ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

欲の成せる宗教

2016年03月04日 | 通信-科学・空想

 美女に誘われ、ある教会で開かれた講演会を聴きに行って、それに対する感想などを書いている内に、私の脳味噌はしばらく宗教のことに関心が向いた。で、ちょっと妄想。神の存在をちっとも信じていない私だが、こんな神ならいいかも、といった妄想。

 私の神は怒ることが無い、人間が何をしても怒らないし、罰を与えることもしない。いつも静かに微笑んでいる。子供がやんちゃしてもイタズラしても黙って見ている。不良グループが万引きしてもカツアゲしても黙って見ている。親が子供の首を絞めても黙って見ている。成功者が覚醒剤に溺れても黙って見ている。
 清原がついに天寿となって三途の川を渡る。渡りきるとそこに神がいる。神には時間と空間の概念が適用されないので、一遍に無数の時間と空間に存在するので、清原1人に構うこともできるのだ。そして、神は清原に語りかける。「辛かったか?」と。
 清原はここで胸の内を洗いざらいぶちまける。そして最後に、ゆっくり深い息を吐きながら「辛かったです」静かに呟く。神はそんな清原に手を差し伸べ、
 「そうか、辛かったか、でも、もう大丈夫だ、お前を解放してあげよう、さぁ、こっちへおいで」と言い、清原を我が身のもとに寄せ、彼の背中をさすってあげる。その時、清原に光が射す。清原は安堵を得、無上の喜びに浸り、感謝と幸せで涙が溢れ出る。
          
 
 人間は何故悪いことをするのか?悪いこととは何ぞや?ということもちょっと考えてみた。私が思う悪いこととは「他人の生命財産を奪うこと」のただ1つだけ。生命財産には健康、時間、自由、感性などといったことも含まれる。「何故悪いことをするのか」については、「身の程知らずの欲望があるから」ではないかと考えた。
 「食って、糞して、寝て、働いて、結婚して、子を成して、子を育て、天寿を終える」こと以上の欲望を人間は持ってしまった。そうすると、他人の生命財産を奪ってまでも我が欲望を満たしたいと思う者がどんどん出てきた、のではないかと考えた。
 悪い奴が増えると社会が安定しない。奪う奴がいると、農夫も安心して作物を生産できない。作物ができないと支配者たちも大いに困る。よって、悪い奴らは捕まえて罰に処さなければならない。しかし、警察の力には限界がある。どうする?
 ある日ある時、「そうだこうしよう」と良いアイデアが浮かんだ。「一人一人に悪事を恐れる心を植え付ければいいのだ」という画期的アイデア。
 「お前も俺もそうだが、民衆も「永遠の命が欲しい」という欲望がある。そこにつけこむのさ。善人であれば天国へ行き、永遠の命を得られる。悪事を働けば地獄へ落ち、永遠の苦痛が与えられる、ということにしたらどうだ?」
 「飴と鞭ということですね、良い考えです。早速そのように手配しましょう。」

 というわけで、宗教が生まれた。地球上のどの人間社会でも同じような悩みがあり、そして、同じようなアイデアが生まれ、同じように実行された。ということで、地球上のあちらこちらで神が生まれ、天国と地獄が生まれた・・・のではないか。
 社会の安定のために宗教が生まれ、人間の「永遠の命に対する欲望」が天国という架空の存在を望んだ・・・のではないかという妄想、そう、あくまでも妄想です。
          

 記:2016.3.4 島乃ガジ丸


寛容による平和

2016年03月04日 | 通信-社会・生活

 先週のガジ丸通信『頂いた命への感謝』の続き。H女の容姿と品格の美しさに疑いを持つものではないが、彼女の信じるものを信じるには私の感性は遥かに遠い。私は神の存在も、天国地獄の存在も信じないし、価値観の押しつけをするような宗教、お互いの感性を認め合わない宗教は大嫌いだし、逆に、お互いの感性を認め合うことが平和の元ではないか、仏教で言う慈悲、キリスト教で言う寛容が大事ではないかというのが私の感性。
 念のため断わっておくが、H女の通う教会が「価値観の押しつけをする」とか「お互いの感性を認め合わない」などと言っているのではない。H女も教会の代表者も教会の教えや考え方を述べたが、私に入信を勧めることはなかった。慎ましく上品であった。
          

 その日の講演会の内容はしかし、あまり上質とは感じなかった。私にとっては初の宗教関連講演、良い言葉や興味深い話があればと、私は紙とボールペンを出し、講師の言葉を書き留めていった。講話が終わるまでに(途中の15分ほどは瞑想に入っていたが)文字はA5サイズの紙一杯(字が大きいので全部で150字位だが)に連ねられた。そして、その内の後半分は、講話を聴いての私の批判(ツッコミみたいな)となっていた。
 例えば、存在の否定と神の怒りについて、講師はこれを人間の親と子に喩えて語った。その話の前から既に私は批判的になっている。なので、これにもツッコミしている。
 「あなたが親として、我が子に自分の存在を無視されたら怒りますね。それと同じように神もその存在を我が子であるあなたたちに無視されたら怒ります」と言う。神を人間と同じ感情を持つ存在と捉えていることにツッコミ、神は無視されたら怒る程度の度量の持ち主かとツッコミ。怒られるから崇めないといけない存在なのかとツッコム。

 聖書の語ることが、「私を無視した奴は地獄、私を尊敬する者は天国」というのであれば、「俺様のことを無視する奴は死刑だ!俺様を尊敬する者には褒美を与える」みたいな政治をやっているらしい日本の近所の小太りオジサンとちっとも変わらない。
 神の怒りによる人間に対する罰は、聖書をほとんど読んだことのない私でも少しは知っている。アダムとエバがエデンを追われたとか、神の怒りで言語が様々に別れたとか、バベルの塔やノアの箱舟の話などだが、自分の子供(神の創造物)をそんなに虐めなくても良かろうと思う。北風と太陽の喩もあるじゃないか、罰するのでは無く、寛容と愛で包み込み、その優しさに感動させて神を好きになるようにした方が良かろうと思う。もしも私が神を感じる時が来たとしたら、私の神はそのような神であって欲しいと願う。
          

 人間に罰を与えるのは同じ人間に任せておけばいいのだ。いや、だからといって、現実のこの世で、金輪際神の存在を信じない私が警察に捕まり、「神の存在を信じない罪」と裁判所から判決され、牢獄に入れられることはご勘弁願いたい。
 信じる信じないは心の問題。心は自由にさせて欲しい。大地震があっても日本人は略奪などしない。キリスト教を信じる人が多い国よりも信じない人の多い日本の方が倫理観に優れている。心の自由が人に知恵を与え、寛容を生み、平和を呼ぶのだと思う。
 などといったことを考えている内に、「永遠の命に対する欲望」が宗教を生んだのではないか?とまで思考が進んだ。これについては次の『欲の成せる宗教』に続く。

 記:2016.3.4 島乃ガジ丸