フェリーニ歴は、中学生の時に『道(La Strada)』(1954)を観て以来だから、かれこれ50年近い。しかし、そんなに多くフェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)監督の映画を観たわけでもない。大学の時、『アマルコルド(Amarcord)』(1973)を映画館で観て、ああ、これだなと思った。自分の思い描きたい世界をフェリーニが代わりに映像にしてくれたという感じだった。そして、昨日、『青春群像(I Vitelloni)』(1953)という作品をテレビで観た。はじめ、これがフェリーニ作だとは知らず、その映像に魅入られてしまい、誰が監督かと確認して、フェリーニと知った。小説でも、処女作にその作家の全てが出るという気がしているのだが、このフェリーニの出世作『青春群像』にもそれが言える。小生にとって、この年代のイタリア映画が懐かしく貴(とうと)いのは、自分の原風景をそこに見いだせるからだ。基本的に、モノクロで、貧乏くさいが、その分、人間が生き生きとしている。そして、夢がそうであるように、これといった筋立てなんてなく不可解であるが自伝的で実存的である。純文学という死語があるが、純映画なのだ。そう思わせるのは、やはり映像にフェリーニ独自の「文体(スタイル)」があるからだろう。観てから数秒で、おや、これは、と監督を調べたのも、その文体の魅力のためだった。最近の映画に、文学もそうだが、そうした「文体」があるのか、考えてしまう。






