学者肌(がくしゃはだ)とは、「物事を論理的に考えたり研究一筋に生きたりするような、学者に多く見られる気質。」(広辞苑)のこと。
今年3月某日、埼玉に住む友人KRからメール、及び電話があって、「友だちの井谷さんが沖縄に行くので、相手して貰えないか。」という内容。井谷さん(どうせ写真でその著作を紹介するので、イニシャルにしない)とは、『沖縄の方言札』という本を書いた井谷泰彦氏のこと。『沖縄の方言札』は、方言札について科学的に論証したもの。
その昔(と言っても私が子供の頃もあったらしいので、さほど昔でもない)、学校で方言を使うと「私は方言を使いました」などと書かれた札を首から下げて、立たされるという罰があった。首から下げるその札のことを方言札と言う。
ウチナーンチュであり、沖縄の事には興味を持っている私だが、方言札について深く考えようなどと思ったことは無い。「標準語とか共通語とかいうものをちゃんとしゃべれるようにならないと、本土(倭国のこと)へ行った際困るから」という理由で、教育現場で方言を使うことを禁じたものであると私は理解している。そう理解しているつもりだったので、改めて深く考えようとは思わなかったわけだが、井谷氏によると、さほど単純な思考ではないらしい・・・、「らしい」とは、じつは私は『沖縄の方言札』を全文読んでいない。学術的文章を読む元気が、私の脳味噌から消えて久しいので。
ウチナーンチュであり、沖縄の事には興味を持っている私でさえそんな有様なので、ウチナーンチュであっても、興南高校が夏の甲子園で優勝する事には熱狂するが、沖縄の歴史や文化にはほとんど興味を持たない友人Hのような人が、実はウチナーンチュの大半を占めていると思う。よって、井谷氏の本は沖縄では売れない。ウチナーンチュで無い人々がほとんどである倭国ではなおさら売れない。ということを、氏に伺うと、氏も「それは解っています、売れるとは私も思っていません」とのこと。
売れない本を出す。売れない研究をする。しかしそれは、興味のある人にとってはとても面白い研究であり、その研究成果を本という形にすることは大きな喜びなのであろう。一つのことに熱心に取り組む、それが金になるかどうかは二の次なのであろう。まさしくそれが学者肌と言えることなのかもしれない。井谷氏は学者肌の人なのである。
「それが金になるかどうかは二の次」で思った。私は、このガジ丸通信やガジ丸HPの記事を書くのに、だいたい週に5、6時間は費やしている。ここ半年ばかりは休んでいるが、ユクレー島物語の絵を描いたり、音楽を作ったりしている時は週に10時間以上は使っていた。まったく金にならないのに何ともお疲れ様なのである。よって、そんな私もまた、学者肌の人とは言えないだろうか?・・・それはたぶん、言えない。
私は一つのことを深く掘り下げて考えたりしない。テキトーに切り上げる。また、私は多趣味で、研究一筋に生きたりはできない。よって、私は学者肌ではない。
8月中旬、学者肌の井谷氏が再びやってきた。沖縄島北部の一泊二日を学者肌でない私が運転手としてお付き合いした。氏の今回の訪問は、「旧慣温存期における沖縄の青年団体」の調査とのこと。学者肌はまた、売れない本を出すつもりのようだ。
記:2010.10.15 島乃ガジ丸