「クルパーでんぱ」再考

 前回のエントリから三日経って、少し落ち着いてきた。
 今回の事はちょうどいい機会なので、「クルパーでんぱ」という話自体を、ここで改めて見つめ直してみたい。


 「クルパーでんぱ」の話は、ダメな事をバカにされたのび太のために、のび太以外の人をもっとダメにしてしまう展開であり、これは後に描かれた「人間うつしはおそろしい」や「ビョードーばくだん」と同系統の話と言える。
 とは言え、これらてんコミに収録されている話と比べると、明らかに「クルパーでんぱ」は異質だ。

 まず、「のび太と同レベルにする」のではなく、「あたまもからだもよわく」してしまい、その結果として描かれた「鼻水を垂らすしずちゃん」は、他では絶対に見られない絵だ。
 さらに、「クルパーでんぱ」には重大な欠点がある。全集で読まれた方はお気づきの事と思うが、「話がオチていない」のだ。そのため、話の完成度は「ビョードーばくだん」などと比べると格段に落ちる。のび太以外の全ての人間の「あたまもからだもよわく」なってしまった世界は異様で、絵には強いインパクトがあるのだが、冷静に話の出来を考えれば、ガチャ子や自主規制の件を抜きにしても、F先生の生前に単行本に収録されなかったのも納得するしかない。


 藤子・F・不二雄大全集は、「『ドラえもん』全話完全収録」を売りの一つにしているので、形はどうあれ「クルパーでんぱ」も収録されたが、作者が生前に「なかったこと」にした作品を、タイトルとセリフの一部を変えてまで単行本に収録するのはいいことなのか、よくよく考えてみれば簡単に答えは出せない複雑な問題だ。
 全集の刊行は始まったばかりだから、今後も今回と同じような問題は生じるだろう。一ファンの立場としては小学館や藤子プロのスタッフに、極力F作品固有の魅力を壊さないようにと願う事しかできない。


 それにしても、全集で改竄された「おかしなでんぱ」を読んでいると、道具&電波の名前だった「クルパーでんぱ」が「おかしなでんぱ」に変わったため、電波の正体が何なのかわからなくなっており、今回が初見の人にとっては、より胡散臭く怪しげな話に見えたかもしれない。
 そもそも、あの「クルパーでんぱ発射機」(勝手に命名)のデザインが怪しすぎる。『ドラえもん』に登場した未来の道具の中でも、一二を争うほどの気色悪い形状と言っても過言ではないだろう。「おかしなでんぱ」の件は許せないが、あの道具を全集に堂々と登場させた点は、素直に評価したい。
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F全集『ドラえもん』第3巻感想

 先日、『藤子・F・不二雄大全集』第4回配本が発売された。
 今回の3冊は、今のところ巻末の特別資料室や解説を読んだ程度で、本文はまだあまりちゃんと読んでいないのだが、『ドラえもん』についてはどうしても我慢のならない事があるので、先にここで書いておく。


 もうすでにF全集を手にされた方が多いだろうから改めて説明するまでもないかも知れないが、今回単行本初収録となった「クルパーでんぱのまき」が「おかしなでんぱ」に変更されてしまっているのだ。ご丁寧にも、初出時扉ページのサブタイトルも消されている。



左・初出版、右・全集版


 当ブログの過去エントリを読んでいただければおわかりいただけると思うが、私はこれまでF全集におけるセリフ等の改変についてはある程度やむを得ないと考えていた。しかし、今回ばかりは見過ごせない。
 前述の通り「クルパーでんぱ」はF全集が単行本初収録であり、これまでガチャ子と共に存在を抹消されていたに等しい作品だった。そんな扱いだったから、今回の改竄がF先生の意志によるものではない。いや、既刊分のF全集でもF先生死後の改変と思われる部分は散見されており、それだけが問題なのではない。
 今回、私が憤っているのは、この改竄がいわば「だまし討ち」的な形で行われたからだ。F全集の公式サイトでは収録タイトルとして「クルパーでんぱ」として紹介しており(10月26日現在、未だに「クルパーでんぱ」のまま)、更にドラ第3巻実物の帯にもしっかりと「クルパー電波」と書かれている。





 ここまでしておいて、本を開いたら「おかしなでんぱ」。これでは、『ライオン仮面』の続きを読んだフニャコ先生のごとく「なんだ、こりゃ?」と言いたくなってしまう。
 第4回配本は、個人的な都合で発売日の翌日に書店で受け取ったが、発売日には既に改竄の情報がネットに流れており、本を手にした時はこわごわ、おそるおそる開いて、本当に改竄されていてガックリときた。帯にまで「クルパー」と書いておいてこれでは、詐欺だ。


 そもそも、なぜ今回のような改竄が行われたのだろう。
 単純に考えれば「クルパー」という言葉が頭の弱い人を示す「クルクルパー」を連想させる(と言うか、「クルパー」はクルクルパーから作った言葉だろう)からなのだろうが、F全集では既に『ドラえもん』第1巻の「けんかマシン」で、はっきりと「クルクルパー」が使われている。私は、これを見て「クルクルパーがOKなら「クルパーでんぱ」も大丈夫だな」と思ったので、今回の措置には合点がいかない。第1回配本と、第2回以降とで編集方針が変わったとしか考えられない。

 また、この改竄はF先生の作家性にも関わる重要な問題をはらんでいる。
 1960年代後半から『ドラえもん』初期あたりまでは、F先生の中で「クルパー」という言葉がお気に入りだったらしく、「クルパーでんぱ」以外にも『チンタラ神ちゃん』(合作)の「クルパー教」、『ウメ星デンカ』の未収録作品(手元にないので特定できず)と、やたらと「クルパー」が作品中に登場する。「クルクルパー」を縮めて「クルパー」はいかにもF先生らしい造語だし、何度も使っていたのだから先生にとってお気に入りだったのではないかと推察できる。
 いずれ、全集の第2期以降で『チンタラ神ちゃん』や『ウメ星デンカ』も刊行されるだろうが、その本の中で「クルパー」を目にする事が出来るかどうか、現状では望みは薄いと言わざるを得ない。この改竄は、F先生独特のギャグを殺してしまう、愚かな行為だ。


 今までは、F全集の「言葉狩り」は静観してきたが、さすがに今回は黙ってはいられない。近いうちに、何らかの行動を起こしたい。
 せっかくF先生の遺された作品の集大成として刊行される全集なのだから、こんなバカバカしい改竄は、これっきりにして欲しい。少なくとも、今回のケースが全集の巻末に書かれている「改訂は最小限にとどめる」に当たるとは、とても思えない。
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タイムボカンシリーズの映像を発掘

 先週、実家の物置を整理して、名古屋に移る時に片づけた物を引っ張り出してきた。
 その中に、1980年代後半に録画したタイムボカンシリーズ諸作品再放送のビデオテープがあった。ここ何年か、「どこかにあるはずだ」と自宅と実家を探していてなかなか見つからなかったが、物置を奥までほじくり返して、ようやく見つける事が出来た。

 録画の中で一番気になっていたのは、以前にこのブログでも触れた、『ヤッターマン』の中期版OP(「歌は「ヤッターマンの歌」のままで映像の一部をヤッターキング等に差し替え)だった。
 当時は、テープ代をケチって120分テープに1話目以外はOP・EDをカットして3倍モードで16話も詰め込んでいたので、使用期間の短かった中期版OPは残っていない可能性もあったが、運良く該当する第54話のOPが入っていた。





 テープのラベルには録画日が書き込んであり、それによると1989年6月に名古屋テレビで再放送されたものだった。3倍モードで20年も前のテープなので画質は良くないが、この中期版OPはDVDでも特典扱いでノンクレジット版しか収録されていない「幻の映像」なので、スタッフクレジットの入った本来の映像を再び観る事が出来ただけでも十分に嬉しい。

 ところで、この中期OPをDVDのノンクレジット版と比べると、クレジットの有無以外にも異なる点があった。それは冒頭の効果音で、DVD収録版は初代OPと全く同じ効果音&ヤッターワンの声なので映像と音が合っていないのだが、今回発掘した第54話のOPは映像に合わせて新たな効果音とヤッターキングの声が付いていた。
 と言う事は、厳密に言えば中期版OPは効果音の異なる二種類が存在するのだろうか。それとも、DVD収録版は絵しか残っていなくて、それに初代OPの音声を合わせて作ったのか。新たな謎が生じてしまった。今更ながら、放送当時に各話のOP・EDをカットしていた事が悔やまれる。中期版に変わった当初の録画が残っていればよかったのだが。
 近年刊行された各種のタツノコ関係の資料でも、『ヤッターマン』は本放送版OPが散逸しているせいでメインスタッフの正確な担当話数が一部不明となっている。こんな状態では、もはや中期OPの謎を解明する事は不可能なのかもしれない。


 他には、東海テレビで放送された『逆転イッパツマン』の録画も見つかった。
 やはり以前にこのブログで触れているのだが、『逆転イッパツマン』はDVD-BOX1では未完成版の初期OP(最後にムンムンのセリフが入っていない)が全話に付けられてしまうミスがあったので、本来は何話でOPが完成したのか確かめたかったのだ。
 この東海テレビでの放送は15分枠だったので、OP+AパートもしくはOP+Bパートと言う変則的な放映形式で、Bパートの放映日には本編冒頭に「後編」としてサブタイトルを改めて表示していた。





 こんな状態では各話に対応したOPが付いている事は期待できないかと思ったのだが、東海テレビの担当者はDVDの制作スタッフより丁寧な仕事をしており、第1話のみ未完成版OPで第2話からはムンムンのセリフが入った完成版OP、さらに新イッパツマン登場後は三冠王バージョンの後期OPへと、きちんと各話に対応したOPが付いており、未完成版OPは本来第1話のみのものだったと確認できた。


 この二つが確認できたのは、今回の物置探索の大きな収穫だった。
 他にも、1992年にテレビ愛知-テレビ東京系で放映されたアニメランド枠での『ヤッターマン』(なぜか第1話からOPが「ヤッターキング」)や、同じくアニメランド枠でOP・EDと本編まで一部カットされた悲惨な状態で流れた『ヤットデタマン』なども見つかった。
 あらためてこれらの変な状態での再放送を観ると、DVDで全話が観られる現在はなんと幸せなのだろうと思ってしまう。


 ちなみに、タイムボカンシリーズ以外にも、1989年にCBCで再放送された『ふしぎなメルモ』が6本ほど見つかったのも収穫だった。現在、『ふしぎなメルモ』は音声を入れ替えたリニューアル版しかDVD化されていないので、一部とは言え本来の音声で観られるのは嬉しい。やはり、ワレガラス先生の声は北村弘一氏がしっくりくる。メルモ役の武藤礼子さんもいい。この二人とも既に故人なのは残念だ。
 昔はCBCではあまりアニメの再放送は行われておらず、1989年の夏休みに突如として『メルモ』を放送したのだが、前年に同局で放映された『テレビ探偵団』の手塚特集で『メルモ』がリクエスト第1位だったことを受けてのことだったのだろうか。
 1990年代に入ってCBCはさらにアニメに力を入れるようになり、テレビアニメやOVAの放送が増えて、さらには自社制作作品を全国ネットで流すようになるが、そのきっかけがこの『メルモ』だったのかもしれない。


 それにしても、昔のビデオテープは再生してみないと何が入っているか分からず、つい見入ってしまう。まだ中身を確認していないテープが何本かあるので、思わぬ映像が残っていないかどうか、見てみるのが楽しみだ。
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『手塚治虫漫画全集』の「言葉狩り」

 前回の記事で触れたが、『藤子・F・不二雄大全集』では出版側の自主規制によるセリフの改変、いわゆる「言葉狩り」がいくつか見受けられる。
 これが気になっているのは私だけでは無いようで、ブログや各所の掲示板ではこの件について指摘する書き込みをよく見かける。

 そんな中でちょっと勘違いしている人が多いのかなと思うのは、手塚作品との比較だ。
 今年出版された復刻版の『新寳島』などと比べて、手塚作品はオリジナルのまま出版されているのに、F全集は自主規制があって残念だと言う意見を見かけるが、復刻版『新寳島』は比較対象としては不適当だと思う。
 たしかに『新寳島』は極力原本そのままに復刻されており、「人喰人種」などの章題も元のままだが、数多く出版されている手塚作品の単行本の中でこのような例はごくわずかで、現在流通している手塚単行本のほとんどは、生前の著者の手によるものも含めて、「差別用語」の部分は改められている。
 そして、現在出版されている手塚作品は『手塚治虫漫画全集』(以下「手塚全集」)を底本とするものがほとんどなので、F全集との比較をするならその対象は手塚全集にすべきだ。


 それでは、手塚全集の「言葉狩り」状況はどうかというと、これがかなりひどい。
 第3期の300巻までは手塚先生の生前に刊行されたので著者の意向が反映された改変と判断できるが、機械的な言葉の置き換えが多く、内心では嫌々改変していたのかなと勘ぐりたくなる。一例を挙げると、『ブッダ』の第2巻では、元は「きちがいの山賊だっ」だった部分が「精神異常者の山賊だっ」と変えられて、不自然なセリフになっている。
 同様な例は『火の鳥』第2巻にもある。近親婚の問題点について述べる場面で、元は「カタワやコケ(低能児)が生まれるおそれがある」だった部分が「身体障害者や精神障害者が生まれるおそれがある」となってしまい、実に不自然だ。
 『火の鳥』の方はセリフ回しに無理がありすぎたせいか、角川書店版で再度「ケダモノと同じでゆがんだ子が生まれるおそれがある」と変更された。手塚全集も、現在はこちらに統一されている。

 機械的な改変で、忘れてはいけないのが『鉄腕アトム』の「赤いネコの巻」だ。サンコミックス版までは「四足教授」だったキャラクターが、手塚全集ではなんと「Y教授」になってしまっている。他にそれらしい名前を付ける事は出来たはずなのに単なるイニシャルにしてしまうあたり、自主規制への作者の精一杯の抵抗が見受けられる。
 こちらも、Y教授ではあんまりだと言う事なのか、手塚全集以降に出たサンデー・コミックス版などでは「猫又教授」とされている。ちなみに、1980年版のアニメでも「根子股教授」と言う名前だった。


 ここまでで挙げた例は、作品の一部のセリフが変えられた程度だが、全編に渡って単語の置き換えが多く、元版とかなり印象が変わった作品もある。
 それは『どろろ』で、この作品では百鬼丸の身体が不完全かつどろろが百姓出身の野盗の子であり、さらに戦国時代を舞台としているため、手塚全集以前に出版されたサンデー・コミックス版では「差別用語」があちこちに出てきたが、手塚全集ではそれらが全て穏当な表現に改められて、「百姓」も「農民」に変えられた。
 これが現代を舞台とする作品であれば改変も理解できるが、戦国時代に「百姓」という言葉を使わなかったり、登場人物全員がわざわざ障害者に配慮した言葉遣いをしているのは不自然だ。どろろや百鬼丸は見下されて蔑まれる立場なのに、そんな配慮がされるわけがない。
 こんな状態なので、『どろろ』を読むのであれば、手塚全集以降に出た単行本はおすすめ出来ない。古いサンデー・コミックス版を読んだ方がいいだろう。現在の版は手塚全集と同じ内容なので、注意が必要だ。カバーの定価が320円以下の時期の版なら大丈夫だろう。
 皮肉な事に、現在オリジナルに近い『どろろ』に触れられるのは、原作の単行本ではなくてアニメ版の方だ。音声カットなしのDVD-BOXやCSの再放送ならば、1クール目は脚本なしで原作から直接アニメが制作されたので、ほぼオリジナルの原作に忠実なセリフが聞ける。DVD-BOXは廉価版が1万円を切る安さなので、おすすめだ。


 他に、セリフの改変が多い手塚作品としては『ブラック・ジャック』も見過ごせない。
 悪い改変の例として、よく「木の芽」のエピソードが槍玉に挙げられるが、私もこれはあんまりだと思う。例によって機械的な言葉の置き換えで、「カタワ」が「病人」に変えられたので、ブラック・ジャックが「カタワということば 二度と使うな」と激高する印象的な場面が「病人ではない!!」となってしまい、これでは台無しだ。セリフ変更後の版を読んで、思わず「え、病人でしょ?」と突っ込みを入れたくなってしまった。
 『ブラック・ジャック』は、医者をテーマにして多くの病気を扱っているだけに、デリケートで気を遣わなければならない表現が多くなったのだろうが、意味合いが全く違ってしまうようなセリフの変更はやめて欲しかった。なお、「木の芽」は手塚全集では第4期刊行の第22巻に収録されており、このセリフ変更は手塚全集よりも少年チャンピオンコミックスの方が先行していた。
 また、すでにご存じの方も多いかと思うが、『ブラック・ジャック』は手塚全集を含めて、全話完全収録した単行本は存在しない。手塚先生の生前に未収録だった話も大半は何らかの形で補完されたが「植物人間」「快楽の座」の2話は未だに封印状態が続いている。この件について触れると長くなるので、興味のある方は「封印作品の謎」を読まれるといいだろう。



 と、ここまでだらだらと「自主規制」の例を書き連ねてきたが、これで手塚作品も自主規制と無縁でない事を分かっていただけたと思う。もちろんここで挙げた例は全体のごく一部で、他にも改変された例はたくさんある。藤子ファン兼手塚ファンの私としては、「手塚作品は規制なしで恵まれている」と誤解されている状況には一言言いたくて、つい長々と書いてしまった。『新寳島』のような完全復刻は、あくまで例外なのだ。
 もっとも、その「例外」で『鉄腕アトム《オリジナル版》復刻大全集』という大ボリュームのものが出てきたので、ある程度は手塚作品の方が恵まれているとは言えるかもしれない。
 いずれにしても、F全集の自主規制を全て肯定する気は毛頭ない。前回も書いたとおり、無理のある変更はやめて欲しいし、そもそもなるべく変更がないのが一番だと思う。ファンとして、F全集の今後はあったか~い目かつ厳しい目で見守っていきたい。



10/13追記

 コメント欄で情報をいただいたので確認したが、残念な事に『鉄腕アトム《オリジナル版》復刻大全集』は初出そのままの復刻ではなく、いくつか自主規制されている事が確認できた。少なくとも「アトム赤道を行くの巻」「美土路沼事件の巻」に「差別用語」の改変が存在する。「オリジナル版」と銘打っているだけに、このような改竄行為が行われているのは非常に残念だ。
 なお、今回のエントリではいわゆる「差別用語」を多く使っているが、私自身には差別の意図は全くなく、あくまで作品改変の例として挙げたものであるので、ご理解いただきたい。また、このエントリは最初、実家に帰省中で手元に単行本がない状態で書いたので、一部引用したセリフに不正確な部分があった。その部分は、自宅で単行本を確認して直しておいた。
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F全集『オバケのQ太郎』第2巻感想

 『藤子・F・不二雄大全集』第3回配本の発売から、はや半月が経った。
 ちょっと遅くなったが、まずは『オバケのQ太郎』第2巻から、感想を書いておく。


 第2巻の感想を一言で言うと、「面白い」に尽きる。第1巻は連載初期の話が収録されたので、作品の形が落ち着くまでの試行錯誤の跡が見受けられたが、2巻になるとQちゃんと正ちゃん、大原家の面々と言ったメインキャラクターの性格や立ち位置も固まってきて、作風が安定している。
 本作の面白さの要素は色々と挙げられるが、特にQちゃんと他の登場人物との会話のやりとりが抜群に面白い。Qちゃん本人はいたって真面目なのに人間界の常識を知らないが故の話の「ずれ」がとぼけた笑いを生み出している。
 個人的に、2巻で一番好きなのは「うそつきはだれだ」でのパパとの会話だ。「クリーニングのうたがいがかかってるんだ」から「さすがはわしの子だ」までの流れは、何度読んでも笑える。その2ページ前の「パパがガチョウになったよ」も吹き出しの中のガチョウパパの絵とも相まって、いい味を出している。
 他にも、会話のずれによるおかしさで笑える部分はたくさんあるが、これをいちいち挙げていくと、それこそきりがなくなってしまう。

 また、私がこれまで一番よく読んだ『オバQ』の単行本はてんとう虫コミックス版全6巻だった。今回の全集版2巻はてんコミ収録作品の割合が高くなり、なじみのある作品が多くなったので、その点でも1巻に比べてより親しみを感じる。
 そんなわけで、この第2巻は発売から半月でもう何回も読み返している。『オバQ』はFFランド版も全20巻中の17冊までは持っているので、これまでもそれなりの作品数を読む事は出来たのだが、今回のように雑誌ごとに発表順にまとめられると、また新鮮な気持ちで読む事が出来る。
 逆に言えば、FFランド版の編集のいい加減さを再認識する事にもなった。連載初期の話がいくつか終盤の巻に収録されていたり、ドロンパ初登場の「アメリカオバケ」を収録した8巻以前にドロンパが登場する話を入れてしまったりと、もうちょっと何とかならなかったのかと思ってしまう。

 そう言えば、「アメリカオバケ」は少年サンデーではなく「小学五年生」に掲載された話だから、全集第1期の5巻までには入らないわけか。てんコミでは第1話の次に「ライバルをけおとせ」が収録されており、Qちゃんの大原家住みつきエピソードとして馴染み深かったが、これも掲載誌は「小学三年生」なので収録は第2期だろう。おなじみの話が抜けているのはちょっと気になる。
 これまでの単行本では、著者自身の意向を汲んだ上で各誌掲載分が入りまじっていたわけで、今回の掲載誌別での収録は、ある意味では著者の意志を無視したからこそ出来たと言える。『オバQ』にせよ『ドラえもん』にせよ、FFランドを含めてこれまでのような編集方針では全話網羅は難しいだろうから、この点に関しては天国のF先生に「ごめんなさい、どうしても全作品まとまった形で読みたいんです」と、読者も編集者も謝っておいた方がいいのかもしれない。


 また、「著者の意志」と言えば、無視できないのがいわゆる「差別用語」の改変だ。全集の巻末には「改訂は最小限にとどめる」とあるが、これは裏を返せば「やむを得ない部分は改訂する」と言っている事になる。
 実際、2巻ではいくつか、生前のF先生の手が入っていないと思われるセリフの変更がある。例えば、「ニコニコ運動」では「エヘラエヘラ」と笑う、どう見ても頭がおかしい人物に対して、正ちゃんは「あれで痛くないのかな?」と言っているが、さすがにこれは不自然だ。この話はてんコミ未収録だが、FFランド版では「少し病気なんだ」となっている。
 これ以上古い版となると虫コミだが、残念ながらこちらは持っていない。正ちゃんが頭を指さしているから「パーなんだ」くらい言っていても不思議ではない。これは機会があれば、確認してみたい。
 他には「戦争はおわったのに」で、Qちゃんと正ちゃんが足跡を見て「怪物かもしれない」と怖がる場面も無理がある。あの大きさで怪物はないだろう。元は「人食い人種」だが、『パーマン』の「怪獣さがし」のように「こわい人」にしてしまうと、「こっちが食べものになっちゃうぞ」につながらなくなるので怪物にしたのだろう。
 作品が全集にまとまり今後も読み継がれていく事を考えれば、改変せざるを得ない部分があるのは理解できるが、本当に極力最小限にとどめて、今回見受けられたような不自然な部分は無いようにして欲しい。


 ともかく、『オバQ』第2巻は本当に面白い。こんなすばらしい作品が20年間も単行本が入手困難だったのだから、本当に勿体ない事をしてきたものだと思う。未収録作品を含めて、続巻がますます楽しみになってきた。
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