toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

222-270530田代湿原には行けなかった

2015年05月30日 | 山登りというより山歩き

 新緑の回廊(奥利根にて) 27.5.22

 

群馬の湿原といえば尾瀬湿原だが、他にも規模は小さいがいくつかある。

玉原湿原、赤城山の覚満淵湿原、大峰湿原そしてラムサール条約に登録

されることになった草津の芳ケ平湿原等々、湿原の魅力は咲き乱れる湿原

植物と静寂。時期を選べば素晴らしい光景に出会える。

 

あまり知られていない湿原に武尊山の北斜面にひっそりと位置する田代湿

原がある。 

ここへ行こうと5月22日7時に家を出る。新緑が輝く峡谷をに沿って順調に

楢俣ダムまで来ると交通止めの標識があり、遮断機でそれ以上先に車は進

めない。 除雪作業中とのこと。このあたりには既に雪のかけらもないのに。

開通は5月29日と書かれている。ここから歩いて行けないことはないが連れ

があるとそうもいかない。次の機会としよう。

   

仕方ないので近くの楢俣ダムを見学する。ロックフィルダムで水を通さない

粘土層を巨大な岩で覆う工法。 遠くからでは解らないがダムの上に立って

みると一つ一つの岩が直径1~2mある。 雪解水でダム湖は満水だった。

次によった八木沢ダムも同様に満水。何度も来たがいつも渇水状況で醜い

枯れたむきだしの泥のたまった湖岸が味気なかった。 

今日は違う。 カヌーで湖水を回るという人と話す。監視員に許可を受ければ

自由に漕ぎまわれるのだそうだ。一度はやってみたかったがもう無理だ。

 

 

二つのダムを見学して湯檜曽川に回る。 土合に行く途中に整備された小公

園があった。ここから谷川岳が堂々と見える。20代に登ったマチガ沢が正面、

その右が一の倉沢、核心部は東尾根に隠されているが、衝立岩だけが姿を

見せていた。 50年程前の夏、あのオーバーハングの岩壁でクライマーが宙

吊りになる遭難事故があった。遭難者の遺体は当時の岩登りの技術では収容

が困難だった。 自衛隊が出動し、機関銃でザイルを狙った。 ゆっくり揺れる

ザイルに弾丸はなかなか命中せず、ザイルを固定したハーケンの周囲を射撃

し続けやっと切断した。 この事故の数日前にマチガ沢の東尾根(シンセン沢)

を登っていたので強烈な印象を受けた。 

魔の山は何事もなかったようにその威容を青空を背景に姿を見せている。

 

そして最後に水上の諏訪峡に回る。水上には何度も来ているがこの峡谷を見る

のは初めてだ。 なるほど見る価値のある豪快な峡谷だった。 ラフティングのゴ

ムボートが激流を下っていった。 往年のアメリカ映画、マリリン・モンローとロバ

ート・ミッチャム主演の『帰らざる川』でコロラド川の激流を下るシーンとモンローの

けだるい歌いっぷりの主題歌を思い出す。

あれこそがラフティング。 ラフトは丸太を何本も縛り付けた筏だ。 本来はラフティ

ングはゴムボートではないのだと思う。 これも一度体験したかったがこれまた年を

取りすぎた。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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221-270523退職間際になって初めて弁当持参で出社する

2015年05月23日 | もろもろ

  さんざしの花。 亡くなった義父から託された大事な盆栽。 

 

5月20日で長かったサラリーマン生活に終止符を打った。 大きく健康を

損なうこともなく、この長期間よく頑張れたと思う。 親、家族、友人、先輩、

同僚そして後輩に感謝、感謝。

この間20代はじめの頃の肉体労働者だった頃は弁当持参だったが、その

後の50年は外食やら配食、社内食堂で昼食を済ませていた。 手弁当は

なかった。 あと2週間と迫ったときに、夫婦どちらからともなく弁当の話に

なった。 アルミの弁当箱しか経験がない。 女の子が持ってくるような小粋

な2段重ねのお弁当なんか、いまさら恥ずかしい。家内はあと何日のことだ

から作ってくれるという。 ありがたくそうしてもらうことにする。 初日はさす

がに恥ずかしかった。 

元社長の見慣れぬ姿が職員の興味を引いたようだ。 かわいいお弁当ですね。 

愛妻弁当ですか。 いろいろからかわれた。 2日目からはそれにも慣れ、堂々

と机上にひろげられるようになる。 

何せ肉体的には成長する必要がない年代だ。夕方までのエネルギーが補充

できれば充分。 食欲は旺盛なので、量があるとみんな胃袋に入ってしまい、

それが必要以上のエネルギー源となり、腹の脂肪を厚くするだけ。 したがって

少女のような小さなお弁当。

昼飯代数百円を節約し、相当分を毎月定額預金して一定額に達したら定期預

金にして手を付けないで50年の複利で運用したら、途中3%近い利率の時期

もあったから2000万円くらいのにまとまった金額になっただろうに・・・

などと手弁当を食べながら電卓で計算して苦笑い。

 

こうして2週間を過ごし、最終日を迎える。 第一の定年はとうの昔に済ませて

いるので、儀式めいたことは何もなく、朝礼で簡単な挨拶をして全てが終了。 

何とさっぱりした気持ちだ。 文字通りの年金生活に突入するわけだが、質素

にやれば何とかなるだろう。

不祝儀の交際費がだんだん増えていくだろうが、当地は新生活で、という他の

地域にはない合理的な習慣がある。

辞めたら急に爺じいっぽくなったね、といわれないように体調管理、精神管理を

心がけないといけない。

    

1年ぶりに利根川に沿って北上するコース、渋川市坂東橋まで走る。室内の

トレーニングジムより、自然の風を切り裂いて走るほうが性に合っているようだ。

かなり出てきた腹を引っ込めなくては・・・

 

振り返れば、いろいろな仕事を経験した。 大学受験に失敗し、何を血迷った

のか翌月就職した。職種は整備士、4年経って大学入学、1年で退学し、板金

屋、税理士補助、システムエンジニア,病院の事務、花栽培、清掃業務の管理、

人材派遣会社の管理、介護業界、ケアマネージャ等々、おかげでそれぞれの分

野での知り合いは増え雑学的知識も増えた。清掃現場の皆さんから中央官庁の

お役人まで、仕事上のお付き合いは広がった。 国会議員選挙候補者の応援弁

士もやった。 

それぞれの仕事で期待し、期待された結果の成否はともかく、それなりの努力は

した。 (ビジネスでは努力の如何は無価値、要は結果次第は当然と解っていたが)

間口だけはやたらに広いが奥行きのない人間となってしまったのは仕方ないこと

か。 持って生まれた器量の差は努力だけではいかんともしがたいものだった。

器用貧乏の典型だったが後悔しても始まらない。 しかし振り返れば結構楽しい

55年だったと思う。 こんな経験がこれからの人生を彩ってくれれば・・・・

 

来世は専門的な分野に関わりじっくりと奥を見極め、結果が見えるるような研究職

につけたら幸せだなと思う。

 

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220-270516(榛名山群)相馬山へ東尾根経由、新緑の山は素晴らしい

2015年05月16日 | 山登りというより山歩き

 オンマ谷の一部にこの花がじゅうたんのように咲き誇っていた。

 雨上がりの雲の上に頭が見えるのが、榛名山群2番目の高さの相馬山。70年見慣れた光景。

 

 

   

水沢山登山口の駐車場に車を置き、①まで緩やかな道を登る。途中「危険箇所あり登山禁止」の標識があったが、

無視して先へ進む。去年の晩秋にたどった道だし、前回と違い晴天の気分の良い尾根歩き。つつじは5分咲き程度。

1時間弱で到達。 途中で残雪を残した谷川連峰が青空を背景に望まれた。    

 

       

今日は行けるとこまで行こう。不安を感じたらいさぎよく引き返すつもりで②への尾根を下って登り返す。 ここまでは

狭い尾根道なので迷う心配はない。

新緑が素晴らしい。古い不動明王の石仏が迎えてくれる。目指す相馬山がだんだん迫ってくる。こんな急斜面に道は

あるのか? 明確な道はありません。 ただし木々の枝に登路を示す目印がついているので迷うことはない。 古い案

内板はもはや判読不能。

 

     

②から相馬山山頂へのルートは、大きな岩を一部は鎖を頼りに登るようになる。 右はオンマ谷へ300mのガレ場。

標高差に目がくらむ。 岩登りの一番の基本、3点確保(手足4本のうち3本でシッカリと支点を捉え、残りの1本で

次の支点を探す)を確実に守りながらよじ登る。 この場所は登りは良いが、下降は危険だ。 ザイルが必要だろうと

思われる箇所かいくつかあった。登山禁止は妥当な判断でしょう。 登りは基本をシッカリと守ればとりあえず問題

はない。 手足の筋肉がかなり参ったころ相馬山山頂に着く。 麓から見て顕著な頂になぜか国土地理院の三角点

はない。代わりに山小屋風の社殿と沢山の石碑や石仏が出迎えてくれた。 少し目の下に先月縦走した三峰山が

見える。この山の帰路下る尾根を間違えて少々苦労したな・・

 

    

山頂で関東平野の大展望を楽しみながら昼飯時間とする。 風もなく青く澄んだ初夏の山頂でのひと時は何事にも

変えがたい。 そのまま西尾根(一般道)を下りヤセオネ峠まで下る。ここから榛名山の多分一番古いであろう噴火

口であるオンマ谷に入る。 まゆみの木が多数自生する道を東に向かってひたすら歩く。 振り向けば先ほど頂上に

立った相馬山が高く聳える。 古い噴火口跡らしく観光バスほどの岩石がここかしこに散在する。 見事な新緑をまと

った独立樹もあった。 (以上5月11日の登山)

 

******* 

登山禁止のコースだが、自己責任(といっても事故を起こせば人様の世話になるのだが・・)のもとに登った。確かに

下りは禁止するのが妥当だが、上りは禁止するほどの危険性はないと思った。しかし甘く見てはいけないのが山。

難度は妙義山のほうが上か・・

 

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219-270509作家 船戸与一氏が亡くなった。

2015年05月09日 | 小説・映画・など

 柿の新芽の何と新鮮なこと。(富岡市南蛇井の農家の柿ノ木)

 

先月末に作家船戸与一氏の訃報に接した、 享年71歳。 惜しい作家を失った。 早稲田大学の探検部

出身。 氏の作品のうち半分くらいは読んだかな。 氏が精魂を傾けて書き続けた「満州国演義」は全9巻

にのぼる大作。 訃報を聞いたときに多分遺作になったであろうこの大作の最終章「残夢の骸」を読んで

いる最中だった。 訃報を報じる紙面を見て思わず「え・・」と叫んでしまった。 

 

   4/28 富岡市郊外の神成山を縦走する。

平坦な田園からいきなり100mほどの高さで山が連なる。 最高地点が353m程度だが小さなピークが九つ

並び、上がったり下がったり忙しい山登りでした。 1枚目は宮崎公園。 3枚目写真は最高地点から下仁田の

町を望む。中央に小沢岳の小ピークが見え、アーチ橋の下は鏑川。 上信越道下仁田インターは左の木の陰

あたりか。

 

昭和中期の歴史に大きな影を落とし、今でも中国との間で問題になる満州国の成り立ち(満州事変)から

敗戦による崩壊までが大作の背景。

歴史の事実を羅列されてもなかなか読みきれないものだが、氏はここに敷島太郎、次郎、三郎そして四郎

の4人兄弟を登場させて、兄弟それぞれが歴史上の出来事にどうかかわったかを物語の中心に置いた。

したがって兄弟とその周りの人物以外は、実名で登場する。 第1巻を知ったのが3年前。第9巻は本年2月

に発刊されたので読み終わるのに足掛け3年の時間がかかったことになる。

昭和に入って軍部の政治への介入が始まり、その度合いが徐々に深くなり、軍部の行動の後追いを政治が

やった。 軍人は攻めることが最重要であることを教育された、したがって勇ましい対応を打ち出さなければ

支持されない。その姿勢に疑問を投げかけた将校もいたが、勇ましい言葉には飲み込まれてしまう。

そしてあの日、米英に宣戦布告。 開戦半年間初戦の勝利の報に国民の恐らく大半は高揚した気分に浸っ

たようだ。 3年半後の悲惨な結果が待っていようとも知らずに。 私の父親もその一人だったと聞いた。 

今当時の時代背景を冷静に考えれば正直な国民の気持ちだったのかもしれない。 そしてその高揚感の中

で皆に祝福されて私は生まれた。 閉塞感はあっただろうがまだ物に不自由はなかったらしい。 父親は1年

半前に当市が工場誘致した理研の技術者だったので幸いにも兵役が免除されていた。その若き両親と祖母

に囲まれた幸せな家族だった。

その後戦況は次第に悪化し、甚大なる人的被害と破滅的な物的損耗の中、昭和20年8月15日を迎える。

 

  尾根から下を見るとすぐそこに家並みが見える。 降り立った

所からは豪快が岸壁が民家の裏からせりあがっている。 登山道はシッカリとしており、小学生でも心配は

ない。

 

翻って政治は妥協を排除してしまうと独裁政治になる。価値観の異なる複数の意見を集約して落としどころを

見極める。 現安倍総理は戦後レジームからの脱却を彼の政治の基本に置く。 諸外国からあなどられない国

を目指している。 日本人の誇りを取り戻そうと考えている。 この延長線上に戦前回帰の危険な空気を感じる

勢力もある。 野党民主党が低迷して国会での国防論議にも迫力がない。 公明党が政権内の批判勢力として

一定の役割を演じている。 70年の平和が続いたのだ。 論議はあるが民主主義は当時と比較にならないほど

当たり前のことと考える国民が大半。 戦前回帰を危惧するのは心配性が過ぎると思うがいかが・・・

 

平和が回復し高度成長期を経て、アメリカ何するものぞと国民が感じ始めた頃、バブルが襲った。あのときこの

状況はおかしいぞと疑問を抱いた人々もいた。 上司に意見を言うと弱腰と叩かれて左遷の憂き目にあった人

もいたであろう。 もちろん戦争ではないが、勇ましい意見の前には無力だった。 そして1989年の大納会と明

けて1990年正月4日の大初会での株価の異常な動きが、失われた20年の始まりとなった。 出口の見えない

デフレ経済でみんなが苦しんだ。 しかし戦前戦後に味わった苦しみに比べれば可愛いいもの。 少なくとも食べ

る物には困らなかったのだから。

 

何を書こうとしているのかわからなくなった。 そうだ船戸与一という稀有の才能を持った作家が死んだんだ。

氏の遺作となった「満州国演義第9巻残夢の骸」よりあとがきの一部を紹介します。

 

歴史は客観的と認定された事実の繋がりによって構成されているが、その事実関係の連鎖によって想像力が

封殺され、単に事実関係をなぞるだけになってはならない。かと言って、小説家が脳裏に浮かんだ自らのストー

リーのために事実関係を強引に捩じ曲げるような真似はすべきでない。認定された客観的事実と小説家の想像

力。このふたつはたがいに補足しあいながら緊張感を持って対峙すべきである

 

 

 

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218-270502関越道藤岡ジャンクションの大事故から3年

2015年05月02日 | もろもろ

  初夏を彩るベニカナメの生垣。

3年前の4月29日早朝、 関越自動車道藤岡ジャンクションで悲惨な事故が起きた。 居眠り運転の観光

バスが道路脇の遮音壁の隙間に激突して7人の犠牲者が出た。 その事故現場を普段健康のために続け

えいる私のサイクリングコースが通る。通るたびに手を合わせて犠牲者の冥福を祈る。

先日も現場脇を走った。 事故の翌々日にここを走ったので、まだバスの残骸が片付かない光景が目に浮

ぶ。今はすっかりと整備され犠牲者を弔らう植樹と簡単な祭壇が事故の風化を阻止している。

   激突直後の状態

写真の上部の遮音壁が途切れた場所に時速100kmでバスは突っ込んだ。 犠牲者は早朝ゆえに眠ってい

ただろうと思う。 当時の凄惨な写真に代わりにwikipediaのイラストを借りて載せてみた。

4月24日は福知山線の事故の10年忌。 これも悲惨だった。 絶対的な安全を要求する遺族の気持ちは

よくわかる

 

原発再稼動を支持する人の意見の中に、絶対的な安全を要求されたら何にも出来なくなるというのがある。 

ダイナマイトは物を破壊する化学製品。 民生用にはなくてはならない物。 しかし使い方によっては人を

殺傷する爆弾に変わる。 原子力とダイナマイトを同列で比較はできないが。 飛行機しかり鉄道しかりです。 

安全神話が確立している新幹線にしても絶対的な安全と言われると少しつらい。 関係者の努力で50年の

安全は続いているが。

原子炉の暴走を止める冷却系等はいかなる状況でも確保しないといけない。こればかりは絶対の必要性が

ある。 福島が大きな被害を受けた事実は消えようもないことは十分に承知している。 しかし日本の持てる

技術を駆使して安全性を確認できたら再稼動しなければ日本の経済が持たない気がする。 消極的再稼動

支持といったところが私の意見だが。 廃炉にするにしても廃炉技術を磨かなければならない。 そのために

原発と正面から相対していかなければ事態は解決しない。 停止状態をいつまでも続けて良いとは思えない。

技術の停滞や人材の不足が懸念される。 ムード的な原発絶対反対は少し行きすぎではないかと考えるの

ですが・・・

 

  

さてゴールデンウィークが始まった。天気予報によれば行楽日和が続きそうだ。 会社の裏を通る上越線も

先日からSLの運行が始まった。 先週はいつものD51598でなく動輪が一回り大きいC6120の雄姿が見ら

れた。 いつ見ても迫力があり、新幹線のようなスマートではないが、武骨な鉄の塊がかもし出す躍動感や力

強さは電車では表現できない。

日常頻繁にSLの走行を見られる場所に仕事場があるなんて、いわゆる「撮り鉄」の皆さんから見ればなんと

羨ましい環境と思われるかもしれない。 常識的なものしか撮れないが・・・

機関手も盛んに黒煙をはかせ、汽笛を鳴らして精一杯のサービスをして通過していった。

        

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