ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

タカダワタル的ということ

2008年09月05日 | 通信-音楽・映画

 『タカダワタル的ゼロ』の前作、『タカダワタル的』を観ての感想。

 高田渡の捉え方2004.5.14
 『タカダワタル的』は、柄本明の映画だったのではないかと最後のテロップを見ながら思った。『タカダワタル的』で表現されている高田渡は、柄本明が捉えた高田渡だったのではないだろうか。私の頭の中におぼろげ(渡は大好きだが、彼が何者かなんてよく考えたことが無いので、はっきりしていない)にある高田渡とは少し違う。が、柄本明は上手いと思う。風貌だけで十分絵になる渡なので、風貌だけで客は興味を持つ。
 歌手のようである。ギターを弾いているようである。息子が後ろでスチールギターを弾いているようである。女房がいるようである。歌はあまりヒットしていないようである。よって、あまり金持ちでは無いようである。などといったことが映像から伝わってくる。ヒットしていない歌は聴きなれない歌なので、何を歌っているのかよく解らない。歌っている内容が解っても、何でそんな歌を歌うのかが解らない。この人、いったい何者!
 というわけで、不思議なものに対する興味を客は持つかもしれない。あるいは、現代人が忘れた大事なものをまだ持っている人ではないか、と錯覚するかもしれない。
 高田渡は、歌っていなければ普通の、ただの飲んだくれなんだろうか。血中からアルコールが消えることの無い、いつも眠そうな眼をしていて、いつも頭がボーっとしている酔っ払いなのであろうか。高田渡って、どう捉えたらいいのでしょうね。

 このメールは2004年の5月14日に書いて送っているが、その翌日、NHKの教育テレビで「“フォーク”であること・高田渡と高石ともや」という番組をやっていた。その番組の詳しい感想は記録に残っていないが、友人に以下のメールを送っている。

 番組の感想ですが、少なくとも渡の捉え方としては、映画「タカダワタル的」よりもNHKの番組の方が私の感性に近かった、とだけ言っておきましょう。

 このメールから4年以上も過ぎた今となっては、NHKの番組が高田渡をどう捉えていると私が感じたかも思い出せない。ただしかし、今回の映画『タカダワタル的ゼロ』を観て、私なりに見えたものがある。これも同じ友人にメールしている。
 
 「音楽をやっています。」
 「どんなジャンルの音楽ですか?」
 「タカダワタルやっています。」
 タカダワタル的というのはそういうことだと思う。ジャズとかクラシックとかロックとか演歌とかと並立するジャンルの一つに高田渡個人が存在するのだと思う。
 高田渡はまた、人間としても1つのジャンルを成していると思う。タカダワタル的は、高田渡の存在そのものが「1つの文化である」ことを表現したものだと思われる。
 ということを、今回の映画を観て、私は感じました。
 翌日木曜日の夜、渡のCDを聴きながら酒を飲みました。『ごあいさつ』、『系図』を続けて聴きました。文化です。彼は。
          

 記:2008.9.5 島乃ガジ丸