『手塚治虫 予告編マンガ大全集』発売

 手塚作品の復刻では、先日出た『完全復刻版 新寳島』が大きな話題になったが、今度はジェネオンエンタテインメントより『手塚治虫 予告編マンガ大全集』が発売された。


 さっそく一通り読んでみたが、『完全復刻版 新寳島』とは対照的な本だと感じた。
 『新寳島』は手塚治虫の実質的デビュー単行本として多くのマンガファンに名前が知られており、現代でどの程度の人が読もうと思うかは別にして、かなり有名なタイトルだろう。だからこそ、その原本復刻は話題となった。

 それに対して、『予告編マンガ大全集』に収録されているのは漫画本編ではなく、その予告編。これは基本的に作品本編より前に描かれるものだから、実際に描かれた作品とどう違うかを比べるのが面白いのだが、それには本編を読んでいないと意味がない。
 この本は「本編からの流用でない新作画による予告編」が可能な限り収録されているので、その半分以上は、ある程度熱心な手塚ファンでないと知らないマイナー作品で占められている。だから、講談社版「手塚治虫漫画全集」収録作品を一通り読んでいるくらいでないと、この本の大半はただ予告イラストを眺めるだけになって、あまり面白くない可能性が高い。

 要するに、単体でも本として成り立っている『新寳島』と違って、この『予告編マンガ大全集』は読んで楽しむための敷居が非常に高いのだ。
 それは、価格設定についても言える。300ページ弱で本体価格6,500円は、これまで出たジェネオンの手塚復刻本と比べても、一番高額だ。あまりに企画がマニアックすぎて、このくらいの値段にしないと採算が取れないのだろう。正直言って、よくこの企画が通ったものだと感心してしまう。


 しかし、マニアックな内容であるだけに、手塚ファンにとっては必見と言える実に面白い本だと思う。
 私も、買って読むまではさすがにこの値段は高いと思っていたのだが、実際に読んで面白かったので、価格にも納得させられてしまった。

 たとえば『鉄腕アトム』が予告の時点では『鉄人アトム』だったという事は結構有名だろうし、当然それもこの本に収録されているが、『アトム』の場合キャラクターは固まっていてタイトルが変わっただけなので、他の作品と比べるとまだおとなしい方だ。
 この本を見ると、『アトム』の逆でタイトルは決まっていてもキャラクターの顔が実際の本編と違うパターンが結構多い。『ルードウィヒ・B』のベートーヴェンは顔がへしゃげていて別人に見えるし、『ミクロイドZ』(連載途中で『ミクロイドS』に改題)はヤンマ(らしきキャラ)がマスクを付けていて、よりテレビヒーローっぽい。
 また、『勇者ダン』は予告の時点では探偵物と紹介されており、全く内容が変わってしまった事が伺える。短編「ふたりでリンゲル・ロック」「低俗天使」などもそうだろう。この2編については講談社全集でも直前で内容が変わった事への言及があった。
 このように色々とある中で、特にすごかったのは『ハリケーンZ』の予告で、11ページも使って連載第一回の内容をほぼ丸々ダイジェストで紹介してしまっている。これなら、この時点で連載開始にすればよかったのに…などと思ってしまった。


 小さいカットから数ページにわたるコマ漫画まで、この本には色々な形式の予告編が収録されているが、いずれも作品発表までの試行錯誤の跡が伺えて、実に興味深い。
 前述のように、万人に薦められる内容では決してないが、「今、単行本で読める手塚作品はあらかた読んでしまった」と言うような人なら間違いなく楽しめるだろう。



 それにしても、手塚漫画の復刻も色々と出たあげくに、この本で行くところまで行ってしまった感がある。
 予告編だけではページを埋められなかったせいか、巻末には全集未収録作品がいくつか収められているが、ページ数の少ない細かな作品が多い。おそらく、内容的に問題なく再録できる未収録作品も、もうネタ切れなのだろう。

 あとは、「内容的に問題のある」ものを何とかして欲しいところだ。
 初期単行本『キングコング』『妖怪探偵團』や、ライオンブックスシリーズ新旧通して唯一の単行本未収録作品となってしまった「泥だらけの行進」などはぜひ出して欲しいが、これらはもしかすると『新寳島』よりも難しいのだろうか。
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『のび太の宇宙開拓史』原作と旧映画を振り返る

※エントリ後半で映画『ドラえもん 新 のび太の宇宙開拓史』の内容に触れています。未見の方はご注意を!!


 今日は、1981年公開の劇場版『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』を久しぶりに全編通して観返してみた。
 なお、当然ながら今回は、EDを劇場公開時と同じに直した自作の復元版を観た。これを昨年末に作って以来、通して観たのは初めてだ。映像と曲を合わせるために、EDだけは何度も繰り返して観ていたが。



 さて、改めて旧作映画を観てみると、こちらにもいい点も、悪い点もある。

 個人的に残念に感じるのは、原作で描かれていたドラとのび太のコーヤコーヤ星での日々が、4分割画面でダイジェスト的にまとめられてしまっている点だ。描かれている内容はほぼ原作通りなだけに、さらっと流したのはもったいない。せめて、タマゴ鳥の巣を作る場面と、ドラえもんがチャミーに「地球で一番うまい食べ物」ことドラ焼きをあげる場面は、じっくり描いてほしかった。
 このように、原作では中盤に描かれるコーヤコーヤでの日常場面が短くなったせいもあり、旧作映画はどちらかと言うとアクションを主体にして作られた印象がある。

 また、原作の前半部分に尺を使いすぎて、後半がやや駆け足気味の描写になっている点も、ちょっと気になるところだ。火山の噴火の後は、原作のようにコーヤコーヤの住民が逃げ出す場面があれば、さらに危機感が高まったと思う。このあたりは、今回の新作でもあまり描き込まれてはいなかったが。
 前述の日常描写の分も含めて、もう10分、いやせめて5分尺が長ければ、旧作はさらに完成度の高い作品になったのではないかと思う。


 このように、気になる部分があるとは言え、旧作映画は今観ても十分に鑑賞に耐える作品だ。
 今年の新作映画と違って決闘シーンはないのでその比較は出来ないが、そこを抜きにしても場面ごとの演出はちゃんとメリハリがついており、観ていて引き込まれる映像となっている。

 よかった場面はいくつもあるが、何と言っても一番印象に残っているのは別れのシーンだ。主題歌「心をゆらして」が流れる中で、遠ざかっていく扉の出口と、コーヤコーヤ星の人々。そして、思い出される楽しかったコーヤコーヤ星の日々…。中でも、クレムがあやとりを、のび太が雪の花を互いに見せ合う場面は特に胸にくるものがある。
 この別れのシーンは、歌が流れ始めてからはセリフが入らないが、それでかえって映像としての印象が強くなっている。作り手の伝えたい事がきちんと表現できていれば、余計なセリフなど要らないと言ういい例だと。
 先ほど、「後半が駆け足気味」と書いたが、そんな中できちんと描くべき部分は時間をとっているのだから、作り手が「何を見せたいか」を明確に打ち出して作られた作品だと言う事が分かる。

 また、見過ごしがちな部分だが、最初にドラとのび太がロップルくん達と出会って、宇宙船を修理したあとにのび太の部屋に戻る場面にも、別れの寂しさが漂っている。
 もちろん、この時点では偶然出会って、たまたま宇宙船を修理しただけの関係ではあるが、それでものび太・ロップル両者が「もうこれで二度と会う事はないだろう」と残念に思っているであろう事は伝わってくる。
 物語序盤でそのような描写があるからこそ、最後の本当の別れのシーンは、観ている側にも「今度こそ、本当にもう二度と会えないんだ」と言う寂しさが強く伝わってきて、それ故に心に残る名場面となったのだろう。


 と言うわけで、久々に全編通して観たが、あっという間の90分だった。
 やはり、楽しい時間は短く感じる。だからこそ、22世紀では「時間ナガナガ光線」のような道具が発明されたのだろう。もっとも、つらい時間や苦しい時間にこれを使われると、道具の発明意図とは逆に拷問のような状態になるのは、「のび太のなが~い家出」でママが体験した通りだが。
 この光線を浴びた上で今年の映画を観たら、どうなっていた事やら。



 しかし、旧作映画もいい作品だが、何と言っても一番はやはり原作だ。
 こちらも、三日ほど前にてんコミ版および初出に準ずるカラーコミックス版の両方を読み返した。あらためて両者を見比べながら読むと、特にてんコミ版は本当に完成された作品なのだとよくわかる。

 中でも決闘シーンはてんコミでの描き足しにより、ぐっと完成度が上がっている。
 以前にも触れた事があるが、ギラーミンがブルトレインから出てきて、決闘の決着までがカラコミでは3ページなのに対して、てんコミでは5ページになっている。これが単なる水増しではなく、追加されたコマによって決闘の緊張感がより高められている。中でも『ヴェラクルス』へのオマージュとなったギラーミンの「ニヤリ」追加は特筆すべき点だろう。
 また、決闘部分に限らず描き足しは終盤を中心に行われており、てんコミでは154ページ以降にあたる連載時の最終回部分は、カラコミ版の27ページから、てんコミでは37ページへと合計10ページも増えている。現在ではてんコミが決定版として読まれているので、これと比較する事で旧作映画の後半部分は公開当時よりも更に駆け足に感じてしまうのかもしれない。

 これだけ念入りに加筆されているだけに、今年の映画ではてんコミ版を元にした、より原作に近いクライマックスシーンを期待していたのだが、結果は前回のエントリで書いたとおり。
 今更こんな事を言ってもどうしようもないが、旧作映画はてんコミ版原作と異なる部分が結構あったのだから、新作映画は余計なオリジナル要素を入れなくても、てんコミ版原作に忠実に作るだけで十分に旧作とは違う作品になっただろう。
 もっとも、「映画ドラえ本 新・のび太の宇宙開拓史 公式ファンブック」の真保裕一氏インタビューによると「ギラーミンとの対決は、まんがで読むと面白いけど、映画にすると少し弱いのではという意見があった」そうだ。今回のスタッフは原作をこのように受け取っている人達なので、「原作通り」は望むべくもない事だったのだろう。



 それにしても、新旧通して映画ではギラーミンの扱いがよろしくない。これは実に残念だ。
 ここまでお読みの方はおわかりかもしれないが、思い入れが強いせいもあって、どうしても旧作映画に対しては、批判するにしても新作に対してよりは甘くなってしまうのだが、ギラーミンの件だけは新旧共に映画の方は不満だと言わざるを得ない。

 旧作映画では出番自体が少なくて陰が薄く、ロップルに撃たれたあとはどうなったかも描かれていない。はっきり言って、旧作映画の筋立てではギラーミンがいなくてもそれほど話に影響は無かったと思う。ロップルが対峙するわかりやすい対象として必要だったのだろうが。あと、なぜか『のび太の恐竜』の黒い男のようなマスクをしているのも格好悪くて好きではない。
 そして、新作映画でのギラーミンの改悪ぶりは前回のエントリに書いたとおり。なので、敢えて繰り返しはしない。

 あらためててんコミで原作を読むと、ギラーミンは実に魅力的な悪役だ。
 惑星爆破が目前に迫り、脱出しなければ自らの生命も危険と言う状況にも関わらず、あくまでも「腕ききのガンマン」のび太との対決にこだわって決闘を挑む様は、悪人なりの信念に基づいており、行動にブレはない。敗れた後は「お前の……勝ちだ」と素直に負けを認めるところも格好いい。

 実は、このギラーミンのキャラクターも、てんコミの描き足しにより完成されたものだ。カラコミ版でのび太に決闘を挑む際は、





こんな感じで、てんコミ版に比べると少々ガラが悪い。

 また、カラコミ版では、こんな言動もあった。





 このセリフがてんコミで変更されたのは、さすがにギラーミンが「カラスのかってだ」はないという事なのだろう。

 それはともかく、大長編ドラにおける「人間の悪役」の中では、ギラーミンはもっとも魅力的なキャラだと思う。まあ、次作の『のび太の大魔境』以降は、敵が犬人間やら魔王やらになり、しばらくは「人間の悪役」自体が登場しなくなるのだが。

 これだけ魅力的な悪役が、今回の映画ではセコい小物になってしまったのだから、本当に残念だ。
 突き詰めると、新作映画のギラーミンのキャラでは決闘をやる事自体に無理があった気もする。原作と違って、コア破壊装置のスイッチを持ち、自らが主導権を握ったままで決闘(もどき)を行うギラーミンに魅力は感じられない。
 スタッフに、「このギラーミンはどうなんだろう」と、疑問に思った人はいなかったのだろうか。原作を読んだ上でこんな改悪が出来るという事が、どうしても信じられない。



 最後は新作映画批判になってしまったが、それも、てんコミ版原作が素晴らしい故だ。原作を読み返すと、今回の映画に対しての不満がどんどん出てきてしまう。
 現在、普通に読める原作はてんコミ版のみ(文庫も内容は同じ)だが、機会があればぜひカラコミ版も読んでいただきたい。てんコミ版と比べると、描き足しで作品がよりよくなっている事が分かると思う。旧作映画に合わせて、別れのシーンで「心をゆらして」の歌詞が入っているのも描き足しであり、F先生にとってもこの演出が印象的だったのではと伺えて、興味深い。

 もっとも、私自身はカラコミ版から入って、てんコミ版を読んだのはずっと後だったので、どちらのバージョンにも愛着がある。他の初期大長編も同様だったので、『のび太の恐竜』などは描き足しが多すぎて、てんコミ版を初めて読んだ時はとまどったものだ。
 とにかく、原作と旧作映画の『のび太の宇宙開拓史』は、私にとっていつまで色あせない傑作だ。今回、それを再確認できた事はよかった。
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映画『ドラえもん 新 のび太の宇宙開拓史』感想

 近年のドラえもん映画は公開翌日に藤子ファン仲間で集まって観に行っていたが、今年は日程の都合で公開日翌週の鑑賞となった。以下に、例年通りに感想を書いておく。
 念のために文字は反転させておくが、当然本編のネタを割っているので、未見の方はご注意を

 なお、以前にも書いたように、私は数あるドラえもん映画及び原作の大長編の中で『のび太の宇宙開拓史』が一番好きであり、今回のエントリはあくまで原作及び映画旧作に強い思い入れのある人間による感想だと言う点にご留意の上で、お読みいただきたい。そこのところ、よろしくお願いします。




 前置きが長くなったが、本題の映画感想に入る。
 と言っても、何から書いたらいいのやら。上でもちょっと触れたが、昨年この映画のスタッフが発表になった時に、「監督と脚本に期待する」と書いた。それを踏まえた上で、一言で感想を書くと「見事に裏切られた」。こうとしか言いようがない。


 それほど、今回の映画は脚本も演出も酷かった。
 まず脚本についてだが、原作の流れにオリジナル要素を無理に接ぎ足したようで全体の構成が非常に不自然な上に、一回観ただけでも設定上の矛盾点がボロボロと見つかり、とても『新 魔界大冒険』と同じ人が書いたとは思えない。

 『新 魔界大冒険』は、オリジナル要素を物語の核として全体のストーリーが作られており、唐突なドラミ登場など原作で無理のある点もフォローされていた。その結果として出来上がった物語に対する好みはともかく、一つの作品としてきちんと成り立っており、さすがに『ドラえもん』に思い入れのあるプロの小説家だと思わされた。
 それが、今回はどうだったかと言えば、オリジナルの新要素だったモリーナの物語は、はっきり言って邪魔にしか感じなかった。『新魔界』は元々ゲストのメインキャラだった美夜子さんのエピソードを膨らませていたので無理は感じなかったが、今作は「のび太とロップルくんの友情」と言う作品の核がすでにあるのに、それに加えてもう一人ゲストを登場させた事で焦点がぼけて、ロップルにもモリーナにも感情移入できないまま話が進んだ印象だ。

 話を部分毎に分けて観てみると、それぞれのエピソードはかなり原作に忠実な形で描かれてはいる。逆に言えば、原作パートが原作に近いだけに、オリジナルパートが浮いてしまったのだろう。
 そして、よりによって個人的に一番観たかった「のび太対ギラーミン」の決闘が、最悪の形でオリジナル部分の影響を受けてしまった。
 表面的な映像を観れば、決闘シーンはそれなりに原作に近い形で描かれている。しかし、本来なら決闘は観客(原作なら読者)がコア破壊装置の進行による危機を忘れて見入ってしまうほどに盛り上がる、物語最大の山場だったはずなのに、今回は決闘決着の後にギラーミンが未練がましく銃を撃ったり、「コア破壊装置は止まらないぞ、ワハハ」と捨てぜりふを吐いたりと完全に小物化して決闘の価値を著しく下げた上に、オリジナルでコア破壊装置を止める展開が続き、むしろそちらが山場となっていたため、決闘は完全にストーリーの流れに埋もれてしまった。
 これは一番酷いと思った部分だが、このように原作のいいところをオリジナル展開の追加で殺してしまっており、原作を読み込んでいる(はず)の人間が、原作の面白さを理解した上で脚本を書いたとは思えない。

 また、舞台となるコーヤコーヤ星の設定が実にいい加減で説明不足であり、観ていて首を傾げたくなる部分が多かった。
 たとえば、原作通りの洪水があるのに、その直後に草の茂ったモリーナの牧場が出てきたり、市街地らしき場所まで出てきて「ここはトカイトカイ星の描写なのか?」と思わされたりと、スタッフが作品の基本設定を理解していないのではないかと疑わざるを得ない。
 開拓途中の荒野ばかりの星だから「コーヤコーヤ」なのであり、今作でもはっきり「入植して7年」と言っているのだから、きちんと整備された市街地があるのは変だし、そもそも作品世界のイメージにそぐわない。だいたい、洪水の時は市街地ごと全て地下に潜っているのか?…まだ、開拓途中で街が出来ていく描写が少しでもあれば、もう少し説得力があったのかも知れないが、今回の内容では無理がある。


 そして、オリジナル要素について。
 第三の星を登場させたのは、作品の根幹に関わる設定を破壊しており、これが決闘を差しおいてクライマックスになったのは、決闘の改悪と並んで今回もっともガッカリさせられた部分だった。
 本来、宇宙船とタタミの下がつながる事が、とんでもない偶然でめったに起こる事ではないからこそ、のび太とロップル、コーヤコーヤの人達との出会いが大きな意味を持ち、また別れのシーンは「もう、二度と会えない」ことが胸に迫ってきて、自然と感動できる場面となっていた。
 それが、今回は地球ともコーヤコーヤとも関係のない第三の未開の星への枝道が登場した事により、「その気になれば超空間はどこへでもつながっているんじゃないか」と言う感じになって、のび太とロップルの出会いの不思議さも薄められてしまった。

 さらに、オリジナルキャラのモリーナは、彼女自体「いらない子」だった。
 第一印象では「一件冷たい態度を見せながら、ロップルを見守るお姉さん的存在」なのかと思ったのだが、実際には思い込みでコーヤコーヤの大人を勝手に恨んだあげくにギラーミンにコロッと騙されて危機を招く、単なる頭の悪い女であり、全く魅力が感じられなかった。
 そんな感情移入できないキャラの父との再会を最後に持ってこられても、全く感動できない。それどころか、「あの星はどこにあるんだ」「その気になればもっと早く見つかったんじゃないか」「いくらなんでも一人で宇宙船を作るのは無理だろう」と、モリーナの父に関する設定にも突っ込みどころが多すぎて、観ていてすっかり醒めてしまった。
 とどめに、のび太の「もう一つの宇宙開拓史があったんだ」。第三者視点のナレーションならまだしも、当事者ののび太にこんな事を言わせては、最後の最後にドッチラケだ。

 あとは、コア破壊装置の無茶苦茶な処分方法(惑星の中心まで行っている装置があんなに簡単に引っこ抜けるのか、それに抜いただけで惑星の変動がおさまるのか)も、観ていて「これはないだろう」と思ってしまった部分だった。
 タイムふろしきにばかり頼っては能がないと考えたのだろうが、それに代わるだけの展開ではなかった。



 今回の設定のいい加減さや無理矢理さは、末期大山ドラ映画のそれを思い起こさせられた。どうしても、F先生のセンスを分かった上で新たな面白さを生み出すのは無理なのだろうか。

 結局、今回のオリジナル要素追加については、「蛇足」の一言で全て言い表せてしまう。
 あらためて、原作の『のび太の宇宙開拓史』がいかに完成度の高い名作であるかがよくわかった。
 しっかりと完成されたものに、何を加えてもそれは余計なものでしかなく、それどころか元の作品の価値を低めてしまう事になりかねない。



 さて、ここまでは主に脚本面での問題点を指摘したが、演出も酷かった。
 何が問題かというと、全体的に平板すぎて、映像として「ここは盛り上げよう」と言う作り手の意志が画面から全然伝わって来ず、退屈で気分が盛り上がらなかったのだ。
 これは、既に原作を知っているからと言う問題ではない。『ドラえもん』に限らず、読み込んでよく知っている漫画の映像化作品はこれまでに数限りなく観てきたが、ツボを押さえた演出であれば、話を知っていても思わず画面に見入ってしまうものだ。

 ただ「ダメだ」と言うだけではフェアでないので、実際にダメだと思った場面の一例を挙げておく。
 非常に残念な事に、一番分かりやすい「ダメ」な場面となると、またしても決闘シーンを取り上げざるを得ない。
 のび太とギラーミンの対峙、打ち合い、倒れるのび太、そして倒れるギラーミン…。これらの要素だけを観れば「ほぼ原作通り」なのだが、場面場面の切り替えに「溜め」が足りず、あまりにスピーディーに決闘が終わってしまうため、観ていて緊張感が全くないのだ。
 撃ち合いがすぐに始まってしまうので観ていて緊張する間もないし、のび太が倒れた直後にギラーミンも倒れてしまうので、「のび太がやられたのか?」とハラハラする事もない。更には、原作で非常に印象的なギラーミンの「ニヤリ」もなければ「お前の…勝ちだ」もなく、「のび太が数少ない特技で強敵を倒した」と言う一世一代の見せ場らしい盛り上がりが全然感じられない。
 漫画で読んでいてすら息詰まる決闘シーンをここまで緊張感なく描けてしまうのだから、逆の意味ですごい事だと言えるかも知れない。
 決闘シーンだけでなく、どの場面もこんな感じでメリハリに欠けており、何を盛り上げて何を見せたいのか、さっぱりわからなかった。

 もっとも、前述のようにギラーミンは決闘に負けた後も未練がましく攻撃を仕掛ける小悪党に改変されているので、キャラ的に「お前の…勝ちだ」なんて言ったらかえっておかしいだろう。
 それにしても、大長編ドラ史上一、二を争う魅力的な悪役だったギラーミンを、ここまでの小物にしてしまうとは、スタッフが何を考えているのか理解しがたい。この方が格好いいと思ったのだろうか。最後、ガルタイトの連中と一緒に逮捕されて捨てぜりふを吐く場面は、目を覆いたくなってしまった。



 今作の全体的な評価としては、ドラ映画の中でワースト2にせざるを得ない。ワースト1は言うまでもなく去年のアレだ。
 ただ、去年は大長編原作が無く短編ベースのオリジナルだった事を考慮すると、原作付き映画の中ではワースト1になる。原作が素晴らしいだけに、ここまで改悪する事が出来るスタッフの手腕には、ある意味脱帽だ。
 しかし、正直言って不思議な事ではある。腰繁男監督も脚本の真保裕一氏も力のある人だと思っていて、それ故にある程度は期待していたのだ。だから、ここまで酷い出来になるとは予想外だった。今回のスタッフには、題材が全く向いていなかったのだろうか。


 最後になるが、すっかり恒例になったゲストの芸能人・声の出演者(断じて「声優」では無い)の感想も書いておこう。
 案外まともだったのは、チュートリアルの二人。悪役らしい凄みには欠けるが、凸凹コンビのおっさんとしてはそこそこの演技だった。モリーナは、演技自体は上手いとは言えないが、キャラクター自体がやさぐれている感じだったので、イメージには合っていてそれほど気にはならなかった。
 一番酷かったのはクレム役だった。クレムが3歳児くらいの設定なら我慢できるが、あの外見であの声はきつい。「おゆうぎ会に出た子供」でしかなく、クレムのセリフが聞こえてくる度に苦痛だった。


 あと、全く批判ばかりというのも何なので、よかったところも挙げておこう。
 本編冒頭、のび太と空き地を占領した中学生とのやりとりは、テンポがよくて楽しめた。また、「カーペットは洗濯に出しました」と張り紙を画面に映して、いつもと違ってタタミになっている事をわざわざ言い訳しているのはちょっと笑った。
 と、評価できるのが最初の方しかない。実に残念だ。思えば『緑の巨人伝』も最初の30分くらい、生活シーンはそれなりによかったなあ。



 繰り返しになるが、私は原作&旧映画への思い入れが非常に強いので、そのせいで余計に今回の映画については辛口になっていると思う。
 最初は、淡々と感想を書こうと思ったのだが、書いているうちに「あの名作をこんな事にしてしまうなんて」とだんだんと怒りがみなぎってきて、抑えられなくなってしまった。一応、アップロード前に見直して、あまりにも過激な箇所は削ったつもりだが、それでもまだきつい部分は残っているだろう。
 F先生の描かれた大長編ドラおよびそれを元にした映画のうち、初期は特に私にとって思い入れの強い作品が多いが、そんな中でも『宇宙開拓史』は別格なので、どうしても感情的になってしまう。

 もし、映画未見でここを読んでいる方がいらっしゃったら、「どうかご自分の目で判断してください」と言いたい。悪い方向での先入観を植え付けられただろうから難しいかも知れないが、私が気付かなかった面白さ、魅力があるのかもしれないから、そういったところは、ぜひ教えていただきたい。

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『藤子・F・不二雄大全集』への期待と不安

 『藤子・F・不二雄大全集』刊行決定の報から二日が経った。
 個人ブログや掲示板を廻ってみると、基本的にみな全集の刊行を喜んではいるものの、不安な点として「セリフの書きかえ」がどうなるかを挙げている人が多いように見受けられた。
 また、「全集」らしくF先生の作品全体を把握した編集が出来るかどうかも不安点として挙げられている。


 これらの点は、実のところ私も気になっている。
 と言うのも、2000年から2001年にかけて刊行された『藤子・F・不二雄 SF短編PERFECT版』が、まさにそれらの問題のために残念な内容となっていたからだ。

 『PERFECT版』以前に単行本化されていた短編については、1996年あたりの版をチェックしないと、F先生の生前にどこまで改変されていたのかはっきりしないが、少なくとも単行本初収録の「ボノム -底抜けさん-」は間違いなくF先生の意向と関係なくセリフが改変されている(パン助→街娼)。
 また、初出情報は「絶滅の島」リライト版の発表時期を10年間違えて、本来「最後の短編」であるはずの「異人アンドロ氏」よりもあとに配置するという情けないミスがある。
 他にも、左開きの「絶滅の島」スターログ版を他の作品と同じく右開き仕様で収録したために読みづらくなるなど、この本は杜撰な作りが目立ち、「パーフェクト」を謳っているのに非常に不完全な本だった。


 このような前科があるため、今回の全集に対しても、一抹の不安は拭えない。
 もちろん、第一報の段階で心配ばかりしていても仕方がないのだが、せっかく「大全集」と銘打って出版するのだから、ベストとは行かないまでも、よりよいものを出して欲しい。



 セリフの改変については、F先生の生前にすでに行われていたものは「著者の意向」を汲み生前の最終版を定本として、未単行本化作品は基本的に改変無しで収録するのがいいのではないか。

 少し前に完結した『石ノ森章太郎萬画大全集』では、『サイボーグ009』のように何度も単行本化された作品は改変後のセリフになっているが、埋もれていたマイナー作品はセリフ改訂が手つかずだった為に、現在では「差別用語」とされるセリフもそのまま収録されているそうだ。
 また、『手塚治虫漫画全集』の場合、第300巻までは手塚先生の生前に刊行された為に、かなり多くのセリフ改変が行われている。もっとも、手塚全集の場合、セリフがどうこうという以前に内容に手を入れて全集刊行時に「最新版」とされてしまった作品が多いのだが。改訂版『新宝島』は、その一番極端な例だろう。
 手塚全集は刊行開始からすでに30年以上経っているため、初版と現在の版でセリフが異なっている場合もある。全集以降に再度別レーベルで単行本化されて、その時にセリフが変わった作品があるためだ。

 いずれにせよ、著者が故人の場合は、著者自身の手による最終改訂版を決定版とするのが妥当だと思う。下手に初出に合わせると、『ドラえもん』のように設定変更のある作品の場合は、かえっておかしくなるし、何度かセリフが変わっている場合、比較してどれがいいかを第三者が決める事は出来ないだろう。
 前述の「ボノム -底抜けさん-」を含め、F先生の没後に出た単行本で、明らかにセリフを第三者が変えているものがいくつか見受けられるが、これに関しては「大全集」では元に戻して欲しい。『ウメ星デンカ』で「ムシキング」なんて単語が出てきては、興ざめだ。差別問題と関係なく時代に合わせた改変であっても、F先生のセンスを第三者が真似する事は出来ないのだから、下手にいじって欲しくはない。



 このように、セリフ問題一つ取っても、「全集」を出すのは実に大変な事なのだと思わされる。
 一読者の私ですら、ここで書いた程度の事は考えるのだから、実際に全集の編集に携わるスタッフの方々は、もっと苦労される事だろう。

 今回の『藤子・F・不二雄大全集』は、公式サイトや「映画ドラえ本」の記事を見る限り、並々ならぬ小学館と藤子プロの「本気」が伝わってくるので、本当に期待している。
 内容に不満のある『藤子・F・不二雄 SF短編PERFECT版』ですら、文句を言いつつ全巻揃えてしまったが、今回の全集は文句の付けようもなく、毎月素直に刊行を楽しみに出来る内容であって欲しい。スタッフの皆さん、頑張って下さい。
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『藤子・F・不二雄大全集』7月より刊行!!

『藤子・F・不二雄大全集』公式サイト


 嬉しい事であっても、あまりに予想外だと、とっさにはどう反応していいか分からなくなってしまう。今回の『藤子・F・不二雄大全集』刊行決定の発表は、まさにそれだ。

 F先生の没後に出た単行本と言えば、『ドラえもん プラス』や一連のぴっかぴかコミックスなど、これまでの単行本を補完するような内容がほとんどだったので、小学館と藤子プロが「全集」を出す決断をするとは、正直言って今までほとんど期待していなかった。
 昨年出た『T・Pぼん スペシャル版』の時も、全35話中の33話収録と言う中途半端な内容だったが、「今の状況ではこれが限界なのだろうな」と、3話の単行本初収録を喜びつつ、その一方でさめた気持ちもあった。


 そんなところに、いきなりのこの発表だ。
 公式サイトを見ると、「藤子・F・不二雄先生の生み出された漫画作品完全網羅を目指し」と、非常に頼もしい事が書いてあるし、第1期の予定には『オバケのQ太郎』『海の王子』も挙げられている。ほぼ全編合作扱いの『海の王子』が出るのだから、『オバQ』も旧作を収録するのだろう。長い間待ち望んだ「新」の付かない『オバQ』の単行本が、とうとう復活する。
 これは、本気で「夢たしかめ機」を使いたくなるくらいに信じられない気分だ。関係者の皆様、よくぞ決断してくれました。



 内容的には、これまでほとんど単行本されていなかったデビュー直後~昭和30年代初期作品が楽しみだ。
 『すすめろぼけっと』『てぶくろてっちゃん』など、ファンの間でタイトルは知られていても、一度も単行本化されておらず、かつ初出誌にあたるのも難しいために埋もれている作品は多い。
 また、『海の王子』や『オバQ』が出せるのなら、当然それ以外の合作作品の刊行も可能だろう。『仙べえ』や『チンタラ神ちゃん』、『ジロキチ』『名犬タンタン』などなど、挙げていくときりがない。

 第1期ラインナップには既に何度も単行本が出ている作品が多いが、そのようなタイトルでも今回は「全集」だからこそ出来るであろう編集の工夫に期待したい。
 具体的に言えば、F作品に多い「学年誌複数同時連載作品」については、雑誌別の収録にして連載時の話の流れを追えるようにして欲しい。雑誌ごとの解説も付けば、なおわかりやすくていいだろう。と言っても、FFランドの「○○百科」のような形では安っぽいので、解説ならもっと本格的なものを希望するが。


 また、判型がA5というのも嬉しい。藤子不二雄ランドは言うに及ばず、手塚全集や石ノ森全集もB6判だが、どうせなら漫画は大きいサイズで読んだ方が迫力がある。本文が300~600ページほどなら、バランス的にもA5判の方が適しているだろう。

 その他にも、装丁・編集方針・作品解説の有無など、気になる点はたくさんあるが、それは追々発表されていくのだろう。
 価格も気になるところだが、このさい多少割高になってもいいから、本当に「全集」と言える完璧に近い内容を目指していただきたい。ある程度高くても、月2~3冊なら何とか買えるだろう。石ノ森全集のようなセット販売のみになってしまうと困るが。



 全集についての期待を書いているときりがないので、今回はここまでにしておく。
 まずは全集を迎える準備として、7月までに本棚に空きを作っておかなければ。すでに本棚からあふれて積んでいる本も多いが、さすがに『藤子・F・不二雄全集』をそんな扱いで置いておくわけにはいかない。
 刊行開始まで4ヶ月、続報を楽しみに待つとしよう。
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『完全復刻版 新寶島』ついに発売

 楽しみにしていた『完全復刻版 新寶島』が、本日届いた。
 通常版にするか限定版にするかをギリギリまで悩んだが、特典内容について調べているうちに『オヤヂの宝島』が読みたくなったので、結局限定版に決めた。







 これが限定版の外箱。豪華な感じでなかなかいいが、このまま本棚に並べるわけにもいかないのは、ちょっと困ったところか。







 こちらは箱の中身。
 『新寶島』復刻版本体および、『オヤヂの宝島』『タカラジマ』『新寶島読本』、そして複製原画3枚が入っている。まずは、復刻版本体を手にとってみた。




「英語で書いてあるぞ!! カッコイイ!」



 藤子ファンなら、このアングルでの写真は欠かせない。
 今回の復刻版が出た事で、手軽に『まんが道』ごっこが出来るようになった。いつか、高岡の古城公園へ行って、満賀・才野と『新宝島』(あえてこの字で表記)との出会いの場面を再現してみたいものだ。もちろん、満賀・才野だけでなく、激河大介役の人も忘れずに。そうなると、最低三人は必要だな。

 そして、本を開いてみた。折り込み口絵に総扉、目次、登場人物紹介と続き、いよいよ本編。







 章題「冒険の海え」。「へ」じゃなくて「え」?

 『まんが道』では「冒険の海へ」だったし、以前に出版された『手塚治虫の『新宝島』その伝説と真実』での部分的再録も確かめたが、やはり「冒険の海へ」になっている。
 どういう事かと不思議に思ってしまったが、『手塚治虫の『新宝島』その伝説と真実』をよく読むと、図版は昭和22年7月の版より引用したと書いてある。一方、今回の復刻版は初版本(昭和22年1月刊行)を元にしている。
 要するに、初版本は仮名遣いが一部違っていたのだろう。本編のセリフでも「それは名案ぢゃ」「ここえ枯草をおいて」など、いくつか散見される。初版ならではと言う事で、興味深い。



 さて、本編を一通り読んだが、さすがに今となっては筋立ては単純だし、話にご都合主義的なところが多いのも気になる。
 講談社「手塚治虫漫画全集」で刊行された改訂版『新宝島』では最後に夢落ちが付け足されて、全体の構成も変えられているが、これを原本と読み比べてみると、全集版の「いまどきそんな宝さがしは夢みたいな話じゃよ」「天井の電灯をいつのまにランプにかえたんですか」などのセリフは、原本での時代を無視した筋立てに対して突っ込みを入れているように思えてしまう。

 全集の「改訂版刊行のいきさつ」によると、原本は250ページ描かれた原稿を出版社の都合で190ページに縮められたそうだが、その元の原稿を見たくなってしまった。おそらく、こちらには時代錯誤な展開に対するフォローもあったのだろう。
 また、原本での異様におっさん臭いバロン(ターザン)の顔は酒井七馬氏が描き変えたそうだが、これも全集版の顔になじんでしまっているせいで、読んでいてやけに気になってしまった。常に笑顔を絶やさないのも、なんだか怖い。



 と、色々と気になった部分はあったが、それはそれとして、今回この復刻版が出たのはやはり快挙だ。何しろ、手塚プロが認めた公式な商業出版物としては、初めての復刻なのだ。
 これまでは、「ジュンマンガ」が比較的入手容易な復刻本だったが、これはトレス復刻の上にサイズが小さく、それでいて古書価は3,000円ほどは付いており、少なくとも個人的には不満のある本だった。それが、2,000円で原本の初版にかなり忠実な復刻本が手に入るようになったのだから素晴らしい。

 思い返せば、私が初めて全集版を読んだ時は、改訂版だと知らずに本を開いてオリジナルでない事にがっかりした覚えがある。
 『まんが道』の「あすなろ編」を読んで「『新宝島』とはそんなにすごい漫画なのか!」との印象があっただけに、作中の満賀・才野、すなわち少年時代の藤子両先生と同じ『新宝島』を読む事が出来なかったのが残念だったのだ。
 だから、今回の復刻でオリジナルを読む事ができて本当に嬉しいし、1984年当時の手塚先生が原本通りの復刻を拒んだ事も納得できた。いや、これは納得せざるを得ないと言った方が正しいかもしれない。
 手塚作品では単行本での描き直し・描き換えは「当たり前の事」であり、『新宝島』を全集に入れるにあたって本来の構想通りに直すのは、手塚先生にとってごく当然の行為だったのだろう。実際、『ロストワールド』や『地底国の怪人』など他の初期単行本も、後になって雑誌連載の形でリメイクが行われている。
 ただ、『新寶島』だけは「手塚治虫」単独の作品ではなく、その点で他の初期作品とは事情が違い、これまでその扱いも異なってきたのだろう。だからこそ、今回の復刻は意義が大きい。



 この後は、『オヤヂの宝島』を読むとしよう。
 こちらはせいぜい小冊子程度の本かと思っていたら、立派な製本で300ページもあったので驚いた。これはなかなか読みでがありそうだ。
 逆に、もう一つの限定版特典『タカラジマ』は幼児向けのペラペラな本で、さすがに他愛のない内容だ。まあ、こんな機会でもないと復刻の企画も出しにくいだろうから、オマケとしてはOKだ。
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