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柊塚(ひいらぎづか)古墳
柊塚古墳は、今から約1500年前に作られた有力者の墓である。
古墳の形は前方後円墳で、大きさは全長72m、後円部の径48m、高さ8m、前方部の長さ18m、墳丘の周囲には周壕がある。(この階段を登った先に古墳があるが、そこは『立ち入り禁止』)
平成16年5月1日柊塚古墳公園として一般公開された。
郷土資料等によると当市には、4世紀頃の有力者たちの墓が古墳として残っていると記されている。
そこで、「身近な秋の風情を楽しむ」第4回は、近隣に現存するこれら古墳の幾つかを巡ることに。
◆ 柊塚古墳
先ずは、県・市指定文化財になっている「柊塚古墳」を訪ねる。
同古墳は、「旧高橋住宅」から歩いて5分の近距離にある。
古墳一帯は、公園として整備されていて、ここも「旧高橋住宅」同様、ボランテイアとして立ち働く人たちの姿が。
しかし、肝心の古墳内は立ち入り禁止で、ちょっとがっかり。
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一夜塚古墳跡石碑
かって、朝霞第二小学校内にあった径50m、高さ7mの円墳で
あるが、昭和18年に校庭拡張のために削平された。
現在は同小学校の片隅にその跡を示す石碑のみが残っている。
◆ 一夜塚古墳
柊塚古墳から数分のところにあるのが「一夜塚古墳」。
数分の距離と言っても、右も左もわからぬ小生。困っていると、ボランテイアの人が親切にその場所まで案内してくれた。
しかし、墳墓は全く残っていなくて、その跡を示す石碑がひっそりと建っていた。
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峡山(はけやま)古墳全景
◆ 峡山(はけやま)古墳
古墳のある場所は「武蔵野線浜崎橋付近」とあるのみ。
そこで、ひたすら線路沿いを歩く。
歩くこと約30分、当てずっぽうに歩いていると、それらしき林に遭遇。
「ここかな」と思って見たものの、いまいち確信はない。
そこへ折よく車がその林の所で停車した。
早速、「峡山(はけやま)古墳」を探しているのですがと運転手に聞くと、「ここだよ」と言ってニヤッと笑う。
標識も何もないので、この人に出会えなかったら確認のしようもなかった。
本当に「ラッキー」。
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塚の山古墳全景
◆ 塚の山古墳
塚の山古墳は、当市の隣の志木市にある。
我が家から歩いて約30分、東上線志木駅から徒歩約10分少々の所にある。
しかし、標識もなにもないので古墳であることを確認するのが一苦労であった。(近くの古老に聞いてやっとわかった。)
一夜塚古墳の場合は、古墳そのものはなくなってしまっていたが、石碑が残っているので、まだ良いとして、峡山古墳、塚の山古墳の二つは標識さえなく、古墳の確認がおぼつかない。
しかも、その場所にはゴミなどが不法に投棄されていたりして、見るも無残な状況となっているのだから、これらの古墳のこれからの保存がいささか心もとなく感じてしまった次第である。
【ブログ投稿400回】
ブログの開設から1,229日、今回の投稿が400回目になる。
100回は一つの区切りと言えるので、その都度、その時の心境を書き残すことにしている。
振り返って見ると、200回目あたりから書くことへのプレッシャーを意識し始めている。
文章を書く場合、「書く喜び」と、「書けない苦しみ」の二つがある。
良い材料を見つけて、自分なりの言葉でそれを表現できた時は、創造の喜びを味わうことができるが、良い材料はあるが、それを思うように表現できない時、あるいは、材料そのものが見当たらない、と言った時が書けない苦しみの一例と言えるだろう。
その伝で言えば、最近は、書く喜びよりも、書けない苦しみ、それも、書く材料が中々見つからない、思い浮かばないと言ったことが原因で、書けない苦しみが増える傾向にある。
それは、つまり平々凡々、同じような毎日が過ぎていくということであり、それは、それで大いに幸福なことには違いないのだが・・・・。
次の区切りは、500回。
変わり映えのしない生活の中から、ブログの「ネタ探し」の毎日が続いて行く。
そして、それらのネタを一つ一つ丹念に拾い上げ、これからも、1回、1回『足し算』の世界を続けて、500回達成の心境が書けるよう頑張りたいと念願している。
300から400にかけては「昔話」が少なくなって、「写真が主役」シリーズが増えたような気がするね。何か意図があるのかどうか知りませんが、どちらも楽しみにしています。
現役時代の江川が良く『手抜き』をしたと評されたけど、文章が減り、写真が増えたのは、一種の『手抜き』。
手抜きを覚えてしまうと,ついつい楽をしようと言う気になってしまうものです。
たぶん古墳ではないというのが
今の志木の郷土史家の主流見解です
鎌倉街道があったところなのですが
開発により
風情がなくなってしまいました
随分前のブログにまで目を通していただき、恐縮です。
ご指摘ありがとうございました。