先月上高地を訪れた際、河童橋に着想を得て芥川龍之介がしるした小説「河童」を思い出し帰宅後一気に読破した。
一部には芥川が小説に取り上げたため河童橋と名付けられたとする説もあるが彼が穂高登山のため上高地に立ち寄った時には既に「河童橋」は存在していたのだから河童橋という名前が先にあって、ここから河童の社会を描いたあの小説が生まれたのは間違いない。
さて話は変わるが今月初め我が家の近くにある海上自衛隊術科学校のオープンデイ・イベントがあったので出かけてみた。
そこで芥川龍之介が東京帝国大学英文科卒業後約2年間教鞭を執っていたということを初めて知った。
なんとあの芥川が一時期横須賀に起居しながら水兵の養成学校で英語を教えていたのだ。
当時すでに芥川は作家活動が中心で教員活動は片手間だったかもしれないがたとえ一時期とはいえ近くに住んでいたことに親しみを感じた次第である。
何故か芥川と縁のある夏だった。
ただ、その芥川は「河童」を著した1927年の7月に自らの歴史を閉じてしまった、惜しいことに・・・。
一部には芥川が小説に取り上げたため河童橋と名付けられたとする説もあるが彼が穂高登山のため上高地に立ち寄った時には既に「河童橋」は存在していたのだから河童橋という名前が先にあって、ここから河童の社会を描いたあの小説が生まれたのは間違いない。
さて話は変わるが今月初め我が家の近くにある海上自衛隊術科学校のオープンデイ・イベントがあったので出かけてみた。
そこで芥川龍之介が東京帝国大学英文科卒業後約2年間教鞭を執っていたということを初めて知った。
なんとあの芥川が一時期横須賀に起居しながら水兵の養成学校で英語を教えていたのだ。
当時すでに芥川は作家活動が中心で教員活動は片手間だったかもしれないがたとえ一時期とはいえ近くに住んでいたことに親しみを感じた次第である。
何故か芥川と縁のある夏だった。
ただ、その芥川は「河童」を著した1927年の7月に自らの歴史を閉じてしまった、惜しいことに・・・。