1月10日土曜日から4泊5日で千葉に住む弟が里帰りした。弟は私に似てドライな方なので、「墓参りしたい」などと殊勝なことは言わない。であったが、新都心(我が家の墓はそこから車で5分くらい)へ買い物に行ったついでに墓へ寄った。
墓にはいつものように自由人がいた。自由人・・・無職で誰からも命令されないで生きている、という意味で私はそう呼んでいるのだが、弟は我が家の墓を散らかしている彼を嫌っていて、「あの乞食」とか「あの浮浪者」とか呼んでいる。
乞食や浮浪者以外にもそういう類の人を指す呼び名がある。私が知っている限りでは山之口獏の詩にある「ものもらい」、誰かの詩にあった「かたい」、時代劇で耳にする「やどなし」、「無宿人」、やどなしの現代語である「ホームレス」など。それらがそれぞれどういう境遇の人を指しているのか、改めて調べてみた。広辞苑による。
乞食:食物や金銭を恵んでもらって生活する者。
浮浪者:一定の住居や職をもたず、方々をうろつく者。
ものもらい:食物などを人からもらって生活する者。
かたい:道路の傍らなどにいて人に金品を乞い求めるもの。
やどなし:一定の住家のないこと。また、その人。無宿。無宿人。放浪者。
無宿:一定の住居および正業を持たないこと。また、その人。やどなし。
ホームレス:住む家のない路上生活者。
「乞食」と「ものもらい」はほぼ同じ意味だ。やどなしを漢字で書くと宿無し、英語にするとホームレスなので、「やどなし」、「無宿」、「ホームレス」の3つもほぼ同じ意味。ホームレスが方々をうろつくようになると「浮浪者」ということになる。ちなみに、私が口にする「自由人」という言葉は広辞苑に無い。
我が家の墓の隣の隣の墓はだいぶ前から無縁墓になっていて、私が自由人と呼ぶ男はそこを初めはブルーシート、その後は木材で囲い、住処にしている。宿があるのでホームレス、やどなし、無宿、浮浪者などとは呼べない。彼はまた、食物や金銭を恵んでもらって生活する者でも無いので乞食とか「かたい」とかとも呼べない。なので自由人。
我が家の墓の前に弟と私が立つ。私はポケットに線香を持っている。でも線香は点てなかった。線香に火をつけるとそれが燃え尽きるまでそこにいなければならない。ポケットの線香は「自由人がいなければ火をつけよう」と持っていたものだ。彼はよくしゃべる。それが私には煩い。弟も彼と似たような話(世界の終りとかいった類)をするが、弟によると自由人の話は「くだらない」とのことで弟は彼の話を聞くのも嫌っている。
墓の前に立っている私に、自由人はこの日も盛んに話しかけてきた。弟は「ケッ」という顔をし、墓前にちょっとだけ手を合わせ、「兄さん、もう帰ろう」と言う。「それじゃ」と私は自由人に手を振った。しかし、自由人は我々に付いて来た。駐車場までの約100mをずっと付いて来て、ずっとしゃべっていた。我々が車に乗り、エンジンをかけ、動き出すまで彼は傍にいた。その時私は「あー、自由は淋しいのだ」と理解した。
自給自足芋生活を目指している私もまた、誰にも束縛されない自由人でありたいと思っている。だけど、淋しさを毎日感じながら過ごすのは嫌だなぁ、どうしよう。
記:2015.1.30 島乃ガジ丸