まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

明治天皇が直感した人間教育の欠如 10/7再

2023-05-12 02:59:52 | Weblog

 

明治天皇は帝大(東京大学)の巡察で現代の教育についての混迷を逆賭するかのように賢察を侍従に諭している。

これは天皇でありながら独りの英明なる人間としての直感である。

明治創成期、国家、国民という名ではじめて呼称され、国家経営のための諸制度がつくられた。
そのなかで一番重要視されたのは教育であり、さらに国民の人間としての尊厳を護るために任用される各部署要員と共に、それらの人員を用いて有用にプロデュースする「相」の育成だった。


その様子は天皇の慧眼というべき指摘であり、以後、立身出世主義から形式的組織となり、ついには臨機の応用に応えられないような状態が起こり、あたかも国家の暗雲となり惨禍を誘引してしまったことを観透すような憂いでもあった

それは結果として今もつづく教育の在りように添えられる数多の枝論、ここでは文部省官制学校制度の限界を縫い繕う対策や、あるいはそもそもが教育課程の前提なるものを国家の施策の範疇に留め置き、しかもそれが全人格、全教養を補うかの如く考える官吏や受益者の習慣的錯誤によって囲うような状態を作り出してしまった。

その前提が崩れるといった状態だが、当時の目標が「公」に基づく立身出世なら、現在は食い扶持安定、やりたいことのステージ確保といったありさまである。

政治の「相」といえば、徴税、分配という部分は唱えても、国内の流動を俯瞰する教養も乏しく、その流動でさえ世界を包む流れからすれば盲流のような行き先不明状態でもある。
事実、政治の一面でもある欲望の交差点に戸惑い難儀な姿を見せるが、複雑な要因を以て構成された国家を担う胆力はなかなか感じ取ることはできない。

西郷も勝も歎いた国家の柄と人々の風潮は、よりその教育制度の錯誤と西洋迎合のために当時流行りものとして、かつ引き寄らせられる個の伸張と我欲の昂進を促す啓蒙的思想に染まってしまった

そして大切なことを置き去りにしてしまった。

天皇はそのことを逆賭して諭したのである。
それは天皇の責任としての賢言でもある。

民族の危機は天皇の直感として今でも生きている、また解っていても動じない殻が社会を覆っている。問題はそれを意識として認知しなければ変わることはできない。以下は、その端緒として考え敢えて提示する。





             





≪聖喩記≫

                        明治19年丙戌11月5日
                                元田永孚謹記

11月5日午前10特例に依り参内既にして 皇上出御直に臣を召す。

臣進んで 御前に侍す。 呈上親喩して曰く。



 朕過日大学に臨す(10月29日)設くる所の学科を巡視するに、理科・化(学)科

植物科・医科・法科等は益々其の進歩を見る可しと雖も主本とする修身の学科に於いて

は曾て見る所無し。
 

和漢の学科は修身を専らとし古典講習科ありと聞くと雖も如何なる所に設けあるや過

日観ること無し。

 抑(そもそも)大学は日本教育高等の人材を成就すぺき所なり。
 
然るに今の学科にして政治治要の道を講習し得るべき人材を求めんと欲するにも決し

て得るぺからず。
 
仮令理科医学等の卒業にて其の人物を成したりとも人て相となる可き者に非ず。


 当世復古の功臣内閣に入りで政を執ると雖ども永久を保つすべからず。

 之を継ぐの相材を育成せざる可からず。然るに今、大学の教科和漢修身の科、有るや

無きやも知らず、国学腐儒固懇なる者ありと雖ども其の固泗なるは其の人の過ちなり

 其の道の本体に於いては固より之を皇張せざる可からず。

 故に 朕、今徳大寺侍従長に命じて渡辺総長に問わしめんと欲す。

 渡辺亦如何なる考慮なるや、森文部大臣は師範学校の改正よりして3年を待って地方

の教育を改良し大いに面目を改めんと云って自ら信じると雖ども中学は梢改まるも大学

今、見る所の如くなれば此の申より真性の人物を育成するは決して得難きなり

汝 見る所如何。                   

 臣謹んで對して曰く








                



数年前、与党の教育視察がイギリスに渡った。そして異文化から必然として考えられた教育制度を帰国して嬉々と広言していた。
今度の政権もその手の奇妙なハナシに飛びつくようにみえる。はたして何処の国の失敗と一過性の成功体験を持ってくるのだろうか。

制度やマニュアルや教師の増減や待遇を論じても失敗する。

明治以前、藩校、塾、郷学、寺子屋があった。
当時は制度や枠組みを問題としたのではない、教育、修得、修行に携る人間を問題として、かつ重要視した。

山田方谷,恩田杢、上杉鷹山、吉田松陰、みな教育を行なう前提として身を律した。それは古今東西の栄枯盛衰を成文化した古典を学び、人物、人格を倣いとした

「古典」は難しく固いものではない。語る人間の問題と明治天皇も説いている。
しかも、それは昔話として興味を持つものが端緒となる平易な学びだ。

敢えて外国の理を取り入れた明治の学制、それが日本及び日本人の情緒に齟齬をきたしたからといって、また外国を範とする愚は阿諛迎合性という国癖を深いところで理解しない擬似知識人、選良の一群でもある。

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人心、惟(コレ)微かなり 10 1/8 再

2023-05-12 02:57:33 | Weblog

            師走の富士





S氏とN氏のTV漫談対談のこと・・・

双方、善人である。かつ人生経過において常に問題意識をもち、゛考える゛ということを怠りなく行なってきた。また遭遇した人の縁によるものなのか、あるいは身の置所の縁ゆえか人師より経師の縁が多かったようだ。
それとも、人には天爵と人爵があるというが、それかもしれない。

それゆえか、世俗ではごく普通な経過であっても、彼等の観た挫折反抗が反骨という特徴ある気概を生み、味のある口舌のオンが滲み出ている。その意味では洒脱でもある。

ただ、吸い取り紙と皮肉屋の言いっ放しといってよい談でも論でもないハナシのようでだが、これらが「壇」や「界」を形成し、錯覚した「威」をもつと国家は弛緩する。

吸い取り紙とは、なんでも頭に入れ珍奇な切り口で、切り絵貼り付けを成す論を高邁に語るが座標がなく責任言辞が無いことである。皮肉は世俗を嘲りながらも心根に素直さが無いシャイな様である。天邪鬼な筆者はそう診るのである。







            






先日、ドイツの哲学者カントのことで二人が対談していた
双方、学者と称する人物だが、一人は元左翼との経歴はあるが、矢鱈と知を詰め込んだためか、それとも「本立って道生ず」にいう知の集積以前の「本(もと)」の希薄のせいか、迷いに迷って他に解答を求めんがために、つまり素直さのない口舌を当たると幸いに投げつけ、かつ今以て有るが如く捜し求めているが極みがなく、亡羊で言い切りのない人物である。

一方は元教員だが応答の妙は前者とは異なり、幾分の気質はこの世界の師の影響ゆえか、反骨の気概は和(日本風)の根が醸し出されている。そのせいか応答に、゛押して殺す゛、あるいは眺めるような言葉の韻がある。
だた、彼の講演テープを拝聴したことがあったが、教育者、評論家の雰囲気はなく、ただ彼らしいイメージを護るものであろう権力を嘲る軽い音調であった。

共通していることは大衆を軽薄なものとして自身の置くところを錯覚していることだ。ともあれ無学歴、無教養なると定義した世の善男善女、ここではそれをスメラギの倣いになる「大御宝」と留め置く忠恕な心が希薄なようだ。
当世知識人の一方の姿として眺めても、いざとなったとき「欲知」の衣を被り肉体的衝撃を感受できるが、同感できない人物のように見受けられる。







                     

                八甲田




余談だが新年参賀の陛下の言に「平安」があった。平和ではない。
「和して平らかに」から「安らかに平らに」である。陛下は若かりし頃「平等」について考察をしている。平等とは意志ある人たちの自由を担保するものであり、自由とは人間の尊厳を護持するものである、との考察だった。

ならば、人間の尊厳を毀損するものは何か・・・、それは権力を構成するものの在り様である。今どきの権力は政治家、官吏、宗教家、宗教家、教育者、あるいは金を繰る金融資本家もそうだろう。また、第四権力といわれる商業マスコミも当てはまる。それは力の加減であり、ホドの問題である。

調和と連帯は譲ること、つまり辞譲に表れる礼と醸し出す「威」の認知にあるが、そこに大小の「力」がつくと様々な煩いになる。商業マスコミに踊る、売文、言論もその力を必然として生業を成立させているが、自他に毀損するものについての言は微かである。

また、衆を恃む人々の集合やうねりも、「人の権」、つまり人権を基に力の大小を問わず姿のないものだが、己には決して向けられることのない「威」をつくっている。

往々にして言や文、そして行動を人は反芻する。そこから反省、確証、突破力などが生まれるが、逆に一過性の゛このぐらい゛という自己許容の弁えがないと、たとえ虚構や他の錯覚ではあっても覚醒なき者にとっては「威」をみてしまうことがある





              

            青森県平川町 木村ヨシ 作



今どきは、人の考えること、思うことは勝手、あるいは巧舌を以って相手の無理解や錯誤を突くような、通り魔的ないっときの戯れが言論、売文の争論としてもてはやされている。また無理解にも真剣さと難しさが同衾していると考えているのか、優しい言辞も「易しい」という錯覚を生み、世俗でも易しい男女を増大させている。まさに劣意スパイラルに陥り、より「権」や「威」の効用を衰えさせている。

たとえ世俗に異論であっても恐れぬ言辞を発するのが知識人ではないだろうか。
それが真の自由を担保することだと「学」に向かったのではないのか。
やはり、歴史を裁つことでなく、より糸を断つのだろうか。絶つべきは権と威を食い扶持に用する怠惰ではないだろうか。





            

            全ての人形には口が無い




古今東西、つまり日本以外の宗教なり哲学に遺された言辞にはナルホドと共感するものがある。
同時代の情感や和訳の巧みさもあろうが、時を越えても、あるいは積み重ねたり、崩されても、人の心に入り込む適応はあるようだ。加えて、似て非なる理解でも相対の象として残るような考証期限のないものでもある。

ただ、似て非なる民族なり環境なりから必然として発生し、継続なり時には忌諱された説として理解なり押さえなくてはならないことは、この手の対談には必要なことだろう。なぜなら堂々巡りして発言者の、しかも自己発言の自己納得で済んでしまうような滑稽な論壇演技になるからだ。

対談は「潜在」というキーワードが最後の句として語られたが、尚更のこと当てずっぽうの放談、いや笑談という緊張感のない対談に双方が捜し求めても見つからない「我ナニビト」に落ち着いたことに現代知識人の突き当りを観ることができた。





              

            岩木の冬





次は江藤淳がまな板の鯉だった。
「安岡正篤の講座に参加していたが、其のうち来なくなった。安岡氏は『江藤君は朱子学だからか・・』と云っていた」
また「江藤さんが三島氏の行為に『病気だったのではないか・・』と小林秀雄さんに言ったら、『幕末維新の吉田松陰も・・・』と、その侠気を例に反論された」と江藤氏の曖昧さと型(形式)を付けるような人柄を語っている。

筆者は江藤氏や三島氏の著作を見ているわけでもないが、手紙の交換経緯は眺めていた。

朱子だか陽明だからは省くが伏線がある。
江藤氏がアメリカに滞在していたとき三島氏から懇請の便りがきた。内容は自身の英訳に適した人なり方法を、゛たって゛のこととして請うている。

その後、江藤氏がどのように動いたかは判明しないが、きっと動かなかったのか、難しいこともあったのだろう。だだ、英訳の意図はノーベル賞に辿り着く前提でもあるということだ。ここでは著者と読者の相関関係ではない。本来なら商業出版社が労をとると思うのだが、本人がアメリカ在住の江藤氏に直接便りを出して請うべきものなのだろうか。また人物なり見識に敬する気持ちがなければ、たっての請願は行なわない。なぜなら意図を錯誤され批判の対象にされかねないからだ。江藤氏は書評家でもある。






          





書評、とくに外国の有名な書評家のコメントは特に我が国の著書を生業にしている人たちにとって気になるところだ。中国のリ・トクジュン氏も新潮45に多くのページを占める人だが、筆者に親指と中指を広げて『司馬さんからこんなに手紙を貰っている、ほかにも阿部さんもある』と。

「ところで李さんは元外交部で単身でしょ・・。この新潮45を書いたのは北京でしょ・・」

李さんは『なぜ分かるの・・』

「数十ページの長い書評ですが、この2行が李さんらしい」
その意の詳細は省くが、説明責任なら以前コラムに記してあるので、此処では省く。

つまり書評とは相手の意思ならず、意図の中で調理されるものなのである。あるいは其の世界では「見透かされる」ことなのである。

江藤氏では埒が明かないとみたのか、三島氏は安岡正篤氏に手紙を送っている。
其の手紙の内容だか、江藤氏を罵詈雑言でこき下ろしいている内容である。
はたして人間学を説き、人物、人格を人間の観点とする安岡氏にどのように映ったのだろうか。あるいは江藤氏の観点、人格が完璧ならずとも常識を弁えていたら、安岡氏の講義に際して何か知りえたとしたら、遠慮する、あるいは控えるのが三島氏に譲る礼であったのだろう。







               

               碩学の書棚



あの決行直前にも長文の手紙を送っている。その際安岡氏は「手紙を貰っていたが、早い時期に陽明など、じっくりと語り合いたかった・・」と彼の死を慙愧の気持ちで惜しんでいる。

世俗の人間なら、あの時あの手紙の懇請に複雑な事情で応えることができなかったが、安岡氏にそれとは逆な意味の手紙を差し出すことにどう対応するだろうか・・・

突き詰めた真剣さ、純なる思い、陽明のある意味での到達である「狂」の境地を行動した三島氏の烈行は畏敬されるものだ。

また別なる境地として理解した安岡氏も金鶏学院に参講した血盟団の若者との縁を想起しただろう。
「暴力的手段は人の心に衝撃を与えるが、社会は一過性のこととしてみる。私は全国津々浦々の礎となる人物を育てる立場に為すべき社会に目標を立てる・・」と歩調を合わせなかった。
それゆえ、御用学者、腰抜けと罵倒されもした。

ことさら江藤氏を援護するものではない。
しかし、事には動と静がある。また三島氏の行の後の世相に、いたたまれない慙愧と鎮まりが訪れたことだろう。

それは世の中が人の言辞に踊り、その筆者や言者でさえ自らの記述や言辞に吸い込まれるような自己愛に、茫洋とした無常を感ずことである。

つまり、独立した精神は筆者にも読者においても、自己を俯瞰客観視する余裕、あるいは自裁の辿りを想起するような自己への戒めを、利他増進へ行動によって解消するような鷹揚さと、歴史の腐葉土として受忍し将来を逆賭する生き方への学びの探求だった。





             
      
            京都 上賀茂





三島氏を心根で理解してほしい、それが江藤氏の思いだったのだと・・・
それさえも阿吽で忖度できない日本人、ならびに文化を高め未来を推考するなどと水面のミズスマシ如く表層問題に争論を闘わせ、潜在する良心を観てみぬ振りして、いや在るを知らずして食い扶持前提に走狗する知識人を歎き眺めていたと筆者は意を受ける。

今どきの売文の徒と言論貴族は、極みと覚悟を忘れた放埓の痴(知)戯に成り下がった。再度、集積歴史の恩顧と覚醒をお願いしたい。

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