一つの別れ

 2月2日、父が亡くなった。
 ごく個人的なことであるので、ここに書くかどうかは迷ったのだが、私の人生において大きな節目の一つであることは間違いないので、書いておくことにした。また、ここに書くことで一区切りとしたいという気持ちもある。

 父は昨年5月から入院していたのだが、12月に状態が急変した。誤嚥性肺炎になってしまったのだ。その名の通り、食事の時に誤嚥してしまったことが原因で、それからは寝たきりとなってしまった。それまでは、まだすぐに亡くなるという状態でなかった。
 コロナの感染拡大のこともあって、面会はできない状態だったのだが、今年に入って病院から連絡があった。もうかなり危ない状態なので、会いたい人があれば面会してもいいですよと言われたので、母と妹と一緒に面会に行った。父はかなりやせ細っており、見るからにつらそうな状態だった。結局、その時も含めて2回面会に行ったが、その後に亡くなったのだ。

 私の気持ちとしては悲しいことはもちろん悲しいが、面会に行った時のつらそうな状態を見ていたので、やっと解放されたんだなと言う気持ちもある。親を亡くすと言うことが初めてであり、何とも言いがたい感情だ。
 きっと、もっと時間が経ってから、ふと父のことを思い出して、寂しくなるのではないだろうか。今月中は、役所などに何度も行って疲れた状態で、悲しんでいる暇もない感じなのだ。本格的に悲しくなるのは、もっと落ち着いてからのような気がする。

 この文は、最初は父の状態などもう少し詳細に書いていたのだが、考え直してこのような内容とした。母が倒れた時のことを書いたときにも思ったが、身内のことを書くのは難しい。
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『モジャ公』を語る

 『モジャ公』は、私にとっては特別な作品だ。
 私は藤子・F・不二雄作品全般を愛読しているが、そんな中でも『ドラえもん』以外にもう一作をあえて挙げるとしたら、私は『モジャ公』を選ぶ。そのくらい好きな作品だ。今回は、そんな『モジャ公』について、語ってみたい。

 『モジャ公』との出会いは、中学生の時だった。
 「藤子不二雄ランド」を集め始めた最初の頃に出会ったタイトルで、購入したのは「知らないタイトルだったから」。あえて、それまで読んだことがなかった作品を選んで買ってみたわけだが、これが大当たりだった。モジャ公・空夫・ドンモの三人が繰り広げる奇想天外な宇宙冒険に、たちまち夢中になった。最も熱中していた頃は、一日に何回も読み返していたほどだ。
 それほど私を惹きつけた『モジャ公』の魅力とはなんなのだろうか。それは、やはりSF作品としてよくできていると言うことだろう。「ナイナイ星のかたきうち」における「種族が違うと顔が見分けられない」と言う目の付けどころや、「自殺集団」で繰り広げられるフェニックスの人々の狂躁、「地球最後の日」の一種独特な終末感、いずれも非常にユニークな発想と話の転がし方のうまさで、何度読んでも面白いのだ。

 そんな中で、「天国よいとこ」は、「偉大なる失敗作」だと思っている。と言うのも、この話で作者の藤子・F・不二雄先生がやろうとしていたことはわかるのだが、それが上手くいっていないと感じるからだ。
 「天国よいとこ」では、心が体を離れて独立している「シャングリラ人」が描かれている。シャングリラでは脳にニセの情報を送ることによってモジャ公や空夫は騙されて、天国のような暮らしを楽しむことになるのだが、ただ一人ロボットであるドンモだけは脳を持たないために生物のように「騙す」事はできず、結果としてドンモがシャングリラのからくりを見破ることになる。
 この発想はすばらしいのだが、話の後半でこのドンモの設定が消えてしまい、ドンモまでシャングリラの作り出す幻の宇宙船に騙されるようになってしまう。これは、残念だ。話の肝となるはずだった「ドンモの視点」が消えてしまっているのだ。
 ほかに、シャングリラの幻が生物の体に与える影響についても、混乱が見られる。あくまで幻は幻であるので、生物に直接的な影響はおよぼさないはずであった。しかし、話の終盤ではモジャ公たちを燃えたぎる火の中に落として殺そうとするのだ。この火はシャングリラの設備が破壊された後に消えたので、幻であったのは間違いない。そうであれば、モジャ公たちが落とされたところで死ぬことはなかったはずだ。
 さらに、シャングリラの設備の破壊についても、おかしなところがある。シャングリラ人は実体を持たないはずなのに、どうやって「コントロールセンターの配線をずたずた」にしたのだろうか。ここも、疑問が残る。
 このように、「天国よいとこ」には多くの矛盾点と疑問点があり、最初の構想が完遂できなかったと思われる点において、残念だった。この話が「偉大なる失敗作」なのは、こういう理由からだ。実を言うと、『モジャ公』のアニメ化が決まった時に、もしかしたら「天国よいとこ」の矛盾点を解消してアニメ化されるのではないかと少し期待した。しかし、残念ながら「天国よいとこ」はアニメ化されなかった。それどころか、『モジャ公』原作全エピソードのうち、アニメ化されたのは「さよなら411ボル」のたった一編だけという結果に終わってしまった。これは、残念だった。

 さて、『モジャ公』の単行本はいくつか刊行されているが、そんな中で「不死身のダンボコ」は、収録されたりされなかったりしているエピソードだ。初出時の最終話であるものの、一番最初の単行本である虫コミックスで省かれてしまったのをはじめとして、次のサンコミックスでも省かれた後に、藤子不二雄ランドでようやく初めて収録されたが、あくまで単行本での最終話は「地球最後の日」と言う位置づけだったようで、「不死身のダンボコ」は「地球最後の日」の前に配置されている。これによって、話のつながりが悪くなったのは否めない。「不死身のダンボコ」のラストで宇宙船を手に入れたはずの三人が、次の「地球最後の日」では、なぜかツアーに参加しているのだから。
 とは言え、「不死身のダンボコ」も、藤子不二雄ランド収録時にわずかではあるが加筆修正もされており、ちゃんと藤子・F・不二雄先生の手を経て単行本に入っている。
 なお、「地球最後の日」は、藤子不二雄ランド版までは、ほぼ初出通りの結末で収録されているが、中公愛蔵版刊行時に結末が描き改められて、より「最後」らしくなった。ただ、この描き換えは賛否両論だろう。個人的には、あっさり宇宙へ家出して終わる描き変え前の方が好みだ。描き変え後は、なぜかモナさんが三人の事情を知っているふうであったりして、無理を感じるところもある。

 そして、『モジャ公』の最新単行本となるのが、藤子・F・不二雄大全集版だ。
 この版は、それまでどの単行本にも未収録だった連載第2話や「たのしい幼稚園」版全話を収録するなど、「ほぼ完全版」と言っていい内容だ。ここで「ほぼ」と言ったのは、これでもまだ収録されていない部分が存在するからで、「地球最後の日」において、地球に戻ってきた時に空夫にタイム・ロックの説明をする内容が1ページ分、単行本では省かれているのだ。
 この部分が省かれた理由はわからないが、あえてタイム・ロックについて踏み込んだ説明は必要がないと判断されたのだろうか。昔の単行本はページ数に制限がある場合も少なくなかったので、この場合もそのためかもしれない。
 ともかく、ここさえ収録されれば大全集版を「完全版」と言ってもよかったと思うので、ちょっと残念ではある。

 ここまで、『モジャ公』について色々と語ってきたが、もしこの作品をご存じでないという方には、ともかく読んでみていただきたい。本当に、面白いのだ。今から読むなら、藤子・F・不二雄大全集版がベストだろう。と言うか、これ以外の単行本は絶版か品切れだと思われる。
 ともかく、生活ギャグSFを得意とする藤子・F・不二雄先生としては珍しい宇宙冒険物であり、その点でも見逃せない作品だ。
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2020年の終わりに

 あと少しで、今年も終わりとなる。
 このブログでは毎年恒例の、一年のまとめを今年も書いておきたい。

 今年も、一年間で色々なことがあった。それは間違いないのだが、とにかく新型コロナウィルスに振り回されたという印象が強い。
 趣味の事柄だけでも、春のドラえもん映画「のび太の新恐竜」が延期になり、玉突き状態で夏に予定されていた「STAND BY ME ドラえもん 2」まで延期になった。結局、2作とも年内に公開されたが、例年のような盛り上がりに欠ける面は否めなかった。
 コロナのせいで公開が延期になった映画はドラえもんだけではない。多くの作品が、当初予定していた公開日より遅く公開されることとなった。私が今年観た映画で、ギリギリ予定の公開日そのままで公開できたのは「劇場版 SHIROBAKO」くらいだ。この作品にしても、公開自体は予定通りだったが、舞台挨拶が中止になってしまった。舞台挨拶のチケットは当たっていたので、残念としか言いようがない。
 映画だけでなく、テレビアニメも大きく影響を受けた。春開始の作品のいくつかが冒頭の何話かを放送したところで中止となり、夏以降に延期となったほか、夏以降に予定されていた作品でも1クール以上放送予定が遅くなった作品もいくつかあった。NHK総合の深夜枠では、中止になった作品の代わりに『未来少年コナン』のリマスター版が放映されたが、これは思わぬ収穫だった。個人的には、上下カットのなんちゃってビスタサイズでなければなおよかったのだが。
 1クールの深夜アニメだけでなく全日帯のアニメも影響を受けており、『ドラえもん』は半年にわたって新作と再放送のカップリング放送が続いたし、『ヒーリングっど♥ プリキュア』は予定されている放送期間から推測して何話か削減されたであろうことがわかる。
 おそらく、表に出ていなかった計画中の作品も影響を受けたのだろうが、これは確かめようがない。

 個人的な趣味の範囲だけでも、これだけのコロナ影響があったのだし、社会全体が受けた影響は、おそらく計り知れないほどのものがあるだろう。
 幸いにして私は一応普通に生活できているが、世の中にはコロナにかかってしまった人もいるし、かからなくてもコロナの影響で職を失った人もいる。住む家があって生活していけるのは、恵まれた状態なのだと思う。

 趣味の分野での振り返りを続けよう。
 『ドラえもん』に関しては、作品の誕生から50周年と言うことで、記念出版物やグッズなど様々なものが出て、盛り上がりを見せた。
 中でもいちばんの目玉は「100年ドラえもん」であろう。これまで、当ブログでも触れていなかったが、正直言ってこれを買うかどうかは非常に悩んだ。悩みに悩んだ末、とりあえずは買わないことに決めた。色々と理由はあるが、最大は中身が今のてんとう虫コミックスと変わらない事だ。税込77,000円出して、中身がてんコミのものを買うことには、どうしても抵抗があった。豪華特典が付いていても、だ。
 また、単純に置き場所がないというのも理由の一つだ。下手に買うと、「ジャイアンへのホットなレター」のオチののび太の部屋みたいに、自分の居場所がなくなってしまう。ただでさえ、自宅が本であふれそうな勢いなのだ。そこに45冊+3冊が増えるのは、さすがにきつい。
 そんなわけで、「100年ドラえもん」は購入しなかった。もちろん、人間どこで心変わりがあるかはわからないので、ある日思いたって買ってしまうかもしれないが、そこは「あったか~い目」で見守っていただきたい。
 そう言えば、「ドラえもん未来デパート」には、まだ行けていない。そもそも、今年一度も東京に行っていないのだから、未来デパートどころの話ではない。ようやく完成したトキワ荘ミュージアムにだってまだ行っていないのだ。来年は、ぜひこれらの場所に行きたいが、コロナの終息がいつになるやら。これを書いている12月31日の時点で、東京の新規感染者が1,300人超などと言うのだから、全く楽観はできない。
 ドラえもんに関しては、映画のWOWOW一挙放送が私にとって非常に貴重なものだったが、これに関してはすでに当ブログでも取り上げているので、割愛する。

 と、ここまでだらだらと書いてきたが、とにかく来年は事態が少しでもよくなることを願う。
 GO TO トラベルとかは別になくていいから、とりあえず気兼ねなしに普通に東京-大阪間を往来できるようになってほしい。と、言うことはやはりコロナの感染拡大が収まらないと、どうにもならないな。
 願わくば、来年が人類にとって、よい年でありますように。
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映画ドラえもんの原点

 毎年、映画ドラえもんの新作を観るたびに、このブログで感想を書いている。今年はちょっと公開日が変わってしまったが、基本的には毎年3月の年中行事として、すっかり私の中では定着している。

 そんな映画ドラえもんについて、そのはじまりを振り返って書いてみようというのが、本稿の目的だ。
 そんなことを思ったのは、先日発売になった『映画ドラえもん超全集』を読んで、あらためて映画ドラえもんの一作一作について思いを馳せたのが影響している。また、2~3月にはWOWOWでの映画ドラえもん一挙放送があって、藤子・F・不二雄先生の原作がある「のび太のねじ巻き都市冒険記」までは観返しているというのも大きい。やはり、映画は実際に観てこそだと思う。
 そんなわけで、私にとっての映画ドラえもんのはじまりを振り返ってみる。



・ドラえもん のび太の恐竜

 記念すべき映画ドラえもん一作目。同時上映はこの年のみ藤子アニメではなく「モスラ対ゴジラ(短縮編集版)」。
 私が生まれて初めて映画館で観た映画だ…と書きたいところなのだが、これがよくわからない。はっきり言うと、幼すぎてはたして映画館に行ったかどうか、全く記憶にないのだ。なにしろ、私がまだ4歳の時のことなので、無理もない。
 ただ、原作にあたる大長編ドラえもんに関しては、「映画まんがドラえもん のび太の恐竜」のタイトルでカラーコミックスとして刊行されており、これは発売時に買ってもらったらしく、昔から家にあった。だから、「生まれて初めて読んだ大長編ドラえもん」は「のび太の恐竜」で間違いない。おそらく、一冊丸ごとの長編漫画を読んだ最初の体験だと思う。
 このカラーコミックス版をそれこそ数え切れないほどに読みたおしたために、未だにてんとう虫コミックス版での加筆部分に違和感を覚えてしまうのは、困ったものだ。
 なお、テレビ放送のアニメ『ドラえもん』は、すでに観ていたと思う。なぜなら、放送2年目に放映枠が1時間繰り下がって9時30分からになったときに、「これで寝坊しても『ドラえもん』を観られる」と、喜んだ記憶があるからだ。放送1年目も観ていたのは間違いない。
 このように、映画館に行ったかどうかははっきりしないが、おそらく秋のテレビ放送は観ただろうから、「生まれて初めて観たドラえもん映画」だと言っても差し支えはないだろう。
 その後、大人だけのドラえもんオールナイトなどをはじめとして、何度かリバイバル上映を観る機会はあったので、その時にはちゃんと劇場のスクリーンで観ることはできた。やはり、恐竜が動く姿はスクリーンで観てこその迫力だと思う。
 この映画は何度も観ているので、記憶に残っているシーンも数多い。ピー助のタマゴの化石を発見したときののび太のダンス、白亜紀最初の夜のジャイアンリサイタル、のび太たちの乗った恐竜が歩く躍動感あふれるシーンなどなど、挙げていくときりがない。
 この作品に、物心が付いた頃に触れられたのは、幸せな体験だったのだなとあらためて思う。この作品が、藤子不二雄ファンとしての私の生き方を、ある意味では決めたのかもしれない。



・ドラえもん のび太の宇宙開拓史/怪物くん 怪物ランドへの招待

 映画ドラえもん第2作は、豪華な2本立て。『ドラえもん』だけでなく『怪物くん』もテレビに登場して半年で、人気が盛り上がってきていた時期だ。
 この2本立てについては、間違いなく映画館で観た。これは、はっきり記憶しているし、挿入歌として流れた「心をゆらして」とエンディング曲の「ポケットの中に」の2曲に感激して、後日テレビ放送が行われた時にはこの2曲をカセットテープに録音したくらいなのだ。
 映画ドラえもんで一番好きな作品はと聞かれたら、私はこの「のび太の宇宙開拓史」を挙げる。前述の「心をゆらして」が流れるのび太たちとコーヤコーヤ星との別れのシーンが非常に感動的で、強く心に焼き付いているのだ。
 これは原作にも反映されており、てんとう虫コミックスでの加筆時に「心をゆらして」の歌詞の出る場面が足されたのは、映画と同じく別れのシーンだった。藤子・F・不二雄先生も、歌詞を入れるならここしかないだろうと思われたのだろう。
 この作品は、特にクライマックスの部分で原作と映画で異なるところがけっこう多い。一番よく言われるのは、のび太とギラーミンの一騎打ちがなくなっており、ロップルくんがギラーミンを撃つというようになっているところだろう。のび太の格好いいシーンを期待した人から不評なのはわかるが、私は映画版にも思い入れが強いので、映画はロップルくんの物語としてこれはこれでいいのかだと思っている。
 なお、エンディング曲「ポケットの中に」は1番のみが流れるのだが、ビデオ版ではなぜかサビの部分のみ2番に差し替えられており、これが長い間不満だった。現在では、Amazonプライムで観られるバージョンや、WOWOWのリマスター版は1番に戻っている。と言うより、これがオリジナルなのだから聴けて当然だ。
 同時上映の「怪物ランドへの招待」についても触れておこう。先ほど、『怪物くん』はテレビに登場して半年の時期だと書いたが、少なくとも映画を観に行くような層にはすでに大人気だったようで、オープニング主題歌の「ユカイツーカイ怪物くん」が流れると、場内の子供たちの大合唱になって驚いたと、一緒に観に行った母がよく言っていた。
 尺は「のび太の宇宙開拓史」には及ばないものの、それでも75分あるのだからボリュームは十分だ。はじめてお披露目となった怪物ランドでの冒険であり、怪物大王と怪物くんの親子の葛藤、戦怪族とのバトル、ヒロシとの友情など見応えは満点だ。この作品が未だにDVD化されていないのは、全く納得がいかない。テレビアニメのDVD-BOXに同時収録するか、単発でもいいから近い時期に発売すればよかったのにと今でも思う。




 最後に、映画パンフレットと原作にあたるカラーコミックスを紹介しておこう。
 「のび太の宇宙開拓史」のみパンフのサイズが大きく、また切り抜いて遊ぶようになっているため、現在では多少レアになっているらしい。古書店で見かけたら確保しましょう。
 この2作(「怪物くん 怪物ランドへの招待」を入れると3作)については本当に思い入れが強いので、本気で語り出したらいくら字数があっても足りないくらいだ。今回は、簡単にではあるが振り返ってみることで、私にとっての「映画ドラえもん」の原点を再確認することができた。特に2作に限定したのは、本文中にも書いたように「最初に映画館で観た作品」が2作のどちらであるかはっきりしないという事情があったためだ。
 もちろん、「のび太の大魔境」以降の作品についても、色々と思い出は尽きない。いずれまた機会があれば語ってみたいが、とりあえず今回はこれで終わりとする。
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「STAND BY ME ドラえもん 2」感想

 先日、映画「STAND BY ME ドラえもん 2」が、公開された。
 今年公開されたドラえもん映画としては、8月の「のび太の新恐竜」に続いての2作目だ。さっそく観てきたので、感想を書いておく。例によって、結末を含めて映画の内容に思いっきり触れているので、未見の方はご注意いただきたい。


 さて、本作の感想を一言で言うと、「思ったよりよかった」。
 いや、本当にこうとしか言いようがないのだ。前作「STAND BY ME ドラえもん」は、個人的にはかなり低評価を付けざるを得ない作品だった。短編ドラえもんの、いわゆる「感動作」と呼ばれるエピソードを、映画オリジナル要素の「成し遂げプログラム」で無理につなげて一本の映画にした作品という印象があった。キャッチコピーに使われた「ドラ泣き」も、なんだか押しつけがましくて、好きにはなれなかった。
 だから、その続編である本作も、正直言ってあまり期待していなかった。キャッチコピーも、やはり「ドラ泣き、再び。」だし、一作目と同じ路線の作品なら私にとってはダメなんだろうなと思っていたのだ。

 しかし、実際に観てみると、予想はいい意味で裏切られた。
 本作も、確かにドラえもんの「感動作」短編を元にした映画ではあるが、前作のように「無理に話をつなげた」感じはなく、オリジナル要素が一本芯の通った形になっていて、短編を元にしつつ新しい話を作り上げることに成功しているのだ。
 そのオリジナル要素とは、ズバリ「のび太・しずかの結婚式」。原作では結婚前夜のみで、実際の結婚式は描かれていない(「宇宙完全大百科」で写真のみ登場)のに、映画であえて描いてしまうのはどうかと思う向きもあるだろう。だが、本作の結婚式は、「この二人の結婚式なら、きっとこんな感じなんだろうな」というファンの空想を、見事に形にしている。きっと、ジャイアンは余興に歌を歌うだろうし、ジャイ子はお祝いに絵を描くだろう。それに、作中でクライマックスとなっているのび太からの挨拶は、たしかにこんな感じだろうとしっくりくるものだった。
 さらに、本作は結婚式を描いているだけではなく、「現代」の子供のび太と「未来」の大人のび太が複雑に交錯するタイムパラドックスSFとしての面も持っている。大人には観ていて楽しいが、子どもが観るとちょっとわかりづらかったかもしれない。そういう点で、やはりこの映画は「大人向け」の面がある。

 本作は、「おばあちゃんのおもいで」「ぼくの生まれた日」「45年後……」の、3本の短編をベースにストーリーが作られているが、前の2本はまだ原形をとどめているのに対して、「45年後……」については子供と大人ののび太が入れ替わるという基本設定だけが使われて、話はほぼ別物になっている。だから、「45年後……」の映像化を期待して観ると、裏切られた気持ちになるかもしれないので、要注意だ。
 ただ、話はほぼ別物ではあるが、「45年後……」の設定を使った「のび太の入れ替わり」は、作中で最も重要な要素と言ってもいい。なにしろ、映画オリジナル設定で、「入れかえロープ」を使って1時間が経つと、入れ替わった両者の記憶が消えてしまうと言う非常に重大な欠陥があることになり、その結果としてのび太がダメになってしまいそうになるのだから。
 「ワスレンボー」のせいで、大人のび太も事件の顛末を知らないため、非常に展開はスリリングだ。ある意味、「ワスレンボー」が物語の鍵を握る道具になっていた。そう、今回は「わすれろ草」や「ワスレバット」ではなく「ワスレンボー」なのだ。
 それにしても、クライマックスの「のび太のおばあちゃんをタイムマシンで連れてきて、結婚式を見せる」という展開は、思い切ったことをしたなあと思う。やるならここまでやらないと、と言うことなのだろうが、おばあちゃんがタイムマシンに乗っている図を想像すると、シュールですらある。

 本作は、本筋のストーリーも見応えがあったが、色々な小ネタも効いていた。
 私がいちばんツボにはまったのは、「未来の2000円札が手塚治虫先生」というところだ。肖像ではなく手塚先生の漫画に出てくる自画像が使われているというのも笑えるし、よりによって2000円札というのも笑いどころなんだろう。もちろん、手塚プロダクションの許諾は取られており、エンディング・クレジットではスペシャルサンクスとして手塚プロがクレジットされている。
 さらに、カムカムキャットフードでおなじみの「ラーメン富士」も登場しており、店員がなぜか勉三さんと言うところも注目ポイントの一つだった。他にも、ちらっと映る店の看板などに藤子ネタが満載で、コマ送りで確認したくなった場面も多くあった。

 と、いった感じで、本作は観る前の期待値の低さに反して、十分に「ドラえもん映画」として楽しめる作品だった。
 どちらかと言うと、原作短編ネタよりもオリジナル要素の割合が大きいので、「F先生があえて描いていない結婚式を勝手に描いてしまうとはけしからん!」というような考えの人にはお勧めできないが、「オリジナルでも出来がよければいいよ」と言う人には、ぜひご覧いただきたい。
 本作に関しては、前作を観たことによって「このシリーズは期待できない」と思っている人もいるかもしれないが、一本の映画として前作より遥かにまともな出来になっているので、前作のことは忘れたほうがいいと思う。そんな作品だった。
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