まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

警備から民生に 警察官僚との不思議な邂逅

2023-05-29 17:02:59 | Weblog

            陛下の祷りに恥じない権力の姿とは・・・・

 

世の中は目的は定かではないが縁によって逍遥することが多い 。

逍遥とはそぞろ歩きのようだが、地位や名利などの利得などに関知しなけれは縁は多くの果実を運んでくる。つまり成した人物との邂逅(出会い)が不思議と巡り合い、また己次第では多岐にわたる交流も波のように寄せてくる。

利得に関知しなければと記したが、ここでは不特定多数の利福に役立つ知力なり威力が積層され、組織にも、組織の持つ意義にも有効性を持つ関係がある。

ここでは様々な交流の一端において縁があった治安関係者を想いだして、備忘録としたい。

また、面前権力としての治安関係者が、公務員として上部権力や組織維持に指向することなく、国民の不特定多数の安寧を守護する存在として具現できるか否かを、諸々の交流や人物観の座標を保持しつつ、浮俗の関係者にある阿諛迎合、便宜供与がいずれは利得を企図する関係に陥らないよう、権力の運用官として慎重に観察すべきだと考え、ときに単なる交流ではなく、緊張を含む厚誼に至ったことはしばしばだった。

 

     

      

      初代 川路大警視

 

行政機構の一端である警察と税務は目に見える面前権力としてその職掌は国民の身近にある。

また、税と警察は政府の公平と正義を表す職掌、または個々の職員のおいてはそれを具現する立場として国民からつねに観察されている立場でもある。

その税と警察の姿勢如何によっては政府の施政なり、大きくは社会の行く末まで変化させる力を持つ組織であり、その執行次第でいかに政府の公平と正義を基とする政治の信頼が構成されるかは、彼ら面前権力を負託された職員の姿勢によって国民はその「信」を読み取っている。

それゆえ、恣意的な税の徴収や権力者への忖度と称する便宜供与、あるいは警察における恣意的な法の運用など、生身の人間だからこそ起こりうる諸事情があるからこそ国民からの権力負託については、人物を得た組織統御が必要になってくる。

 

ここで記すのはあくまで私事だが、さまざまな分野の人物交流のなかで、縁をもって邂逅した警察関係者と当時の社会事情を想起して備忘としてみたい。

 

いまでも想い出すのは五円を拾って交番に届けたときのことだった。ことさら善い子ぶって、褒められたくて届けたわけでもなく、そんな考えにも及ばない頃だった。

いまは私鉄で百七十円の距離が子供料金で当時十円くらいだった。何十円か握りしめてターミナルデパートの屋上で遊んだ覚えがある。

五円は子供にとっては価値あるものだった。お巡りさんは難しい書類に書き込むことなく、面倒くさがらずに頭を撫でてくれた。

その五円のゆくえを詮索する知恵もなかった。当たり前のことだが持っていったことが善いことであり、親や先生から褒められることより、制服のお巡りさんに良いことだと教えられたことが、今でも記憶に残っている。

きっと地方から都会の警察に志望する警察官もその記憶があったのだと思う。つまり、尊敬する当時の警察官の姿に倣っていたのだ。いまどきは試験昇進や減点や加点に汲々として、あの頃のように管轄地の住民の結婚式の来賓に招かれるようなことは無くなった。

下手に出席すれば利益相反行為などと、敵対関係のようにみられる四角四面の関係になっているようだ。

 

その警察官だが、さかのぼれば端緒は笠木会という満州関係者との縁だった。

満州建国の精神的支柱と謳われた笠木良明を偲ぶ会は新橋の善隣会館において毎年一回三十名くらいで行われた。戦後生まれは筆者のみ。

当時は二十代。満鉄、関東軍、自治指導部、満州浪人、呉越同船だった。石原莞爾の側近片倉参謀児玉誉士夫氏ら交風倶楽部、吉林興和会の五十嵐八郎氏、佐藤慎一郎氏等、政治家もいた。

そのなかで柔和な老士が隣に座った。その時はアブアブといわれた赤札堂の役員をしていた警察学校の名物校長高橋和一氏だ。その時は戦後混乱期の治安事情や警察官の教育事情を伺った。

 

その後、前記の児玉氏と朋友の五十嵐八郎氏から新日本協議会と新勢力という組織に案内された。

新勢力は毛呂清輝氏、新日本協議会は元法相木村篤太郎終戦時の内相阿部源基、その後、厚誼に与った安岡正篤氏らが発起にとして名を連ねていた。

 

       

                 安倍源基

 

丁度そのころ安倍氏が「昭和動乱の真相」という本を出したころだった。早速数冊購入して安倍氏に署名を依頼した。飯田橋の事務所では二・二六事件当時の特高課長だった氏から多くの逸話を伺った。その頃は警友会の会長をしていた頃だ。

その後、杉並和田の自宅に参上して旧知の岸信介氏とのこと、あるいは内務大臣として署名した終戦御前会議の様子など臨場感あふれる逸話を伺った。

 

        岸信介

 

また、警察官僚として民生治安と政府警護など、戦後の警察の在り方について氏なりの切り口で多くの建策を伺い、かつ小生の建言を傾聴していただいた。

 

安倍氏と旧知の安岡正篤氏に慕う警察官僚も多かった。その系譜も様々だった。

前記した佐藤慎一郎氏は戦後満州から帰国後,いっとき内閣調査室の仕事をしていた。

その頃、ラストポロフ事件など冷戦時の特務関係のことで警察庁の柏原信夫長官とは懇意だった。池田内閣の側近がソ連との内通者だったことも柏原氏は知っていた。

その柏原氏が登庁するときはよく同乗されたが、阿佐ヶ谷か高円寺で秘書を乗せた。それが後の野球のコミッショナー川島廣守氏だ。

 

川島氏には安岡氏の会で度々お会いした。あるとき小倉の加藤三之輔氏が西鉄ライオンズの稲生和久氏に依頼された池永氏の永久追放解除について相談があった際、川島氏に繋いだことがあった。

道縁ゆえ川島氏は「早めに時をみて」と快諾され、後日して博多中洲のドーベルという池永氏が経営していた店に訪ねそれを伝え、小倉の加藤氏(カネミ油脂会長)にも報告した。

 

            

              川島廣守氏

 

 

安岡氏の関係では高橋幹夫警察庁長官もいた。のちにJAFの会長にもなった方だが後藤田さんの後輩だ。公安警察の範疇では安岡氏は思想右翼となっていたため、催す会には必ずカメラをもった公安関係者が来ていたが、事情を察してか記念写真を依頼したりもした。

この高橋氏の秘書役に浅野忠雄氏(第五方面本部長)がいる。何度か官舎に伺ったが、あるとき「お願いが・・」と連絡があった。組織系列があったのか下稲葉氏の参議院選挙のことだった。三田の選挙事務所に行くと濱崎仁元警備部長が責任者で、事務は元所轄の署長連だった。

 

 

          

            安岡正篤

 

この浅野氏の後輩が荒井昭氏だった。当時は丸の内の署長で千代田線事件について事情を拝聴した。その場にいたのが産経社会部の樫山記者だった。事件は少年が注意した老人に暴行したことだった。署長室からの眺望は窓際の国旗の後ろに皇居が望めた。

「これは単なる暴行事件ではない。これを小事件として看過しては社会の道徳的風儀が衰えてしまう恐れがある。社会的事件としてキャンペーンを張れないものか」

樫山氏は早速記事にした。少年は逮捕されたが、荒井署長は出署するとまず少年に声を掛け、退署時も同様に声掛けした。

「逮捕するまでは鬼ですが、それからは事情を観察して更生を援けるのが大人の務め」と、語った。

「荒井さんや樫山さんのような方が出世して世に影響を持つようになったらいいですね」

と、応えたが、案の定、樫山氏はワシントン支局長から編集委員になった。

荒井氏は第四方面本部長から本庁の総務部長になった。

 

あるとき、「狭いところだが」と誘われて法務省のレンガ庁舎が見える部屋に通された。

「なにか」

「いま組織は端境期に入っているが、まだ方向が定まっていない」

「現在は警備に偏重しているような組織ですが、本来の民生治安になる方向で・・」

「組織が大きいと人員や予算など多くの問題がある」

「まず目的ですが、青少年とヤクザのようです。バブル期の大手を振って歩くヤクザと、遊惰になった社会に成長する子供たちの将来を考えたらいかがでしょうか。もともと国民は交番や駐在のお巡りさんに警察官の姿を見ていましたが、近ごろは厳めしい警察官が多くなった印象があります。また組織内でも警備なら出世が早いし、予算も確保できる安易て゜偏った流れがあるようです。いずれ足元を知らない組織は内部が弛緩したり、堕落腐敗まで生まれる危険があります」

 

そのとき電話が入った。

「いま、○○さんが来て、あなたの心配と同じことを話してました」

「だれですか」

「板橋の○○署長ですよ」

電話が終わって席にもどりこちらの話を傾聴していた。

「ところで、面前権力が民生、つまり民間分野に入ることは今までの警備のオイコラでは民意は離れます。教育も大変ですね。それと経済分野に権力がかかわると人によってはサンズイ(警察用語で汚職)も気をつけなくてはなりません。法の運用官ですから規制や違反の取り扱い次第では民意との離反は起こり、防犯協力も乏しくなります。その点を抑えないと新たな問題も出ますし、抑えすぎてもサラリーマン化して士気さえ衰えますね。これは組織論ではなく人間学のようなもので、その点のキャリアの意識変革も重要になります」と応えた。

やはり学びの縁だが、宮内に出仕した鎌倉元総監「警察はサンズイが取れなくなった」と危惧していた。サンズイとは汚職案件である。同じ官職にあるものの便宜的駆け引きや、予算確保に阿吽の姿が甚だしくなった状況の憂慮であり、陛下の傍に仕えるからこそ、何を根底に置くべきかと改めて自得した嘆きだった。

 

          

           鎌倉 節 

 

その人間学を提唱していた安岡氏の子息正明氏は税務官僚として税務大学校長を退官して郷学研修所理事長をしていた。あるとき、いまの民情はどのようになっているのかと問われたとき、地元の板橋警察に同行して治安状況を伺ったことがある。

署長室の掲額は「格別到知」中村不折氏の書だ。

 

 

         

           安岡正明

 

当時、人員シフトや予算も警備から民生に移行しつつあるときだった。また勤務評定も粗雑で単なる点数方式や官吏特有の減点方式が採られていた。

なかには朝の講堂での朝礼で上司挨拶が終わると肩を叩いている職員もいた。肩は肩章、つまり人間ではなく肩章(地位)が言っていると揶揄している者もいた。

キャリアとノンキャリアの断絶だけではなく、刑事や交番職員と管理部門に当たる警務と二年くらいで転勤する上司との感情のわだかまりもあった。

 

署長に提案した。

「地位が話しているのではない。この署の伝統が集積した使命感がそうさせているはずだ。この署でも先祖がいる。署長はその魂の継承者だ。この署の殉職者は何人いますか」

「写真もあったはずだが、紛失している」

「ならば、氏名、死亡時、理由、年齢を調べて掲額して朝礼時の署長挨拶する後背に掲げたらどうですか。つまり、先輩、先霊が職員を見守っていることを顕示したらいいですよ」

早速作成し、その裏に殉職慰霊に捧げる献呈文を小生が著し御霊棚に安置した。

普段は閉じてある幕は訓示の時には開け、それを背景として上司は訓示することになった。また、警視庁の弥生祭(殉職者慰霊)とは別に、署独自で執り行えば職員の士気の元となる上司への信頼と情緒が高まるのではないかと提案した。

殉職者は古い署だと、空襲、地震、疫病、逮捕執行時、柔剣道練習など様々だ。各々に物語があり、死の直前まで職務に精励していた職員ばかりだ。

 

次の新署長が来訪するとの連絡があった。

就任時には公用車で来訪するのが慣わしだった。

「お越しになられるなら、民情視察を兼ねて電車でいらしたらいかがですか」と伝えた。

その時に講話を懇嘱された。

事情は、地元大山商店会の中国人の店で飲料に薬物を混入した事件だが、逮捕しても黙秘していることの相談だった。日本的にいう黙秘権ではなく、警察そのものへの拒否だった。

以前、二年ばかり香港に行き来して彼の地の世情と民情を観察したことがあった。もちろん現地警察との間合いも知った。

ある件では地方の警察が道路利権をもちバスの運行をしたいので協力してほしいと持ち込まれた。地域ではギャングも配下にする権力を持っている。もちろん彼の国では「人情を贈る」という賄賂の要求の仕方や渡し方も当事者から聴いた。

 

庶民は、警察は悪いことをする連中だと染み込んでいる。だから逮捕したオバサンは、話したら何されるかわからない、金を無いので賄賂も渡せない、隠しているのではなく、困り果てていたのだ。

そこで「人情は普遍なり」という題で70人くらいの署員に講話した。

署長には「私みたいな人間に語らせると困ることもありますよ。いいですか」と事前に伝えてあったが、内部組織の問題は刺激が強いので、彼の国の犯罪事情や警察と庶民の関係を例にとって語った。データーの一部は法務省のアジア極東犯罪研究所の引用だ。

 

その問題とは、キャリアとノンキャリア、勤務評価、それらが数値評価で犯罪や違反のグラフとなり、宿命的な任官出発点の諦めと、自らの愚直を問う生き方の迷いだった。

このまま歳をとって安全安定に収入を確保するか、またそのために国民に対する問題意識もなく組織に愚直に応えるのか、自身の戸惑いでもあった。そこには自己の内なる良心や希望との整合と納得が必要だった

 

組織の一員として「生活」が第一義となるここと、義侠、善行との狭間は大きく乖離しているという憂慮が要所の現況組織観として、当時は浮上していた。

戦後世代と戦中世代との見方もあったが、浮俗の変化と童心にある道徳的観念への戸惑いでもあった。

 

点数を挙げるために見も知らぬ他人の車に覚せい剤を挿入したり、拳銃摘発に稼業と折り合いをつけたりするノルマ偏重の不埒な不祥事があった。またキャリアの役得や接待、噂になった裏金、など若い警察官には問題意識を持つものが多く、上司との関係も厭世気分になってきていた。

 

         

            駐在さん

 

そんなときの講義依頼だった。

標題は「人情は普遍なり」だった。その内容は前記したとおりのことだが、幾分は遠慮していた記憶がある。当然ごとく質問はなかった。だが、後日おおくの若い警察官から話しかけられるようになった。

 

難しいことではない。権力の腐敗は当然だが、別世界のことと埒外に置くこともいいだろう。

しかし当事者が諦めをもって名位や食い扶持に堕しては権力委託した庶民との乖離は取り返しのつかない状態となる。法の信は崩壊し、歪み(陋規)の更正にはよほどのことが無い限り数十年掛かる。教育、政治も同様だろう。                    

 ⭐️陋規 ・・・組織や郷などの狭い範囲での掟や習慣

 

過去を亡羊として、未来は近視眼になると円はゆがむ。

平成元号の起草者といわれる安岡正篤氏は「地平らかに天成る」と遠い過去の観察と、永い将来の推考を促がした。直線的な意ではない。天地内外を構成するもののバランスを指していた。

そして「無名でいなさい」と督励してくれた。

官学の立身出世主義は昔のことではない。

「智は大偽を生ず」(肉体化しない頭のみ智は高邁を装って大きな偽りをつくようになる)

 

「くれぐれも注意するように」

その言葉が冠についたのは言うまでもない

 

           

 

署長は署内もしくは近隣の官舎に住むことになっている。当時任期中は一泊旅行は余程のことがない限り禁止、いつもポケットベルを所持しゴルフに行っても緊急時にはすぐに帰署し指揮した。なかには単身赴任者もいた。独り酒はつまらんと呼ばれることもあった。

ジョッキングが好きで管内を走っていたが、或る時お節介を言った。

「どうせ走るなら管内の交番をまわったらどうですか。署員の士気も上がるし、緊急時には経路も明るくなるし指揮も的確に執れるはず。署員も緊張と頑張りが違いますよ」

その署長はその通り実行した。そのような人物は出世も早いし退職後も安逸には暮らしていない。

 

なにか半知半解で高邁な指摘をするようだが、先達たちは皆そのように考え、行っていた。

とくに国民の近くで面前で権力を行使する運用官として、みなな自身を律していた。それゆえ安岡氏に訓導を請う人物も多かった。

邂逅した方々は国家社会を背負う、そんな気概のある先輩たちだったと記憶している。

 

さて、現在は国民からどのように映っているのだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 台湾憧憬 異邦に残置する... | トップ | 贅沢をするものに憧れ近づき... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事