『モジャ公』は、私にとっては特別な作品だ。
私は藤子・F・不二雄作品全般を愛読しているが、そんな中でも『ドラえもん』以外にもう一作をあえて挙げるとしたら、私は『モジャ公』を選ぶ。そのくらい好きな作品だ。今回は、そんな『モジャ公』について、語ってみたい。
『モジャ公』との出会いは、中学生の時だった。
「藤子不二雄ランド」を集め始めた最初の頃に出会ったタイトルで、購入したのは「知らないタイトルだったから」。あえて、それまで読んだことがなかった作品を選んで買ってみたわけだが、これが大当たりだった。モジャ公・空夫・ドンモの三人が繰り広げる奇想天外な宇宙冒険に、たちまち夢中になった。最も熱中していた頃は、一日に何回も読み返していたほどだ。
それほど私を惹きつけた『モジャ公』の魅力とはなんなのだろうか。それは、やはりSF作品としてよくできていると言うことだろう。「ナイナイ星のかたきうち」における「種族が違うと顔が見分けられない」と言う目の付けどころや、「自殺集団」で繰り広げられるフェニックスの人々の狂躁、「地球最後の日」の一種独特な終末感、いずれも非常にユニークな発想と話の転がし方のうまさで、何度読んでも面白いのだ。
そんな中で、「天国よいとこ」は、「偉大なる失敗作」だと思っている。と言うのも、この話で作者の藤子・F・不二雄先生がやろうとしていたことはわかるのだが、それが上手くいっていないと感じるからだ。
「天国よいとこ」では、心が体を離れて独立している「シャングリラ人」が描かれている。シャングリラでは脳にニセの情報を送ることによってモジャ公や空夫は騙されて、天国のような暮らしを楽しむことになるのだが、ただ一人ロボットであるドンモだけは脳を持たないために生物のように「騙す」事はできず、結果としてドンモがシャングリラのからくりを見破ることになる。
この発想はすばらしいのだが、話の後半でこのドンモの設定が消えてしまい、ドンモまでシャングリラの作り出す幻の宇宙船に騙されるようになってしまう。これは、残念だ。話の肝となるはずだった「ドンモの視点」が消えてしまっているのだ。
ほかに、シャングリラの幻が生物の体に与える影響についても、混乱が見られる。あくまで幻は幻であるので、生物に直接的な影響はおよぼさないはずであった。しかし、話の終盤ではモジャ公たちを燃えたぎる火の中に落として殺そうとするのだ。この火はシャングリラの設備が破壊された後に消えたので、幻であったのは間違いない。そうであれば、モジャ公たちが落とされたところで死ぬことはなかったはずだ。
さらに、シャングリラの設備の破壊についても、おかしなところがある。シャングリラ人は実体を持たないはずなのに、どうやって「コントロールセンターの配線をずたずた」にしたのだろうか。ここも、疑問が残る。
このように、「天国よいとこ」には多くの矛盾点と疑問点があり、最初の構想が完遂できなかったと思われる点において、残念だった。この話が「偉大なる失敗作」なのは、こういう理由からだ。実を言うと、『モジャ公』のアニメ化が決まった時に、もしかしたら「天国よいとこ」の矛盾点を解消してアニメ化されるのではないかと少し期待した。しかし、残念ながら「天国よいとこ」はアニメ化されなかった。それどころか、『モジャ公』原作全エピソードのうち、アニメ化されたのは「さよなら411ボル」のたった一編だけという結果に終わってしまった。これは、残念だった。
さて、『モジャ公』の単行本はいくつか刊行されているが、そんな中で「不死身のダンボコ」は、収録されたりされなかったりしているエピソードだ。初出時の最終話であるものの、一番最初の単行本である虫コミックスで省かれてしまったのをはじめとして、次のサンコミックスでも省かれた後に、藤子不二雄ランドでようやく初めて収録されたが、あくまで単行本での最終話は「地球最後の日」と言う位置づけだったようで、「不死身のダンボコ」は「地球最後の日」の前に配置されている。これによって、話のつながりが悪くなったのは否めない。「不死身のダンボコ」のラストで宇宙船を手に入れたはずの三人が、次の「地球最後の日」では、なぜかツアーに参加しているのだから。
とは言え、「不死身のダンボコ」も、藤子不二雄ランド収録時にわずかではあるが加筆修正もされており、ちゃんと藤子・F・不二雄先生の手を経て単行本に入っている。
なお、「地球最後の日」は、藤子不二雄ランド版までは、ほぼ初出通りの結末で収録されているが、中公愛蔵版刊行時に結末が描き改められて、より「最後」らしくなった。ただ、この描き換えは賛否両論だろう。個人的には、あっさり宇宙へ家出して終わる描き変え前の方が好みだ。描き変え後は、なぜかモナさんが三人の事情を知っているふうであったりして、無理を感じるところもある。
そして、『モジャ公』の最新単行本となるのが、藤子・F・不二雄大全集版だ。
この版は、それまでどの単行本にも未収録だった連載第2話や「たのしい幼稚園」版全話を収録するなど、「ほぼ完全版」と言っていい内容だ。ここで「ほぼ」と言ったのは、これでもまだ収録されていない部分が存在するからで、「地球最後の日」において、地球に戻ってきた時に空夫にタイム・ロックの説明をする内容が1ページ分、単行本では省かれているのだ。
この部分が省かれた理由はわからないが、あえてタイム・ロックについて踏み込んだ説明は必要がないと判断されたのだろうか。昔の単行本はページ数に制限がある場合も少なくなかったので、この場合もそのためかもしれない。
ともかく、ここさえ収録されれば大全集版を「完全版」と言ってもよかったと思うので、ちょっと残念ではある。
ここまで、『モジャ公』について色々と語ってきたが、もしこの作品をご存じでないという方には、ともかく読んでみていただきたい。本当に、面白いのだ。今から読むなら、藤子・F・不二雄大全集版がベストだろう。と言うか、これ以外の単行本は絶版か品切れだと思われる。
ともかく、生活ギャグSFを得意とする藤子・F・不二雄先生としては珍しい宇宙冒険物であり、その点でも見逃せない作品だ。
私は藤子・F・不二雄作品全般を愛読しているが、そんな中でも『ドラえもん』以外にもう一作をあえて挙げるとしたら、私は『モジャ公』を選ぶ。そのくらい好きな作品だ。今回は、そんな『モジャ公』について、語ってみたい。
『モジャ公』との出会いは、中学生の時だった。
「藤子不二雄ランド」を集め始めた最初の頃に出会ったタイトルで、購入したのは「知らないタイトルだったから」。あえて、それまで読んだことがなかった作品を選んで買ってみたわけだが、これが大当たりだった。モジャ公・空夫・ドンモの三人が繰り広げる奇想天外な宇宙冒険に、たちまち夢中になった。最も熱中していた頃は、一日に何回も読み返していたほどだ。
それほど私を惹きつけた『モジャ公』の魅力とはなんなのだろうか。それは、やはりSF作品としてよくできていると言うことだろう。「ナイナイ星のかたきうち」における「種族が違うと顔が見分けられない」と言う目の付けどころや、「自殺集団」で繰り広げられるフェニックスの人々の狂躁、「地球最後の日」の一種独特な終末感、いずれも非常にユニークな発想と話の転がし方のうまさで、何度読んでも面白いのだ。
そんな中で、「天国よいとこ」は、「偉大なる失敗作」だと思っている。と言うのも、この話で作者の藤子・F・不二雄先生がやろうとしていたことはわかるのだが、それが上手くいっていないと感じるからだ。
「天国よいとこ」では、心が体を離れて独立している「シャングリラ人」が描かれている。シャングリラでは脳にニセの情報を送ることによってモジャ公や空夫は騙されて、天国のような暮らしを楽しむことになるのだが、ただ一人ロボットであるドンモだけは脳を持たないために生物のように「騙す」事はできず、結果としてドンモがシャングリラのからくりを見破ることになる。
この発想はすばらしいのだが、話の後半でこのドンモの設定が消えてしまい、ドンモまでシャングリラの作り出す幻の宇宙船に騙されるようになってしまう。これは、残念だ。話の肝となるはずだった「ドンモの視点」が消えてしまっているのだ。
ほかに、シャングリラの幻が生物の体に与える影響についても、混乱が見られる。あくまで幻は幻であるので、生物に直接的な影響はおよぼさないはずであった。しかし、話の終盤ではモジャ公たちを燃えたぎる火の中に落として殺そうとするのだ。この火はシャングリラの設備が破壊された後に消えたので、幻であったのは間違いない。そうであれば、モジャ公たちが落とされたところで死ぬことはなかったはずだ。
さらに、シャングリラの設備の破壊についても、おかしなところがある。シャングリラ人は実体を持たないはずなのに、どうやって「コントロールセンターの配線をずたずた」にしたのだろうか。ここも、疑問が残る。
このように、「天国よいとこ」には多くの矛盾点と疑問点があり、最初の構想が完遂できなかったと思われる点において、残念だった。この話が「偉大なる失敗作」なのは、こういう理由からだ。実を言うと、『モジャ公』のアニメ化が決まった時に、もしかしたら「天国よいとこ」の矛盾点を解消してアニメ化されるのではないかと少し期待した。しかし、残念ながら「天国よいとこ」はアニメ化されなかった。それどころか、『モジャ公』原作全エピソードのうち、アニメ化されたのは「さよなら411ボル」のたった一編だけという結果に終わってしまった。これは、残念だった。
さて、『モジャ公』の単行本はいくつか刊行されているが、そんな中で「不死身のダンボコ」は、収録されたりされなかったりしているエピソードだ。初出時の最終話であるものの、一番最初の単行本である虫コミックスで省かれてしまったのをはじめとして、次のサンコミックスでも省かれた後に、藤子不二雄ランドでようやく初めて収録されたが、あくまで単行本での最終話は「地球最後の日」と言う位置づけだったようで、「不死身のダンボコ」は「地球最後の日」の前に配置されている。これによって、話のつながりが悪くなったのは否めない。「不死身のダンボコ」のラストで宇宙船を手に入れたはずの三人が、次の「地球最後の日」では、なぜかツアーに参加しているのだから。
とは言え、「不死身のダンボコ」も、藤子不二雄ランド収録時にわずかではあるが加筆修正もされており、ちゃんと藤子・F・不二雄先生の手を経て単行本に入っている。
なお、「地球最後の日」は、藤子不二雄ランド版までは、ほぼ初出通りの結末で収録されているが、中公愛蔵版刊行時に結末が描き改められて、より「最後」らしくなった。ただ、この描き換えは賛否両論だろう。個人的には、あっさり宇宙へ家出して終わる描き変え前の方が好みだ。描き変え後は、なぜかモナさんが三人の事情を知っているふうであったりして、無理を感じるところもある。
そして、『モジャ公』の最新単行本となるのが、藤子・F・不二雄大全集版だ。
この版は、それまでどの単行本にも未収録だった連載第2話や「たのしい幼稚園」版全話を収録するなど、「ほぼ完全版」と言っていい内容だ。ここで「ほぼ」と言ったのは、これでもまだ収録されていない部分が存在するからで、「地球最後の日」において、地球に戻ってきた時に空夫にタイム・ロックの説明をする内容が1ページ分、単行本では省かれているのだ。
この部分が省かれた理由はわからないが、あえてタイム・ロックについて踏み込んだ説明は必要がないと判断されたのだろうか。昔の単行本はページ数に制限がある場合も少なくなかったので、この場合もそのためかもしれない。
ともかく、ここさえ収録されれば大全集版を「完全版」と言ってもよかったと思うので、ちょっと残念ではある。
ここまで、『モジャ公』について色々と語ってきたが、もしこの作品をご存じでないという方には、ともかく読んでみていただきたい。本当に、面白いのだ。今から読むなら、藤子・F・不二雄大全集版がベストだろう。と言うか、これ以外の単行本は絶版か品切れだと思われる。
ともかく、生活ギャグSFを得意とする藤子・F・不二雄先生としては珍しい宇宙冒険物であり、その点でも見逃せない作品だ。