極東軍事裁判 ラダ・ビノード・バル判事の椅子
東條家の人たちとパル博士
標題は、ロシュフーコのいう自己愛の観察の類なのだろうが、どうも、「そもそも人間は・・」、との問いに頓首せざるを得ない。まだ頭を傾げる姿ならまだしも、悲しいかなおおよそは当てはまる心の深層だろう。筆者もその風はあるのだろうと、内心を探ってみた。
当てはまる現象を取り上げることも野暮な思索だが、表記を逆に考えれば、己が幸せの羨望を集め、嫉妬されるような幸福感を求めていることなのだろう
そんなことを考えることも思想ゲームの類だと一笑されそうだが、いくら聖書や古い経典を振り回さなくても、己の内心を探れば口に出さなくても大方は得心している。
ところが、幾らか人生を重ねると、その時々に錯覚していた、あるいは今考えると、゛あれさえなければ゛と、悔やむことがある。それは間違いではなく、錯覚というしろものだ。
正邪や善悪の判断は誤ればリターンが己に降りかかるために抑制はある。だが、錯覚だけはその影響があらわになるまで判らない。
標題は「贅沢を幸せと考える」内心の変化だが、「怯えを守りと言い換える」「野蛮な暴力を勇と思う」なかには「詐欺を頭がいい行為」と考えるようになると、今どきの文明観にある人間の存在価値であり判断として附属性価値である、地位・名誉・財力・学校歴が意味を持つ。
あの人は金が有る、地位がある、有名だ、と、人は集い誇ることもあるが、人によって金もちはケチで、地位は人を蹴落とす薄情で、有名は無名に劣ることある。おこぼれを想像してもまずは徒労なのだが、人は屏風にしたり仮借するために集う。代表的なものは選挙だ。
近ごろは横文字経歴や、政治家は人を騙して雄弁と揶揄される大言壮語を錯覚する。
いずれそのような選別評価で職掌を得た収益担保に人々の観人則(人物を観る視点)になると、今どきの争論となっている社会の患いごとになるのは当然な帰結として、しかたがないことだろう。
その是正をまたもや制度や法律に委ねても、それを運用する人間が不特定多数の錯覚した成功価値や幸福感に沿っているだけでは、よりその混迷は深くなる。当面の・・・、現況は・・・と、政治も追従する。まさにそれは無責任な官僚社会主義と揶揄される由縁の姿だ。
佐藤慎一郎氏 満州にて
ともあれ標題は多くの事象に当てはまる人の姿だが、いま社会はその本性を露見させ、かつ、大手を振って錯覚した幸福感を増幅させている。
高度成長のころは家電や持ち家、車などの所有物に憧れ、みなローンの奴隷になった。便利さと安易さは、完済するまでは所有権のない仮の資産だが、それでも幸せがあった。そして優越感も生まれた。視聴覚が満たされると加工された情報であるスポーツ・芸能・趣味に易々と乗ずる昨今の興味は誘引された。スキャンダルは話題となり、高額報酬は憧れになり子供の成長もそれら巻き込まれた。
昔はカメラを向けられれば顔を隠して隠れ、マイクを向けられれば逃げた。喜んだのは芸人か政治家くらいだ。今昔の世評の良し悪しではない、ここでは人間の表現変化を歴史の鳥瞰視として由縁(なぜなのか)を考えてみたい。
自由のいたるところ孤独となり、平等は不満を喚起し、民主はまとまりのない混迷と争論を招いた。それらの錯覚した短絡的応用は、ときに人々の連帯を離反・希薄になり社会の調和さえ失くすようになった。
国を亡ぼすのは「無関心」というが、繁栄を誇ったローマ帝国、大英帝国も絶頂期の民心は政治や将来無関心で、指向することは温泉・グルメ・旅行・イベント、と共通していたと識者は伝える。
そろそろ行き着く先と、是正ならずとも抑制の意識を栄枯盛衰の倣いとして考えるべきだろう。
その標題の意識が人間の姿として当然視されることを否定するものではない。
ただ、それを進捗させ感化影響するかの様な、錯覚した政治政策や商業宣伝の現状に、勝手な独言だが現時の備忘として記したまでです。