まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

当世知識人の「言、二貨無シ」  再

2023-10-30 08:13:31 | Weblog



言うことに二貨はない、つまり「掛け値の無い値段」ですよ、という意味だが、二貨はないが、三貨、四貨は有るとのことだ。


 良いも悪いも無い、面前応答を楽しんでいるのである。

『大人(タイジン)、まけとくよ』
 終いには半値、七掛けまで値下げして、『大人には参ったょ』、と破顔笑する店の主人の愉しそうなこと。ついつい要らぬものまで手を出してしまうことがある。

たとえは変わるが、時の経過に集積された事例を根拠とした肴をネタに、言や文という表現方法によって虚を実のように思い込ませる技を生業にしている知識人と称する一群がいる。

それは、単なる無知と有知の違いだが、土壇場の勇智にならないのが常である。

縁と機によって修得した「知」が、いつの間にか「識」となり、食い扶持の「職」となったものたちだが、真の知に格たる教養の有無を問うわけでもなく、物珍しい異なる視点で誘導する偽情報や、無知は悪と錯覚した恐怖の扇動は、単なる物知りの商いでは済まなくなっている時世でもある。

ことさらに、利学、術学がもて囃されるカルチャー世代だが、一方、撒餌に跳ねる雑魚の一群を食い扶持として名利を貪る卑しい売文の徒、言論貴族を輩出している現状もある。まさに、゛言、二貨無シ゛の様相である。







              




以前のことだが、北京の商店の目の付くところにぶら下がっている札のなかに、゛言、二貨無シ゛という売り文句が、ことさら大きく掲げられていた。この品物の値段は間違いなく安い、変ることのない真実の値段だ、ということだが、そこは交渉やり取りによって客の目方(財力、知力)を量りつつ、客を意のままに扱う醍醐味を遊戯のように愉しんでいる人たちである。いたるところで駆け引きが行われているが、もちろん゛言、二貨無シ゛などはどこかに忘れたかのように口角泡を飛ばして言を駆使している。

つまり゛二貨無シ゛だが、三貨、四貨はあるということだ。また二貨も三貨も四貨も、至極当たり前にナルホドという理由がつく。労の大きなものはクチである。耳で聞いて口から出る、まさに口耳四寸の学である。耳と口の距離四寸の商いである。

走狗に入る物知り知識人も、名利のためにはその四寸を磨かなければならない。講演と称する漫談も巧言、麗態を駆使して、゛二貨無シ゛を説いているが、その錯覚した言の心地よさは女郎屋の客引きに似てなくもない。

それと同様に、女性の貞節を飾る言葉に、゛ニ夫に交エズ゛とある。
まさか北京の商人とは違うとおもいきや、近頃では三夫も四夫もあるらしい。
本能のなせる業か、色、食、財を選り分けて夫々を、若い男、旦那、小金もちの老人と、まさに哲学的?に時と存在に泳いでいる女性が多くなった。
北京商人のように二貨の大義?を取り繕って分別した欲望を得ているが、あのおおらかさはない。

男にとっても面妖と姿態に狡猾な意図を隠した女性の本意には頓着することもなく、小心にも浮俗に漂いながら心地よい場面に身を隠しているようだ。
悪妻、空閨より勝る、とは恐妻家や濡れ落ち葉と揶揄される男の悲哀を隠す慰めのようだが、近頃では内心、空閨のほうが望ましい姿かと思う男が増えているようだ。

(空閨・・・一人者)


ことに昨今の経済状態と就労事情の影響は、気概とか気骨といった懐かしい言葉にある男子の姿が衰え、いや枯渇しているかのようである。

そこは、「言、二貨無シ」を夫婦の大義として謳いながら、姑息にも蓄積された名利の権利交錯が働いて、゛謀って動ぜず゛の怠惰な宿命論に身を委ねて、男妾(ヒモ)のように生息している姿もみえてくる。





               





一時「青春とは云々・・」と外国詩人を名言としてを地位も名もある老人たちが大唱していたが、一世代前の諦観と無常観に比べて、なんとも覚悟のない哀歌のように聞こえる。
そんな輩に限って、大英帝国衰亡に表れた民情の嗜好である、温泉、旅行、グルメ、低俗なカルチャーに囚われた思考範囲でしかない。

また、それを売文、言戯によって食を得ている浮俗の知識人を取り込んだ商業プロパガンダは、それに群れ集う人々の群行群止を促し、社会に大きな流れを作り出し、一過性のはやりもの文化を形成せしめている。

俯瞰なき知識人の堕落は民情を惑わし、社会を支える深層の力である男女の情感をも衰えさせ、身勝手な功利に導いているようだ。売るも、売られるも正に「言『ハ』二貨無シ」の様相である。

「話」は舌が言うと書き、「語」るは吾を言うと書く。世は「ハナシ」ばかりである
名利をおもい謀って「ハナシ」を食い扶持にする知識人の老害もその表れでもあろう。
たしかアダムとイブの禁断の実は「知」だった。
まさに、「智は大偽を生ず」とあるが、大義を唱えて利を貪るような当世カルチャーの餌食にならないよう呉々気を付けたいものです。
         「智は大偽・・」(自らを虚飾し相手を偽る、用学としての智)官僚答弁など

「利は智を昏からしむ」  (金ばかりを目的とすると真の智が衰える)

「小人の学は利にすすむ」 (小者の学びは地位や金に向かう)

どこか解りやすいハナシでもある。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 衰亡の歴史を感知する習近平... | トップ | オンナが求める 金と面白さ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事