まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

総理秘密報告

2012-10-14 12:42:56 | Weblog


別冊、正論に佐藤慎一郎氏の総理報告が俎上に載っている。

毎月、赤坂の料亭に招請され内閣調査室の職員が口述筆記したものだ。七部作成して総理を始めとする関係個所に配布されるが、もちろん極秘だ。

だが、直後にそれが漏れる。佐藤氏の報告は中国関係だが中国大使館に知らせる人間がいる。

だが、どこの国の特務でも問題の薄い情報は同業の関係なのか、情報交換する倣いがある。もちろん、極秘はないだろうがその道は阿吽である。

佐藤氏の報告冊子は生前に「焼却しなくてはならない」と徐々に自身の手で焼却している。
30年近く行っていた報告資料は一定期間をおいて焼却していた。
筆者も肉体的衝撃もいとわず精魂込めた資料を残したいと願ったが、佐藤氏の強い意志は曲げられなかった。

「情報は生きているものだ。こちらから聞くのではなく、相手から話し始めて真実がある」
「調査員などと身分を明かしたりしたら、誰も寄り付かない。僕は中国研究者で調査員ではない」

そろそろ辞めたいと申し出たら、
「専門の学者は大勢いるが公にしてもよい情報しかなく、しかも営利的な発想があって価値がない。中国人がどう考えているか、どうするのかを知りたいのだ。それは佐藤先生、あなたしかいない。代わる人がいない」











突然の入院だった。駆けつけた。一晩ペットのわきで随った日々を想起した。時折、深々と呼吸をするが目をあけることはなかった。一人の学徒がいたが待合室で一夜を明かしていた。

その資料は荻窪団地23号棟301に残置されたままだった。
世間のならいか親族は佐藤氏の研究には興味がなかった。その内容も深くは知らなかった。
宦官、辛亥革命、日中秘史、漢籍、特務による謀略関係、などだが、一部は存命中に丁寧な添え文とともに筆者宅に送付されたり、自宅でお預かりした。少なくない量である。理由は熱狂と偏見の中で、巷間の賢を装う半解の徒によってアジア離反の具にされる憂慮があった。

佐藤氏の希求する願いは種々の検索、研究ではない。ましてや、あげつらい、貶める具ではない。
縁あって触れた随所にまい進することは当然なことだ。津軽、満州もそうだが、人の縁に委ねてその中がら自身を知る、つまり全体の一部分として、その「分」に生きること、そして発見することを縁ある学問の本とした。

秘録、謀略の逸話は遭遇である。それは単なる縁の体験で学問ではない。だから自分は体験しか語らないと・・・

その多くは、了解を得て録音した大量の口述記録も整理して資料の経緯を含め臨場感ある姿でのこした。











旅をしたり、講演に随うこともあった。小会にも専任講師として教授して戴いた。
その佐藤氏との関係においても報告冊子には氏の意志に随って触れることはなかった。
焼却が何を意味するものかは忖度していた。言の葉にのせたのも一度だけだった。

往訪するもののなかには、どのような意図なのか資料を所望したいと考える者がいた。
有志が企画した生前の書籍作成も、佐藤氏の意志とは異なっていた。齢90を過ぎて好きな学問をさせてあげたい、見守りたいと考えていた筆者とは相いれない考えだった。

佐藤氏は自著を買い上げ、一人ひとりに手紙を書き、不自由な身体で三階から郵便局まで2部、3部と運んでいた。精神も衰えた妻を一人で留守にもできず、手をつないで重い書籍を運んでいた。内容についての誤字を丁寧に書きしるし、感謝を添えた。

「もったいないから、まとめて本にしたらいいですよ」
学徒たちの無理解な善意は氏を難渋させた。

報告冊子の焼却も遅れた。団地の和室のなげしに設えた簡易な棚にのせられた箱に冊子は残置された。焼却は中国在留20年の自身の臨場感と、功利的な気持など微塵もない無条件な生きざまがなければ、第3者がたとえ残置物を売文口舌の種にしても無意味だと思っていた。それは佐藤氏の言が備わっていなければ、単なる紙片なのだ。
それは存命中は盗み見ならまだしも、第三者に意を尽くして委ねることはない。
「これ差し上げます」と毎回直筆の資料を寄託されたが、ついぞその報告冊子は「燃やす」といって棚から下ろすことは無かった。資料は複写して戻すものもあれば、整理成文化して監修を請うた。

「燃やす」厳言すれば、「もったいないから」という浮浪な同人はいなかった。
だだ、人格を尊敬し言行を倣う、ではなく、師から習うだけの学徒は別の意図があったようだ。

その、゛秘密゛と喧伝される報告冊子は商業出版の飯のタネになる類でもなく、面白、珍しと騒がれるものではない。氏はその様な輩の出現を学問の堕落と、常に縁ある同人にも語っていた。






東北の西郷と謳われた菊池九郎 佐藤氏は幼少のころ同じ寝床にいた



風の噂では亡くなった後、氏の学問や意志に半知半解な縁者の了解を得て資料を整理した学徒がいたと聞く。とくに探究の視点が狭い研究者は師の意志と矜持を忖度することもなく、勝手な借用研究をおこない、氏の本意を我流成果として公表している。

「焼却する」という佐藤氏自身に向けた強い意志さえ毀損した姿は想像に余りあるが、推考されたものだ。

氏を偲ぶ会の席上、「先生は生前、安岡氏が台湾断交時、蒋介石に呈する親書の起草を依頼され、『これで蒋介石も納得するだろう』と言った。こんなことで中華民族の心はつかめない」と話し、「安岡という人物はその様な人間だ・・・」と付け加えた。
その席には安岡氏の縁故ある関係者も着ていたが、お構いなしだった。

後日、「私はその様なことを聴いてはいるが、その様な見方と感情で佐藤先生の人柄を偲ぶのは配慮が足りない。またあからさまに一面を観て人を批判することは先生はしなかったし、そのような所作は学んではいない」

『学問というのは真実を探求するものじゃないんですか』

「人間の生きざまから真理をたどり、自得することはあっても、聴いた、知ったからと言って、亡くなった直後に師との交誼を偲び、鎮まりを以て感謝と哀悼を過ごす期に、他人をあげつらい非難するのは先生の心にも馴染まない。機会を待ち、歴史を総覧してからでも遅くはない・・・」

学徒は佐藤氏とその縁者の山田兄弟、孫文のことを筆者が話題にすると「孫文なんかは・・」と批判していたが、ご逝去されると主のいない部屋の資料をまとめて孫文の賛歌を記している。
探究心があり、資料検索は秀いでているが、先生は釜の蓋の開け具合を心配していた。
師は憂慮し『母校に就職を相談したいのだが・・・』と筆者に問うた。
筆者は「蟹は自身の甲にあった穴を見つけるが、人間は中々難しいですよ」と応じた。
案の定、大学責任者との応接時の熱烈な言行で駄目だったと師は嘆いていた。






佐藤氏の叔父 山田純三郎と孫文





孫文の葬儀 犬飼、頭山



近ごろ、佐藤氏の資料で商業出版に登場しているが、今回の相手も「孫文は裏切り者」と断定する言論貴族。
あるとき筆者が、革命は記録でもなければ知識学ではない。肉体的衝撃を面前にするものは、虚偽、大風呂敷、裏切り、ペテン、女好き、いろいろと部分考証があるが、死んだら終わりだ。そんな明け透けな人間の所作に明治の日本人が賛同したのだ。裏切り者にだまされたお人好しと自国の賢人さえ愚か者とする浅薄な理屈だ。
はたして、学徒の善き部分である、名利を忘れて喰い下がれるか、師の矜持と遠大な経綸に沿えるのか、軽重が問われる機会でもある。

焼却が叶わなかった報告冊子を、さも新発見のごとく秘密資料と題して無知蒙昧な輩の宴に喰い荒される師の意志にどう応えるのか、加えて、だからこそ焼却するのだという師の心が分からなかったのか、誠に残念でならない。







弘前市 重森


『もう、日本は駄目だ・・』と師は筆者の前で突然,号泣した。
『そうかもしれないけど、お父さん・・』とりなす妻がいた。
目の前のちゃぶ台には師に監修をいただいた共著ともいえる拙書「請孫文再来」の草稿が開いてあった。
それは、孫文が師の叔父山田に「真の日本人がいなくなった」と書かれていた章だった。

総理秘密報告の冊子などを隣国批判の具として食い扶持を計るより、孫文が嘆き、山田がつなぎ、甥の佐藤慎一郎が希求した「真の日本人」とは、それを浸透する学問として為さなければ、日中友好や提携など画餅に帰する。いわんや日中提携して亜細亜を興し世界の安定に導くという日中両国の先覚者にすまないという気持ちが、佐藤氏の学問研究や行動の座標として、中心軸として貫かれていた。

それは多くの人々の共感を生み、あの学徒の批判した安岡正篤氏も筆者に佐藤先生の深遠な教養に驚愕し、尊敬していた。時折、筆者との応談にでる「佐藤さんは・・」は、意を得た淡交であったのだろう。

事を探究して、人を貶して産まれるものは無い。
そんな言葉を想いだしての毎年の津軽墓参も、今年は力足らずをお詫びするしかない。


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