奈良県の医師宅放火殺人事件を綴った書籍「僕はパパを殺すことに決めた(草薙厚子著、講談社)」の図書館での閲覧を中止する動きが出ているという。
この書籍には、事件に関する供述調書や精神鑑定書の内容が記述されていて、これが「プライバシーを侵害し少年法の趣旨に反する」として、7月に東京法務局が講談社と草薙さんに増刷中止を求める勧告をした。また今月14日には、少年を鑑定した精神科医が草薙さんに調書の写しを渡したとして奈良地検が秘密漏示容疑で精神科医や草薙さんの自宅などを捜索した。
こうした動きを受けて、この書籍を蔵書している図書館では閲覧や貸出を相次いで中止している。しかしこれが表現の自由や知る権利を制限する動きとなり、今回のように安易に国家の立場に同調すれば、言論や表現のタブーが芋づる式に拡大する恐れもあり危険だと指摘する声もある。(*1)
(*1)奈良・放火殺人少年の調書引用本 図書館が閲覧中止
9月17日6時12分配信 河北新報
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070917-00000005-khk-l06
図書館など公的施設で取り扱う書籍については、西船橋図書館の焚書(ふんしょ)事件や、福井県の女性センターで上野千鶴子氏著作の書籍などを一時撤去した件などが過去にある。しかし、そもそも図書館などで購入する書籍は一体どんな基準で判断するのか。既にそこに権力によるバイアスがかかっているのではないかということは自ずと想像できる。
例えば今回の放火事件の書籍にしても、蔵書していない図書館は数多くある。購入しなかった判断基準は一体何なのか。また福井の女性センターの件でも、そこには家族を大切にするような保守派の書籍は元々蔵書があったのか。フェミニズムの書籍だけを揃えて批判的な書籍は初めから排除するような女性センターの存在そのものが表現の自由を制限していることになるではないか。
表現の自由や、思想言論の自由などと言うのは表向きの奇麗事に過ぎず、権力の手によって幾らでも捻じ曲げられるものだと言うことなのだろう。今現在既に思想、言論そして表現の自由など存在しないのだ。