ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

発明037 ネココナーズ

2009年11月27日 | 博士の発明

 週末の夕方、ユクレー屋を訪ねると、マナがいた。
 「あれ、マナ、帰ってくるのは毎月第一の週末じゃなかったっけ?」
 「ウフオバーから電話があってね、・・・」と言うマナの横から
 「はい、別に、おいでって行ったわけじゃないけどねぇ。」とオバー。
 「ジーマーミドーフ作るからジラースーに持たそうねぇって言うからさ、ジーマーミドーフを作るんだったら、その作り方知りたいと思って、飛んできたさあ。」とのこと。そういえば、裏の畑にジーマーミ(落花生)がたくさん植えられていた。
 「で、できたの?」
  「はい、これ、食べてみて、私の作。」とマナは言って、小皿に乗ったジーマーミドーフを出した。ジーマーミドーフとはゴマ豆腐の落花生版といったもの。そのもの自体の色は真っ白だが、砂糖醤油ベースの黒いタレがかかっている。食べてみる。
 「うん、マナ、上出来だよ、美味しいよ。」
 「えーい、まあね、教えた人が達人だからね。当たり前だね。」
 その後、村の人たちの何人かが客としてやってきて、夜になるといつものようにガジ丸一行(ガジ丸、ジラースー、勝さん、新さん、太郎さん)もやってきて、マナ作ジーマーミドーフはみんなに振舞われた。100%の好評であった。
     

 「マナ、料理も上手なんだね。」と太郎さんが褒める。「料理も」の「も」が、他に何が上手なんだろうと私は疑問に思った。ケダマンならすぐに突っ込むところだ。が、私はそれを口にしない。わざわざ女性の機嫌を損ねるようなことはしない。ところが、
 「あー、何だってー、料理も上手だってー、他に何が上手なんだ?マナは?」と、店の入口のドアが開いて、店内に大きな声が響いた。ケダでは無い、シバイサー博士。博士もまた、わざわざ女性の機嫌を損ねるようなことをするケダマンみたいな性格であった。マナが「なにさ!」と文句を言う前に、話を逸らす。私はそういう性格。

 「おや、博士、こんな夜遅くに珍しいですね。」(私)
 「あー、そういう君が最近『博士、何か新しい発明はないですかー?』と聞きに来ないもんだからな、自らわざわざ出向いてきた。」
 「そういえば最近、ご無沙汰していました。で、何かあるんですか?」
 「あー、前にな、ジラースーがブツブツ言ってたのをヒントにしてな、・・・」と言い終わらない内に、ちょうど傍を通りかかったジラースーが、
 「ん?俺が?俺が何か言ったか?」と博士を見る。
 「最近、野良猫が増えて、干してあった魚を盗られると言っただろう?」
 「あーそれか、うん、言った、言った、今でも多いな。」
 「猫が寄ってこないような機械を作ったってことですか?」(私)
 「その通り、その名もネココナーズと言う。猫が寄ってこないからネココナーズだ。カッ、カッ、カッ。ついでに、見えないフェンスというキャッチフレーズも考えた。どうだ面白かろう。カッ、カッ、カッ。」と博士はさも得意気に高笑いする。

 「見えないフェンス、ネココナーズ?それってパクリじゃない。見えない網戸ムシコナーズの。」とマナ、「相変わらず、しょうもない」といった表情。
 「名前は変えればいいんです。問題は中身です。どのようなものですか?」(私)
 「名前は、しかし、私としてはそれが大事だったんだが、まあ、いいか。私の作ったものは薬剤ではない。電磁波によって猫を近寄らせないもの、ほら、これだ。」と博士は言って、首に下げていたロープを外し、我々の目の前に置いた。ロープの直径は2センチほど、長さは2メートルほど。博士はその端と端を繋げ、円状にした。
 「このロープから猫の嫌う電磁波が出て、この円の中には入れない。」とのこと。

  「魚を軒下に吊るしてあるって言ってたな、吊るしてある魚の真下、魚を囲むようにしてこのロープを床に置いておけば猫は近寄れない。」
 「そりゃあいいな、しかしそれ、人間には害は無いのか?」(ジラースー)
 「無い。それに、人間なら円の中に入らずとも手を伸ばせば魚は取れる。」
 「円の中に入らなければいいんだったら、猫だってジャンプするさあ。」(マナ)
 「ジャンプしても届かない高さに魚を吊るせばいいんだ。」
 「猫は屋根からだってやってくるんじゃないの?」(マナ)
 「えっ?猫は屋根に上るのか?」と、博士が1+1=2なの?みたいなことを訊く。それには誰も敢えて答えず、ジラースーがテーブル席に戻りながら言った「せっかくだが、それ、要らないぜ。アリガトよ。」との言葉で、博士の新発明ネココナーズの話はお終いとなった。博士はいつものように黙って帰っていった。少し寂しげであった。
 「自分も元ネコのくせに、ネコの習性がわからないのかしら。」とマナが言う通りのことを私も感じた。それにはガジ丸が答えてくれた。
 「ネコだった頃のことはとうの昔に忘れちまっているんだろうよ。」とのこと。
     

 記:ゑんちゅ小僧 2009.11.27 →今週の画像(ジーマーミドーフ


生きていれば幸運

2009年11月27日 | 通信-社会・生活

 収入が少なく、貯金もほとんど無い、そんな私に、
 「あんた、年取るとお金がかかるよ、病気になって病院に行くことが多くなるよ、病院は只じゃないよ、年取ると一人ではできないことが増えていくよ、あんたには女房も子供もいないのよ、あんたみたいの、動けなくなったら死ぬのよ。何とか収入を増やして、貯金することを考えたほうがいいよ。」と、金曜日の職場の事務員M子が言う。

 若い頃フリーターの期間が長く、当時年金を払っていなかったので、私はこの先六十過ぎまで働いて年金を払い続けないと、老後、年金が受け取れない。したがって、あと十年近くは「病気で働けない」という状況には陥れない。運良く病気にならず、年金が貰えるようになったとしても安心では無い。収入が少ないので、貰える年金も、M子によると月7万円くらいとのこと。M子は親(金持ち)に造ってもらった持ち家があるので家賃は要らないが、私は要る。月7万円だと、おいそれと病気にはなれない。ではあるが、
 「そりゃあ、病気になるかもしれないが、ならないかもしれないじゃないか。将来不幸になることを想定して生きるよりも、年取っても俺は元気だと想定して生きている方が楽しいじゃないか。俺は、死ぬまで元気で働いている予定だ。」とM子に反論する。
 「もういいよ、あんたは、それでいいさあ。」と呆れた顔をされる。

 不幸が突然やってくるのと同じ位の確率で、幸運も突然やってくるのではないかと私は思っていた。リストラにあって職を失い、収入が途絶え、アパートを追い出され、路頭に迷うかもしれないが、しかし、リストラにあって職を失ったが、すぐに別の仕事が見つかり、そこは今より待遇が良かった、なんてこともありうるのだ。
 それが私の言う「不幸も幸運も五分の確率」ということだが、私の思う「五分の確率」はよーく考えると間違いであることに先日、よーく考えた結果、気付いた。
 職を失い、病気にもなってしまうこともありうるが、金持ちの女性に見初められて、結婚して楽な生活をおくることもありうる、それは五分五分だという私の「五分の確率」、よーく考えると、職を失ったり病気になったりすることは高い確率で起こりうるが、金持ちの(でなくても)女性に見初められるなんてことはほぼゼロの確率だ。リストラされる確率はとても高いが、すぐに待遇の良い仕事が見つかる確率は極めて低い。

  「不幸と幸運は五分五分の確率でやってくる」ということが一般的に正しいとしても、この場合の不幸が「病気になる」としたら、幸運は「病気にならない」ということだ。あるいは、「職を失う」不幸が五分としたら、「畑を耕していたら小判を掘り当てた」幸運が五分なのでは無く、「きつくて安い給料だけど、何とか職にありつけた」幸運が五分なのだ。と考えると、私の将来はけして長閑なものでは無い。上手くいったとしても、何とか元気で、汗水流してコツコツと働いているといった状況であろう。
 しかしながらだ。「何とか元気で、汗水流してコツコツと働いている」と書いたが、それなら結構なことである。それで十分なのである。生きていればラッキーなのだ。これ以上の幸運はオマケに過ぎない。たとえ私に奇跡的な幸運が舞い込まなくても、生きていれば幸運なのである。
          

 記:2009.11.27 島乃ガジ丸