まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

逍遥備忘録  北進から南進への転換過程をみる  其の五

2014-09-23 10:33:13 | Weblog
内大臣 牧野伸憲


以下は歴史の検索章ではなく、明治以降に変容した日本人、とくに西洋の模倣教育の結果、明治天皇ですら憂慮されたエリート教育の欠陥が、集団化もしくは増長すると露呈する民族の陥る癖が制御を無くした時、国家の紐帯の毀損として危機感を抱く一方の立場があった。この「ブログ抜粋其の一」は、官制カリキュラムにはない人間学もしくは、筆者提唱の「人間考学」として賢察願いたい。


起章掲載時期が異なるため、抜粋各章には重複説明あり
≪※・・・ブログ抜粋其の一≫ 


牧野伸顕、近衛文麿、安岡正篤、西園寺公一、尾崎秀実、それぞれの立場にあった人間が、諮らずも、いや偶然にも意を一つにして振り払おうとしたもののなかに、国家を覆った暗雲があった。
遠くは聖徳太子が憲法と冠位を制定したころの、蘇我、物部ら世襲豪族による権力の専横によって、今では伝統という言葉に括られているような、遡ればカミゴトに由来する太綱というべき歴史の継続が侵害される危機感に似ている。

これは、あまりにも大きな権力を持ってしまった軍官吏の行き着く先にある亡国を、異なった座標で押しとどめ、あるいは敗戦後の国家の在りようを鎮考したものであった。
敗戦後というのは、敗戦が確信であり、またそうでなければならないという考察があった。
それは、ある意味で明治維新以降の教育制度のボタンの掛け違いというべき、指導階級エリートの速成によって積み残したカリキュラムにあった人間学の再復を求めたものでもあった。
明治天皇は帝国大学の教科内容を推考して将来訪れるだろう国家の行く末を、まるで予言するかのように、元田侍従に痛烈に諭している。天皇だからこその先見可能な直感でもあった。(聖諭記参照)

近代化を急ぐために西洋のアカデミックな理論が、ときにエスノぺダゴジー(土着的指導理論、アカデミックとは異なる人間関係を大切にする学習)によって培われた五計【生計、身計、死計、】から導かれた自己成立と分別を基とした我国の経国システムが、選択的統制組織(中央管理集権)に埋没して、単に合理的と思われているものが大義という包装によって国家目標にされてしまったことでもあった。それは綱維をつなぐ責任の存在を単なる組織の役割責任にしてしまうことでもあった。
明治天皇が危惧した「相」の存在の喪失でもある

その既得権力と化した組織勢力は、富国強兵というスローガンをもってかき消すように邁進し、しかも、天皇の直感は活かされることはなく平成の現代まで続いている。

その暗雲は、目的のために作られた組織が、目的創出の根底にあった公意から離れ、まるで竜眼の袖に隠れるようにして増殖したためにおきた忌まわしい風のようなものであった。軍は竜眼の袖に隠れ・・・云々といわれたような、軍を取り巻く権益構造と止め処もない国家伸張意識、あるいは誇張された大義に抗することのできない官僚の意識構造と既得権益にしがみつき肉体的衝撃を回避するための錯覚した学問思考にもその因があった。

もちろん政策決定機関である議会機能の崩壊及び議員の現状追認、傍観的看過もその類であろう。
それは知識修得の後に訪れる妙なニヒリズム、いや肉体的衝撃を回避するといった武士(モノノフ)の覚悟とは異なる死生観があったのだろう。

その深層の企ては歴史の真実としては無かったことのように、数人かの登場人物による別の事件にスポットを当てることによって、その秘めた意思は覆い隠された。近衛は自殺した、いやそれによって秘匿された企てがあった。
いや余りにも多い犠牲とエネルギーの浪費によって巻き起こされた戦争遂行への大義名分は、より「別の事件」の秘匿性を深めざるを得なかったといって過言ではない。





中国を窺う列強



その別の事件とは国際謀略団による事件とも言われている、ゾルゲ事件との関連性を深めた尾崎、西園寺の動きと、近衛、尾崎等によるロシアの仲介による停戦交渉をコミンテルンによるアジア構想と意図的連動させた一方の流れである。
しかも、これも一端でしかない。



西欧の情勢は不可解、と内閣を投げ出した政治家がいたが、それくらいに情勢観察に関する政治家の座標がおぼろげであったとともに、ヨーロッパから見ても蚊帳の外にあった東洋の小国のステージは狭く軟弱だった。

それは、利用するつもりで、逆に利用された構図であり、ロシアによる仲介が米英との戦いに有効であり、かつ日本を覆う自浄力が衰えた忌まわしい軍部からの主導権の奪取という、それらの立場にありがちな純情でありつつも狡猾とも映るような構図を描いたのである。

その企ては、自らの置かれていた地位や、巷間使われるようになったノーブレスオブリュージュといった高位に存在することの責務が根底にあった。
明治以降、いやそれ以前から男子の気概の表現としてあつた立身出世とは異なる流れに属する学問、もしくは生まれながらの氏姓が涵養し保持していた国家存立の本綱(モトツナ)に必須、かつ秘奥に存在する学問によって国家像を描いたものであり、それは、ごく少数の人間から導き出された意思であり、良くも悪くも明治から蓄積された負の部分の排除による国家の再生を考えていた。
また、鎮まりをもって歴史を俯瞰し、日本及び日本人を内観できる人々の考察であったに違いない



あの西郷ですら、このような国を描いたのではない、と言わしめた執政受任者の人間性と、曲がりなりにも士農工商で培ってきた日本人の特性や情緒を捻じ曲げた理解に置くような成功価値や、擬似支配勢力の狭隘な既得権意識は、軍、官僚にも蔓延した止め処もない暗雲となっていった。
もちろん封建といわれた武士社会も江戸の末尾には、武士(モノノフ)の気概が薄れて、姿形だけの怠惰な既得権者に成り下がり、外的変化に対応できなくなったことは、後の維新を呼び起こしていることに見ることができる。

だか、人間の分限を弁えた習慣や掟に内在していた自己制御と相応する生活守護に慣れ親しんだ庶民にとっては、維新のありよう云々より、穏やかなときの流れに懐古するには、そう時を要することがなかったことは、国家、国民の創生した明治の集権に馴染めないものがあった。
それは亡くしてしまったことへの哀れであり、そのために招くであろう国家の衰亡を予感する人間の憂慮でもあった。

国家なり社会に賞味期限があるとすれば、まさに幕末と太平洋戦争の敗戦は人間力の衰退と、歴史の残像にある資産の食い潰しのようにも考えることができる。
譬えそのことが産業革命以降に勃興した資源問題、あるいはそれ以前の植民地の支配を既得権として継続させようとする巧妙な戦略的謀略に飲み込まれたとしても、また西欧を知り、富国強兵政策の選択が当時のごく普通の近代国家の在りようだとしても、明治初頭の人的資質の変容は、さまに知識、見識、胆識にある人的資源の枯渇であり、歴史が培った資産の存在を認知しない行動であった。

しかも、混乱の後、結果として訪れた戦後の国家形態は「負」を排除するとともに、「正」もひと括りにして融解してしまう誤算があった。












この企ては専軍権力者からすれば反逆者であり、当時の国情からすれば国賊であろう。
それは大謀によって大綱の方向を直す作業であるが、一方、国際謀略との必然的接触による錯誤を誘い、歴史そのものから抹殺しなければならない企てとして忘却されようとしている問題でもある。
この暗雲の停滞を憂うる人たちは、往々にして現実問題の解決を謳い権力を行使する議会人及び調整役に成り下がった宰相とは異なり、また国家の護るべきものの見方が異なる思考の人間たちである。



ゾルゲ事件は御前会議の結果を速報するトップ情報の取得である。
しかし、中国での企ての仕込みは謀略である。南進させ米英との開戦に導くために、御前会議の事前情報の意図的、あるいは現地の既成事実のなぞりが政策となっていた軍、官、政、指導部の理屈付けを作成したのである。










盧溝橋、通化、西安、総て国際コミンテルンの指示による共産党の国内権力闘争のために蒋介石打倒の国内闘争に利用されているようにみえる。国民党の諜報機関として藍衣社を押しのけ、蒋介石の最も信頼の厚かった軍事委員会国際問題研究所は形は装っても、敵方共産党諜報員に操られていた。その情報を尾崎は信頼し鵜呑みにしていた。

そのリーダー王梵生(第一処 主任中将)は戦後中華民国参事官として駐日大使館に勤務し、政財界の重鎮とも交流を重ね安岡とも親密な交流があった。その後、不明な交通事故で亡くなっている。王は米軍将校と常徳戦跡視察の折、真珠湾の予想を述べたが、将校は笑って信用しなかったという。然し、その通りになり米国で一躍有名になった。
もちろんM16のパイル中佐からチャーチル、そしてルーズベルトには伝わっている。

満州事変以後は総て謀略構図の掌中にある。しかも日中ではない。国際的謀略である。スターリンもそこに陥っていたといってよい歴史の結果でもある。

尾崎、近衛は中立条約を締結していたソ連に望みを託した。近衛はその相談相手として安岡と新潟県の岩室温泉に投宿して懇談している。 それは昭和二十年の蛍の舞う季節だ。
国家の行く末を案じたものであっただろう。だか大きな謀略構図は、悪魔と理想を表裏に携え、いとも簡単に戦後の国家改造を成し遂げた。自虐的な国家憎悪と史実の改ざんを浸透させ、彼らが危惧し描いた国家を、一足飛びに異なる方向に着地させた。








尾崎は自らを回顧し、近衛は語らずに逝った。安岡は復興のための人材育成と、真のエリート育成のために終生心血を注いだ。
王の唱えるアジアの復興に呼応した北京宮元公館の主、宮元利直は国民革命の成就のため北伐資金を大倉財閥から拠出させ、表面的には蒋介石についていた王を助けている。また戦後、王の用意した特別機で重慶の蒋介石に面会した初めの日本人でもある。

渋谷の東急アパートの宮元の自宅には安岡からの手紙が多く残されていた。戦犯免除も宮元の労があったとみるが、王との交流をみると純粋で実直な人物にありがちな寛容、かつ無防備な義に安岡の一面を見ることができる。

つづく

イメージは関連サイトより転載しています
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