古びれた歴史の宿に夏一夜
家内は毎朝5K~6K位は歩くとようだ。主に街中を中心に散策するようだが、街の中の宿泊施設はほとんどホテル始めビジネスホテルが存在する中、時代かかったレトロな旅館の「飯山館」がある。今、この古めかしい旅館が流行っていると聞く、人々は古めきの歴史感を味わいたのであろうと思う。この旅館は、私共商いをしている時代、先代の時代からの70~80年の長いお付き合いだった。確か、私が子供時代は「中島館」と名乗っていたような気がする。今は、数台目かの若夫婦がインターネットを駆使して頑張っている。
感じたる大正ロマンや苔の花
本町商店街の市役所に通ずる横道筋に、左の歴史観のある石碑がある。その石碑には「飯山町道路元漂」と彫られていた。傍の看板には「下水内群飯山町道路元漂」道路の起終点を示す「道路元漂」は旧道路法施行第九条(大正八年)の規定にづき、各市町村に一個を置くと定められました。旧飯山町の史誌によるとこの元漂は「本町街道」として「県道谷街道飯山地積本町元漂所在地ヨリ西二分岐シ、鉄砲町を経テ奈良沢地積二至り群道予定線中道街二連絡スル道路」と記されています。この道路の元漂は、今から約百年前に設置されたものでありますと記されていた。
涼しげの歴史染めたるゆるき坂
右は飯山城址に通ずる北側の上り道だ。やはり、傍に建ててあった説明看板には、「北中門跡・土塁跡」と題して、飯山城三の丸の北側には外郭(現グランド)があり。番所、長屋、台所・調理場がありました。その北側には二層の北門があって北側からの入口となっていた。この場所は外郭から場内への虎口となる重要な場所で、北中間が幕末には、土塀の間に作られた仕切間となったようです。間をくぐると、東側には三の丸切技岸(人口断層)が西側は土塁が築かれて初通状の狭い道路となっています。土塁は、かって城内の各曲線を取り囲むように築かれその上に隙間つきの土塀がめぐられていました。現存している数少ない土偶跡です。と書かれていた。