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ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

暴力による支配

2017年05月26日 | 通信-科学・空想

 1ヶ月ほど前、図書館から借りたDVD『わたしはマララ』を観た。先週のガジ丸通信は、西原町図書館から初めて借りたDVD『太陽の子』の話をしたが、DVD『わたしはマララ』は、宜野湾市民図書館から借りた最後のDVDであった。
 『わたしはマララ』、2014年、最年少の17歳でノーベル平和賞を受賞した少女マララを主人公としたドキュメンタリー映画である。映画としては私の好みではなく、『太陽の子』は私の興味を惹き見入ったが、本作はたびたび早送りした。
 早送りしながらも、タリバンに支配された国に住み、教育が受けられない女性たち、それに抵抗する少女マララの賢さと勇気には感動した。であるが、私の頭は、マララとその国の女性たちに同情し、彼女たちを応援しながら、別の方向へ思考が飛んだ。

 女性が教育を受けられない。タリバンによるとそれはイスラムの教えらしい。女性は教育を受ける必要は無いらしい。早送りしているので映画の中で言っていたかどうか不明だが、女性は子供を産み、育て、家事をするものという位置付けなのかもしれない。
 そこには男尊女卑の思想がある。封建時代の日本もその傾向があったと思う。参政権は男だけという時代もあった。男尊女卑は世界中のどこにでもあったのだろう。
 男尊女卑は野放しの人間なら当然の思想なのかもしれない。それは何故かと考えた。
     
 原始の頃、男は闘っていた。動物と闘い食べ物を得ていた。同じ人間と闘い物を奪っていた。同じ人間と闘い女を奪い合っていた。生きて、女を勝ち取り、子孫を残すことが男の本能だったのであろう。今もその本能は概ね伝えられているはず。なので、
 人間は基本的に闘う動物であり、闘って強いものが上に立つことになる。概ねの男と概ねの女が闘えばたいてい男が勝つ。男から見れば女は弱い者、暴力による支配が当たり前の社会では、よって、男尊女卑となる、・・・のではないかと結論した。
     

 もう少し考えた。暴力が社会を制覇していた時代、なんて言っても、今だって根本はそう変わっていないように思うのだが、男尊女卑という意味で言えば、日本でも戦前まではそんな時代だったと思う。「男は女より強い、だから男が偉い」という思想の時代だ。
 江戸時代で言えば、侍は偉くて、町民は下賎。明治時代で言えば官尊民卑という思想。闘って強いものが上に立つ。上に立ったものは下の者から富を奪い、時間を奪い、下の者に命令し従わせる。そういうことに大きな満足を得る。そういう価値観が今もまだ残っている。だから、この世から暴力、さらには、戦争が無くならないんだと思う。
 とはいえ、人間は社会的動物となり、世界の多くの国や地域では「暴力による支配が当たり前」から卒業している。できるだけ周りとの摩擦を避け、できるだけ平和に生きたいと思うようになっている。ということで、今の世は概ね男女同権となり、さらに、体の不自由な人も健常者と同じく生きられるようにバリアフリーという考えも浸透している。
 ならば、そうやって人類が知恵を出し合えば、いつかこの世から戦争が無くなるのではないか?などということまで考えが及んで、そして、沖縄のことも考えた。
 暴力による主従関係が現代でも正しいとされるならば、暴力では勝てない日本国相手に沖縄は反抗できない。さらに、富でも勝てない日本国が「金やるから言うことを聞け」と命令したならば、反抗する力も鈍ってしまう。でも、知恵を出せば何とか・・・。
     

 記:2017.5.26 島乃ガジ丸