ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

共感の喜び

2018年03月16日 | 通信-音楽・映画

 私は孤独癖がある、ってことを若い頃から自身で認識していた。「一人が好き」ということについてはつい最近、このガジ丸通信に書いた記憶がある。調べると、「つい最近」ではなかった。2015年7月だからもう2年と8ヶ月も前だ。あーなんて、時の流れの早いことよ。もう2018年になってしまい、2018年も早や3月、3月も半ばになってしまった。冥土の旅の一里塚が高速で次々と過ぎていく。
 なんて、オッサンの嘆きは置いといて、その2015年7月31日付の記事はタイトルが『孤独自然死』で、当時話題になっていた孤独遺伝子を取りあげ、「人間には孤独になりたがる遺伝子を持つ人と持たない人がいるとのことであった。「これだぜ俺は!」と思った。私はきっと、間違いなく孤独遺伝子を持っている」と私は書いている。
 孤独遺伝子を持っている私は独善的である。他人から褒められたいという気持ちはあるけど、「自分が良いと思えばいい」ということを優先している。また、他人から褒められる程の才能も無いので、例えば、私が表現するもの(絵とか作文とか)も他人の共感を呼ばないようである。何年か前に友人の、沖縄では名のあるミュージシャンであるTに私の作詞作曲作品を「こんなのいかが?」と聴いて貰った。彼は少し聴いた後、作品の評価をせず、首を横に振っただけであった。「やはりそうか」と私も納得した。

 私はたぶん、多くの人の共感を求めていない。「自分の好きなようにしたい、好きなように表現したい」という気分が強いのだと思う。「他人の評価など気にしない」という傲慢さと、「分かる人には分かるさ」という上から目線の成せる技だと思う。「分かる人には分かるさ」なんて自信を持つような根拠は何も無いのにさ。
 根拠のない自信から来る「分かる人には分かるさ」はもちろん、「我が道を行く」といった信念に基づくものでは全然無い。私の場合は、よーく考えると、他人の感性に気を使うのが面倒だからという理由が大きいと思う。ちっともカッコ良くない。

 前述した「沖縄では名のあるミュージシャンである」Tは、7年間も癌と闘い続け、去年(2017年)12月に他界した。彼の告別式に参列して、会場に飾られていた生前の彼の写真を見るに、たくさんの仲間に囲まれ今にも壊れそうな笑顔を見せている彼の姿を見るに、「あー、この人は共感の喜びを大切にしていた人なんだ」と感想を持った。
 その時頭に浮かんだ「共感の喜び」という言葉に、「あー、それだぜ、俺に足りないのはそれに違いない」と、自身を省みるきっかけとなり、そして、少し反省した結果、「私は孤独癖がある」について疑問を持つようになった。2017年の年末から年始にかけて友人知人と会う機会が多く、彼らに心癒されているということを感じて、私は孤独が好きなのではなくて、他人に気分を合わせるのが嫌いな我儘者なんだと気付いた。
 他人と共感することが嫌いというわけではない。共感する喜びを知らないというわけでもない。若い頃、フォークソングが好きで、中でも高田渡とか友部正人に感動し、同じく彼らを好んでいる人達に出会って、「同士だぜ」と思ったことを思い出す。
     
 しかし、面倒臭がり屋の我儘者は、その後、オジサンと呼ばれる年齢になってからは共感の喜びをあまり得ていない。オジサンとなってから、さらに我儘者になったのだと思われる。いや、現場仕事で工事を完成させた時は仲間と喜び合ったな。懐かしあの頃。
     

 記:2018.3.16 島乃ガジ丸