まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「人間考学」 人間の薫りと臭い   「再」

2012-01-07 10:31:13 | Weblog
           後藤新平『一に人 二に人 三に人・・・』



以前の稿で後藤新平のいう「超数的効果」を上げるには、まず人材、しかも適材をみる目(観人則)が必要だと記してきた。その見る目はアカデミックな官製学では養えないことも加えて記してきた。

また、有るに越したことはないくらいな人物の附属性価値である、地位や財力や出自などの無意味さも説いた。いわんやブランドといわれる名のついた官製学校の学歴ならず「学校歴」の見方は、それによって国家の要路を委ねる慣習は近代日本史にある惨禍で学びつくしているはずだが、一向に正せない。

「智は大偽を生ず」「小人の学は利にすすむ」

それは人物次第によって、智は大きな偽りの装飾に使われたり、我欲の充足のみに用いられたりするということだ。ならば、官製学歴は国家の予算と多くの資材によって愚か者を増産していることだということだ。

『軍の戦闘でも原発事故でも下士官、作業員は世界でも卓越した能力がある。それに比して指導者、リーダーはその養成方法を錯誤したかのような人間が多い。なにか、この国の教育の根本に何か大きな欠陥があるのではないか・・』それは多くの外国人識者の共通した観察であり、日本人への厳しい忠告でもある。

後藤は明治以来の立身出世の在り様と、その選別を数値評価にしか判別できない仕組みを「人を観て活かす」ことによって多くの成果を得た。それは異民族にも敬された。

当時の識別は端的にいえば「仁」と「義」が基となった。いまどき仁や義などは野暮で古臭いと忌避されるが、それは官製学カリキュラムにないし、数値にも、安易な合理的論にもなじまない、いや無理解なために応用すらできないゆえに、ただこまねいているだけのようだ。

簡易な実践観人則は

「地位に昇ったにどんな部下を登用するか」  人材の活用と明確な目的

「金を持ったら、どんな使い方をするか」   資財の有効性

「周囲にはどのような友をもつか」      交友

「有識(知恵や道理)は何に使うのか」     自他の分別 



私企業ならともかく、国家経営においては常に「私」と「公」の狭間においての分別と決断の背景が重要となってくる。それを支える人材と資財、その用い方によって単なる机上の数値乗数効果となるか、それとも後藤の言う人材の適材有効活用で数値を超える効果、つまり人の善への換起、調和と連帯の効果、そして継続性となるかは人物の観方をもとにした登用活用にある。

それには問題意識の整理、立案、執行、責任の完結性と、全体を俯瞰できる人物の養成が必要なのだ。

いわんや、そのような人物には臭いはない。隣国の故事にある「銅臭紛々(金のにおい、身分の臭い)」など微塵もない。あるのは「粗にして野にして卑しからず」を涵養した人物の薫りだ。そこに優秀な人材が集まるのは必然だ。






浜田国松代議士の「腹切り問答」で国会は紛糾




「薫りと臭い」 【一昨年の11/29の稿を以て参照としたい】



四季の風のように薫るものと臭いの峻別は何を指し、いかなる種別を称するかは括目された受け手に任せるしかないのだが、似て非なる、あるいは擬似錯覚に置かれているかは、自身の秤の均衡にその多くを委ねるしかない。


薫りとは、薫醸された学問に養われた人格が、受け手の倣いとなり指針となり、かつ人を観る「観人」の則となるような、学者という学び途上の人々にとって範ともなり省の鏡となる人物の薫りであり風(ふう)である。

少しビロウな言い回しだが、人から発するものには肉体的にも精神的にも多々ある廃物がある。それは故意にも自然にもあるものだが、肉体的には生理的、医学的にも自浄作用的な小大便、あくび、くしゃみ、げっぷ、しゃっくり、あるいは放屁(おなら)があるが、全て自浄排出作用である。

一方、舌を駆使した言葉や擬音は音声として肉体から発せられるが、これには意思という厄介で読み解きにくい内容が含まれている。

よく「心が腐っている」とか「精神が病んでいる」と健常者でも揶揄される喩があるが標題を当てはめれば肉体的排泄に似た、゛臭い゛を察するようだ。

あるいは「義の薫り」とか「大人の風」、また「薫譲の学」など耳で聴くオンにも厳しさ、優しさを包み込んだ「仁」「智」を備えた人格をみることがある。

近頃ではこの薫りと臭いを合わせたのが自然の人間の姿とばかり、本音と本性さえも混同した無理解がより錯覚を大きくさせているようだ。

たとえば酒を飲めば本音が出ると、友人や同僚なりを酒席に誘うのだが、出るのは本音どころか卑しい本性、ここでは医学的にも冷静さを失くした狂い心を覗き見るだけである。所詮、俺と同じだ、そんな心根があったのかと安堵する類のことだ。また、そうとしか人を見ることのできない始末の悪い世情もある。

おもうに本音は素面(しらふ)でも涙を流せるような人の交感である。一方、酒を入れなければ出ない人の心は本性というべきもので、色,食、財の欲望を理(ことわり)のない弛緩した状態で吐露、叫び、沈黙という姿の様態がある。





             

             岩木山神社




多言を要することまでもない。

嗅覚と察知力も脱臭剤もどきの易(やす)き利学なり、インターネットという利便性がその感度を衰えさせていることを薄々分かりかけてきた。また、一種の疲労感ともいうべき精神の惰性を覚えるようになった。

まるで大声で嘆願するかのような政治家の姿も一種の臭いを察するようになった。ついでに同じような臭いが己にもあることに気がつき始めている。

まさに戸惑いと阿諛迎合が起こっている。異国文化はそんなことはお構いもなしに糾弾する。そしてグローバルはその臭いを銅臭(金の臭い)紛々として、唯一財貨を偶像視するようになった。


まして「薫り」などには無感覚、無感動のほうが好ましいと思われている浮俗の様相である。
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