日本一おいしいといわれ、ブランドが定着している国分白菜はまさに出荷待ち。
ケアマネージャーという仕事をしていると、大正生まれの方々とお会いして話をす
る機会がある。 90歳を越して足腰が弱くなり、介護保険制度を利用しようとする
皆さんに、複雑な制度の仕組みを解りやすく説明し、安心して利用してもらうのが
私の今の仕事だ。 身体能力は衰えても、昔の記憶をしっかりと維持しておられる
方が興味あることを話してくれる。
若いケアマネさんでは話が合わないかもしれないが、私らの世代は何とか合わせ
ることができこれがまた実に楽しい。 またそんな昔話を通じて利用者に親近感を
持ってもらい良き支援計画に繋げればとの思いもある。
デイサービスに来る時に、時々予科練の制帽をかぶってくるS氏、知る限りの知識を
総動員して話を聞く。 事実は小説より奇なり。 実体験者の話は興味津々。
今週は大正12年生まれのH氏の話について触れてみます。
戦艦大和については多くの人々がその悲劇的な最後について知っている。 アニ
メでは「宇宙戦艦ヤマト」として蘇り宇宙を航行する。 同型の二番艦が戦艦武蔵、
これも悲劇の末路をたどる。そして三番艦がこれから触れる空母信濃。
信濃は海軍横須賀工廠で建造された。 しかしもはや戦艦巨砲の時代でなく、航
空機が最も有力な兵器になっていた。 このために建造途中から戦艦ではなく航
空母艦に設計変更された。 ここまでは知っていた。
H氏は18歳のときに徴用で海軍横須賀工廠で働いていたという。 私がそこでは
空母信濃が建造されたのではと話を向けると、「そうなんだ。俺はその信濃を作る
作業員だった」というではないか。
以下H氏の話。
「あの船はでかかった。 作業をしていてもいったい船のどの部分を作っているの
か解からなかった。 たまげたのは船腹の鉄板の厚さ。 15cmもあるんだぜ。船
腹がその厚みだから飛行甲板はどれほどの厚みがあったのかな?
仲間と話したんだ。 あんな鉄の塊は海に浮かないのではと。 それとな、何回か
米軍の戦闘機が飛来して爆弾を投下された。 彼らはまだ建設途中の甲板の作
業用の穴を狙って爆弾をぶち込むんだ。 艦内で爆発するんさ。 資材不足や熟
練工の不足で工期は遅れるばかりだった。 ちょっとした機関砲とタービンンジン
が設置されまだ未完成の段階で、電探(今のレーダー)をつけるためにろくな試験
運転もしないうちに広島の呉工廠に向けて横須賀を出航していった・・・
横須賀はあまり空襲を受けなかった。 日本は負け、米軍が占領する。 そのとき
すぐに使える軍港としての価値を考えたんだろな。」 事実横須賀は今もアメリカ第
七艦隊の母港の状況が続いている。遠くを見詰めるような目をして、70年前の記
憶をたどりながら話してくれた。
完成すれば堂々たる世界水準を抜く空母になるはずであった。 でも積み込む艦載機は既に何機も残っていなかった。
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帰宅してネットで信濃について調べてみた。 未完成のいわば巨大な箱に推進器
をつけただけ船体、経験不足の乗組員。 護衛の駆逐艦は3隻。 東京湾外に潜
んでいた米潜水艦に発見されて遠州灘で魚雷を4本受ける。 傾きながらもそのま
ま航行を続けたが、潮岬沖で浸水が激しくなり沈没。 出航後17時間が経過した
だけだった。艦長以下乗組員の半数以上が艦と運命を共にする。 アメリカの空母
エンタプライズが建造されるまでは、世界一の排水量の軍艦(?)だったそうだ。
昭和19年11月29日のことだとある。 これだけの鉄があれば何機の戦闘機を作
ることができただろうか? 途方もない物資の浪費。これも戦争の一つの側面。
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