まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

小泉進次郎、それは陛下を倣う忠恕の心だ

2014-11-29 11:36:31 | Weblog


小泉の提唱したチーム11は、毎月の11日は東日本の震災地を周り、ときに僻地や離島にまで足を延ばす。その目的は共感と継続にある。もちろん交歓感受による連帯と調和を以て社会を有効に織り成そうとする精神の表れがあってのことだ。
欲望の交差点と云われる国会の構成員ではあるが、小泉の座標はつねに下座観がある。
まるで自身の欲望を閉ざしストイック(求道的)に生きることが議員である前に、一人の日本人でありたいという、現性価値を超えて多面的に俯瞰視する己が見えるようだ。
それは政策論を超えた情理を添えた行動でもあり、一時の熱狂を超えて、他に考えさせる姿がある。

多くの国民は議員を哀願、請願の相手として観ている。また既得権者としての地位を恣意的に使い、己の欲望を遂げる者たちとの印象を抱いている。小泉は叱られたり非難されたりすることより、今は褒められることが多い。もちろん魑魅魍魎な政治の世界ゆえ、至極自然な小泉の姿が国民から小気味よい青年として視られているのだろうが、同僚議員からは嫉妬心すら笑われそうな掃き溜めの鶴のように眩しくみえるのだろう。
小泉にとっては、その状況が可笑しいのだろうが、かといって抗弁や道理を尽くすことも厄介な状況ゆえ、ならば本来の在るべき行動で魅せているようだ。それは陛下の忠恕心に模して遍く照らすスメラギの姿に似ている。

小泉は父同様に靖国神社に訪れる。だが同僚と一緒にではなく独りで参拝する。
以前このコラムで父純一郎氏の参拝のことを書いた。秘書の政治的配慮もあったせいだろう新聞記者を大勢集めて騒がしく参拝している。そもそも、魂が鎮まる処である。
我が国は鎮護の国、つまり鎮まりを護る国ともいう。それは靖国だけでなく山川草木に堆積している。もちろん人の少ない僻地や離島にもある。そして人々の心に息づいている。

あの時はこう書いた。「騒がしく参拝しないで、官邸からも近い、早朝徒歩で一人門前で拝礼することもできるだろう」パフォーマンスで運を拓いた御仁ゆえマスコミ対策もあったろうが、陰徳こそ人の信を得る。陛下の鎮護の祷りと安寧の心は被災地や戦跡行脚として、黙々として行われている。皇居祷り處では寒気、暑気にかかわらず安寧への祷りが執り行われている。クールビズや陳情、国民に哀願などは無い。また、依願ではなく精霊に己を照らして自省すらする。微小な存在にも精霊の存在を見て心に留める。







関係サイトより転載


小泉の離島・僻地・被災地への訪問は、その存在への巡礼にも似ている。「礼」は辞譲の意、心を譲り、委ねることだ。それを巡ることは己の卑小さも悟るだろう。微小な存在にも共感するだろう。それが下座観の涵養なのだ。
小泉の愛読書の著者は門田隆将だという。このコラムでも筆者との交遊録を度々記すが、元職は週刊新潮の副部長であり、その地を這う取材は多くの読者を驚嘆させた。

彼も下座観が優れている。そして常に表層に表れた源流をみている。だだ、応答辞令が優れ人心を掴むことは秀でているが、時に虚を交えた情感が欠けることがある。事象の選択、あるいは峻別は長けていても、こと表現は「虚実の間」つまり間(マ)が必要な時がある
「某市の市長から歴史人物の小説を請われたが・・・・」と連絡があった。
「まだ早い、妙な情感を装った文章は似合わないし、現実社会の要求に応えるためには、小説は書かない方がいい」と応えた。

そもそも「虚と実の間」と書いたが、虚(嘘)は、空気を吸って酸素を取り入れ、必要のなくなった二酸化酸素を吐く姿だ。つまり自然な生存機能に「嘘」は有るものだ。嘘(ウソ)の善悪は其の後の事情だ。嘘が真実に聞こえ、その逆もある。嘘が通用(有用性)しているから真実を探そうとするのだ。また「自他の間」がある。人を偽るには己を偽らなくてはならない。偽りにも大小がある。

明日は何時に起床するのでタイマーを掛けるが、おおよそ余裕を見る。タイマーが鳴っても余裕を加味しているために一時の寝欲に我が身を任せることがあるが、己への約束を偽っている。夏休みの宿題も間際まで放置する。
また、嘘は内なる自省や制御心を抱かせる。だだ、嘘の慣性は怠惰、堕落を招来する。
だから小泉は、嘘をつきたくはないし、真実に添っていきたいと考えているようだ。

彼は悩んでいるのかもしれない。ジレンマだ。門田もそう見える。
虚に真実を投げかける立場に立つと、ときに不自由を招くことがある。とくに四角四面になると融通性や鷹揚さを乏しくさせる。だからより、より事実を求めて寄り添いたくなる。
言論界や文壇、政治社会は多面的交流や関係(mass communication)によって成立する,構成は人を組織化する。そのうえ虚実の間は混乱を極め、整理は数値によって無味に行われ、そこに生計にするものは、より収益の多寡を得る地位を求めて混沌とする。これを高邁にもリアリズムと称するが、嘘言、偽文もしくは詐言にまみえてまで得る成功価値感は、小泉、門田ならずとも亡羊の淵に追い立てられるだろう。

だから、動じない事実と生き生きとした真実を語り、描き続けるのだろう。
だから門田は、小説は書けないのだ。いや、まだ早いのだ。明治のころモノ書きは小説などは漫画の類だった。いまは文化人、功労者、教育者にもなる。
小泉は、まず「知った・覚えた」の類ではなく、感じた、悟った、教養を涵養したらどうだろう。「養」は国民を養う、「教」は欲望のコントロールと方向性だ










「陛下は被災地で膝を折った」国民は驚いた、そして感涙する者もいた。
そして、海に向かって祷り、かつ祷りの足りなさを詫びた。多くは哀悼と観たが、筆者は精霊の言葉繋ぎとしての陛下が、その姿で繋いだと拝観した。

小泉は政治の至らなさを被災地巡礼で詫びた。生き潜む情緒を確認するために離島や僻地に足を運んだ。その情緒は、政治屋が言う数値評価の経済や軍事力では補えない深層の国力だということを知っているのだろう。



ゆえに、孤独を悦び、抑制を愉しみ、そんな己を嬉しくもう、これを人はストイックと云うが、それも面白がる余裕がある。人はそんな人間を浮俗の欲に引きずり落とすために、色と食と財を窺う。脅しと覗きと群れの安住が人の欲として昂進する世界こそ、あえて超克する悦びの境地は、ことのほか愉悦である。


孤高とか登覧は下座観によって醸成される。

浮俗はそれを変わり者と嘲るが、だから余計に嬉しいのだ。
親父もそんな男だった。
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