まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

ひと括りに、「暴力団」といわれて久しいが     08/7再

2023-10-05 21:59:04 | Weblog

  
                清水の次郎長


暴力団といわれるが、これを以ってすべからく犯罪集団と思えない現象があった。
通称、犯罪集団は各々の行為を冠して、詐欺団、窃盗団、集団行為に痴漢、ワイセツはないが、強盗あるいは暴走族など犯罪種別によって団や族に括られているようだ。
あの族議員も同様な意味を含んでいる。

余談だが「党」もある。旧字では「黨」、賞と黒だが、黒を賞する。隣国の古老の語りだが、党は悪党はいても善党とは言わない。党はそのような徒の集まりだから善いことをは行わない。


近頃では、秋葉原事件など「堅気(かたぎ)」の凶悪犯罪が多発しているが、昔は刀剣、銃といった道具を用いるのはプロの仕事とされてきた。それは、あくまで気質の如何が重要視されたものだが、そこの境界を、゛義理と人情とやせ我慢゛で分けたのが、渡世をはるものの矜持だった。

清水次郎長、大前田栄五郎、国定忠治など名のある親分は「侠客」と呼ばれ、御上御用の土木事業や町内見回りなどの治安まで行なっていた。それは浪曲、芝居などの、ある意味では道徳表現であった人情話や、家族を捨てても弱きを援けるといった、「人のあり様」などで庶民のヒーローにもなっていた。

その侠客も戦後のコワモテ利権に変化してから、狭い範囲の共通項である、民族、出身地、思想、など、彼らにとっては、゛辛抱゛゛掟゛゛習慣゛などを理解共有できる集団が、今まで区割りされていた博打、神農といった役分の中に借権利として混在し、歴史、矜持はともかく、先ずは経済的成果(しのぎ)を優先した「しにせ」とは異なる集団が発生している。

よく、「シマ借り」といったものがそれである。行政区割りではないが、「シマ」と称して私たちの目に見えない管理地域が全国に張り巡らされ、昔は神社仏閣、遊郭、妙な共通だが昨今の議員、警察域の道路利権のように、街道(道路)にもその類のものがあった。
それは土木の人集め、祭礼などの花博打、用心棒、岡っ引きまで幅広い,゛食い扶持稼業゛や、゛男の意気地゛と称する気風があった。

しかし、あくまで旦那と仕事師、御上とヤクザという境目は、彼らの誇りともなって存在していた。決して乗り越えない各々の関係での「礼」が厳然として存在し、それを守る事をヤクザの第一義としていた。弱きを援け、強きをくじく。

カタギは苛めない。御上には逆らわない。強いリーダーのもと流浪渡世人や徒人とは異なり、草鞋を脱いだ親分には恥をかかせない連帯感(きまり)があった。時によっては庶民から頼りになる存在として各所に名親分が存在していたのもこの頃である。
親分は強いだけではない。学問に務めたり子分の更生にも尽力している。

単なる暴の武勇伝やナリ(衣類)、車、組織の人数、組織内の地位、などは当時の侠客には、「形だけとって実が無い野暮な奴」と仲間内で嘲笑されていた。これはカタギ世界でも見習うべき人物の見方と成功価値への考え方だろう。





仕事師、鳶頭の粋な刺青 銀座 金春湯


異民族の混交する社会はギャングを生むという。ニューヨークならずとも戦後似非侠客の多くは、人に優しい「仁」と、邪なものには命を投げ打つ「義心」が失われ、復興資金を奪い合う経済ヤクザや、狡猾な金融家に使われる金融ヤクザとして跋扈し始めた。

とくに戦勝国民だった外国人が特異な集団を作り「仁」「義」とは似ても似つかない「団」「班」を構成し、侠客の棲み分けされた「一家」を変質させ、まさに暴と衆を恃んだ「団」として社会の表層に出現した。つまり表と合体したのである。

筆者の知人は老舗組織の有名親分だったが、娘の結婚式にも「カタギに煩いを掛けられない」と、披露には出ず、衆人の中には入らなかった。また殊の外、子分の教育には厳しく「分別を守れなければ、ヤクザは辞めろ」と始終教えていた。
無論、ベンツやキャデラックは御法度、カタギ衆を泣かせたら破門と厳しいものだった。

いっとき映画ヒーローのように、ヤクザは女にモテルといわれ、擬似ヤクザ、アウトローが世俗に流行ったが、彼らに求めるものは確かに庶民の心に潜在してた。
水戸黄門やマツケンの暴れん坊将軍も、格好はいいが最後はゲンコツと殺しの世界だ。
「彼らが代わりになって懲らしめてくれる」、要は肉体的衝撃を代わって受ける実利の世界がそこにある。

いまは、覚せい剤、詐欺、民事介入、など、見るからに苦しい台所があるが、3兆を超えるパチンコ博打(いまでも法的には遊技場)の景品利権が暴力団追放の掛け声の下、警察の影響下に組み込まれ、台の認可、各種機械の強制導入、警備、清掃など多くの警察関係者によって占められた。

以前は射幸心を煽ると一台の制限を約二万円にしていたが、彼らの管轄後は数十万、はたまた無制限の出玉を放置し、未だ博打場ではなく遊技場として恣意的に法を運用しているように見える。

あの飛込みを助け殉職した実直な宮元さんも、助かった女性はパチンコ狂い、いや恣意的(思うがまま)に射幸心を高めたために起きたパチンコ中毒だった。その意味で宮元さんを愛おしくも慙愧の念で銅像を見上げる人は少なくないはずだ。

侠客と愚連隊、無頼を百羽一絡げにして、゛暴力団゛と呼び、その伝統的効用までも忌諱した様子は、文明開化と称して武士の自制、自裁の精神構造(魂)を固陋として捨て、官僚軍閥を作り上げ自滅したあのアンチョコな意識に似てはないだろうか。

庶民が、官吏あるいは擬似官吏、そしてそれに纏わりつくパラサイト集団を、単に安定した食い扶持集団、あるいは国家を食い荒らすバチルス集団もしくは狡務(公務・コウム)集団と呼び、それらが狡猾にも清規(成文法)を振り回すなら、陋規(掟,習慣)によって守られるのが歴史に随った適切な生活法がある。昔は法律と掟、習慣、が表裏を支え調和した営みがあった。
いまは、裏仕事として利用し合い、ときに食い合う世界である。

長々と章を割いたが、実は街の侠客にその効用を認めたゆえ、前段として記したのである。







安岡氏を慕い、教えを請う人物は様々だった。政治家、警察官僚、浪人、商売人(財界)、その中には名をはせた侠客もいた。とくに紳士の振舞いを見せ、安岡氏をうならせた侠客もいた。人物は「人の価値は名位衣冠や職域ではない」と実感させられたと語る。



都内近郊の古い町でのことだった。ご他聞に漏れず妙なボス体質が蔓延り、お役人の人気取り補助金や、石原君に迎合する五輪宣伝啓蒙費など、庶民の自立を妨げる「御下し金」の使い道に、物珍しいイベントやおざなり行事に鼻を膨らませ、御用意識に染まっている街に唯一、オリジナルな地蔵供養の縁日が昔から続いている。

毎年七夕は近郊から人が集まり、歩けないほどの人混みで、普段人通りの少ない町が一挙に騒乱のように盛り上がる。近在の学校の卒業生が各々集団を作り屯して、制服姿の女子高生が路上ら胡坐をかいてたこ焼きを頬張っている。いくつもの集団が睨み合い、タトゥーを見せびらかして挑発している。

当日はサミットの関係で警察官も制服二人。PTAのお母さん達は腕章を巻いているが、若者達は敢えてコワモテな行動をみせている。
昨年は終了後、場所を変えて集団で喧嘩している若者達である。

しばらく様子を見ているとS君が挨拶に来た。かれは筆者の勉強会に友人を連れてきた好青年である。父親は広域指定組織の親分で、かれは実子(じっし)と呼ばれ、幹部である。
昨年も誰に頼まれることなく自主的行動をとってくれた、この現場である。
「S君、本来このような場所で制服警察官が目立った行動をしたり、民間警備と称して計画行事のように行なうのは本来馴染まないものだ。昔はS君たちが自分達のシマ廻りで酔客や粗暴な若者を注意して、子供やこの町に訪れる人を守っていた。それが本来S君たちの誇りある仕事だったんだ・・」

「わかりました」と言うなり、雑踏の中を若い衆をつれて入っていった。
しばらくして、「煙草を吸っている連中や、行儀の悪い連中を注意しましたょ」
お陰でコントロールが効かなかったイベントが大過なく行なわれた印象があった。

今年は、総勢10人以上のいかつい仲間を連れて、睨み合っている各々の若者集団の間に張り付き、まるで監視するように彼らを黙視していた。そして交通規制が解除されテキヤさんたちが清掃を始める頃、時間を惜しむように屯する若者達を帰途につかせたのは彼らの一声だった。
「掃除の邪魔だから、もう帰れ!」「ハイー、解散」
反抗的に映る彼らも、その声に順々と随った。

オセワサマとS君に声を掛けると、「こんなことでも問題が起きなければ子供達が安心してくることが出来る。僕らがやっていることを知ってくれれば良いですょ」
何十人いる配下の若い衆も同じ気持ちだという。








「永く風儀を懐かしむ」蒋介石筆 山田純三郎称徳碑文



ヤワで屁理屈を述べるものが、暴力追放の屏風に隠れ、いたずらに彼らを人括りする民情は、かすれた環境をより粗暴で狡猾な勢力を生み出すことは集積された歴史のいたるところに記されている。とくに当局の一部は彼らを使いその一部と同衾し、より狡猾な姿を社会に浸透させ、善なる義侠心をも融解させている。

高倉健や鶴田浩二のように格好のいいものではないが、どっこい侠客は社会の一隅において善男善女の生活を、敢えて目立たぬ姿で支えている。

どこの世界にも飛び出し者はいる。また似非(えせ)によって名利を貪るもいる。
利権政治屋、腐敗した公務員、堕落した教員、これらは人間の尊厳を毀損、収奪するために生きる輩であるし、侠客にも財貨のみに堕した一群もいる。みな反社だ。

しかし、人の在り様を問い、敢えて稼業社会に其のスジを認め、人から蔑視され呼称される「暴力団」に身を置く彼らの姿の中に「任侠」を認める筆者も同じ日本人だと、妙な安堵を覚える臨機だったことを、眼前の備忘としてここに記す。

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