「映画ドラえもん のび太の 地球交響楽(シンフォニー)」感想

 3月2日、名古屋のミッドランドスクエアシネマで藤子不二雄ファンが集まって、例年通りドラえもん映画鑑賞会を行った。
 今年の映画、「のび太の地球交響楽」についても、感想を書いておきたい。なお、例によって内容におもいっきり触れるので、未見の方はとくにご注意を




 今回の映画だが、監督が今井一暁氏と言うことで身構えていた。なにしろ、今井氏の監督した「のび太の宝島」「のび太の新恐竜」の2作が、ことごとく私には合わなかったからだ。
 しかし、ネガティブな予想に反して、今回の映画はかなり楽しめた。作品傾向はまるで異なるが、過去の作品で言えば「のび太のひみつ道具博物館」と同じくらいには楽しめたと言っていい。
 今井監督の過去2作は脚本が川村元気氏によるものだったが、今回は今井監督の脚本原案を元に内海照子氏が脚本を書いている(他に「脚本協力」として佐藤大氏もクレジット)。と、なると今井監督の過去2作が私に合わなかったのは、川村脚本によるところが大だったのではないか。

 今回の映画は「音楽」をテーマにしており、作中で何度も音楽=ファーレの演奏シーンが流れる点が、ドラえもん映画としては異色だ。
 ファーレの演奏にかなり尺を割いているので、その分ストーリー自体はシンプルだ。要するに、謎の宇宙生命体・ノイズが地球を襲うので、ファーレで撃退すると言うだけなのだから。音楽で敵を撃退するという点では、ちょっと「マクロス」シリーズを想起させられた。
 今回の物語の鍵となるひみつ道具は、「あらかじめ日記」と「時空間チェンジャー」の二つ。後者は、原作短編にある「時空間とりかえ機」に機能が似てはいるが、微妙に異なるアニメオリジナル道具だ。このうち、「あらかじめ日記」が話の発端になるらしいことは予告編でも明かされていたが、予告を観た限りでは、地球から音楽が一切合切消え去ってしまうのかと思っていた。実際の映画では、ごく一時的に音楽が演奏できなくなるだけだったので、「これがどう危機につながるのだろう?」と思ってしまったが、そこでノイズが「一瞬でもファーレの消えた星には襲いかかる」という性質にされていたのは、伏線の張り方としてはなかなか巧みだった。
 伏線と言えば、クライマックスにおける「時空間チェンジャー」の使い方も、はっきり言って無茶ではあるがなかなか面白かった。「あらかじめ日記」の「みんなでおふろに入った」と絡めての展開だったので、二つの道具を重ねて使うことで無茶さを何とか消そうという狙いだったのだろう。
 ひみつ道具は前述の二つ以外にもたくさん出てきたが、「音楽イモ」や「ネムケスイトール」「かべがみハウス」など、特に説明もなく使われていた道具が複数あって、制作者の「ドラえもんのこの道具ならもうみんな知っているよね」というメッセージが聞こえるかのようだった。実際、音楽イモなんて出たのも一瞬で、油断していると見落としそうではあった。

 今回のゲストキャラを演じるキャスト陣は、普段は声優をやっていない人が多く配役されていたのでどうなるか不安だったのだが、特に演技に問題はなかったと思う。歌姫ミーナ(声:芳根京子)に、マエストロヴァントー(声:吉川晃司)やワークナー(声:石丸幹二)の演技も悪くなかった。しかし、歌姫ミーナは大々的に宣伝されていた割には出番は多くなかったな。
 驚いたのはミッカ(声:平野莉亜菜)の演技で、キャラの年齢相応と言えばそうなのだが、なかなかよかった。うそ泣きの場面などの演技も巧みだったし、ファーレを奏でる歌声もきれいだった。
 声優と言えば、今井監督は悠木碧さんが好きなんだなとあらためて思った。「のび太の宝島」のクイズ、「のび太の新恐竜」のたまご探検隊に続いて、今回も起用するとは。前2作が動物系の役だったのに対して、今回は音楽の先生役でようやく普通の人間女性だ。ただし、犬(らしき生物)のパロパロも演じていたが。

 そして、作品で重要な位置を占める「音楽」についても触れておこう。
 ノイズを撃退するために演奏する曲が、チャペックの作った「地球交響楽(シンフォニー)」と言うことで、タイトルをきれいに回収していたのには唸らされた。しかも、時空間チェンジャーが作動した後のクライマックスでは、「夢をかなえてドラえもん」の冒頭のメロディーまで織り込まれていたのには感動させられた。個人的に、こういった音楽の演出には弱いのだ。「夢をかなえてドラえもん」は、最近のテレビアニメではキャラクターソング・バージョンが時々流れる程度だが、映画を観に来た子供たちが「あっ、この曲は」と思ったのなら、この歌を好きな者としては嬉しい。

 前作の「のび太と空の理想郷」では、話に突っ込みどころがいくつかあると挙げたが、今回はそういうところがほとんどなかったので、素直に音楽やストーリーを楽しむことができた。あえて言うなら、ミーナがやけに物わかりがよかったくらいか。
 「のび太の努力と成長」についても、無理のない範囲で描かれていたと思う。ファーレの殿堂完全復活のために足りない一音が「のび太の『の』の音」と言うことで、「ありのままでもいいんだ」となる展開は、前作「空の理想郷」から引き継いでいる要素なのかもしれない。
 前作からの要素と言えば、しずかの演奏する楽器の一つとして「マリンバ」が出てきたのは、ちょっと嬉しかった。マリンバ、いいキャラだったな。

 とにかく、音楽シーンが楽しくて、115分という長い上映時間もさほど気にはならなかった。
 ただ、来年行われるであろうテレビ放映に際しては、相当な部分がカットされるのだろうが。その意味でも、映画館で観た方がいい作品だと思う。音響のいい劇場なら、なおさらだ。
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「のび太のハチャメチャ入学式」に思うこと

 わさドラに、「のび太のハチャメチャ入学式」というアニメオリジナルエピソードがある。
 ジャイアンの言葉として有名な、「おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの」(原作の初出エピソードは、てんコミ33巻「横取りジャイアンをこらしめよう」)には実は隠された秘話があったのだという設定を後付けした話であり、それゆえに一部で語り継がれている。
 ただ、原作者の藤子・F・不二雄先生が関与しないアニメオリジナルのエピソードであったことから、「勝手にアニメスタッフが後付けした」と原作ファンからは不評を買っている面もある。

 個人的には、大山ドラとわさドラを合わせて数千話にもなるアニメ『ドラえもん』で、1本くらいこう言う話があってもいいとは思うのだが、アニメスタッフが下手を打ったなと思うのは、ネタとして使った発言が有名すぎたことだと思う。
 いわゆる「ジャイアニズム」の象徴とも言える発言だけに、アニメオリジナルとは言え扱いはもうちょっと慎重であるべきだったと思うのだ。これが、もっとマイナーな発言、たとえば「おれが悪いことすると、おこるんだ」(てんコミ33巻から適当に拾った)とかだったら、別に原作ファンも特になんとも思わなかったのではないか。

 今回、この記事を書くにあたって、本放送当時の自分の反応はどうだったのかと思ってX(旧ツイッター)のログをさかのぼってみたのだが、放送当日、私はなんの発言もしていなかった。どうやら、それほど重要なエピソードとは思わなかったらしい。
 それに、この話の当初の放送予定日は2011年3月11日、つまり東北の大震災が起こった当日であり、そのため当然ながら報道特別番組で『ドラえもん』は休止になり、同年3月25日に振り替え放送されたのだ。
 つまり、まだまだ地震の影響が大きく残る時期であり、たとえ直接の被災者でなくても、まだまだ余裕のない頃だった。ちなみに、前週3月18日の『ドラえもん』はスポンサーなしで放送されており、その一週間後にあたるこの回もまだスポンサーが完全に戻っておらず、ACで時間が穴埋めされていた。
 そんな時期だったからか、本放送時はあまり話題にはならなかったような気がする。このエピソードは長尺の中編であるためこれまでは再放送もなく、本放送かレンタルDVDでなければ観られないので、後になってDVDで観た人が注目したのかもしれない。

 繰り返しになるが、私としてはこのエピソードの存在を否定することはしたくない。
 先ほども書いたが、何千話もある中のたった1話なのだ。それこそ、原作付きでもたまに感動路線のエピソードはあるので、アニメオリジナルでそれをやってはいけないと言うことはない。
 ただ、やっぱりネタに使う言葉の選定で下手を打った感は否めず、どうにももやもやした気持ちであるのも正直なところだ。それに、この話を観て「おまえのものは~」の由来が原作からこうなのだと思われてしまうのも、ちょっと違う気はする。

 しかし、アニメの楽しみ方は人それぞれだ。原作がこう、オリジナルがこうと知って楽しむ人もいれば、そうでなくアニメだけを観て楽しむ人もいるだろう。自分も『ドラえもん』という作品を離れれば、後者の立場になることはある。だからこそ、それを否定したくはない。
 結局、この記事で言いたかったのはなんだったのだろう。とりあえず、原作『ドラえもん』がもっともっと多くの人に広まればいいなあ(無難な感じに締めた)。
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「映画ドラえもん のび太と 空の理想郷(ユートピア)」感想

 今年は延期することなく、予定通りにドラえもん映画が公開された。
 いつものごとく、名古屋の藤子ファン仲間と昨日観てきたので、感想をここに書いておく。例によっておもいっきり内容に触れているので、その点はご注意いただきたい。



 今回の映画の感想をまとめると、「いいことを言ってはいるのだが、つっこみどころも多い」といった感じだ。
 「みんな違って、みんないい」と言うのは、それは素晴らしい考え方なのだが、そっちに極端に寄りすぎてもちょっと怖いよね、と思ってしまった。もちろん、画一的な人間が生産されるのは非常におそるべきことで、そこの怖さは描けていたとは思う。
 最後にいつもの街に戻ったのび太が、街のことを「素晴らしいんだ!」と言う場面なども含めて、どっちにしても考え方が極端なので、ちょっと宗教が入っているように見えてしまうが、これは狙ってやったんだろうか。

 と、最初に全体的に感じたことを書いてしまったので、あとは順を追ってみておこう。
 今回最初に思ったのは、伏線の張り方が露骨だなあと言うこと。天気雨はいかにも何かありそうだし、「四次元ゴミ袋」はぜったいにキーになる道具なんだろうなと思ったらやはりそうだし、少々わかりやすすぎるきらいはある。
 「四次元ゴミ袋」にパラダピアをまるごと入れてしまうという展開は、以前の映画「ひみつ道具博物館」のクライマックスにも似ているが、今回は「入れられる量には制限がある」として結局は犠牲を伴う展開となった点が異なる。別に四次元ゴミ袋に入れてしまっておしまい、でも話としては成立するところだが、あえて泣かせを入れたかったんだろうなあ。

 メインのゲストキャラクター・ソーニャは感じのいい奴だったが、三賢人とレイ博士の関係など、どこまでわかってやっていたのかがちょっとわかりにくかった。「三賢人に修理してもらった」と言っていたからレイ博士の存在は知らないのかと思いきや、レイ博士が出てきたら、特に驚かずに「もうやめましょう」とか説得しているし。
 三賢人はレイ博士の操るロボットだったのだろうが、これもちょっと描写がわかりにくかった気はする。最後の崩壊の時には完全放置されてしまっていて、ちょっと可哀想ではあった。

 今回のゲストキャラでいちばんの「当たり」は、マリンバだろう。
 賞金稼ぎとしてプロに徹する姿は格好良かったし、半分虫のようになった姿も可愛らしかった。ただ、ハンナとの関係性はちょっと疑問が残る。ハンナはパラダピアに連れてこられて心を操られかけていたのに、どうやってそれが解けたのか、そして、バリアがあるために外と通信できないはずのパラダピアからどうやってマリンバに依頼をしたのかなど、全く不明だ。尺の都合でカットしたのだろうか。

 そして、黒幕だったレイ博士。中尾隆聖さんの演技がよかった。狂気的な科学者と言うから、最初は魔土災炎が登場するのかと思ってしまったが。
 しかし、のび太は昔の自分によく似ていると言っていたが、レイ博士は科学の才能があったのだから、のび太とは違う気はした。三賢人がしゃべるときは、いちいちレイ博士が声をあてていたのかと思うと、ちょっと笑える。

 個人的に、どうしても気になってしまったのは、ジャイアン・スネ夫・しずかの洗脳が解ける場面で、のび太の説得だけで正気にもどってしまうのは、どうも弱い。あそこは、ちゃんと理屈に則った展開でロジカルに見せて欲しかった。感想会である方が言っていたが、それこそ「ジャイアンの歌で正気にもどる」でもいいのだ。「STAND BY ME ドラえもん2」の入れかえロープの場面でも思ったが、根性で何とかしてしまうのは藤子・F・不二雄作品らしくないと思う。

 クライマックスはソーニャが四次元ゴミ袋を一人で抱えて爆死してしまったが、なんだか白黒アニメ版『鉄腕アトム』の最終回を連想してしまった。一人で犠牲になる当たりが似ていると言えなくもない。
 そして、最後に落ちてきたメインメモリ。あれはやはり「バギーちゃんのかけら」を意識しているのだろうか。だとしても、新たな体を作ってしまう点は全く異なる。メインメモリだからこそとは言えるのだが、やはり重要キャラが死んだままというのも後味が悪いから、これでいいのかな。

 芸能人ゲストの声の演技についても触れておこう。永瀬廉のソーニャは、まあまあちゃんと演じてはいたが、何度か「ドラえもん」が「ノラえもん」と聞こえてしまうのが気になった。スネ夫じゃないんだから、ノラえもんはないだろう。
 山里亮太の配達ロボットは非常に上手くて、専業声優と遜色ない演技だった。本来、わざわざ専業でない人を配するならば、皆このくらいのレベルであるべきだろう。
 先生役の藤本美貴は、まあこんなものか。元々、感情があまりないパラダピア住人だから、違和感はなかった。

 と、ここまでいろいろと突っ込んできたが、全体としては楽しく観ることができた。楽しかったからこそ、余計に上で挙げた点が気になったというのはあるが。
 このレベルならば、ドラえもん映画としては合格点だと思う(何を偉そうな)。

 おまけ映像を見る限りでは、来年に映画もオリジナルストーリーになりそうな予感。監督は、今井一暁氏か。今井監督の過去作はちょっと合わなかったので不安ではあるが、おまけ映像で見せたように音楽を扱うのならば、今までにない作品が観られるのかもしれない。その点は、楽しみだ。
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『映画ドラえもん のび太の 宇宙小戦争 2021』感想

 昨日、『映画ドラえもん のび太の 宇宙小戦争 2021』が公開された。
 タイトルに「2021」と付いていることからもわかるように、本来ならば昨年のこの時期に公開されているはずだった。一年の延期となったのは、ファンの立場からすると厳しい措置ではあったが、ようやく無事に公開日を迎えることができて、まずはめでたい。もし、オミクロンのせいで再延期となったらどうしようと思っていた。

 例年通りであれば、名古屋でファンが集まっての映画鑑賞会となるところだったが、まだまだコロナの流行が収まっていないため、今回も一人での鑑賞となった。ここに、感想を書いておく。
 いつも通りに、ここから先は映画の内容に触れてネタを割っている箇所があるため、未見の方はご注意いただきたい。



 さて、今回の映画がよかったか悪かったかと聞かれれば、「かなりよかった」と答えたい。
 公開前に漏れ聞こえてくる情報からは、かなりストーリーをアレンジしているであろう事が推測できて、事実その通りだったのだが、アレンジはしていても芯は外しておらず、一本の映画として納得できる作りになっていた。
 今回の映画のアレンジについて考えると、「未来の国からはるばると」でセワシが「たとえば、きみが大阪へ行くとする。いろんなのり物や道すじがある。だけど、どれを選んでも、方角さえ正しければ大阪へつけるんだ。」と言っていたのを連想する。
 まさに「いろんな道すじ」のうち、今回はオリジナルとは少し異なる物が選ばれたと言っていいだろう。

 導入からして原作とは異なっていて、最初から出木杉が映画制作に加わっており、さらにドラえもんまで手を貸すという展開になる。
 この「映画をみんなで作る」描写は、ラストシーンの出木杉の「どうやって撮ったの?」にもつながってくるわけだが、バギーにみんなが乗っての撮影シーンを入れるなど、小さくなった事によるワクワク感・楽しさをより表現していた。こんなに楽しいなら、自分も小さくなってみたいと観客に思わせることには成功していたと思う。

 本筋に入ってからも、原作とは異なる展開が目白押しだ。
 中でも、いちばん大きな相違点は「しずかを助ける時にパピが連れて行かれない」ところだろう。これによって、ドラえもんたちがピリカ星に行く目的として、スモールライトの奪還がクローズアップされることになった。
 結果として、この改変により、パピというキャラクターをより掘り下げて描くことができたのではないか。原作と旧映画では、後半は捕まっていてあまりセリフもなかったパピだが、ドラえもんたちと同行するようにしたために、のび太やスネ夫とのやりとりをはじめとして、より人間的な面が描かれていた。

 そして、今作のオリジナルキャラクターであるピイナの存在についても触れておきたい。
 パピの姉で大統領補佐官という役回りのキャラクターだったが、パピがピリカ星に戻る動機付けだった。普段は大統領として大人びた言動をするパピが、素に戻ることができる相手であり、やはりパピの人間性を掘り下げて描くために作られたキャラと言っていいだろう。
 これまで、リメイクのわさドラ映画では何人かの映画オリジナルキャラクターが登場していたが、今回のピイナは好感を持てた。ピイナの存在のみによって話が変わってしまうのなら気になっただろうが、そもそも原作からかなり改変されているので、それほど気にならないと言うこともあったのだろう。

 終盤では、スモールライトを奪還するための潜入に石ころ帽子を使う展開があったが、これでのび太のみが捕縛から逃れて単独行動を取ることになった。やはり、タイトルに「のび太の」と付いているからには、のび太の見せ場もあった方がいいという判断だったのかもしれない。
 石ころ帽子は原作にない、付け足された道具であったが、逆にチータローションは原作に登場するにもかかわらず、今回の映画では存在をカットされてしまった。チータローションのファンは大ショックだろう。カットしたことで、自由同盟のアジトへの道のりはテンポがよくなった感はあるが。
 最後にギルモア将軍を市民たちが追い詰めるという展開は、原作とも旧映画とも共通する点であり、大統領だけでなく民衆がたちあがっての平和の獲得という物語の着地点はしっかりしていた。違う道すじでもちゃんとゴールにたどり着けたというわけだ。
 パピの演説が法廷でのものから、ギルモアの戴冠式に変えられていたが、全星にテレビ中継されたことで民衆が立ち上がるきっかけとなっていたのは、なかなか上手い改変だった。

 今回の映画、もちろん原作や旧映画へのリスペクトはあるのだと思うが、特に旧映画に対しては過剰には意識しておらず、あくまで今作は今作として割り切って作られている感じだったのも、好感を持てたところだ。
 たとえば、旧作では自由同盟のアジトで挿入歌として「少年期」が流れるシーンが非常に印象的であったが、今作でも挿入歌が流れるシーンはあったものの別の場面であり、それにふさわしい演出がなされていたと思う。これはこれで、なかなか印象的なシーンとなった。
 その一方で、原作や旧映画で特に人気の高いと思われる、しずかの牛乳風呂についてはカットせずちゃんと描いているあたり、スタッフのこだわりを感じた。
 全体として、原作の精神を生かしつつ、それを再構築してあらたな「宇宙小戦争」が作られていたと思う。

 今回のゲスト声優についても触れておこう。
 パピ、ドラコルルやゲンブさん、ロコロコあたりは全く問題なく、なかなかのはまり役だった。普段から声優をメインに活動している人たちだから、当然と言えば当然か。
 ギルモア将軍役の香川照之やピイナ役の松岡茉優の演技も、なかなかよかった。ミルクボーイの二人については、さすがにちょっと苦しいところもあったように思う。ただ、聴くに堪えないほどではなかったのは救いか。

 エンディング主題歌の「Universe」は、テレビアニメ版のエンディングとしてもう一年以上も使われているのですっかりおなじみの曲だが、ようやく本来の姿で聴くことができたなという感じだ。映像面で言えばエンディング映像のほとんどは本編の抜粋なのだが、曲の最後に映画のタイトルがドンドンドンと出るところはなかなかいい感じだった。
 挿入歌の「ココロありがとう」も、なかなかいい曲。すでにCDは出ていたが、あえて聴かずに映画本編で初めて聴くようにした。どうでもいいが、心を「ココロ」とカタカナにすると、なんだか喪黒福造チックではある。

 来年の映画は…なんなんだろう。飛行船が出ているから「のび太の創世日記」ではないかという指摘も目にしたが、さすがにあれだけでは決めつけられないように思う。二年続けてリメイク物とも考えにくいし、何か全くのオリジナル企画であるような気がしてならない。
 ともかく、今作は一年間余計に待っただけの甲斐はあった。もしかしたら、原作に忠実なリメイクを望んでいた人には不評かもしれないが。私にとっては面白い、いい作品だった。
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「STAND BY ME ドラえもん 2」感想

 先日、映画「STAND BY ME ドラえもん 2」が、公開された。
 今年公開されたドラえもん映画としては、8月の「のび太の新恐竜」に続いての2作目だ。さっそく観てきたので、感想を書いておく。例によって、結末を含めて映画の内容に思いっきり触れているので、未見の方はご注意いただきたい。


 さて、本作の感想を一言で言うと、「思ったよりよかった」。
 いや、本当にこうとしか言いようがないのだ。前作「STAND BY ME ドラえもん」は、個人的にはかなり低評価を付けざるを得ない作品だった。短編ドラえもんの、いわゆる「感動作」と呼ばれるエピソードを、映画オリジナル要素の「成し遂げプログラム」で無理につなげて一本の映画にした作品という印象があった。キャッチコピーに使われた「ドラ泣き」も、なんだか押しつけがましくて、好きにはなれなかった。
 だから、その続編である本作も、正直言ってあまり期待していなかった。キャッチコピーも、やはり「ドラ泣き、再び。」だし、一作目と同じ路線の作品なら私にとってはダメなんだろうなと思っていたのだ。

 しかし、実際に観てみると、予想はいい意味で裏切られた。
 本作も、確かにドラえもんの「感動作」短編を元にした映画ではあるが、前作のように「無理に話をつなげた」感じはなく、オリジナル要素が一本芯の通った形になっていて、短編を元にしつつ新しい話を作り上げることに成功しているのだ。
 そのオリジナル要素とは、ズバリ「のび太・しずかの結婚式」。原作では結婚前夜のみで、実際の結婚式は描かれていない(「宇宙完全大百科」で写真のみ登場)のに、映画であえて描いてしまうのはどうかと思う向きもあるだろう。だが、本作の結婚式は、「この二人の結婚式なら、きっとこんな感じなんだろうな」というファンの空想を、見事に形にしている。きっと、ジャイアンは余興に歌を歌うだろうし、ジャイ子はお祝いに絵を描くだろう。それに、作中でクライマックスとなっているのび太からの挨拶は、たしかにこんな感じだろうとしっくりくるものだった。
 さらに、本作は結婚式を描いているだけではなく、「現代」の子供のび太と「未来」の大人のび太が複雑に交錯するタイムパラドックスSFとしての面も持っている。大人には観ていて楽しいが、子どもが観るとちょっとわかりづらかったかもしれない。そういう点で、やはりこの映画は「大人向け」の面がある。

 本作は、「おばあちゃんのおもいで」「ぼくの生まれた日」「45年後……」の、3本の短編をベースにストーリーが作られているが、前の2本はまだ原形をとどめているのに対して、「45年後……」については子供と大人ののび太が入れ替わるという基本設定だけが使われて、話はほぼ別物になっている。だから、「45年後……」の映像化を期待して観ると、裏切られた気持ちになるかもしれないので、要注意だ。
 ただ、話はほぼ別物ではあるが、「45年後……」の設定を使った「のび太の入れ替わり」は、作中で最も重要な要素と言ってもいい。なにしろ、映画オリジナル設定で、「入れかえロープ」を使って1時間が経つと、入れ替わった両者の記憶が消えてしまうと言う非常に重大な欠陥があることになり、その結果としてのび太がダメになってしまいそうになるのだから。
 「ワスレンボー」のせいで、大人のび太も事件の顛末を知らないため、非常に展開はスリリングだ。ある意味、「ワスレンボー」が物語の鍵を握る道具になっていた。そう、今回は「わすれろ草」や「ワスレバット」ではなく「ワスレンボー」なのだ。
 それにしても、クライマックスの「のび太のおばあちゃんをタイムマシンで連れてきて、結婚式を見せる」という展開は、思い切ったことをしたなあと思う。やるならここまでやらないと、と言うことなのだろうが、おばあちゃんがタイムマシンに乗っている図を想像すると、シュールですらある。

 本作は、本筋のストーリーも見応えがあったが、色々な小ネタも効いていた。
 私がいちばんツボにはまったのは、「未来の2000円札が手塚治虫先生」というところだ。肖像ではなく手塚先生の漫画に出てくる自画像が使われているというのも笑えるし、よりによって2000円札というのも笑いどころなんだろう。もちろん、手塚プロダクションの許諾は取られており、エンディング・クレジットではスペシャルサンクスとして手塚プロがクレジットされている。
 さらに、カムカムキャットフードでおなじみの「ラーメン富士」も登場しており、店員がなぜか勉三さんと言うところも注目ポイントの一つだった。他にも、ちらっと映る店の看板などに藤子ネタが満載で、コマ送りで確認したくなった場面も多くあった。

 と、いった感じで、本作は観る前の期待値の低さに反して、十分に「ドラえもん映画」として楽しめる作品だった。
 どちらかと言うと、原作短編ネタよりもオリジナル要素の割合が大きいので、「F先生があえて描いていない結婚式を勝手に描いてしまうとはけしからん!」というような考えの人にはお勧めできないが、「オリジナルでも出来がよければいいよ」と言う人には、ぜひご覧いただきたい。
 本作に関しては、前作を観たことによって「このシリーズは期待できない」と思っている人もいるかもしれないが、一本の映画として前作より遥かにまともな出来になっているので、前作のことは忘れたほうがいいと思う。そんな作品だった。
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『映画ドラえもん のび太の 新恐竜』感想

 8月7日、「映画ドラえもん のび太の 新恐竜」が公開された。
 本来の予定ならば、3月に公開されているはずであったが、新型コロナウィルスの影響で延期となっていた。それが、ようやく公開されたのだ。例年であれば、名古屋で藤子ファン仲間が集まって映画鑑賞&感想会が開かれるのだが、さすがに今回は開催することができず、今年は一人での映画鑑賞となった。一人でドラえもん映画を鑑賞したのは、「ドラえもん のび太の ワンニャン時空伝」の時以来、16年ぶりのことだ。ちょっと寂しい映画公開日であった。

 そんなわけで、公開初日に映画を観てきたので、例年通りにここで感想を書いておく。
 いつものことだが、ここから先は映画の内容に思いっきり触れているので、未見の方はご注意いただきたい。



 さて、さっそく映画の感想だが、一言で言うと、もやもやの残るすっきりしない作品だった。
 導入+中盤までは「のび太の恐竜」、結末部分は「のび太と竜の騎士」を想起させられる過去の映画のツギハギ的展開の中に、のび太&キューの成長という話の芯があったわけだが、この「のび太&キューの成長」という部分に共感できなかったのだ。
 のび太がキューをなんとかして飛ばせようとする展開が、観ていて非常につらかった。「ミューや他のみんなは飛べるんだ、だからキューにも飛べるはず」と、飛ぶことを強要していたが、それを観ていて、もしかしたらキューが「飛べない変種」なんじゃないのか、そうだったらどれだけ残酷なことをさせているんだと言う思いが頭をよぎってしまった。
 もちろん、キューは最後に飛べるようになるし、その「飛べるようになること」が、話の肝である「ミッシングリンク」につながるという仕掛けになっているのだが、そこまでの話の持って行き方が、私には合わなかったのだ。
 そもそも、のび太は山登りするときに「平らな山ならいいんだけど」と言うようなやつだ。しなくてもいい努力はしたくない性格なのだ。それが、自分がまだ逆上がりができてもいないのに、それを棚に上げてキューに飛ぶことを強要する姿には、非常に違和感を覚えた。のび太の危機→キューが飛べるようになるという流れは全くおかしくないが、そこまでの過程がダメだ。

 また、本作におけるタイムパトロールの位置づけも、気になったところだ。
 単に最後にドラえもんたちを助けてくれるという、これまでの立ち位置ではなかったのは新鮮味はあった。しかし、恐竜の絶滅という超大イベントについて、タイムパトロールたちまでが「ミッシングリンク」と言う言葉を使って何も知らない状態なのは、はっきり言って不思議だ。あのタイムパトロールが何世紀の存在なのかはわからないが、タイムマシンを持っている時代なのは間違いないのだから、恐竜絶滅の真相などそれで見てくれば一発でわかるではないか。現代の恐竜博士(彼はいいキャラだった)とは、訳が違う。
 そして、飼育用ジオラマセットで作った「ノビサウルスランド」が、恐竜たちを絶滅から救う場所となったと言う展開についても、「これでいいのか」と思ってしまった。「のび太と竜の騎士」の「聖域はドラえもんが作ったのか」的な展開を狙ったものだろうが、地底世界にある聖域とは違い、地上に存在する場所に恐竜を集めて生かしてしまったら、それが永遠に全く知られないままでいるのはずいぶん無理があるのではないだろうか。

 今作は、新型コロナウィルスの影響で公開が5ヶ月遅れた。
 基本的に、オリジナルのドラえもん映画を観るときは、なるべく情報を事前に頭に入れないようにしているのだが、この5ヶ月間に色々と断片的な情報が入ってきていた。それを元に内容を想像して、どんな映画になっているかと楽しみにしていたのだが、正直言って期待外れだった。
 監督・今井一暁&脚本・川村元気のコンビによるドラえもん映画は、「のび太の 宝島」に続いて2作目となったが、どうやらこのコンビは私の好みには合わないようだというのが、今作であらためてよくわかった。『ドラえもん』という作品のとらえ方、考え方が、私とはかなり異なるようだ。
 あと、この際だから言っておくが、ピー助を出してしまったのは、作品の独立性を考えると失敗だったのではないか。「ピー助っぽい首長竜」ならまだいいとは思うが、エンディング・クレジットではっきりと「ピー助」と名前を出してしまっているので、言い逃れはできない。するつもりもないだろうが。
 以前に、ある人が「映画ドラえもんは、一作ごとにパラレルワールドだと思う」と言っていたのを聞いたことがあって、なるほどそれなら納得できることが多いなと思ったが、そのように今作が「のび太の恐竜」(2006含む)とは独立した一個の作品だとするなら、余計にピー助を出すべきではなかったと思う。

 と、言ったところで感想は終わり。なんだか、否定的なことばかり書いてしまって恐縮だが、いいと思ったことも書いておこうと思っても、これはと思いつかないのだ。何しろ、話の芯になる部分に共感できなかったのだから。ああ、ひみつ道具の「ともチョコ」はよかったんじゃないか。ネーミング含めて。
 おまけ映像の内容から推察して、来年の映画(公開時期は今のところ不明)は、「あれ」でおそらく間違いないだろう。来年には期待したい。
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映画ドラえもん18作を観終えて(後編)

 前回の続き。

・のび太の日本誕生

 はじめて藤本先生が「制作総指揮」としてクレジットされた10周年記念作品。「日本の誕生」というスケールの大きさと、7万年前の雄大な自然描写が心地よい。原作にない映画オリジナルの演出で、やけに「ラーメンのおつゆ」への拘りが見られるが、これは芝山監督の拘りなんだろうか。
 なお、原作の最終ページでは、ククルがウンバホとなったことが語られるが、これは単行本化時の描き足しであり、連載時にはない。だから、映画では触れられておらず、別れのシーンで終わることになる。描き足しによって、この作品が『チンプイ』とつながったわけだ。
 ギガゾンビは原作だけだと、そんなに印象の強い敵ではないのだが、映画では永井一郎氏の好演によって、原作よりアクの強い敵役になったと思う。山田博士本人もノリノリで「ギガゾンビ」というキャラを演じている感が伝わってくる。
 そう言えば、タイムマシンがしゃべるようになったのは、前作「パラレル西遊記」からだった。映画オリジナルで生まれた設定を、逆輸入したと言うことか。そのあたり、藤本先生は妙に律儀だ。


・のび太とアニマル惑星

 ママが自然環境保護に目覚める話。今までになく、メッセージ性の強い作品となっている。原作と比べると、映画は最後の戦闘での絶望感が弱い感じがする。もっと、徹底的にニムゲに攻めさせても良かったのではないか。
 原作にないアニメオリジナルの描写に、裏山のゴルフ場開発が中止になったと最後に触れている点がある。原作では、最後にママは登場していないが、ここははっきりさせておきたかったんだろう。
 なお、「アニマル惑星」よりも後に描かれた短編エピソード「ドラえもんがいなくてもだいじょうぶ!?」にて、10年後の世界が登場しており、自然環境がいい方向に向かったことが描かれている。藤本先生も、自然保護のテーマについては気になっていたのかな。
 本作には、前年の「のび太の日本誕生」でククルを演じた松岡洋子さんがまた出演しているが、その役が「豚の少年」という端役なのが、何とも言えない。映画ドラえもんで、メインのゲストキャラの翌年に端役を演じた例は、他にはないのでは。


・のび太のドラビアンナイト

 本作の導入となる、絵本入りこみぐつで入ったアラビアンナイトの世界が現実とつながっていると言う設定は少し苦しい気もするが、そんなこともあるかもと思った方が、夢があっていいのかもしれない。
 敵役として登場するアブジルとカシムは、これまでの映画ドラえもんの敵と比べると小者だが、シンドバットが自力で倒せる相手と言うことで設定されたのだろう。強大な敵が出てきそうな世界観でもない気もするが。
 シンドバットについては『T・Pぼん』でも描かれているし、藤本先生がいかにも好きそうなテーマだ。そう言えば、のび太役の小原乃梨子さんは以前にテレビアニメ『アラビアンナイト シンドバットの冒険』で主役のシンドバットをやっていた。いろいろとアラビアンナイトに縁があるのだなあ。


・のび太と雲の王国

 「のび太とアニマル惑星」に続いて自然保護をテーマにしており、過去の短編エピソードのキャラも登場するなど、『ドラえもん』におけるこのテーマの集大成的作品となっている。作中では天上人や密猟者たちと対立はするが、明確な敵という感じではない。
 本作では、「さらばキー坊」に登場したキー坊や、「ドンジャラ村のホイ」に登場したホイ達小人族が再登場している。ホイの声は、テレビ版と同じ松尾佳子さんだが、キー坊は成長して大人になっているため、テレビ版と声優は異なる(テレビ版では島本須美さん)。
 フィルムコミックのあとがきによると、「正義は天上人にあり、悪いのは地上人」なので、描きにくかったと藤本先生は語っている。それはそうなのだが、個人的には天上人はジャイアンやスネ夫が感じたように「お高くとまっていていやな感じ」という印象だ。正しければ何をしてもいいというわけじゃないんだよな。
 そんな天上人に対抗するためにドラえもんは「雲もどしガス」を用意して、それを密猟者たちに悪用されたため、エネルギー州は消滅した。じゃあ密猟者が悪役なのかというと、そんな感じもしない。悪役としては小者過ぎるのと、あくまで地上人の論理(悪人ではあるが)で動いているのに過ぎないせいだろう。
 原作の最終ページで、天上人達は植物星へと旅立ち、天上世界は「からっぽ」になってしまう。大長編ドラえもんでいちばん寂寥感の漂うエンディングだ。この最終ページがあったからこそ、原作としての独自性が出たように思う。石頭のドラ特攻は、映画版からの逆輸入なので。
 原作も映画も、ガスタンクの破壊はドラの石頭特攻だが、「ぼくには石頭という、最後の武器があった!!」というドラのセリフは原作のみ。芝山監督は、「何であれに気付かなかったのだろう」と、このセリフを映画の時点で入れられなかったことを悔やんでいた(「ネオ・ユートピア」会誌19号より)。


・のび太とブリキの迷宮

 高度に発達した文明社会で人間がロボットに取って代わられるという展開は、藤子先生のデビュー単行本「UTOPIA 最後の世界大戦」を思わせる。ある意味、そのリメイクと言える。メルヘンチックな世界観であるが、内容は重いものがある。
 本作では、ナポギストラーの渋すぎる声が印象に残る。さすがは森山周一郎氏だ。あの声での「イートーマキマキ」は実に笑える。声と言えば、ミニドラはエンディングクレジットになかったが、おそらく佐久間レイさんが二役をやっていたんだろう。
 フィルムコミックのあとがきは、ひたすらアイディアを生み出す苦しみについて書かれていて、この時の藤本先生の心境を想像すると、実に興味深い。映画ドラえもんも14作目になって、本気で次はどうしようと悩んでいたんだろうな、きっと。


・のび太と夢幻三剣士

 短編ドラえもんでさんざん描かれた「夢」ものの集大成。「かくしボタン」によって夢と現実の逆転が起こり、今までの異世界とは一風変わったムードのある冒険が描かれている。どこまでが夢カセットによるもので、どこからがのび太たちの意思によるものなのか、はっきりしないのが怖い。
 フィルムコミックあとがきによると、当初の構想では「夢の暴走」を描く予定だったとの事で、トリホーが現実世界に出てくるあたりは確かにそれを想定して描かれていたのだろう。結局、夢は夢と言うことで話がまとまったが、それでも映画版ラストでのみ描かれているお城のような学校は、「現実世界への夢の影響」を表したものと言える。
 本作は声優が豪華だ。妖霊大帝オドロームに家弓家正さん、龍に石丸博也さん、スパイドル将軍に屋良有作さん、等々。個人的には、神山卓三さん声の熊が「そうでがんす」と言ってくれるだけで、もう感涙だ。


・のび太の創世日記

 この作品では、のび太達は「神様」として、一歩引いた立場で新世界の歴史を眺めてゆく。時代ごとのエピソードが描かれていくので、大長編と言うよりは短編のオムニバス形式に近く、映画ドラえもんとしては他にない味わいを持った作品だ。各時代ごとのエピソードがつながっていく作品なので、長編作品としての盛り上がりにはやや欠ける感がある。のび太の作った地球なので、変な方向に進化してしまったというのは、ドラえもんらしくて好きな展開ではあるのだが。
 本作にも、色々なドラえもんの道具が登場するが、個人的に好きなのが「伝書バット」だ。バットに羽を付けただけの安直なデザインとネーミングセンスがすばらしい。こういうバカバカしい(褒め言葉です)道具は、大好きだ。


・のび太と銀河超特急

 藤本先生が「制作総指揮」として完成させた最後の作品。ドリーマーズランドのアトラクションに多く時間が割かれており、特に最初のダーク・ブラック・シャドウ団(この安直なネーミングもいい味だ)の襲撃にまつわるエピソードは、「映画になるとかっこいい」のび太の存在など、映画ドラえもん自体のパロディみたいになっていて面白い。
 本作では、西部劇の星での活躍や最後のヤドリ天帝との対決など、のび太の格好良さがクローズアップされている。前作ではほぼ神様として歴史を見守るだけだったのび太を、その反動のように思いっきり活躍させたと言うことだろうか。特に、最後の対決はのび太らしからぬ落ち着き様で、やけに頼もしさがある。
 原作は、最後「巻き」で終わらせたような印象がある。映画ではちゃんと描かれたアストン達との和解のシーンがないのは、残念なところだ。そこは当然、単行本で加筆されるものと思っていたが、実際にはその部分の加筆はなかった。それだけ、藤本先生の体調が悪かったのだろう。てんとう虫コミックスのカバーイラストも藤子プロの作画になってしまったし、加筆も少なかった(ヤドリ天帝との対決シーンが少し変わっただけ)。藤本先生が亡くなる直前に出た単行本だけに、仕方がないところか。


・のび太のねじ巻き都市冒険記

 藤本先生の遺作となった作品。本作に登場する「ホクロ」の存在は、どんな悪人にも良心はあると言うことを表していたのだろう。結果的に大長編ドラえもんの最終作となったが、造物主とも言える「種まく者」の登場により、最終作らしい作品になった。
 原作は、連載第3回までが藤本先生の下絵より描かれて、第4回以降は遺されたアイディアノートなどより藤子プロによって描かれた。はたして、どこまで藤本先生の意図していた展開となったかはわからないが、作品をまとめ上げた方々には敬意を表したい。
 連載が始まった時は、第1回を読んで「なんだ、これは」と思ったものだった。明らかにそれまでの藤本先生の絵とは違うタッチで、何事が起きたのかと思った。実際には、カラーページのペン入れはされており、よく見ればそれは確かに藤本先生の絵であったのだが。当時は、藤子プロによる作画になったことまでには頭が回らず、何か漠然といやな予感がしていたのだが、残念なことにそれは現実となった。連載第3回の下絵を遺して、藤本先生が亡くなられたのだ。当時の衝撃は、本当に大きなものだった。
 遺されたアイディアノートは色々なところで紹介されているが、それを見る限りは雑多なアイディアの断片を書き留めた感じで、良く話がまとまったと思わずにはいられない。芝山監督が展開について話を聞いていたそうなので、そちらも合わせてまとめられたのだろうが。



 以上、「のび太のねじ巻き都市冒険記」までの18作の感想をまとめた。
 今回、約一ヶ月間という短い期間の中で18作を立て続けに観たことで、どのように映画ドラえもんが作られていき、そしてどのように変わっていったかがよくわかったように思う。貴重な体験だった。
 願わくば、WOWOWには次は同時上映作品のHDリマスター版をやって欲しい。もちろん、A先生の作品も含めてだ。高画質でよみがえる「怪物ランドへの招待」なんて、考えただけでわくわくしてくる。
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映画ドラえもん18作を観終えて(前編)

 WOWOWで2月から放映されてきた映画ドラえもんだが、とうとう「のび太のねじ巻き都市冒険記」までの原作大長編ありの作品をすべて観終わってしまった。
 思えば、映画ドラえもんをまとめて集中的に観たのは久々のことだ。もしかしたら、今はなき名古屋の「シバタ劇場」で、当時の全作品(「ねじ巻き都市冒険記」まで)が上映されたとき以来ではなかろうか。もっとも、その時も全作観たわけではなかったが。
 ツイッターで、各作品を観るたびに感想を投稿していたので、ここではその投稿を元にして、全18作の感想をまとめておく。
 なお、ツイッターからのそのままの転載ではなく、ブログ用に加筆訂正と編集を行ったものであることを、おことわりしておく。



・のび太の恐竜

 今観ると、作画などから素朴な味わいを感じるが、そんな中でも決して手は抜かれておらず、恐竜の動きなど今でも見応えがある。今観返すと、原作の名シーンで映画にないのがけっこうある事がどうしても気になってしまうが、原作と映画が同時進行だった上に、本作は後から描き足された場面も特に多いので、仕方のないところだろう。


・のび太の宇宙開拓史

 個人的にいちばん思い入れの強い作品なので、いい画質でじっくりと観られてよかった。もう何度となく観ているのだが、それでも特に別れのシーンは見入ってしまう。「心をゆらして」の流れるタイミングが完璧で、ここだけ何度も観返してしまった。クレムがあやとりを見せるところなど、すばらしい。
 いかにも大河原邦男メカなブルトレインは、下手をしたら作中で浮いてしまうところだろうが、そうはならずにいいアクセントになっていると思う。


・のび太の大魔境

 本編中で挿入歌として流れる「だからみんなで」が、本来のバージョンになっている。DVDではフルコーラス版を1コーラス流しただけだったが、それとは演奏も歌唱も微妙に異なる。これが聴けて、よかった。
 本作で、西牧秀夫監督が降板となった。これは、藤本先生からの申し出によるものだと言うことが、楠部三吉郎氏の「「ドラえもん」への感謝状」で書かれているが、この映画で藤本先生が気に入らなかった点は、なんだったのだろう。あえて想像してみると、クライマックスの戦闘で兵士に犠牲者が多数出ているように見える描写だろうか。原作ではそこまで詳細に戦闘を描いていないが、映画ではどう見ても死んでいるように見える。
 おそらく、藤本先生の考えでは、兵士たちはダブランダーには仕方なく従っており、それをクンタック王子もわかっているから、兵士を殺すような行動には出ないと言うことだったのではなかろうか。あくまで私の想像だし、もう今となっては確かめようのないことではあるが。
 思えば、わさドラのリメイク版「新 のび太の大魔境 ペコと5人の探検隊」では、巨神像が攻撃を加えるときに、いちいち兵士が脱出する描写があったが、このように極力死者が出ない展開の方が、藤本先生の世界に近いと言うことなのかもしれない。あれはあれで、いちいち兵士が逃げるのはくどく感じたが。


・のび太の海底鬼岩城

 芝山努監督になってからの1作目だ。海のキャンプの楽しさが存分に描写されていて、ついついあこがれてしまうが、さすがにこれを真似することは不可能だ。ポセイドン役は富田耕生さん。初代ドラえもんに悪役をオファーしたのは、どういう経緯だったのだろう。富田さんがお元気なうちに、初代ドラえもんの思い出と一緒にインタビューしておくべきではなかろうか。


・のび太の魔界大冒険

 あらためて観ると、劇中でけっこうな頻度で「風のマジカル」アレンジBGMがかかっている。と、なるとやはりエンディングで流れるべきは「風のマジカル」なのだ。このバージョンが普通に観られるようになったのは、喜ばしいことだ。
 この作品だけではないが、プロデューサーの菅野哲夫氏の名前は特に消されずそのまま残っている。一時期、テレ朝チャンネルの再放送や『怪物くん』のDVD-BOXなどで、菅野氏の名前は消されていたものだが。「原作・脚本 藤子不二雄」もそのままだし、スタッフクレジットは基本的にオリジナルのままと考えてよさそうだ。


・のび太の宇宙小戦争

 本作は、ドラコルルの悪役っぷりがいい。屋良有作氏の好演も相まって、憎々しさが増している。また、ドラコルルの部下の声が中尾隆聖氏なので、何か腹に一物ありそうな感じがして、観ていて困る。実際には、単なる部下なので、どうということはないのだが。
 忘れてはいけないのが、しずかちゃんの牛乳風呂シーンだ。この場面、あえて少しぼかしているように見える。


・のび太と鉄人兵団

 説明不要の名作。映画ドラえもんの、一つのピークと言ってもいい。藤本先生ご自身は、フィルムコミックのあとがきで解決にタイムマシンを使ったことを「ちょっとイージーでした」と言っておられるが、それでも、クライマックスの盛り上がりはすばらしい。
 また、主題歌「わたしが不思議」も、すばらしい名曲だ。リルルの揺れ動き変わっていく「心」を見事に歌で描いている。ロボットものだからと言って、単純なヒーローソングにしなかった武田鉄矢氏のセンスが良かったのだろう。
 それにしても、初期の映画ドラえもんでの三ツ矢雄二さんの活躍は特筆すべきものだ。水中バギー、ロコロコ、ミクロスと、作品のマスコット的存在でありながらそれだけではない重要なキャラを続けて演じていて存在感は大きい。特に水中バギーはあのラストがあるのでインパクトは強い。


・のび太と竜の騎士

 本作は、藤本先生の恐竜への愛情がたっぷり詰まった作品。はじめて明確な敵が登場しない作品でもあり、ある意味では映画ドラえもんの転換点とも言える。なお、制作進行に水島努氏がいる。ちょうど『劇場版 SHIROBAKO』を観たばかりだから、タイムリーだった。
 主題歌「友達だから」のアレンジBGMがかなり多用されているが、サウンドトラックヒストリーに収録されていないのは「菊池俊輔作曲」ではないからなんだろうな。一作ごとにサントラが出ていれば主題歌アレンジの曲も当然入っただろうが、あの「組曲」形式では入れられまい。


・のび太のパラレル西遊記

 初の映画オリジナル作品だが、タイムパラドックスとパラレルワールドの組み合わせは、なかなか面白い。本作が他の作品と違うのは、「どれだけ大きな出来事が起こっても、のび太の街には影響を及ぼさない」という映画ドラえもんの原則が破られている点だ。
 本作では、のび太の町に妖怪世界が入り込み、人々は妖怪と化す。先生は、はっきり妖怪への変身を描かれているし、のび太のママにも(ギャグ的表現ではなく)角が生えている。この変貌したのび太の町を見ていると、どうにも居心地の悪い感じがする。スタッフとしてもこの描写は冒険だったのではないか。
 主題歌「君がいるから」もいい曲なのだが、どちらかというと挿入歌向けの感じがする。エンディングで心沸き立つ感じになるのは、ちょっと違う。いっそのこと、「のび太と夢幻三剣士」のように、エンディングは別の曲でもよかったのでは。



 以上、今回はここまで。
 最初は、全18作の感想を一挙に載せようと思ったが、さすがに長くなりすぎるので、半分の9作目までで一区切りとしておく。続きは、また近いうちに更新します。
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『映画ドラえもん のび太の 月面探査記』感想

 今年の映画ドラえもんは、これまででいちばん公開日が早く、3月1日の公開だった。翌日の2日には、公開された『映画ドラえもん のび太の 月面探査記』を観てきたので、例年通りこのブログに感想を書いておく。ここからの文章には映画の内容に触れる箇所があるので、未見の方はご注意ください


 まず、先に書いておくと、今年の映画は非常によかった。
 昨年の『のび太の宝島』は、個人的に「ストーリーがあまりに王道すぎた」ためにひねりがなくて、その点であまり楽しめなかったのだが、今作はちゃんと「ひねり」の展開が入っていたので後半に意外な展開で驚くことができて、非常に楽しめた。私がドラえもん映画に求めているのは、これなのだ。
 思い返せば、原作大長編ありのドラえもん映画でも、『のび太の大魔境』の「十人の外国人」や、『のび太と竜の騎士』の「聖域はドラえもんが作った」などの、結末であっと言わされる展開が好きだった。ここで挙げていない作品でも、藤子・F・不二雄先生は何らかの「おどろき」をストーリーに仕込んでいたように思う。

 で、今年の「ひねり」として面白かったのが何かと言えば、やはり「定説バッジ」の存在だろう。
 この定説バッジについては、まじめに考え始めると非常に謎の多い存在だと思う。そもそも、異説クラブメンバーズバッジ(とマイク)の存在によって成り立っているはずのノビットが作ったものなのだから、当然定説バッジ自体の存在も異説クラブメンバーズバッジがなくては成り立たないのか、とか、定説バッジと異説クラブメンバーズバッジの二重使用をしたらどうなるのか、とか、疑問は色々とわいてくる。
 それを、小さな子供にもわかりやすく見せようとして、今作ではノビットの作るものは「あべこべ」であることを何度も描いて強調しているのだ。脚本・演出ともに非常に入念な積み重ねがなされており、本来ドラえもん映画が子供のためのものであることをきちんとわかった上で作っているという点で、今作のスタッフは非常に信頼できる。

 さて、物語の要となる仕掛けについて先に触れてしまったが、全体のストーリーもよくできていた。
 短編「異説クラブメンバーズバッジ」をベースとしながら、カグヤ星の物語を織りまぜることで、見事に長編映画として成り立っていた。観ていて、どのようにカグヤ星が話に関わってくるのかあまり予想が付かなかったので、終盤までハラハラして楽しんで観ることができた。
 また、ストーリーもさることながら、今作では画面の隅にまでスタッフの遊び心が現れており、その点でも楽しめた。序盤は、映画ドラえもんとしては珍しく、学校が主な舞台となっていたので、のび太のクラスメートたちも勢揃いと言っていいほどたくさん登場しており、その中でも短編原作では一度しか登場していない「クラスでいちばんエッチなやつ」(本名不明)が、やけに存在感を発揮していたのが特に印象的だった。他にも、多目くんやクラスで二番のガリベンくん、あばら谷くんなどのび太のクラスメートに関しては、誰が出ているか探す楽しみもあると言えよう。早くも、映像ソフトの発売が楽しみな理由のひとつでもある。

 そして、本作のゲストとしてはルカをはじめとするエスパル11人とカメのモゾ、ノビットを含むムービットたちがいる。
 エスパルに関しては、ルカ・ルナ・アル以外の8人に関しては正直あまり印象にないのだが、これは11人もいれば仕方のないところだろう。それよりも、ともにマスコット的キャラとして描かれているノビットとモゾが、それぞれを食いあうこともなく、ちゃんと二人とも存在意義のあるキャラとして描かれていた点には感心させられた。
 それでいて、ノビットもモゾも、物語の終盤には単なるマスコットの枠を超えた活躍をするのだから、非常に周到なキャラクター配置だと思う。

 それに対して、敵キャラクターの親玉として登場するディアボロは、カグヤ星の破壊兵器そのものが意思を持った機械だった。これは、ドラえもんたちにカグヤ星人とはいえ生身の人間を倒させるわけには行かないという事情もあるのかもしれない。なんにせよ、最後の最後までしぶとい悪役として、印象には残るキャラクターだった。
 ちょっと残念だったのは、ゴダートの部下の扱いだ。ゴダートを裏切ったタラバなど、結局どうなったのかは描かれずじまいだった。まあ、どうせ「わすれろ草」で全てわすれさせられるだけだったのだろうが。

 ところで、映画前作の『のび太の宝島』あたりから際立ってきたように思うのだが、「ドラえもんの道具についていちいち説明しない」という点は、今回ちょっと気になった。
 はっきり言うと「地平線テープ作戦」だ。もちろん、原作の「地平線テープ」を読んでいれば、どんな作戦なのかはわかるのだが、これを全く説明なしで流してしまったのは、ちょっとひっかかった。とは言え、いちいち地平線テープの説明を入れるわけには行かない展開であるのもわかるし、難しいところではある。

 ついでに言っておけば、この映画に突っ込みどころがないわけではない。定説バッジをどうやって短期間で大量生産したのか、ドラえもんがなぜ宇宙船を気球型に改造したのか、ルカはどうやって転校してきたのか(これに関しては、小説版で言及あり)など。ただ、これらの突っ込みどころすら、スタッフが意図的に用意したもののような気もしてくるのだ。今作のスタッフならそれくらいはやりかねない、そんな気もする。

 ともかく、今作が映画ドラえもんのオリジナル作品ではひとつの頂点となった、そんな作品だと思う。来年の映画がどんな作品になるのか、それはまだわからない(おまけ映像を見ても、本当に予想が難しいのだ。「竜の騎士」リメイクなのか、「恐竜」再リメイクか、それともオリジナル?)が、もしオリジナル作品だとしたら、今作を超えるのはなかなか難しいだろう。
 なお、今作は小説版も読んだが、実際の映画との差異はあまりなかった。この小説版が、映画からさらにフィードバックされているのかどうかはわからないが、元の脚本の完成度が高かったのは間違いないだろう。ルカとのび太の最後のかけっこは、映画でも観たかった気はするが。
 と、言ったところで本稿は終わる。今作は、誰にでも勧められる「ドラえもん映画」だった、と最後に言っておこう。
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『映画ドラえもん のび太の 宝島』感想

 3月3日より、『映画ドラえもん のび太の 宝島』の公開が始まった。
 私は、3月4日に藤子ファン仲間と観てきたので、例年通りにこのブログに感想を書いておきたい。これまた例年通りだが、映画の内容に触れる箇所があるので、未見の方はご注意いただきたい



 さて、今回の映画の感想だが、一言で書いてしまうと、残念ながらあまりノリ切れなかった作品になった。
 だからと言って、作品の出来が悪いと思ったかというと、そうではない。ストーリーは王道の親子物で手堅く泣かせに来ているし、アニメーションとしてのアクションはなかなか見応えがあったと思う。
 それでは、何が物足りなかったかというと、それはストーリーがあまりに王道すぎたせいだ。

 序盤、のび太が船を手に入れて宝島に出発するまでの流れは、果たしてどのような冒険が待っているのだろうかとワクワクさせられた。
 しかし、しずかが取り違えでさらわれてしまって以降は、ああこれは親子愛で泣かせに来ているのだなとあからさまにわかる描写が続き、果たしてここからどうひねってくるのだろうと思って観ていたら、そのまんまストーリーが進んで終わってしまった。
 もちろん、王道であるからにはしっかり描写を重ねて泣かせようとはしているのはわかるのだが、それだけでは私には物足りなかったのだ。たとえば、昨年の『南極カチコチ大冒険』で、2体のパオパオが実は10万年眠った同一個体だったというのは意表を突いていて面白かったが、それくらいのひねりが物語に欲しかった。
 今年は、そういったひねりを求めるべき作品ではなかったのかもしれないが、「藤子・F・不二雄原作」を謳うからには、観る側としてそれを求めてしまうのだ。
 ストーリー上の不満としては、まだある。「宝島を求めての冒険」が、完全にメインのストーリーへの導入として使われるだけで終わってしまい、宝探しが本筋でなかったのも、個人的には残念だ。「のび太の宝島」とタイトルに付いているのに、宝はどこかへ行ってしまった。

 結論としては、私のドラえもん映画に対して求める物と、今回の映画とが合っていなかったということで、作品自体を否定する気は毛頭無い。
 毎年一作公開されているドラえもん映画であり、最近は一作ごとに監督や脚本家が変わっているのだから、今年のように出来はよくても個人的に合わないと言うことはあってもおかしくない。

 そう言えば、映画ドラえもんでオープニングの歌とアニメーションがなかったのは今回が初めてではないか。
 これには、驚かされた。と言うより、一体いつになったらオープニングが始まるのだろうと、最初のうちは話に集中できなかったくらいだ。これにどんな意図があるのかはわからないが、オープニングが無いと寂しいので、できれば来年以降は復活させて欲しいところだ。
 エンディング主題歌と挿入歌は、ともによかったと思う。エンディングは、映画の主題歌と言うよりは『ドラえもん』という作品全体の世界観を歌った歌になっているが、それが逆に新鮮ではあった。

 ここで、キャラクターデザインについても触れておこう。「大山ドラ風ではないか」と公開前から言われていた本作だが、「大山ドラ風」と言うか、「中村英一ドラ風」だなと感じたのは、ドラえもんの正面顔だ。口を閉じている正面顔は、テレビアニメの大山ドラ後期における中村氏の描くドラにかなり寄せている感じがした。
 だが、大山ドラを感じたのはそれくらいで、他のキャラクターについてはあまり大山ドラを感じることはなかった。

 それにしても、あの海賊団の面々は、どうなるんだろうな。どこでも働いていけそうな奴もいるが、とてもまともに更正できそうにない奴もいて、おそらく海賊団が解散となるだろうが、その後はどうやって生きていくのだろう。あんな組織を作ってしまったシルバーの責任は重大だと思う。
 あと、クイズはいちいちクイズを出題するので話のテンポがそがれる感があったなあ。『宇宙英雄記』のバーガー監督の時にも思ったが、今回は悠木碧の無駄遣いだったような気がする。テレビの方で、またいい役でもあればいいのだが。

 奇しくも、今年は『のび太の南海大冒険』公開から20年だ。藤子・F・不二雄先生亡き後はじめての映画ドラえもんだった『南海大冒険』は、正直なところ厳しい出来ではあったが、それから20年を経て、『南海大冒険』と同じ短編を元にして新たな映画が生まれたことは、映画ドラえもんがこの20年で大きく変わったことを象徴しているのではないか。その意味で、非常に記念すべき作品ではあると思う。

 と、言ったところで今年の感想は、終わる。来年は「異説クラブメンバーズバッジ」を元にしたオリジナルだろう。どんな異説世界を見せてくれるのか、今から楽しみだ。
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