クライマーを魅了し続ける谷川岳一ノ倉沢。ここまでその全貌を見ら
れるのはそうはない。
一ノ倉沢出会いを過ぎて更に先へ行くと、旧道に添った岩壁に若くし
て逝った岳人の遭難慰霊のレリーフが数多く埋め込まれている。この
二人は私よりも5才ほど年下。読み取れるものには丹念に目を通しな
がら茂倉沢出会いまで歩く。 本人は山に散って本望だとは思ってい
ないと思うが、安らかにと祈る。・・・ 27.6.29
近所のコンビニで私の最初のマイカー(1968年、昭和42年ごろ)
と同型の50年経っても公道を走れる車に出逢ったので、オーナーに許
可をいただき何枚か撮影した。いうまでもなく当時新車で40万円程度
だったと記憶している国民車スバル360。
秀逸なスタイル。VWビートルが昔のスタイルを現代風にアレンジして復
活したように、この車もその手法を採ったら受けるのでは? しかしスバ
ルは軽自動車から撤退してしまった。空想するしかない。
エアコンなど無縁の時代。前が小さくパッカンと開いて外気を導入する。
それでもラジオは付いている。このシンプルな感じ。
空冷2気筒で360ccのエンジン。空冷エンジンでは暖房に苦労した。
事実上厳寒期はオーバー着用しての運転。
燃料は混合ガソリンではないが、別途のオイルタンクから燃料と一緒に
エンジンに吸い込ませた。茶色の機器はデストリビューター、二本のプ
ラグに電気を供給する。
発電機(ダイナモ)。この時代は直流発電機だった。ちっちゃなエンジ
ンの割には大きな発電機。半世紀たって車は100%電気で走るように
なった。
キャブレター、ガソリンを霧状ににして吸い込ませる機器。上部に見え
るスプリング付きのネジでアイドリング調整をした。エンジンにこの装
置が不要になったのはこの車の時代から15年後。今からほぼ35年昔
のこと。公道を走れる状態で持ち続けるオーナーに敬意を表する。
私はこれと同時代の車を扱う整備士として社会人のスタートをきった。
途中で挫折したが。車は修理するものだと刷り込まれた。エンジンをボ
ルト一本まで含めれば数百のパーツに分解清掃し、不良部品を交換また
は修理して組み上げた。新しいエンジンオイルを入れ、冷却水を満たし
て、スタータを回す。2~3回グーグーと周りはじめブルンと自立回転
を始める。その蘇ったエンジン音を聞いて満たされた場面が今でも時々
夢に出る。なかなか面白い仕事だったが、仕事となると大変だった。
死刑や無期懲役刑に服するまたは服した被告の再審が認められ、被告の
弁護側が「勝訴」と大きく書かれた紙片を掲げて得意げに(表現が適切
でない)裁判所の門から飛び出てくる。こんなニュースに接する度に複
雑な思いをする。疑う余地があれば当然の事とは思うが、この裏にはの
うのうと暮らしていた真犯人がいる可能性があるのかと思うと考え込ん
でしまう。多くの場合時間が経ち過ぎていて、真犯人逮捕には繋がらな
い。被告はニュースになるが、被害者家族の存在を無視するかの報道に
やり切れなさを感じる。
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