彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:第二次東禅寺事件(5月29日)

2012年05月29日 | 何の日?
文久2年5月29日、イギリス公使館となっていた東禅寺で、再び事件が起こりました。

前年の5月28日(たった1日違い)、水戸浪士14名による東禅寺襲撃事件が起きたばかりでしたが、今度は警護をしていた松本藩士が公使の寝室を襲おうとしたのです。
この時、公使のザフォード・オールコックは帰国していて、東禅寺には代理公使ジョン・ニールが滞在していたのです。
松本藩士の伊藤軍兵衛は、深夜になって警護から離れて公使の寝室へと向かいました。ここで水兵2名に妨害され、この2名を斬り殺したのです。
その後、伊藤は自害して果て、この事件は終結します。

警護側である伊藤軍兵衛がこのような行動に出た理由は、
・水戸浪士の襲撃の噂があり、日本人同士で殺し合うことの愚かさを悲観した。
・財政が逼迫している松本藩が警護から外される為の苦肉の策だった。
などが伝わっています。


ニールは公使館を横浜に移し(一年前の事件の後で横浜にあったが、ニールが東禅寺に移していたのを戻した)、再び賠償金を請求しますが、その後に生麦事件が起き、両方の事件を一緒にした賠償金が支払われるのです。またニールは生麦事件の報復である薩英戦争にも参戦しています。

日食と暦 その2

2012年05月22日 | その他
では、昨日の続きで太陽暦のお話。
(写真は昨日の金環日食・甲良町にて撮影)

『太陽暦』

○太陽を基準にした太陽暦
現在世界で一番使われている暦は太陽暦です。正確には太陽暦の中でもグレゴリオ暦と呼ばれているものです。
古代ローマでは月が基準だった暦でしたが、ローマ人はその頃から春分から春分までがひとつの周期でありその期間が365日であることにも気が付いていました。このために春分の頃(3月25日)を新年としてその次の新月までこれを祝いました、そのお祝いの日が今の4月1日になるのです。ですから、春分を含む今の3月が一年の始まりになります、ですから今でも閏日を2月に1日足したり、十二星座の始まりが春分辺りから始まる牡羊座になったりするのです。

4月1日に新年のお祝いをする習慣は、1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年にする新しい暦(グレゴリオ暦)を採用したことで廃止されることになりました。旧制度を大切にする人々がこの決定に反発し、4月1日に大騒ぎするようになり「嘘の新年」と表現したのです。これがエイプリルフールの始まりです。


○西向くサムライ
太陽暦には、1か月を31日とする月と30日以下とする月があります。これが交互にあると分かり易いのですが、変則的になっているために、短い月である2・4・6・9・11月を続けて「に・し・む・く・サムライ(士を崩すと十一になるため)」の語呂合わせで覚えます。
太陽暦が採用された時、1・3・5・7・9・11月が31日、残りが30日とする交互の暦でした。そして2月でずれを調整する暦ができていました。これを採用したユリウス・カエサルの名を冠してユリウス暦といい、紀元前45年1月1日から使われました。この後に皇帝になったアウグストゥスが自分の月の象徴である8月が短いことに不満をいだき、8月を31日までにして9月以降の長さが変わってしまったのです。


○グレゴリオ暦
ユリウス暦は、1年の長さが上手に計算された暦でしたのでこの後1600年近く使われるのですが、紀元前では計算できなかった微妙な誤差が積み重なってしまいます。とくに春分の時期にはこのずれが大きな問題になってしまうのです。
カトリック教会は教皇グレゴリオ13世に改暦を申請しました。グレゴリオ13世はこれを重くみて有識者に研究させ1582年(日本では本能寺の変が起こった年)の10月15日に改暦を行いました。ユリウス暦ではこの日は10月5日だったそうなので、いきなり10日進んだことになるのです。



暦を作ることは、天をも支配するという意味で権力者の大きな権利でした。日本でもそれは例外ではなく、その権利の一つといて元号を制定する権利も朝廷が有していたのです。信長はこの権利を朝廷から自身に移そうとして天正の元号を認めさせたとの話もあります。
また、日食や月食も研究されたのです。今回の金環日食は、大阪・東京など日本の都市部でも見ることができる金環日食なのが珍しいです。

でもたとえば管理人の住む滋賀県では、2041年10月25日に見える金環日食の方が長く見える筈ですので、29年後に見比べてみたいですね。

日食と暦 その1

2012年05月21日 | その他
2012年5月21日、全国的に金環日食が起こる予定になっています。
そこで、5月5日に安土城の麓で話しました日食と暦の歴史話の時に作った資料『あづちふことふみ』を転用して、日食のことに触れてみたいと思います。


『日食の日本史』
2012年は105年ぶりの天体ショー記念年とされていますが、その中でも特に注目されているのが5月21に起こる金環日食です。世界的な視野で見るならば、皆既日食は約3年に2度の割合、部分日食ならば1年に2~5回は世界のあちらこちらで起こっていますので実はそれほど珍しい物ではありません。
最近では2009年7月22日に、屋久島や奄美大島などで皆既日食が起こることが話題となり、多くの人がその場を訪れましたが、梅雨明けが遅くなったために一部の地域でしか観測できないという結果に終わっています。
それならば、なぜこのように騒がれているのか? といえば、まずは日食が日本人のDNAレベルに刷り込まれた危険信号だからということが挙げられます。民族にはそれぞれに誕生してすぐに受けた災害を恐れ信仰し神話として伝え残そうとする意識が働くといわれています。『旧約聖書』に登場するノアの方舟や『新約聖書』に登場するモーゼの海割りも、大河の近くに文明を築いた為にたびたび起こった大洪水を刻んだ記憶であり記録でした。

日本人は、天照大神という太陽神が神道で最高神のような扱いを受けていますが、『記紀』の中で天照が天岩戸と呼ばれる洞窟に身を隠し入口を岩で塞いだことから世の中は光を失ってしまったという物語があるのです。この後に鶏を集めて一斉に鳴かせ、アメノウズメという女性に踊りを躍らせて天照が興味を持って外を覗こうとした瞬間を狙って岩を抉じ開け天照が外に出ることで光が戻ったとされています。これは皆既日食を神に例えた物語なのです。
世界の神話でも日食に関わる話が残されていますが、日本人にとってはとても重要なシーンで使われている話が天岩戸なのです。その理由を井沢元彦さんは、“日本の「幼児期」である紀元一世紀から三世紀の間に、日本列島で起きた皆既日食は二回しかなく、卑弥呼の死んだ248年とそれより90年前の158年である”としています。158年の後に倭国大乱が起こり、その記憶が伝わっている間に248年の日食が起こりこの年に卑弥呼が死んだのです。そんな異常事態が日本人に日食の恐怖を植え付けたとされています。また、『日本書紀』には、推古天皇36年(628)3月1日に日食があり、その4日前に推古が寝込み、5日後(6日後?)に崩御するのです。

今でこそ、日本人が日食を怖がることはありませんが、日食に対する心のざわめきはどこの国よりも強いともいわれています。ちなみに、日本で最初に記録された金環日食は、源平合戦のひとつである寿永2年(1183)閏10月1日の水島の戦いの最中に1分半くらい太陽が95%隠れた出来事でした。合戦の途中で太陽が突然隠れて暗くなり、驚いた攻め手(木曽義仲)が兵を引いて戦いが終わるのです。



『太陰暦』

○月を基準にした太陰暦
太陰暦は、月が見えなくなる新月の日を1日とします。この日は朔とも言います。徳川家康が江戸城に入ったのが天正18年(1590)8月1日でした。これを記念して新しく開拓された土地に八朔という地名を与えました。その中の一つである都筑郡八朔村(横浜市)で後年になって新品の栽培に成功した蜜柑が“はっさく”です。
朔から次の朔まで、月齢は約29.53日です。このため、基本的には1月が30日の大の月と29日の小の月が交互にやってくるはずです。実際に交互だった年はほとんどありませんが、これが基本です。この法則に則って計算すると1年は354日になってしまい、実際の一年とは11日足りないことになるので数年に一度だけ1年を12か月ではなくあと1か月増やすことになります。これが閏月です。

○太陰暦に観る日食
日食は、太陽が月に隠れる現象です。ですから地球から見ると月の反対側に太陽の光が当たる時である新月にしか起こりません。ですから月を基準にした太陰暦では1日にしか日食が記録されないのです。ちなみに月食は満月になる15日しか起こりません。今は太陽暦になったためにこのような法則から外れてしまったのです。
歴史上では、元禄14年(1701)には元日に日食が起こりました。人々は不吉だと噂し合います。そして3月14日に江戸城松の廊下刃傷事件が起こったのです。
江戸時代の日本人は、天文学において最先端を進んでいました。宝暦4年(1754)9月1日、日本で日食が起こりました。それまで日食の予測は何度も行われていましたがほとんど当たることがなかったのですが、大坂で活躍していた浅田剛立が理論的な日食計算に成功します。これは世界で初めての事でした。



明日は、この続きで『太陽暦』のことを少し書きたいと思います。

150年前:関鉄之介斬首(5月11日)

2012年05月11日 | 何の日?
文久2年(1862)5月11日、桜田門外の変で水戸浪士の現場指揮を執った関鉄之介が処刑されました。享年39歳。

桜田門外の変の実行犯は18人とされています、そして関鉄之介はこの中で16番目の死者となります。残る二人は江戸時代を生き抜いて明治まで生き延びますので、実質的には桜田門外の変実行犯の最後の犠牲者となるのです(被害者側の彦根藩ではこののちに関係者の静粛が行われます)。


桜田門外で水戸浪士が井伊直弼を討ったことが水戸藩に知れ渡ると、直弼の政敵だった徳川斉昭は、浪士たちを褒めるどころか、犯人捕縛を藩士に命じました。
たとえ個人的には敵を討った功労者であっても、公とすると幕府の最高責任者を暗殺した政治犯でしかないのですから、公人の斉昭の立場では当然の命令だったのです。

こうして、各地で匿われていた実行犯たちは捕えられ処刑されたり、捕まる前に自害するなどしてどんどん数を減らしていったのでした。
関鉄之介は水戸での協力者を頼り、あちらこちらを移動していたのですが、水戸藩内では行き場を失ったので飛び地である越後に移動したのです。
そして文久元年10月23日に湯沢温泉で潜伏中に水戸藩士に捕えられたのでした。

水戸藩士に捕えられても、浪人という立場で政治犯である以上は取り調べは幕府が行うことになり、小伝馬町で斬首されたのです。

150年前:ロンドン覚書調印(5月9日)

2012年05月09日 | 何の日?
文久2年(1862)5月9日、江戸幕府の遣欧使節団がロンドンで『ロンドン覚書』に調印しました。

遣欧使節団は、日米修好通商条約調印以来日本国内での攘夷運動や物価の過激な変動を苦慮した徳川幕府が、通商条約を結んだ国に対して開港(新潟・兵庫)と開市の延期を求めるための交渉を行うために派遣された使節団でした。
正史は竹内保徳(勘定奉行兼外国奉行)で36人の使節団だったのです。ここには福沢諭吉も同行していました。

4月にパリでナポレオン3世に面会し好感を得ます。そしてイギリスに渡ってロンドンでジョン・ラッセル外相と会談し、その結果として開港と開市を1863年1月1日から5年間延長することが決まり、これを記したロンドン覚書が調印されたのです。

このロンドンでは万国博覧会が開催されている最中で、そこには遣欧使節団をサポートしていたイギリス公使のラザフォード・オールコックが個人的に収集して展示させた日本ブースがあり、遣欧使節団たちを驚かせるとともに「こんな古い骨董品のような物は見るに堪えない」との感想を使節団は述べているのです。

5月8日、鄭成功死去

2012年05月08日 | 何の日?
1662年5月8日、鄭成功が亡くなりました。享年37歳。

鄭成功は、明朝末期の政治家であり軍事的指導者です。父親は鄭芝龍という人物で朱印船貿易を行っていた李旦という人物の下で商人として働いていて日本の平戸島に住んでいたのです。
ここで、華僑である翁翊皇の養女になっていた田川マツ(平戸藩士田川七左衛門の娘)を妻に迎えて、二人の間に生まれたのが鄭成功だったのです。
つまり鄭成功は、中国人と日本人のハーフでした。この時は鄭森と名乗っていました。

鄭芝龍は、商人としては当然の心得として兵を養っていて、それはバカにできない戦力でもあったのです。そして兵を養うために密貿易も頻繁に行っていました。
そんな自分の生き方とは違う道を息子に歩ませたいと思ったのか?役人の道を進むのですが、その直後に李自成の反乱によって明が滅んでしまい、明の皇帝であった朱氏を旗頭にする独立政権があちらこちらで乱立しました。
その一つが隆武帝朱聿鍵だったのです。隆武帝擁立には鄭成功の従兄弟が関わっていて、この縁で成功が隆武帝に謁見した時、「朕に公主(娘)がいれば、この者に嫁がせたのに、残念である」といい、その代わりに皇帝の姓である“朱”を与えますが、成功は恐れ多いとのことで使うことはありませんでした。そしてこの時に鄭森から鄭成功に改名しています。
この逸話から、「国の姓を賜った旦那(大身)」との意味を込めて「国姓爺」と呼ばれるようになりました。


しかし、こんな栄光とは反対に成功は窮地に立たされます。
復権のために兵を挙げた隆武帝は戦に敗れ殺害され、母のマツは戦の中で自害、父は戦いの相手だった清に下ったのです。
その後も成功は戦いの日々を過ごしますが、多くの場合は多勢に無勢で敗北を喫します。そしてついに海を越えて台湾に渡り、ここを占領していたオランダ人を追い出して中国人の国を作ったのです。この頃には父は清によって処刑されていました。

台湾に拠点を置いた成功は、母の縁で日本に援軍を求めます。江戸幕府はこの申し出を受ける方向で決まりかけていたのですが、元老だった井伊直孝が豊臣秀吉の唐入りの失敗を引き合いに出して反対したのです。

このまま明の復興をみないままに、台湾の地で成功は短い生涯を終えたのです。


そんな鄭成功の物語を近松門左衛門がラストシーンを変えて浄瑠璃にした物語が『国性爺合戦』なのです。