まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

警備から民生に 警察官僚との不思議な邂逅

2023-05-29 17:02:59 | Weblog

            陛下の祷りに恥じない権力の姿とは・・・・

 

世の中は目的は定かではないが縁によって逍遥することが多い 。

逍遥とはそぞろ歩きのようだが、地位や名利などの利得などに関知しなけれは縁は多くの果実を運んでくる。つまり成した人物との邂逅(出会い)が不思議と巡り合い、また己次第では多岐にわたる交流も波のように寄せてくる。

利得に関知しなければと記したが、ここでは不特定多数の利福に役立つ知力なり威力が積層され、組織にも、組織の持つ意義にも有効性を持つ関係がある。

ここでは様々な交流の一端において縁があった治安関係者を想いだして、備忘録としたい。

また、面前権力としての治安関係者が、公務員として上部権力や組織維持に指向することなく、国民の不特定多数の安寧を守護する存在として具現できるか否かを、諸々の交流や人物観の座標を保持しつつ、浮俗の関係者にある阿諛迎合、便宜供与がいずれは利得を企図する関係に陥らないよう、権力の運用官として慎重に観察すべきだと考え、ときに単なる交流ではなく、緊張を含む厚誼に至ったことはしばしばだった。

 

     

      

      初代 川路大警視

 

行政機構の一端である警察と税務は目に見える面前権力としてその職掌は国民の身近にある。

また、税と警察は政府の公平と正義を表す職掌、または個々の職員のおいてはそれを具現する立場として国民からつねに観察されている立場でもある。

その税と警察の姿勢如何によっては政府の施政なり、大きくは社会の行く末まで変化させる力を持つ組織であり、その執行次第でいかに政府の公平と正義を基とする政治の信頼が構成されるかは、彼ら面前権力を負託された職員の姿勢によって国民はその「信」を読み取っている。

それゆえ、恣意的な税の徴収や権力者への忖度と称する便宜供与、あるいは警察における恣意的な法の運用など、生身の人間だからこそ起こりうる諸事情があるからこそ国民からの権力負託については、人物を得た組織統御が必要になってくる。

 

ここで記すのはあくまで私事だが、さまざまな分野の人物交流のなかで、縁をもって邂逅した警察関係者と当時の社会事情を想起して備忘としてみたい。

 

いまでも想い出すのは五円を拾って交番に届けたときのことだった。ことさら善い子ぶって、褒められたくて届けたわけでもなく、そんな考えにも及ばない頃だった。

いまは私鉄で百七十円の距離が子供料金で当時十円くらいだった。何十円か握りしめてターミナルデパートの屋上で遊んだ覚えがある。

五円は子供にとっては価値あるものだった。お巡りさんは難しい書類に書き込むことなく、面倒くさがらずに頭を撫でてくれた。

その五円のゆくえを詮索する知恵もなかった。当たり前のことだが持っていったことが善いことであり、親や先生から褒められることより、制服のお巡りさんに良いことだと教えられたことが、今でも記憶に残っている。

きっと地方から都会の警察に志望する警察官もその記憶があったのだと思う。つまり、尊敬する当時の警察官の姿に倣っていたのだ。いまどきは試験昇進や減点や加点に汲々として、あの頃のように管轄地の住民の結婚式の来賓に招かれるようなことは無くなった。

下手に出席すれば利益相反行為などと、敵対関係のようにみられる四角四面の関係になっているようだ。

 

その警察官だが、さかのぼれば端緒は笠木会という満州関係者との縁だった。

満州建国の精神的支柱と謳われた笠木良明を偲ぶ会は新橋の善隣会館において毎年一回三十名くらいで行われた。戦後生まれは筆者のみ。

当時は二十代。満鉄、関東軍、自治指導部、満州浪人、呉越同船だった。石原莞爾の側近片倉参謀児玉誉士夫氏ら交風倶楽部、吉林興和会の五十嵐八郎氏、佐藤慎一郎氏等、政治家もいた。

そのなかで柔和な老士が隣に座った。その時はアブアブといわれた赤札堂の役員をしていた警察学校の名物校長高橋和一氏だ。その時は戦後混乱期の治安事情や警察官の教育事情を伺った。

 

その後、前記の児玉氏と朋友の五十嵐八郎氏から新日本協議会と新勢力という組織に案内された。

新勢力は毛呂清輝氏、新日本協議会は元法相木村篤太郎終戦時の内相阿部源基、その後、厚誼に与った安岡正篤氏らが発起にとして名を連ねていた。

 

       

                 安倍源基

 

丁度そのころ安倍氏が「昭和動乱の真相」という本を出したころだった。早速数冊購入して安倍氏に署名を依頼した。飯田橋の事務所では二・二六事件当時の特高課長だった氏から多くの逸話を伺った。その頃は警友会の会長をしていた頃だ。

その後、杉並和田の自宅に参上して旧知の岸信介氏とのこと、あるいは内務大臣として署名した終戦御前会議の様子など臨場感あふれる逸話を伺った。

 

        岸信介

 

また、警察官僚として民生治安と政府警護など、戦後の警察の在り方について氏なりの切り口で多くの建策を伺い、かつ小生の建言を傾聴していただいた。

 

安倍氏と旧知の安岡正篤氏に慕う警察官僚も多かった。その系譜も様々だった。

前記した佐藤慎一郎氏は戦後満州から帰国後,いっとき内閣調査室の仕事をしていた。

その頃、ラストポロフ事件など冷戦時の特務関係のことで警察庁の柏原信夫長官とは懇意だった。池田内閣の側近がソ連との内通者だったことも柏原氏は知っていた。

その柏原氏が登庁するときはよく同乗されたが、阿佐ヶ谷か高円寺で秘書を乗せた。それが後の野球のコミッショナー川島廣守氏だ。

 

川島氏には安岡氏の会で度々お会いした。あるとき小倉の加藤三之輔氏が西鉄ライオンズの稲生和久氏に依頼された池永氏の永久追放解除について相談があった際、川島氏に繋いだことがあった。

道縁ゆえ川島氏は「早めに時をみて」と快諾され、後日して博多中洲のドーベルという池永氏が経営していた店に訪ねそれを伝え、小倉の加藤氏(カネミ油脂会長)にも報告した。

 

            

              川島廣守氏

 

 

安岡氏の関係では高橋幹夫警察庁長官もいた。のちにJAFの会長にもなった方だが後藤田さんの後輩だ。公安警察の範疇では安岡氏は思想右翼となっていたため、催す会には必ずカメラをもった公安関係者が来ていたが、事情を察してか記念写真を依頼したりもした。

この高橋氏の秘書役に浅野忠雄氏(第五方面本部長)がいる。何度か官舎に伺ったが、あるとき「お願いが・・」と連絡があった。組織系列があったのか下稲葉氏の参議院選挙のことだった。三田の選挙事務所に行くと濱崎仁元警備部長が責任者で、事務は元所轄の署長連だった。

 

 

          

            安岡正篤

 

この浅野氏の後輩が荒井昭氏だった。当時は丸の内の署長で千代田線事件について事情を拝聴した。その場にいたのが産経社会部の樫山記者だった。事件は少年が注意した老人に暴行したことだった。署長室からの眺望は窓際の国旗の後ろに皇居が望めた。

「これは単なる暴行事件ではない。これを小事件として看過しては社会の道徳的風儀が衰えてしまう恐れがある。社会的事件としてキャンペーンを張れないものか」

樫山氏は早速記事にした。少年は逮捕されたが、荒井署長は出署するとまず少年に声を掛け、退署時も同様に声掛けした。

「逮捕するまでは鬼ですが、それからは事情を観察して更生を援けるのが大人の務め」と、語った。

「荒井さんや樫山さんのような方が出世して世に影響を持つようになったらいいですね」

と、応えたが、案の定、樫山氏はワシントン支局長から編集委員になった。

荒井氏は第四方面本部長から本庁の総務部長になった。

 

あるとき、「狭いところだが」と誘われて法務省のレンガ庁舎が見える部屋に通された。

「なにか」

「いま組織は端境期に入っているが、まだ方向が定まっていない」

「現在は警備に偏重しているような組織ですが、本来の民生治安になる方向で・・」

「組織が大きいと人員や予算など多くの問題がある」

「まず目的ですが、青少年とヤクザのようです。バブル期の大手を振って歩くヤクザと、遊惰になった社会に成長する子供たちの将来を考えたらいかがでしょうか。もともと国民は交番や駐在のお巡りさんに警察官の姿を見ていましたが、近ごろは厳めしい警察官が多くなった印象があります。また組織内でも警備なら出世が早いし、予算も確保できる安易て゜偏った流れがあるようです。いずれ足元を知らない組織は内部が弛緩したり、堕落腐敗まで生まれる危険があります」

 

そのとき電話が入った。

「いま、○○さんが来て、あなたの心配と同じことを話してました」

「だれですか」

「板橋の○○署長ですよ」

電話が終わって席にもどりこちらの話を傾聴していた。

「ところで、面前権力が民生、つまり民間分野に入ることは今までの警備のオイコラでは民意は離れます。教育も大変ですね。それと経済分野に権力がかかわると人によってはサンズイ(警察用語で汚職)も気をつけなくてはなりません。法の運用官ですから規制や違反の取り扱い次第では民意との離反は起こり、防犯協力も乏しくなります。その点を抑えないと新たな問題も出ますし、抑えすぎてもサラリーマン化して士気さえ衰えますね。これは組織論ではなく人間学のようなもので、その点のキャリアの意識変革も重要になります」と応えた。

やはり学びの縁だが、宮内に出仕した鎌倉元総監「警察はサンズイが取れなくなった」と危惧していた。サンズイとは汚職案件である。同じ官職にあるものの便宜的駆け引きや、予算確保に阿吽の姿が甚だしくなった状況の憂慮であり、陛下の傍に仕えるからこそ、何を根底に置くべきかと改めて自得した嘆きだった。

 

          

           鎌倉 節 

 

その人間学を提唱していた安岡氏の子息正明氏は税務官僚として税務大学校長を退官して郷学研修所理事長をしていた。あるとき、いまの民情はどのようになっているのかと問われたとき、地元の板橋警察に同行して治安状況を伺ったことがある。

署長室の掲額は「格別到知」中村不折氏の書だ。

 

 

         

           安岡正明

 

当時、人員シフトや予算も警備から民生に移行しつつあるときだった。また勤務評定も粗雑で単なる点数方式や官吏特有の減点方式が採られていた。

なかには朝の講堂での朝礼で上司挨拶が終わると肩を叩いている職員もいた。肩は肩章、つまり人間ではなく肩章(地位)が言っていると揶揄している者もいた。

キャリアとノンキャリアの断絶だけではなく、刑事や交番職員と管理部門に当たる警務と二年くらいで転勤する上司との感情のわだかまりもあった。

 

署長に提案した。

「地位が話しているのではない。この署の伝統が集積した使命感がそうさせているはずだ。この署でも先祖がいる。署長はその魂の継承者だ。この署の殉職者は何人いますか」

「写真もあったはずだが、紛失している」

「ならば、氏名、死亡時、理由、年齢を調べて掲額して朝礼時の署長挨拶する後背に掲げたらどうですか。つまり、先輩、先霊が職員を見守っていることを顕示したらいいですよ」

早速作成し、その裏に殉職慰霊に捧げる献呈文を小生が著し御霊棚に安置した。

普段は閉じてある幕は訓示の時には開け、それを背景として上司は訓示することになった。また、警視庁の弥生祭(殉職者慰霊)とは別に、署独自で執り行えば職員の士気の元となる上司への信頼と情緒が高まるのではないかと提案した。

殉職者は古い署だと、空襲、地震、疫病、逮捕執行時、柔剣道練習など様々だ。各々に物語があり、死の直前まで職務に精励していた職員ばかりだ。

 

次の新署長が来訪するとの連絡があった。

就任時には公用車で来訪するのが慣わしだった。

「お越しになられるなら、民情視察を兼ねて電車でいらしたらいかがですか」と伝えた。

その時に講話を懇嘱された。

事情は、地元大山商店会の中国人の店で飲料に薬物を混入した事件だが、逮捕しても黙秘していることの相談だった。日本的にいう黙秘権ではなく、警察そのものへの拒否だった。

以前、二年ばかり香港に行き来して彼の地の世情と民情を観察したことがあった。もちろん現地警察との間合いも知った。

ある件では地方の警察が道路利権をもちバスの運行をしたいので協力してほしいと持ち込まれた。地域ではギャングも配下にする権力を持っている。もちろん彼の国では「人情を贈る」という賄賂の要求の仕方や渡し方も当事者から聴いた。

 

庶民は、警察は悪いことをする連中だと染み込んでいる。だから逮捕したオバサンは、話したら何されるかわからない、金を無いので賄賂も渡せない、隠しているのではなく、困り果てていたのだ。

そこで「人情は普遍なり」という題で70人くらいの署員に講話した。

署長には「私みたいな人間に語らせると困ることもありますよ。いいですか」と事前に伝えてあったが、内部組織の問題は刺激が強いので、彼の国の犯罪事情や警察と庶民の関係を例にとって語った。データーの一部は法務省のアジア極東犯罪研究所の引用だ。

 

その問題とは、キャリアとノンキャリア、勤務評価、それらが数値評価で犯罪や違反のグラフとなり、宿命的な任官出発点の諦めと、自らの愚直を問う生き方の迷いだった。

このまま歳をとって安全安定に収入を確保するか、またそのために国民に対する問題意識もなく組織に愚直に応えるのか、自身の戸惑いでもあった。そこには自己の内なる良心や希望との整合と納得が必要だった

 

組織の一員として「生活」が第一義となるここと、義侠、善行との狭間は大きく乖離しているという憂慮が要所の現況組織観として、当時は浮上していた。

戦後世代と戦中世代との見方もあったが、浮俗の変化と童心にある道徳的観念への戸惑いでもあった。

 

点数を挙げるために見も知らぬ他人の車に覚せい剤を挿入したり、拳銃摘発に稼業と折り合いをつけたりするノルマ偏重の不埒な不祥事があった。またキャリアの役得や接待、噂になった裏金、など若い警察官には問題意識を持つものが多く、上司との関係も厭世気分になってきていた。

 

         

            駐在さん

 

そんなときの講義依頼だった。

標題は「人情は普遍なり」だった。その内容は前記したとおりのことだが、幾分は遠慮していた記憶がある。当然ごとく質問はなかった。だが、後日おおくの若い警察官から話しかけられるようになった。

 

難しいことではない。権力の腐敗は当然だが、別世界のことと埒外に置くこともいいだろう。

しかし当事者が諦めをもって名位や食い扶持に堕しては権力委託した庶民との乖離は取り返しのつかない状態となる。法の信は崩壊し、歪み(陋規)の更正にはよほどのことが無い限り数十年掛かる。教育、政治も同様だろう。                    

 ⭐️陋規 ・・・組織や郷などの狭い範囲での掟や習慣

 

過去を亡羊として、未来は近視眼になると円はゆがむ。

平成元号の起草者といわれる安岡正篤氏は「地平らかに天成る」と遠い過去の観察と、永い将来の推考を促がした。直線的な意ではない。天地内外を構成するもののバランスを指していた。

そして「無名でいなさい」と督励してくれた。

官学の立身出世主義は昔のことではない。

「智は大偽を生ず」(肉体化しない頭のみ智は高邁を装って大きな偽りをつくようになる)

 

「くれぐれも注意するように」

その言葉が冠についたのは言うまでもない

 

           

 

署長は署内もしくは近隣の官舎に住むことになっている。当時任期中は一泊旅行は余程のことがない限り禁止、いつもポケットベルを所持しゴルフに行っても緊急時にはすぐに帰署し指揮した。なかには単身赴任者もいた。独り酒はつまらんと呼ばれることもあった。

ジョッキングが好きで管内を走っていたが、或る時お節介を言った。

「どうせ走るなら管内の交番をまわったらどうですか。署員の士気も上がるし、緊急時には経路も明るくなるし指揮も的確に執れるはず。署員も緊張と頑張りが違いますよ」

その署長はその通り実行した。そのような人物は出世も早いし退職後も安逸には暮らしていない。

 

なにか半知半解で高邁な指摘をするようだが、先達たちは皆そのように考え、行っていた。

とくに国民の近くで面前で権力を行使する運用官として、みなな自身を律していた。それゆえ安岡氏に訓導を請う人物も多かった。

邂逅した方々は国家社会を背負う、そんな気概のある先輩たちだったと記憶している。

 

さて、現在は国民からどのように映っているのだろうか。

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台湾憧憬 異邦に残置すること

2023-05-29 11:37:31 | Weblog

                  南方のサクラ

 

ことは、今まで使っていた言葉を禁止され、流入してきた人たちに生活語や行動の自由を制約され、かつ今までの既存の社会の仕組みまで解体され、まるで残置されたように数十年も苦渋な生活を強いられる人々の姿を黙視する憐憫の情は、我が身を刺すように心魂を揺るがすのである。

 

それは歴史の隘路に取り残されたかのように我が国の情感を大切に維持し、且つそれを生計の座標として、覚え習った佳き習慣性を心に抱き、まるで客分のように控えめに営みをもつような、ここでは残置されたかのような元邦人の姿であった。

まさに狭く困難な路を歩んだ善人の轍(わだち)が明確に遺されているのが台湾というところだ。

 

    

                  

中山老人住宅

                             

 

元邦人と記したが、清国から割譲され殖産事業に邁進した時から生を享け、幼少期、思春期を経て、反面教師のごとく混乱を巻き起こした国民党軍の来島から、内省人の共通言語となっていた言葉を使うことすら厳禁され、生活環境すら破壊された人々が密かに抱いていた情感と懐古は、いまでも台湾の寛容ある心として日本からの渡航者を包む潤いや安堵感として体感させてくれる

まさに日本では乏しくなった同胞感が異邦となった台湾にそこにある。まさにそのままの状態で残置されているといってもよい環境だ。

             

日本語の説明ボラカティア

     施設では職員20数名と居住ボランティア40名が施設を運営している

 

もし、慣れ親しんだ友人が突然、異郷に渡らざるを得なくなった時、かつ当時の敬重に値した恩師や、厳しかったが民生の安定を守ってくれたお巡りさんがいなくなり、寝るときには鍵を絞めなくてはならなくなり、窓には鉄格子を張り巡らし、生活語まで禁止されたら、まるで残り置かれた悲哀は五内が裂かれる気持ちだったろう。

 

しかし、彼らは頑張った。その想い出と情感を守るために

 

よく、靖国神社は国を護るために戦った兵士を讃えるという。今どきの政治家は「生命と財産を守る」という。ならば、今もって当時の歴史を共有し、かつ異邦において、その生命財産を有効化せしめる情感を深層において守り続ける方々が存在することは、まさに命を繋ぐことを財とする、真の人間の在り様ではないかと思うのだ。

生命も財産も一過性だ。まして長命や財の多寡を競うことの儚さを知る人間の存在は、日本及び日本人にとって多くの無言の教訓を授けてくれる。

 

そして彼らの無言の意志や密やかな吐息は、日本の自然災害の惨禍に対して、浮俗遊惰に浸っていた日本人にも思いもよらぬ俊敏な行動によって、残置の悲哀すら怨みや嫉妬ではなく、報恩の心で義捐を贈り、その深層に培った心を示してくれた。

 

当時、我が国の先人が戸惑いながら試行した行為は、不安だった彼らの心を緩やかにして、多くの協働を成し得た。それでも現世の後輩たちは不安だった。植民地、搾取、差別、などの宣伝に慄(おのの)き、怨みを残しているのかと・・・。

しかし、潜み、伏して、残置された人々の精神は日本人の偏狭な心を払拭させる厳しくも優しい心魂があった。まさに「人情は国法より重し」という普遍的な在り様を教えてくれた。

         

日本語の堪能な80歳の女性

      同行した皇室担当記者 松崎敏彌 さん

 

筆者はそれを「台湾の贈り物」として考えている。有志を集った高齢者施設訪問も数次二十余年、正しい日本語に加え、女性は凛とした姿と優美な仕草を漂わせ、男性は意気軒昂そのもの、低頭せざるを得ない残置された気概だ。日本語もこんなに落ち着いた抑揚があることを知った。男はこうあるべきだと胸を張る。亡くなった祖父母に遇うような不思議な場面がある。

          

           

  

生徒が運営する朝礼

 

そして、小学校の朝礼も恒例になった。生徒が運営する朝礼では校歌に続いて国歌と国旗掲揚がある。懐古趣味ではない、運営責任者は自治会会長だが、『国歌と国旗掲揚は、僕たちが学校で勉強できるのは先生の導き、友達の協力、両親のお陰、それは社会のお蔭であり、国の援助によって僕たちが勉強できる。みんなが組み合わされて社会があると思います。国歌を唱えるのも国旗の掲揚も、私たちは当然と思っています』

尋ねた筆者も、゛何かおかしいところがありますか゛とも感ずる不思議感で応えられれば、これが小学校六年生かと驚いたが、台湾の民主化の実態は学校にもあった。

                      自治会役員と                        

 

会長選挙は各教室で演説をして自分の考えを述べて校内選挙する。きまれば国旗掲揚担当、朝礼担当、清掃担当などを指名し自治会を構成する。父母協力会はあるが日本のようなPTAの類はない。文科省や教育委員会の類似はあるが、父母会の総合意志で校長の罷免さえできるシステムだ。

かといって迎合したり反目したりすることはない。まして、PTA女性の接待や飲食などはありえない。当然のことだが、まさに学校も社会生活の場なのだ。だから、幼稚園すら併設し、知的障害児の教室も並列して、朝礼も一緒だ。売店では蒸し饅頭や果実飲料など、まさに校内コンビニが小学校に設置してある。

                         

                        

                                           

             

衛生についての習慣化も徹底している。廊下の数十メートルおきに手洗い水場が設置してある。時限が終わるたびに生徒は入念な手洗いや歯磨きに勤しんでいる。

想起するに、セシウムによる禁輸処置、日本の悪徳業者が行った偽ラベル事件に過敏に反応する台湾の清潔観念は幼少期から徹底している。さかのぼれば、後藤新平が現地赴任して最初に行ったのは防疫と清潔観念の徹底だった。まさに実利ある有益な習慣は指示されることなく習慣化されるものなのだろう。

 

余談だが、セシウムの風評に、いくら行政が平身低頭して、台湾当局も調整を図っても、庶民感覚は「子供に放射能は御免だ」と、購買にはつながらなかった。こと清潔観念について政府の宣伝には惑わされない強い意志がある。きっと後藤新平も賛同するだろう。

偽ラベルも、福島など⒋県の農産物禁輸を決めていたところ、偽の生産地ラベルを張り付け台湾の消費者を騙した事件だが、日本の農水省官吏は、「台湾の基準こそオカシイ」と、謝り、再発防止を言う前に、詐欺師を擁護し居直りをした。

 

どこの国でもある二重基準だ。4県の作物が国内スーパーで売っているのに、台湾はなぜ輸入しないのか、逆に考えれば、消費者が台湾では禁輸になっているのに、なぜ国内では平然と売っているのか、と苦情が出かねない。往々にして官吏はそんな説明のつかない経済優先基準を作りたがるものだ。農薬も原発も同様だろう。

 

台湾はあくまで法律違反の問題を処理し、その後の実態調査の経過は相談するという大人の対応をした。日本官吏は3・11の経緯を考慮することもなく、偽ラベルを開き直った夜郎自大的態度を見せていた。四角四面は台湾のみならず、我が国官吏のおおよその印象だが、歴史観や冷静に日本人の変質に戸惑っている残置された人々を看過しない非人情も、当世日本人官吏の習性なのだろう

 

                          

                                    後藤民生長官           児玉台湾総督

後藤はなぜ成功したか、理由はいろいろあるが、先ずは人間を観たのだ。

着任早々、ダラ官となり単なる西洋模倣の植民地官僚として増長した日本人官吏の罷免と内地送還だ。つまり、不作為、威張り、無責任と放縦がセットになった官吏だ。

その数、数千人。いまならその使命感も覚悟もないだろうが、採用したのは内地の正義感と使命感ある新進気鋭の若手官吏や現地官吏、そして新渡戸稲造など技術者・教育家など多岐にわたって有能な人材を登用している。

 

予算を執行したら乗数的な効果を得る」、などと言うような今もあるような実態知らずの施策ではなく、「人を観て、人を育て、目的を明確にして資材を活かし、人間を活かせば、超数値的効果が得られる」という、人間学(生物学類)的思考を軸として、信頼、目的醸成、を自治の柱として施策を行っている。もともと偏屈で変わり者だった後藤に白羽の矢を立てたのは児玉源太郎の洞察だが、当時は人格と何ら代表しない、学歴や出自、経歴ではなく、人間そのものを観ることが事の正否すら決定する要因として考えられていた

 

その後藤に台湾は応えている。児玉と縁があった江の島に児玉を讃える神社の建立を後藤が提唱した時、日本ではわずかしか資金が集まらなかった。その大部分は台湾からの奉賛である。本殿のヒノキ材、石材類なども台湾だ。

台湾は、響けば応える人たちなのだ。

 

                                                                         

 

この度、中華民国台湾の駐日交流窓口にあたる新代表に元首相だった謝氏が就任したと共同が伝えている。以下はその共同電である。

 ≪台湾で5月に新政権を発足させる民主進歩党(民進党)は、東京にある台北駐日経済文化代表処(駐日代表部に相当)の沈斯淳代表の後任に、元行政院長(首相)の謝長廷氏(69)の起用を決めたと台湾メディアが21日報じた。

 行政院長経験者が同代表処代表に就任するのは初となる。日本との人脈が豊富で中国政策にも通じた謝氏の起用は、蔡英文次期総統の対日重視の表れとの見方が広がりそうだ。

 謝氏は1946年5月、台北市生まれ。台湾大法学部を卒業後、京都大でも学んだ。86年の民進党結成に参加し、立法委員(国会議員)、高雄市長、党主席などを歴任。陳水扁政権時代の2005年2月~06年1月に行政院長を務めた。

(台北 共同)》

 

一カ月前に関係者から台北の新聞報道で掲載されたようだが、その時は本人が希望して新聞発表されたようだが、その時はまだ決定ではなかった。また就任前の新総統から懇請されたとは記されていなかった。駐日代表人事は総統任命で、今までは学者、ジャーナリスト、元海軍司令など多彩だったが、首相にあたる元行政委員長の任命はそれによって起こるさまざまな近隣との煩悶を深慮して、程よく納まる絶妙な人事が行われていた。

ここで注目されるのは産経新聞の報道記載で、「台湾は日本と運命共同体」とあった。日中国交の約束事に台湾は中国の一部、よって台湾政府との断交、ということで政府間の交流は途絶えている。アメリカは台湾関係法をもって関係を継続しているが、日本は智慧も微かな選択の政府間断交である。

少々、前のめりの「運命共同体」云々だが、意外と大陸の顔色を見て怯むのは外務官僚と風見鶏議員や商売人だが、庶民はいちいちそんなことを言わなくても分別は備わっている。よくよく考えれば、かえって政府間国交がない方が知恵も出る。全国の自治体も自治体交流など直接交流が盛んになり、首長の相互訪問も多くなっている。

何よりも若年層を中心に観光訪問が多くなり、台湾便は各社も満席状態だ。みな東シナ海の蓬来島を目指し、古き日本を味わい人情に触れることで、映画のKANOのように日本人、原住民、華人の連帯と融和の実態を体感している。

巷に警察官は見かけない、政治との間が絶妙にして制約も少なく、よって躍動感もある。何よりも、台湾デモクラシーは既得権者に厳しい目があり、便宜優遇にも国民は敏感な観察眼がある。二十年前の訪問時には、「赤も青も一緒」と、国民党や民進党の政権に冷静さと諦めがあったが、いまは自信をもって社会を語る人が増えた。

断交しているとは思われない人々の交流だが、頭に政府の重しがなく、また双方が大陸の気持ちを忖度するように明確な政策を出せないことによって、かえって中国古代の堯瞬時代のように、政治を気にしないで自由に生活ができる地が、台湾人、日本人の双方にとって居心地の良い雰囲気を作っているようだ。「税金も出すし言うことも聞く、しかし我々のことは構わないでくれ」といって社会だ。

断交後の関係構築だが、経済と文化を政治と切り離すことの新たな仕組みとして日本側は交流協会、中華民国は台北駐日経済文化代表處を窓口としてそれぞれ台北と東京に連絡事務所を設置している。マスコミも北京に中国総局を置き、台北は支局となった。だだ政府間交流は途絶えても人間、とくに情緒性のつながりは途絶えることなく、政治経済の分野ではあるが、いまも深層の心情として多くの分野に通底している。

 

                  

馮寄台元駐日代表    

 

元代表でジャーナリスト出身の馮寄台氏は多くの寄稿を日本の新聞に投稿している。「なぜ、投稿形態・・・」と,尋ねたことがある。

日本は台湾を政体として認めてはいないので台湾の考えていることを新聞に載ることもない。しかも台湾は中国の支局なのです。日本政府も大陸に対する忖度もあり、マスコミもそれに倣っています。ですから個人の投稿という形しか受け入れられない日本側の事情があるようです

震災の慰霊式典の時、多くの義捐金を贈っていただいた台湾も案内があった。しかし台湾代表は2階の一般席に案内され、中国は国家代表として指名献花している。かといって台湾は怒ることもない。有為なる日本国民は憤慨したが日本政府は知らん顔で通した。しかし日本にはもう一つの超越した威があった。

天皇は園遊会に台湾代表馮寄台氏をご招待した。普通は言葉を掛けられなければ参加者は語ることができなかったが、馮氏は数十分前から陛下のお通りする道筋でお待ちした。陛下が通り過ぎようとしたその時、「台湾駐日代表の馮寄台です」と、言葉をお掛けした。名簿にはあったが、側近は敢えて芸人や物書き・スポーツマンなど絵になる出席者を紹介するが、あえて台湾代表を紹介しなかった。物おじしない馮氏は台湾の心情を陛下にお伝えしたかった。

あの時はいろいろありがとう 陛下は意を尽くし、まるで溜飲が下がる気持ちで深甚な謝意を馮氏に伝え、その背後にある台湾国民に対して、日本国民を代表して表意を述べた。皇后は英語で馮夫人に話しかけた。英語が堪能な馮夫人だが、緊張されたのか、とっさに日本語で応答された。

あの台湾南部の自然災害から東日本の震災、そして台南地震から九州の地震と、まるで災害援助の繰り返し共助がつづいている。

あのとき馬総統は黄色いブルゾンを着てテレビで日本を援けようと訴えた。政府も相応な義援金や物資を提供した。それから台湾全土で考えられないことが起こった。それは思いもよらぬ国民運動の様相で、「日本を援けよう」と。

海外や在日華僑までが動き出した。想像していなかったのは馬総統である。国民運動で日本を援けようとする台湾人の姿に驚愕した。政府に言われるまでもなく、人々が勝手に動き出し、しかも競うようになった。不謹慎な日本人は帰属選挙をしたら台湾は日本と一緒になるかもしれないと呟いた。

在外華僑は台湾の精神として誇りにした。中華街の商店主は、『三度の食事を一度にしてもと、みな頑張っている。こなんときしか大っぴらに日本を応援できない。国の法律より人情の方が重いことは知っている。判ってくれる日本人も多い。政治は関係ない-・・・」と、昂じた気持ちを筆者に伝えてきた。まさに、如何ともしがたい政治である。歴史的起因は数多の切り口はあるが、個々の人情の積層は何を以てしても滅することはない台湾と日本の関係だ。

ことさら多寡を競うものではないが、互いに数千年の歴史をもつ国柄で、果たして継続した政体がどのくらいあったのかと問われても、片腹がくすぐったい。中華人民共和国の現政権は漢民族が数も多いが、モンゴル族、満州族や鮮人の皇帝を推戴して、元,清。唐など日本と関係の深い文化を築いた民族もあった。

今でも苗族、客家など由縁をたどれば、いつの時代でも血の混交や結縁などで大陸民族を構成しているが、辛亥革命の後も民族出自に関わらず軍閥集団が入り混じって支配権力の戦いを繰り広げていた。

台湾とて原住民の高砂族などの他に数百年前から対岸の福建省から多くの華人が来島している。それを含めて内省人と称しているが、戦後国共内戦に敗れた国民党が来島すると外省人と呼んで、その軋轢は反目を惹起して、いまでも台湾内省人の記憶として継続している。それは大陸との関係においても、つねに深層に通底している内省人の気持ちとなっている。

 

                   馬総統 

 

以前、日本統治世代の蔡氏から食事のお誘いを受けた。あの司馬遼太郎氏が台湾紀行で老朋友として賞賛していた人物だ。話題は日本の歴史だ。色々と述べられたあと、「知っているかい」と、聴く。「いや知らなかった」と応えようものなら、「だから、今の日本人は・・」とかえってくる。日本語のラジオ番組を同席していた林氏と掛け合い漫談のように続けているという。和歌、俳句、川柳は秀逸だ。蔡氏だけではない、台湾の津々浦々にこのような現代日本人以上の日本通がいる。唄えば軍歌や演歌はもちろんのことだ。

靖国神社にも縁者がいて毎年参拝する。少年工科学校の同級会や、戦友会にも参加して、今の日本の現状を憂い、ときに憤慨して叱咤激励する。聴いている日本人の専らの話題は、健康・孫・年金などが普通だが、日本よ! 日本人よ!と、提言は止まない。この人たちの気概が、三度の飯を一度にしても震災にありったけの義捐を贈ってくれた人たちなのだ。

余談だが、彼らとは異質な人物観のある蒋介石だが、彼も孫文の意志を守り、「日本と戦ってはならない、日中は共に滅びてしまう、日本が亡んだらアジアの復興はない」と、共産党との合作をためらっていた(側近、何応欣将軍談)。それが西安事件の蒋介石監禁となるのだが、軍閥の取り巻き既得権者の横暴は、残置された人々の心に深い怨嗟を残し、日本当時の懐古として今でも継続した情緒となっている。

 

                                   

                                         

 

もう一つの逸話として、訪台した日本の代議士が終戦時の「怨みに報いるには徳もってする」と全国に放送し、大量の艦船を準備して無事内地に帰還させたことに感謝を述べたら、「何を言っているのですか、礼をいうなら貴方がた御国の先輩の方々に言ってください」と、厳言している。それは辛亥革命で孫文を援けた山田兄弟、萱野、宮崎、頭山の先輩たちを指している。

また、孫文の指示で日本が満州が経営してソ連の南下を防ぐという満州工作に蒋介石みずから石岡と日本名で山田らと潜入工作した経験事実であり、日本となら被植民地のアジアを復興できるという確信があった

                   

山田純三郎と孫文

                 

                 新生活運動の原本 中正記念堂

蒋経国総統は、《我々が台湾にいる現状は戦いに負けたのではなく、国軍の腐敗と堕落にあった》と、社会の整風運動として、父蒋介石と「新生活運動」を行った。つまり、国が依って立つ幹と人々の風紀を整える国民運動だった。。

 

議会でさえ手を拱いた日本軍閥の企図は、その理想さえも潰えさせた。台湾の人々は日本を贔屓目に見ているのではない。大陸で体験した外省人も然り、慎重に事情によって変質する日本人を観て、熟知している。その上での友誼だろう。ざっくばらんは無礼の境にある。ここは訪れる者を、思った通りの日本人なのか、財利は超えて継続的厚誼は成り立つのか、とくに残置した人々は、当時の日本人と比較して観察している。

昔の日本人はそんな行儀の悪いことはしなかった」それは、ほんの少し前の観光地での出来事だった。そんな叱ってくれる大人がまだ残る台湾に多くの若人が訪れる。まさに好きで興味を持った台湾だからこそ耳も敏感で許容量も多いだろう。それは社会に感応しなくなった世代や、懐古に潤いを感ずる訪問者が、烏帽子親(他人親のような)の如く愛着と感謝の念が訪れるときでもある。

残置された情感は台湾のみならず多くの国々にある。少章でも記したが、アルベルト・フジモリ、ペルー大統領は陛下に「私は勤勉・正直・礼儀、そして母からは忍耐を学び、それをもとに国づくりをしています」と、旧来の日本の徳目をお伝えしている。陛下はそれら応えて、「我が国を祖とする方が異国において、その地に貢献していることを嬉しく思います」と語っている。

 

                                    フジモリ大統領       

                                                

                                          

    ケイコ・フジモリ大統領候補

経済や軍事が数値比較され、国家のバロメーターとなっているが、たかだか努力すれば叶うものだ。真の国力は人々に涵養されている深層の情緒性だろう。その良質な情緒性は経済や軍事力のみならず、社会の基盤として、それらの数値に別のかたちで厚みを持たせてくれるに違いない

とくに、ここに記した台湾においては、残置された人、華人の知恵、固有の文化が調和し、連帯してはじめて台湾が台湾として立つ由縁になるはずだ。どれも必須な事柄であり人格なのだ。いわんや、偏重(アンバランス)したり、数値の熱狂に各位を偏見するようになったら、台湾は落ち着かなく侵入を許すようになるだろう。また、それぞれの有効性を認め、人心が微かにならなければその安寧は歴史が証明する。

政治と民はその間(マ)を絶妙にとっている。それが良さであり、訪れる者を安心させる。一過性の爆買招致は経済のバランスを歪め、情緒性まで緩んでくる。それは表層であり浸透性のない、たんなる財への簡便な昂進しかないだろう。

台湾は佳き姿を継続してほしい。そして学びであってほしい。

                   第五次訪台施設訪問を終えて・・

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