉風さんは、直江兼続の人生を追いながら石田三成との邂逅や密約を進められていきました。
井伊直政というタイトルも入っていますが、一言しか出てこなかったのはご愛嬌(笑) 話の途中で「井伊直政という依頼をいただいていたけどもう2ヶ月早く言って欲しかった」とのクスッとする事も言われていましたが、今度は井伊直政話も聞いてみたいものです。
兼続の話は、大河ドラマ『天地人』の出演者の印象を間に入れながら進めて行かれ、「講談でもこういう現代風なアレンジができるのか」と決して敷居の高いモノでは無い事を教えてもらいました。


陽司さんは、前半で桜田門外の変の前夜の井伊直弼を長野主膳との会話と言う形で語られ、後半では勝海舟を殺しに行った坂本龍馬の一席を語られました。
また、当時の日本の思想の難しさを小さな村の和菓子屋さんを題材にして簡単に説明されとても分かり易く面白かったです。


講談を表現するのは難しいので、生で感じて下さるのが一番だと思いますが、広い会場を使っていた割に来客数が少なく、せっかくのイベントも講師の先生に失礼な気がしました。
彦根市のイベントの割には役所の職員さんや議員さんもあまり目にしなかったですし、「教育委員会さんがこんなに良い企画を実行しているのに、彦根はこれで大丈夫か?」との恐怖感はますます大きくなったのは否めません。

また、講談中に携帯電話を鳴らされてなかなか消されないお客さんも居られました。
神田陽司さんは、それすらもネタとして講談に入れられる臨機応変な対応をされましたが、同時に彦根のモラルの低さを伝えてしまった気がして悲しかったです…

でも、講談を生で観れた事はいい経験でした。
今度からは、モラルも市としてのやる気も考え直した上でもっと素晴らしいイベントが行われていく事を望みたいです。

『いなえ歴史シンポジウム 水攻めから450年~肥田城の謎を語る~』その2

2009年07月14日 | 講演


(正村)
 5月に『どんつき瓦版』は肥田城水攻めと銘打ちまして特集を組みました。我々は専門家の方と違い図書館辺りが資料ですので立派な資料はありませんが、他のいろいろな水攻めの記録が全国にありますので、それらの水攻めを調べ肥田城を比べながら出した結果で我々が勝手に推測した場合「あの土塁は六角が造ったのではなく肥田城の外郭ではないか?」と思います。
 いろんな理由はあるのですが、先ほどの小字名の地図を見ても彦根市ではない現在の愛荘町の部分などに何があるのか? と思う訳です。それを考えますと野良田村領の中の小字には水を示す物がたくさん含まれていてこの辺りが愛知川の流域であったであろうと解釈をしています。土塁から肥田町に入ると川の字名が無くなります。
 そのような事から「この土塁は六角氏が築いた物ではなく、肥田城の高野瀬氏が外郭土塁として築いた物」と推測しました。

また水攻めはお金が掛ります。例えば有名な高松城水攻めでは土塁を築くのに安土城が2個できるくらいの金が必要だともいわれています。これを踏まえて当時の六角氏の経済状況を調べて行くと守護大名の筈が家臣の蒲生からお金を借りて返さない、逆に言えば「金も無いのにこんな土塁を築けるのか?」という疑問もあります。
今回『どんつき瓦版』では勝手な解釈をしていろいろ作ったのですが、我々素人が勝手な解釈をして作ってもあまり覆すことができないくらいに肥田城は謎に包まれたお城であるのです。
中井先生のお話を聞いて「あっ」と思ったのは、なぜ高野瀬氏がこちらに来たのか? も謎です、また稲枝の各地区では地区毎に豪族が居て狭い地区で戦った資料もあるのです。そう考えますと、いろんな事が解り解ると謎が深まるのが肥田城です。
我々が勝手に推測した肥田城水攻めを、専門家の方に入っていただいて早く調査研究をしていただいて「お前らこんな事を勝手にするな!」と怒られる方が良いとも考えています。
今年は肥田城水攻め450年です。来年は野良田合戦450年です。この年は鎌倉室町から続く守護大名を新興勢力である織田信長や浅井長政が衰退させた、新興勢力の勃興という時代になります。それがこの地域になります。
肥田城でシンポジウムをするというのは今まで考えられもしなかった事ですが、稲枝には各町に歴史がありますし彦根でも高宮・鳥居本などにも面白い話があります。しかし彦根には彦根城がある物ですからそこばかりが注目されますが、日本という大きな地域を見た時にこの辺りが当時の中心の舞台になっていたといってもおかしくないのではないかと思います。
今まで彦根市だけで考えていた歴史の話を豊郷町や愛荘町などとの文化財交流をしていって、その中から歴史を発掘し市民に提供していって大いに自分たちの地域を活性化できるようになっていけばいいなぁと思っています。


(中井)
 今回様々な見地から意見をいただきました。最後に正村先生から自分たちの想いの水攻めの話をいただきました。もう一度各先生方にそれぞれの想いの水攻めについてお伺いします。
 今、土塁は水攻めの土塁ではなく城の外郭(総構え)の城側の土塁ではなかったか? という意見も出ていますが、今一度水攻めについてこれを材料にしてお話を頂けないでしょうか。

(高瀬)
 水攻めの資料はあまりありません、載っているのは『近江與地志略』という膳所藩の儒学者が5年間に渡って近江を調査し伝説を集めて書いた資料。そして彦根藩士の源義陳が書いた『淡海小間攫』、これは『近江與地志略』を真似て書いたといわれています。
 これらの資料には水攻めは永禄3年4月13日から5月28日まで行われたと書いています。しかし『愛智郡史』ではこれに疑問を持ち永禄2年の説を唱えた資料を掲載しています。ここでは、永禄2年9月19日に堤が切れたとなっています。
 また佐々木承禎(六角義賢)が堤防を造った時に目加田城主と現場監督の栗田修理亮・小倉左近の喧嘩騒動があり、大騒動になるところを栗田と小倉が神妙に取り計らったとして、後で平井定武がやってきて義賢褒め状を出しているという記録があります。
 こういう資料がありますと、地侍が人足を連れてやって来て土塁を築いたと考えられます。この一ヶ月後に岐阜の斎藤義龍から評価の手紙が来ている事も解っています。
 
 平城といっても肥田城は城ですので攻め難かったと思います、それはやはり水で肥田には万葉の時代から細江があったとも考えられ、水郷があったのではないかとも考えられます。

(谷口)
 土塁は弧状を描いています、ですからおそらく受けるという形をとっていますので水を堰き止める意図で造られたのはそうだろうと思いますが、疑問に思いましたのは発掘調査で土塁の内側の土を上げている事です。
 ですから敵方の高野瀬が居るのにどういう関係になっていたのから疑問です。土塁の土は現在のJR(旧国鉄)ができる時に、相当使ったとも記録されていますので土塁がどれくらいの高さで水を堰き止めていたのか? もっと高いのではないか? と思います。
 もう一つ、私たちは宇曽川などのイメージを現在の川でイメージしますが現在は両岸をしっかりとした堤防で守られています。かつては網の目のように低い所を流れていてその一番太い所が本流になっているというような河川で、そういう意味では人間と河川の戦いは土塁をどんどん高くしていく、そのような戦いであったかと思うのですがまだこの時代は比較的切れ易い構造であったので、水攻めは今の土塁を切るのであれば大変でしょうが当時の切り方は容易な物であったとは想像できます。

(堀)
 いろいろお話がありましたが、まずいい訳から言わさせていただきます。
 調査に置きましては工区が決まっていてその工区内で発掘調査をします。ですので残念ながら堤の痕跡の外側は調査をしておりません。あくまでもこれ以上と理解していただくといいと思います。
 逆に「内側と外側を掘削していれば単純に倍以上ができると解釈できるのではないか」と思います。私はこの発掘には立ち会っていませんが私個人としては気になっていたことでもあります。
 正村先生の話に関連すると思いますが、発掘調査は出てきた遺物をもって構造物の年代を決めますが、残念ながらこの際の調査では出てきておりません。ですのでこの堤の痕跡と思われる地割りがいつできたのかを我々の立場から申し上げると「解りません」というのが正直な答えです。

(中井)
 今後この周辺で調査が行われる事があるのですか?

(堀)
 発掘調査は今回の整備でほぼ終了しましたので、これ以外の調査原因が生じない限りはありません。

(中井)
 正村先生、『どんつき瓦版』は今回のシンポについてもきっかけ作りにはなったと思いますので三方の話を受けて反論などがあればどうぞ。

(正村先生)
 専門家の先生に言われると弱い立場ですので。
 先ほど谷口先生が言われたように、敵に背を向けて土を盛るには如何なものか? というのも疑問に感じました。土塁があった所から屋敷がある場所までは400mくらいなのです。当時は一番遠くまで物を飛ばすのは弓矢なので、弓矢の射程距離を考えた場合の400mが遠いのか近いのかを考えます。また当時は山城が中心だった時に肥田のような平城の役割はどういう物だったのか?
 例えば機動部隊が駐屯するなら、高野瀬が地上戦に馴れた騎馬や槍隊をたくさん保有している組織なら、六角氏は大量の兵を投入して戦うのが常識なのに敢えて水攻めまでして抑え込むのはどういう理由があったのかを考えます。
 水がたくさんあったという考え方の場合、いわゆる“深田”という考え方の場合、自分のお城の前を1mくらいの水を張る、または柔らかい土を撒いて人が容易にあるけない状態にした場合。
 堤の城側には“田”の付く小字がたくさんありますからぬかるみのような場所がたくさんあったのかな? とも考えられますが、いかんせん調査資料が断片的であったりして「こうだ!」という研究がない物ですから、調べれば調べるほど謎が多い城だという事が解りました。
 川の水量も考えた時に、土塁がどこまで耐えられるのか?とも考えると土木工学の立場からも考えていかなければいけない。そうなると色んな専門家の方々に調べていただいて色んな情報が出るのが嬉しいと思います。

(中井)
 ここで押さえておきたいのは、当時は山城だけが城ではないという事です。当時は平城もたくさん造られているのですが、基本的に戦国期の平城は江戸時代に田畑に耕作されてしまい痕跡を残していないだけなのです。
 それに比べると山城は今でも人があまり入らないので、曲輪や土塁が見れるだけなのです。ですから当然平地にも城が造られています。まさに肥田城は肥田の館とか武士が住む屋敷ではなく“城”として認識して充分だと考えます。
 おそらく私自身、コーディネーターがこう言っていいのか解りませんが、土塁は水攻めの為の土塁だろうという事です。
 それからもう一つ、大変重要なのは戦国時代の城は殆ど戦をしていないのです。当時は敵が攻めてきたら自焼けと言って自分で焼いて逃げるのです、隣村との戦いには堪えうるのですが、六角が攻めてきたら本来は高野瀬は自分で焼いて逃亡するのが常套手段直です。
 それを敢えて籠城するのは、これは日本の合戦史上と言いますか、戦国期の城で実際に戦った事を大変評価してよい場所だろうと私は思います。

 ここで先ほども少しお話がありましたが水攻めの翌年に野良田合戦があります、野良田合戦も踏まえてこの肥田の地域、あるいは浅井・六角が歴史上どうなっていくのかの話を少しお話し願いますか。

(高瀬)
 戦国時代の戦は籠城戦と野戦があります。籠城戦で大切なのは「誰かがあとから助太刀にやってきてくれる」という事です、これを後詰と言います。浅井氏がやってきてくれるに違いないと籠城をやったのではないかと思います。
 高宮氏・河瀬氏・赤田氏と同盟を結びますがみんな平城なのです。これらも水で城への攻撃を防いだのではないかと思います。

(谷口)
 先ほど申し上げましたように近江の中でとらえると、浅井が勢力を拡張し六角が後手に回る。そういう中で野良田表の戦いがあった。だからそれは単に肥田城との関係だけではなくこの辺りのさまざまな武将、それらを地域で少しずつ歴史が解き明かされていくと、どっちがどういう形で与していったのかが解ると、野良田表の戦いがこの地だけの戦いではなくて更に大きな力関係の中で成り立った戦だという事が解ってくると思います。
 ですからそれぞれの郷土の歴史を解き明かしていただくと、もっともっと解ってくるのだろうと思います。

(堀)
 私は発掘調査を中心にしか考えられませんが、昨年度調査した土器を見ていると、かなり火を受けた物や焼き膨れた瓦などもあります。おそらく火事などがあった後に区画溝に焼けた物を捨てたような状況が確認されていますので、おそらくは文献に出てこないような自焼もあったのだろうと思います。
 残念ながら有名な資料として残っておりませんので、肥田城がどのようにして無くなっていったのかは解らないのですが、野良田合戦も肥田城を構成する歴史事実の一つのパーツとして嵌り込む事によって、新しい面から肥田城が見えてくるのではないかと思った次第です。

(正村)
 あの土塁は水攻めで造られた土塁であったと(笑)
 来年は野良田表の戦い450年、先ほども言いましたが守護大名の衰退というのがテーマになるのではないかと思います。
浅井長政はまだ16歳で初陣をするのです。野良田表の戦いで勝った事で、今で考えると高校生1年生くらいの若造が守護大名を押し破ったという事になり、それによって近江の勢力図がどんどん浅井になってゆき、織田信長は長政と同盟を結ぶきっかけになったと思います。その娘が2011年の大河ドラマの主人公お江です。
浅井長政の武勇は他にもあるのかもしれませんが、姉川と野良田表しか思いつきません。野良田表の戦いが一番の物だったのかもしれないと考えます。また戦国ブームと言われていますが、その前の時代はあまり日の目の当たらない時代だと思います。そんな中にも地域の歴史がある。
 地域の言い伝えなども出てきて、地域の人たちが繋がっていけば嬉しいと思います。

(中井)
 今回、地域にある大学と地域が共同でシンポジウムができたという事に意味があります。地元の方はここに肥田城が在って水攻めされた事は聞いた事があるとは思いますが、今日のシンポジウムでそういったものがどんな経過を辿ったのか、あるいはそれが今も田んぼの一枚一枚や地名の一つ一つに見事に刻まれていると再認識していただければ、今回のシンポジウムをやって良かったのだと思いますし、また来年の浅井長政が“賢政”から“長政”に名前を変えるきっかけになっていく野良田合戦450年がこの大学と地域の共同で出来て行けばありがたいと思います。
 今、田んぼに過ぎない所に凄いお城があって、それが六角との戦いに戦い抜いた。浅井が来るからと戦い抜けたと知っていただければ幸いに思います。



≪シンポジウム終了後≫
肥田城水攻め450年は、2010年の野良田合戦450年に課題を残す形でシンポジウムを終えました。
『どんつき瓦版』編集部が、シンポジウム前後でパネラーの先生方とさせていただいたお話もまた新たな視点を見せてくれるモノでしたので、簡単にですがその一部をご紹介いたします。

○肥田城について
・肥田町に残る条里制の跡から考えると、やはり高野瀬氏の造った外郭である可能性は低いとの事
・発掘では、肥田城の土塀が焼かれた遺構も出ている。肥田城は水攻め以外にも火攻めにも遭った可能性がある。
○彦根城について
・彦根城の石垣は近江国内の様々なお城から集められた物だとの説が流布しているが、実はそのほとんどは同じ場所から切り出されていて、それは荒神山と同じ成分である。
・しかし、井伊家の記録に荒神山から切り出した項目は無く、この矛盾点が大きな課題となる。
・彦根城の石垣には、刻印があるものが存在するらしい。

余談ですが、彦根城石垣の刻印については内濠沿いの玄宮園の石垣に“六”の刻印がある物を『どんつき瓦版』が確認しています。

今回のシンポジウムには280名近い聴講者がおられ、知られざる地元の史跡と歴史的事件に多くの方が関心を持っておられる事が確認されました。このシンポジウムが稲枝地域の再発見と、周辺地域との連携による歴史発掘のきっかけになるように願いたいと思います。

『いなえ歴史シンポジウム 水攻めから450年~肥田城の謎を語る~』その1

2009年07月14日 | 講演
7月4日のシンポジウムの内容掲載がやっとまとまりましたのでアップいたします。

遅くなり申し訳ありません。



『いなえ歴史シンポジウム 水攻めから450年~肥田城の謎を語る~』

【基調報告】
NPO法人 城郭遺産による街づくり協議会 理事長
聖泉大学非常勤講師:中井 均さん

 皆さんこんにちは。この後に様々な先生方から肥田城につきまして見解を述べていただきますが、私は基調報告という事で肥田城だけに関わらず、彦根にはこんなお城がある。という少し城の見方を変えるお話をさせていただきます。 
 彦根というと国宝彦根城がありますので、彦根城が当たり前のようになりますが、もちろん佐和山城がありますし、彦根市内だけで現在67ヶ所の城跡が確認されています。これは1981年から滋賀県教育委員会が「どこにどんな城があるのか?」と調査した結果、67ヶ所に分布している事が解った訳です。
 私自身は山城を専門としておりますが、彦根で言いますと“佐和山城”“日夏城”“高取山城”“物生山城”などです。こういった山城は戦国期に造られた物ですが、現在でも堀切・曲輪といった遺構を残しています。そんな遺構を読み込む事によって「どういう人たちが」「どんな時代に」「どうして造ったのか」を研究していく訳です。
 ですから今回私に与えられたタイトルは大変難しいのです。肥田城は平城であり、江戸時代に彦根藩が肥田城址の開墾を許可しましたので、現在のような田畑になってしまったのです。つまり遺構が残っていないのです。
 遺構が残っていないとなりますと、私自身は手も足も出ないのです。ですから「肥田城はこういう城であった」というお話は後の先生にお任せをして、私は平城に関して少しお話をしたいと思います。

 彦根には肥田城以外に“甘露城”“甲崎城”などが平地に造られています。これらはすべて江戸時代に田畑に変わってしまい濠などの遺構を残していません。しかしこのようなお城は“国人”や“地侍”といった村の領主たちが城主でしたので、江戸時代になっても村人たちが領主のお城を大事にしてきた訳なのです。
 そこで「小字」という地名にお城の痕跡を残していく訳です。例えば甘露城には正に“城”という小字が残っておりますし“城南(しろみなみ)”“城西(しろにし)”という地名も残っています。また甲崎城につきましては、私も大変驚いたのですが現在の甲崎の集落は“城屋敷”にあるのですがそこから少し琵琶湖の方に行った所に土塁と濠の痕跡を残して“土居(どい)”という地名を残しています。甲崎城があった所その物は現在畑に変わってはいるのですが真四角の方形の形をしたお城の痕跡をそのまま残している訳です。
 ですから地名と田んぼに残された畦畔といいかすか畦一本一本が大変大事な遺構であった。平地だから土塁・曲輪あるいは濠が残って居ないのではなくて地名や田んぼの一筆一筆に歴史が残されていたという事ですね。甲崎城ではそのような痕跡が残されているのです。
 肥田城につきましても様々な小字が残されています。こういった小字から肥田城の広がりあるいは城下の状況が解ってくるのだと思います。

 ただ肥田城につきまして興味深いのは高野瀬氏という城主の問題です。高野瀬氏は既に14世紀の南北朝時代の資料の中に登場して参ります。しかし“高野瀬”は彦根ではなく豊郷町にこの地名があります。当時の在地の武士は村の名前を苗字にします。“高野瀬”というのはその本貫地が肥田ではなく豊郷の高野瀬なのです。
 これがなぜ肥田の城主になるのか? 大変面白い問題を持っているだろうと思います。当時の地侍・国人・土豪は村の領主ですから、村を離れるのはあり得ないのです、例えば甲斐の武田氏は信濃・上野あるいは遠江に出て行っても必ず甲斐の躑躅ヶ崎に戻るのです。
 要するに父祖伝来の土地は彼らにとっては“聖地”なのです。いくら領土を広げようがそこから出て行くというのは信長以前にはあり得ないのです。
信長は、清州から小牧山に移り岐阜・安土さらにどこかに移る予定であったと考えて良い訳ですが、それ以外の守護大名や戦国大名、あるいは国人・地侍というのは村を離れるのはあり得ないのです。
 それが敢えて高野瀬を離れてなぜ肥田の地にやって来たのか? というのが肥田城を考える上で大変重要な問題ではないかと私は思います。
 同じ近江で少し似た事例がありますのでご紹介しますと、高月町に磯野という所があります。磯野には磯野氏という浅井氏の被官である土豪が居ます。この磯野氏が佐和山城主として信長と戦います。
 もう一つは米原の朝妻城の城主が新庄氏という国人です。新庄氏は元々朝妻に居るのではなく旧近江町に新庄という所があり、そこからわざわざ朝妻に移っています。
 こういった国人の移動は彼らの意志ではなくもっと上の方から守備を命じられて来たのではないか? つまり肥田の場合は「おそらく六角氏によって高野瀬氏が肥田城の守備を任されて本貫地から移って来て肥田を国境線として城主になった」と考えてもいいのではないかと私は思っています。
 ところが高野瀬氏が浅井方に付く事によって、六角氏の想いは打ち破られた訳です。高野瀬氏が浅井氏に帰順する事によって有名な水攻めが永禄2年に行われる訳です。

 面白いのは土手を造られて村人がお城に逃げ込んだという話です。これは大変重要な意味を持っています。戦国時代の領主は「領民を守る」というのは重要な責務だったのです。
 近世のお城、例えば彦根城は、井伊家とその家臣たちしか入れません。町人がお城に入るなんてあり得ないのですが、戦国時代のお城は避難場所になる訳です。
様々な戦いの時にお城を開放する事によって、領民が非難する場所になるという事です。肥田城を守る為に領民を締め出すのではなく、高野瀬氏はお城の中にそれを避難させる。これが当時の責務であったのです。

 もう一つ“その後の肥田城”が大変重要な意味を持っています。
 織田信長が近江に入ると、高野瀬氏は信長の家臣の柴田勝家の与力になりますが、天正2年(1574)に高野瀬秀隆が越前で自害します。その後、天正5年くらいといわれていますが信長の家臣の蜂屋頼隆が肥田城主になります。蜂屋の死後は豊臣秀吉の家臣の長谷川秀一が天正17年頃に肥田城主になります。
 蜂屋氏や長谷川氏の時代に日本の城はどうなったかと言うと、天正4年に近江では安土城が築かれ、それまでの土造りの城から石垣造りの城に日本の城が大きく変化する時です。
 私はこれを“織豊系城郭”と呼んでいます。戦国時代の城は土造り城郭だった物が、安土以降は石垣・瓦・天守を持つ城が日本の中に出現します。
蜂屋・長谷川のような信長・秀吉の直属の家臣の城は本来こうした城にならなければおかしいのですが、どうも肥田城では石垣・天守あるいは瓦を使っていないという大変難しい難問を持っているのです。
 蜂屋氏が入った段階ではおそらく大変荒廃していただろうと思われる肥田城を修理した時に、石垣や天守を造れる時代であったのに、なぜこうならなかったのか? というのが重要な問題だろうと考えています。
長谷川秀一が文禄元年(1592)に秀吉の朝鮮出兵に伴って朝鮮半島で陣没し、肥田城は廃城となり、江戸時代になって彦根藩が開墾を許可して水田に変わってしまったのです。
ただ城跡と伝えられている場所の南西側にある“登町”、南東側にある“東町”“西町”は短冊型街区つまり道に対して短冊のように町屋が形成されています。これは城下町特有の町割りで農村型の地割りを持っていないのが肥田の大きな特徴です。
 これらの町割りは肥田城下町の痕跡を残していると言って間違いないですが、問題はこの城下町が高野瀬氏の時代まで遡るのか、あるいは蜂屋・長谷川の時の織豊系城郭として姿を変えた段階の城下町なのかが大きな問題になると思います。
 いずれにしろお城は、その時代だけではなく非常に長い時代。佐和山城でもそうですし彦根城でも江戸時代260年存続しています。肥田城も大変長い時代存続している訳ですのでそういった事を少しずつ解き明かす事によって、彦根には“彦根城”“佐和山城”そして“肥田城”という平城があるという事を皆さんも思っていただけるのではないかと考えます。

 最後に、私は肥田城の水攻めというのは浅井が六角からの独立、今の宮崎県や大阪府の知事が言っているような「戦国時代の地方分権」、守護大名から戦国大名が独立する大きなきっかけになった戦いだと考えています。
 それから山城に比べて遺構が残らないのが平城のネックになるのですが、土手の一本や田んぼの畦畔一本に歴史が残されている。そしてそれを郷土の誇りとしていただいて「肥田にはこんな凄い歴史があったのだ」「守護と戦ってきた不屈の精神があったのだ」と思っていただければ大変ありがたいと思います。


【パネルディスカッション】
○コーディネーター:中井 均さん
○パネラー
・崇徳寺住職:高瀬 俊英さん
・彦根市教育委員会文化財課:谷口 徹さん
・滋賀県文化財保護協会:堀 真人さん
・どんつき瓦版編集部:正村 圭史郎さん

(中井)
 まず先生方に肥田の水攻めについての想い、あるいは調査の成果についてお話し願いたいと思います。

(高瀬)
 崇徳寺は肥田城の菩提寺という事になっていますので、肥田城主や肥田城にまつわる外観を最初にお話させていただきます。
 崇徳寺には彦根市の指定文化財にしていただいた物が二つあります。ひとつは木造の寺の御本尊で1mくらいの菩薩坐像です。鎌倉時代中期頃に作られた物だと伝わっていますが、非常に繊細な彫刻が施されていて優美な顔立ちでもあります。
 もう一つが、肥田城主の4幅の肖像画像です。“伝高野瀬隆重”“高野瀬秀隆”この秀隆の時に水攻めが行われたと言われています。続いて高野瀬氏が滅亡した後に入った“蜂屋頼隆”“長谷川秀一”です、共に桃山期に描かれたと云われていますが、賛はそれから100年ほど後に寺の住職が書いたようです。
 高野瀬隆重に関しては“伝”と言いましたが、4~500年前の物で亀裂も激しく肝心の字が読めたい所もあって本人かどうかがもう一つはっきりしないのです。
 
 その他に過去帳もありこれらの人々が書かれているのですが、過去帳も江戸時代中期くらいに書かれた物だとの事で、昭和の初めに『愛智郡史』が作られた時には資料とてはっきりしないという事でこの記録からは外されました。ところが、近年になって徹底的な
分析があり、鎌倉前期から書かれている記録が「ある程度信用に値する」との評価を得ました。
 例えば亡くなった理由なども歴史的事実と合致しています。後で作った記録ならば、普通は時代を遡れば遡るほど粗雑になる物ですが、「新しい時代と変わらないくらいに正確に書かれている」との評価をいただきました。また「旧記から転記した」との事も書かれていて異説も紹介されているのです。
 この過去帳に書かれている高野瀬隆重は、鎌倉前期の人という事になっていて鎌倉幕府に仕えていて、この辺りは延暦寺の荘園となっていたのでその荘官(代官)として宇曽川流域に自分の勢力を増やしていったと考えられます。
 隆重の孫の隆益という人物は、承久の乱に18歳で参加して瀬田川で亡くなっていると書かれています。その亡くなった日と歴史的事実とが合っているのだそうです。

 この過去帳と、それを元にした家系図を参考にして調べて行きますと、高野瀬盛隆という人物は「肥田城に居って」と書かれています、盛隆が亡くなったのは1492年とされているので15世紀の終わりには肥田城に居たと思われます。もう少し後の光頼(過去帳には記されていない人物)は、岡山に将軍がやって来た時に将軍に拝謁し従五位修理大夫の位を貰っているのです。その光頼は「肥田城を大いに広め(増築した)」と記されているのです。
 光頼は過去帳に記されていませんが1545年に奥さんが亡くなった記録は過去帳にありますので15世紀終わりから16世紀初めにかけて肥田城は造られたのではないか? と考えられます。
 室町時代は守護勢力が力を持って荘園から年貢を取って、それを地方に居る武士に配って地方の武士を手なづけていた時代でした。ですから高野瀬氏などは守護の元に組み込まれたのです。先程の話にも出て参りましたが“国人”は室町時代に守護の元に組織されていたようです。
 肥田城を残る小字名で見て行きますと、今回このシンポジウムを行っている聖泉大学は“フケ”“菅江”にあります。“下倉”“上倉”“月合”“廿八”からずっと下がると県道になります。
そして“下新田”“上新田”という辺りに肥田城がありました。これは慶安3年に彦根藩の命令で肥田城が取り壊される事となり、「農閑期に人足を隣村から挑発して堤を壊ち、濠を埋め、土石を運び新田3町5反9畝19歩を得たり」と書かれています。どことは書かれていませんが新田にしたと書かれていますし、今回の発掘調査でもどうやらこの辺りが大体4町程の所領だったと考えられます。
そして周囲には“丹波屋敷”“藤蔵屋敷”“民部屋敷”“孫右衛門”“勘ヶ由屋敷”という武家屋敷がありました。それから“登町”という6mの道が300mに渡ってありますし“西町”“東町”という6~7m幅の道路があります。しかもその道路の出入り口は半分くらいに細くなっていて中だけが広いのです。それを取り囲むように町屋がずっとある城下町が作られたのです。
肥田は昔から水には弱い町だったので環濠が作られたといわれています。これらが肥田城の概要という事になりそうです。

(中井)
 肥田城の規模や高野瀬氏の概歴をご紹介いただきました。続きまして谷口先生のお話です。

(谷口)
 私は近江の話と少し絞って彦根の話をさせていただこうと思います。
応仁の乱以降は戦国時代を迎えますが、近江は北の京極と南の六角という元々は近江佐々木源氏の一族だった二家が徐々に仲が悪くなって互いに相争うという時代になりました。これがまさに近江の戦国時代です。
 そうしますと彦根は両者がぶつかる所となる訳で、境目になるのです。中井先生は67ヶ所彦根に城があると仰いましたが、これは殆ど集落の数と同じで、一つの集落に一つの城があるというイメージで思って下さればいいと思うのです。そんな小さな土豪や土着の侍たちが、どちらの勢力に付くのか? という大変な問題なのです。
北か南か? これは本人だけではなくその一族の運命を左右する事になるのです。ですから非常に悩んだと思われるのですが、例えば佐和山の百々氏、聖泉大の近隣では日夏氏・山崎氏・河瀬氏、他にも沼波氏・多賀氏などの戦国の土豪の中でも少し力を持った一族も居て、彼らも「どちらに付くのか?」という事で非常に悩みます。

六角義賢が肥田城を攻めた。いわゆる水攻めの時期は永禄2年(1559)になりますが、同じ年に浅井長政が家臣の百々氏を佐和山城の城代に任命します。
同じような事で、お城ごとの年表を作って重ねるといろいろ解ってくるのですがなかなかそういう資料は出来ていません。幸い出来ている高宮氏の永禄2年の記述を見ると、六角義賢が高宮城を攻撃していて、高宮氏も浅井に付いていたと解るのです。翌年同じように六角氏が高宮城を攻めていますが攻め落とせなかったという記録が出てきます。まさに肥田城と同じ形なのです。
浅井が力を持って領地を広げて南下してくる時期が、肥田城水攻めの時期になるのだろうと思います。ですからそれは肥田だけではなく高宮も同じですし、おそらく近隣の土豪たちも北へ付いていった時期で、浅井が力を持って南下して行く。相対的に六角は弱体化していく時期に当たるのではないかと思います。
近江の年表では永禄10年(1567)に織田信長の名前を見るようになります。近江は北と南に分かれて争った時期がずっと続いたのですが、信長によってこの関係が崩れ有名なお市の方を長政にあてがって同盟を結び、信長はまず六角を滅ぼします。そしてそのまま順調にいくように思われた関係を浅井が離反をする事になるのです。
肥田城水攻めがあったのはその前の時代。つまり近江が南北に分かれて相争う時代で、彦根はその中で「どっちに付こうか」と土豪が悩んだ時代のお話なのです。

(中井)
 時間軸をよくご理解していただけたと思います。続きまして堀先生から発掘調査の成果をご紹介していただきたいと思います。

(堀)
 私からは発掘調査を中心とした肥田城の成果についてまとめさせていただいて、これからの議論の叩き台にしていただけるような基礎的な資料を提示したいと思います。
 今回は、周辺の状況と調査歴そしてその成果について簡単にまとめさせていただき、その成果を踏まえて肥田城を中心に解ってきた事を最後に提示したいと思います。

 周辺の状況と調査歴ですが、肥田城は肥田町にある“肥田城遺跡”という名前でお城の遺跡であると周知されています。
 調査歴は、過去に4ヵ年に渡って調査されました。最も古い物は昭和61年に宇曽川の改修に伴う調査で肥田町内の最も川縁の部分を調査しました。その後平成18年から3ヵ年に渡って補助整備に伴う発掘調査を肥田町の外周で行いました。

 昭和61年の調査では、江戸時代の船運(運送)に関わった屋敷地だろう? と思われる物が見つかっています。
肥田城に関わる事例としては、国道の土塁の一部を断ち割る事がありまして、そこから17世紀から18世紀の信楽焼の擂鉢が土塁の基底部から出ています。
 その事から「土塁は江戸時代に入ってから作られた物ではないか」との判断に至っています。また江戸時代の屋敷の造成部の中から15世紀から16世紀の遺物がまとまって出ているという事は注目すべきことだと思います。

平成18年度の成果としましては、字名で墓立と付いている部分を中心に現在の在所の南側を調査しました。こちらの方では古代の奈良時代から平安時代を中心にした集落が展開していた事が解っています。掘立柱建物の跡が見つかっています。
 肥田城に関わる物としては、この調査区の在所を挟んだ反対側にある推定水攻め際の堤付近の試掘調査を行っています。その際に堤を築いたと思われる土採りの溝が確認されています。この件は後に回します。

 平成19年度は聖泉大学の南に当たる一帯の幅2m×4mほどの小さな範囲の掘削調査を行いました。成果につきましては古墳時代後期の古墳が見つかり周溝から埴輪や鳥型・笠型の木製品が見つかっています。
 肥田城関係につきましては、16世紀代の遺物が出土していますが調査面積の制約もあって明確な遺構は見つかっていませんでした。

 平成20年度の調査では字名で推定されていたお城の地域を調査する事になったのですが、この調査で肥田城の一端が解ってきたのではないか? と言えます。
 字名でいう“山王”と“丹波屋敷”を掘りました。字境に3mくらいの幅の溝がありました。成果としては、字境の溝から仏具などの宗教道具が出土しております。掛け仏の本尊の部分が出土しました。それから10cmと15cm程度の卒塔婆が出土し墨痕がありましたので調査しましたら、普通の卒塔婆に書かれる定型句が書かれていた事が解りました。同じ溝から食べ物を盛る大きさ10cm程度の銅製の器や銅銭、五輪塔の空風輪の部分が出ています、この大きさが35cmで全体の大きさを推定すると1m80cmから2mくらいになると思われ、かなり大きく上級クラスの人のお墓に使う物と推定されます。
 また区画溝や各種施設が見つかっていますが、溝では木・石・杭を使って護岸している物や掘立柱を受ける石なども見つかっています。
 他にも一般生活で見られる漆器碗・信楽の擂鉢・石臼・櫛、面白いところではシジミ・カラス貝などの海産系の食べカスなどや鹿の下顎の骨も出ています。

 先ほど少し触れました堤の規模についてですが、『近江與地志略』という江戸時代に書かれた本によりますと、だいたい全長5.8km幅23mという記載が見られますが、明治時代の地籍図で確認できるのは総延長が半分くらいで幅18mにすぎません。実際に調査してみると幅18m位が現在残っている状況です。ただし試掘調査を行い城側で土採りをしたと思われる溝が出ていてそこから推測される量を考えると幅8m高さ1m弱くらいではないか? と調査担当者は話しております。

 最後に調査成果を纏めますと。
 中井先生も仰いましたが、ポイントになるのは小字名ではないかと思われます。調査地の“山王”という地名からの出土遺物を検討しますとやはり寺院、持仏堂や神社や祠のような物があったと想定できると考えられます。それを考えると“丹波屋敷”“藤蔵屋敷”などもあながち外れた地名ではないのではないか? と想定できます。
 それから“登町”“東町”“西町”は昭和61年の調査を踏まえると。江戸時代以降に造られた部分ではないか? と想定する次第です。

(中井)
 発掘調査によって実態が徐々に解ってきたという状況だろうと思います。それでは正村先生に水攻めの思いを語っていただきます。

『いなえ歴史シンポジウム』速報

2009年07月04日 | 講演
2009年7月4日、兼ねてからお知らせをしていました『いなえ歴史シンポジウム 水攻めから450年~肥田城の謎を語る~』が聖泉大学で行われました。

細かい内容は、これから大学側で作って行かれますので、管理人の纏める話の内容の詳細は時期をみて掲載いたします。


ですから、今回はさわりだけご紹介します。

織豊系城郭研究の専門家の中井先生のお話では、
・肥田城のような平城は地名や残った田畑の畦一本から推測していくしかないが、それらが貴重な歴史以降である事。
・信長時代には蜂谷頼隆、秀吉時代には長谷川秀一という直属の家臣が城主を務めたのに織豊系城郭の痕跡が無い肥田城の不思議。
などのお話がありました。

パネルディスカッションでは、
肥田城主の菩提寺住職の高瀬さんが、
・過去帳から調べる高野瀬氏と肥田城の関わり
彦根市文化財課の谷口さんが
・年表を合わせて行くと、高野瀬氏と同じ時期に高宮氏も六角氏と戦っていた事が見えてくる。
・浅井が力を持って南下していくのは水攻めの時期で、浅井の強化、六角の弱体化という意味を水攻めは持つ。
滋賀県文化保護協会の堀さんが、
・肥田城には古くからの歴史があり、ちょうど水攻めの頃の出土品がある。
・山王は宗教施設、丹波屋敷は武家施設などの小字名と出土品が一致する。
どんつき瓦版編集部の正村さんが
・守護大名の衰退、豪族の戦国大名化
・水攻め土塁は高野瀬氏の外郭では?

という話がありました。

この外郭説が次の議論となり、全体的には「そうではないのでは?」という意見に落ち着きました。

こうしてシンポジウムは来年の「野良田合戦450年」を目標として終りました。


参加者の数は280人くらい、しかもこの中には生徒さんの数は含まれないそうですから300人以上の聴講があった可能性もあるそうです。
今後の彦根市南部の独自色を出す試みとしても大きな一歩になったのではないでしょうか?

管理人自身はパネラーという立場ではなかったにもかかわらず、今回の件に多かれ少なかれ関わっていましたので、講演された先生方とお話をさせていただく機会を得る事となりました。

この中で、
・彦根城は実は多くの城からの寄せ集めでできた築城ではなく、一ヶ所の石材が使われている可能性が高い。
・その採石場は荒神山である可能性もある事(ただし、井伊家の記録に荒神山が出てこない矛盾のある)
・肥田城遺跡から焼けた土塀が出土した事。
などの、まだ表に出ていない情報も得る事ができました。

これらはこれからの報告や調査になるそうですが、もしかしたらまた彦根や中世・近世の歴史が変わるかもしれない話だったようです。

歴史はまだまだ多くの発見がなされるのかもしれませんね。

(写真は、肥田城の土塁が確認できる場所を示した物・滋賀県文化財保護協会資料より)

ゆるキャラ切手第二弾販売

2009年07月01日 | イベント
2009年7月1日、昨年の9月に販売され即日完売となった『ゆるキャラ切手』の第2弾が販売されました。

前回は3000部しか発行されず、販売開始すぐに無くなってしまう郵便局が多かったのですが、今回は2万部が発行されました。
それでも午前中に完売になる郵便局もあった人気ぶりだったそうです。

今回は、前回の“ひこにゃん”“しまさこにゃん”“いしだみつにゃん”“おおたににゃんぶ”に“やちにゃん”“カモンちゃん”が加わり計6キャラの集合となり、ますます可愛い切手になっています。